民よ故郷よ安んじよ。われらは汝らが醜(しこ)の御盾なれば。
◇ ◆ ◇
”限られた戦力の柔軟な運用”
そうホワイトボードに大書すると、我らが敬愛する生徒会会長、曽我部恵先輩はこんなことを言い出した。
「敵は強大であり、対する我々は限られた戦力しか持たない。そのような場合、どのように戦うべきか。歴史はこんな風に教えてくれている」
これに対して私を含めた生徒会役員たちの全員は、ただ黙って耳を傾けている。内心どう思っているかまでは知らないが、少なくともあからさまに反抗的な態度を取る者はいなかった。
「それが『限られた戦力の柔軟な運用』よ。敵の弱い部分に我々の力を集中するとか、逆に可能な限り戦力を温存して長期戦に持ち込むという風にね。自身の力をもっとも有効に、敵の力をもっとも無効にする場所や時間や方法を考えること」
なかなか抽象的でわかりにくい話だった。もっともこういう風にまず最初に一般論を述べ、それから具体論、そして各論へと入るのが先輩のスタイルなのだけど。
「たとえば桶狭間の戦いの織田信長のように敵の油断を突くとか、あるいはベトナム戦争のホー・チ・ミンのように自身の有利な場所で敵に大出血を強いて戦意を喪失させるとか」
桶狭間の戦いは日本史で習ったような気がする。確か圧倒的な大軍で尾張の国に侵攻した今川氏の本隊を、織田信長自らが率いた小部隊が奇襲し、総指揮官の今川義元を倒したとか。しかしベトナム戦争の方は残念ながら私の知識も及んでいなかった。二十世紀の、しかも後半の世界史はめったに試験範囲にならないから。
「もう少し身近な例で考えれば、そうねえ……もし予算が少なければ、普通は無数の安物アクセより一点の高価なアクセの方を選ぶわよね?」
ようやく理解が追い付き始めたのか、何人かがわずかに表情を緩め、おのおの相槌を打つ。
「限られた戦力の柔軟な運用。言い換えると限られた権限と予算と人員をいかに上手に使うか。これこそ常に心がけるべきことなのよ。なにせ私たち生徒会は『醜の御盾』なのだから。ここまではいいわね」
『醜の御盾』という言い回しを先輩は好んで使う。生徒の自由と権利を守るための、あくまで縁の下の力持ち的存在であり、時には人が嫌がる仕事も率先して引き受ける。そのような生徒会の存在目的を一言であらわしているのだそうだ。
そしてこれが、歴代の桜高生徒会会長の中でも、特にたぐいまれな聡明さの持ち主として知られる曽我部恵先輩と、凡俗にすぎない生徒会役員たちの日常の一コマだった。
「それでは本日の議題だけど、まず──」
不意に不愉快な電子音が先輩の発言をさえぎった。目覚まし時計の音だと気づいた瞬間、意識が現実に引き戻される。寝ぼけまなこでベッドサイドの時計を睨みつけた。別に恨みがあるわけじゃない。眼鏡をかけてないから、そうでもしないと満足に文字を読み取ることができないからだ。
2月14日、06:00。
緩み切っていた四肢に急速に力が戻ってくるのを感じる。いよいよ今日だ。全国の恋する乙女たちの決戦の一日が、これから始まる──。
◇ ◆ ◇
我ながらかなり緊張してると思う。放課後を迎えてからというものの、喉はすでにカラカラだし、友人たちに声をかけられても返事ひとつ返すのがやっと。高校受験のときでさえ、こんなにガチガチになったことはなかったのに。
それにしても自分の中に、これほど乙女チックな要素が存在してたとはね。どれほど取り澄ました態度を取ってみたところで、しょせん私も十代半ばの小娘にすぎなかったということかな。ある意味、とてもお年頃でいいんじゃなイカ? などと自己正当化を試みたりして。
わかってはいるのよね。ほぼ100パーセント敗北と決まってるイベントに、それでも立ち向かわなきゃならないんだもの。こうしてせっせと頭の中にお花畑でも作らなきゃ、とてもじゃないけど生徒会室になんか顔を出せやしない。せめて今日くらいは理事会や前副会長の不愉快極まりない話も聞きたく……。
「あらっ、憂。どうしたの、こんなところで」
音楽室へ通じる階段の下で立ち尽くしている平沢憂の姿を見かけたのは、そんな嬉し恥ずかしの自分を持て余しながら、生徒会室へ向かって懸命に歩みを進めてる最中のことだった。
しかし私が声をかけたことにまるで気づく様子もなく、憂は焦点を失った瞳で階段の上の方を見つめていた。しかも目のふちにキラキラと光るものを浮かべながら。誰がどう見ても普通とはいいがたい。
その姿を目にした瞬間、自分の浮ついた気分はたちまち吹き飛び、半ば自動的にお姉さんモードに切り替わる。何も彼女の姉の唯だけが私と幼なじみってわけじゃない。憂だって大切なそのひとりなのだ。そんな彼女が危機的な状況に陥ってるというのに、見ないふりなんてできるわけない。醜の御盾とか関係なしに。
「ちょっと憂。どうしたの、しっかりして」
「……あ、和ちゃん」
「……あ、和ちゃん」
軽く肩に手をかけてもう一度声をかけると、ようやく憂はまるで生気の感じられない目を私に向けた。ますます普通じゃない。高校に上がってからの彼女は、学校ではあくまで上級生のひとりとして私のことを『和さん』と呼んでいた。唯じゃあるまいし、決してなれなれしく『和ちゃん』などと呼んだりはしない。
「ちょっと、こっちへ来なさい」
「でも……」
「ここじゃ話もできないから、ともかくついて来なさい。ね?」
「……うん」
「でも……」
「ここじゃ話もできないから、ともかくついて来なさい。ね?」
「……うん」
すると階上の様子を気にしながらも、渋々という感じで憂は小さく同意のうなずきを返した。
「軽音部みたいなおいしいお茶じゃないけど、どうぞ」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
無人の生徒会室へ憂を招き入れ、無理やり適当な席に座らせた。乏しい予算をやり繰りして購入している安物の煎茶をふたり分用意し、そのひとつを彼女の前に置く。
「さて、何があったのかしら。よかったら話してくれない」
「別に……何もないです」
「別に……何もないです」
まるで悪戯の現場を押えられたちびっ子のように、憂はすっかり恐縮してしまっていた。
「そんなわけないでしょ。普段の憂の姿を知ってる子が今のあんたを見たら、十人が十人とも普通じゃないって言うに決まってる」
「そんなに酷いですか、今の私の様子」
「そりゃもう、たとえ唯でも、ここまでヘンじゃないわね」
「そ、それってかなり……酷いってことですね……」
「そんなに酷いですか、今の私の様子」
「そりゃもう、たとえ唯でも、ここまでヘンじゃないわね」
「そ、それってかなり……酷いってことですね……」
ようやく小さな笑みが憂の顔に宿った。そうよ、あんたに泣き顔なんて似合わない。
「誰にも言わないって約束してくださいね」
「もちろん、たとえ唯にだって言わないから。安心して」
「もちろん、たとえ唯にだって言わないから。安心して」
すると湯呑みを手に取り一口つけてから、蚊の泣くような声で彼女は話し始めた。
「友だちから聞いた話なんですけど……」
彼女の語る内容はとても断片的で、しかも何度も脱線するのでとてもわかりにくかった。それでも辛抱強く話を聞いたり質問を繰り返しているうちに、おぼろげながら筋が見えてきた。
要するに、こういうことらしい。憂の友人、仮にA子ちゃんとしよう。彼女にどうやら好きな人ができたようだ、と。
「同じ部活の先輩で、とってもいい人らしいんです。優しくてカッコよくて」
でもその人、仮にB子さんとしよう。もちろん彼女も女の人というわけだ。まあそういうのは、女子高ではそんなにめずらしい話じゃない。
「でも……おかしいじゃないですか。女の子同士で、そんなこと」
そこで憂は、自分を落ち着かせたかったらしく、もう一度湯呑みに手を伸ばした。
「しかもその話には、まだ続きがあって……」
そのお友だち、仮にC子ちゃんとしよう。どうやら彼女も、ひょっとするとA子ちゃんのことが好きなんじゃないかと。なるほど、さしずめ泥沼の三角関係に突入ということか。
「最初は理解してたつもりだったんです。人が人を好きになるのに、性別なんて関係ないって……だけどもう私、わけがわからなくなって」
そこまで言うと憂は、とうとう両手で顔を覆ってしまった。両肩を震わせ、必死に何かに耐えているようだった。
お友だちの話、ね。
そういえば前に唯が言ってたわね。あずにゃん──軽音部でただひとりの一年生、中野梓と憂は同じクラスで、とてもなかよしだと。そもそも梓が軽音部に入部するきっかけになったのも、憂が新入生歓迎ライブに誘ったからだとか。
なんとなく、この話に出てくるA子ちゃんは梓で、B子さんは私のクラスメイトでもある秋山澪のような気がした。部活の先輩と後輩という点も一致する。学園祭が終わったあとでの『いたしちゃった騒動』の時はまさかと思ったが、会長選挙直前に軽音部の部室で目にした彼女たちの雰囲気は、明らかに先輩と後輩の域を超えたものだった。
そしてもうひとりのC子ちゃんこそ、ほかならぬ憂自身のことだろうと私は見当をつけた。でなければ、彼女がここまで悩むことはないはずだ。階段の下で途方に暮れていたのも説明がつく。なんせ今日は2月14日。言わずと知れたバレンタインデーだ。恋する乙女であれば、この絶好のチャンスを逃すはずがない。
そこまで理解がおよぶと、もうその過程までが目に浮かぶようだった。底なしのお人好しの憂は、澪に対する梓の恋心に気づき、理解できないまでも懸命に後押しして、なんとか今日の告白にこぎつけさせようとした。ところがその最中に梓に対する自分の気持ちに気づいてしまい、大混乱に陥ってしまった。
他ならぬ自分自身の奥底にまで同性愛志向が存在しているかもしれない。その可能性を直視できなかったのだろう。そして、ようやく音楽室の階段まで梓を見送ったものの、そこで進退極まってしまった。そんなところか。
念のためにつけ加えておくと、放課後の音楽室はもっぱら軽音部の部室として使われている。より正確には軽音部のお茶会の場として、だけど。今ごろは梓が澪に向かって、一世一代の告白の真っ最中なのかもしれない。
それはさておき、少しでも彼女の心労を軽くするには、どうすればいいのだろう。そうね、とりあえず最大の思い違いを訂正することから始めようか。
「あのね憂、これだけはハッキリさせておきたいんだけど。同性を好きになるっていうのは、別に病気でもないし、異常でもないのよ」
「そ、そうなんです、か?」
「そ、そうなんです、か?」
私の言葉に顔を上げた憂だったが、頬をつたうしずくを拭くことも忘れ、まるで狐につままれたような表情を浮かべている。
「たとえばWHO(世界保健機関)も『同性愛は病気ではなく性的志向の一種であり、治療の対象としない』って言ってるしね」
「……」
「……」
すっかり言葉を失っている憂に対して、私はさらに言葉を重ねる。
「それに最近の調査では、おおむね人間の2~5パーセントが同性愛傾向を持っているという結果もあるの」
「2~5パーセント……それって、つまり……」
「2~5パーセント……それって、つまり……」
確率的な数字を上げられても、それが実感として理解できないのだろう。しかたなく助け船を出してやる。
「たとえば、ひとクラスが40人構成だとして──」
するとしだいに憂の顔にも理解の色が広がっていく。
「──そのうちひとりかふたりくらい、そういう人がいるかも知れない……ということですか」
「確率的には、そういう解釈もなりたつわね」
「確率的には、そういう解釈もなりたつわね」
小さく私はうなずいた。さすがに聡い。ほんの少しヒントを与えただけで、きちんと理解できるところなんか。
「そっか……ヘンじゃないんだ。梓ちゃんも、私も、ヘンじゃ……」
みるみるうちに、憂の大きな目に再び涙が盛り上がっていく。かわいそうに。そんなに思い詰めてたのね。
「大丈夫だから。確かに多数派とは言えないけど、決して病気でも異常でもない。ただの個性。背の高さとか、髪や瞳の色とか、そういうのと大して変わらない」
彼女の椅子のそばで両膝をつき、軽く両手で憂の身体を抱きしめながら、私は幼子に諭す母親のような気分を感じていた。
「だから安心していいのよ。医学的、生物学的には、ちっともヘンじゃないんだから」
「はい……はいっ!」
「はい……はいっ!」
小さくうなずいたのが限界だった。そのまま彼女は、それこそ地獄の鬼も涙しかねない悲痛な声を上げ、私の胸の中で泣きじゃくり始めたのだった。
どれほどこの小さな胸を痛めていたのだろう。ひとりで悩み苦しんでいたのだろう。愛した人が同性だった。たったそれだけのことで。
圧倒的な多数派の勝手な価値観で異常と決め付けられ、白眼視されるというこの現実。それに対し、どうにもいいようのない悲しみと怒りが、私の内部を駆け巡っていた。
もし、この有様を見てもなお、何ひとつ心を動かされないような者がいたとしたら。
そいつはきっと、人間じゃない──。
「それでこれからどうするの。梓ちゃんに告白でもする?」
ようやく落ち着きを取り戻し始めた憂に、私は冗談交じりの質問を投げかける。今さらA子ちゃんでもないだろうし。
「いえ、それはやめておきます」
「どうして。理由を聞いてもいいかしら」
「私は、澪さんを好きな梓ちゃんのことを好きになったんです。その二人の仲に無理やり割り込んで壊すようなことはしたくない」
「そっか……」
「どうして。理由を聞いてもいいかしら」
「私は、澪さんを好きな梓ちゃんのことを好きになったんです。その二人の仲に無理やり割り込んで壊すようなことはしたくない」
「そっか……」
この子はいつだってそう。こういうところは小さな頃からちっとも変わってない。自分のことより、他人が幸せそうに微笑んでいるのを眺めることが何より、と本気で信じているのだ。
「もしそんなことして梓ちゃんが私のことを振り向いてくれたとしても、それはもう私の好きな梓ちゃんじゃないって思うんです」
「まあ、そういう考え方もありだとは思うわ」
「まあ、そういう考え方もありだとは思うわ」
今さら私がとやかく言い含めたくらいで、彼女の性格が簡単に変わるはずもない。十数年という長い時間をかけて形成されてきたものなのだから。
「それに、もし梓ちゃんや私が、その……同性愛の人が決してヘンじゃなくて、それどころか私にも可能性ゼロじゃないんだってわかったから。今はそれだけで十分です」
そんな憂の様子に、思わずため息をついてしまう。
「ほんとに欲のない子ね。あんたは」
「そうですか?」
「そうですか?」
そう言って憂は何の屈託もない笑顔を浮かべた。すっかり泣き腫らしてしまった目元をのぞけば、もうすっかりいつもの彼女の姿だった。まったく、この子にはかなわないわね。それにある意味、いいところを突いてるとも思うし。
可能性ゼロじゃない、か。
確かにあんたはまだマシよね。これから限りなく可能性ゼロに近い相手に告白しようとしてる、この私よりは。
──限られた戦力の柔軟な運用。
脳裏でリフレインしていたのは、どこまでも涼やかな曽我部先輩の声だった。
◇ ◆ ◇
何度もありがとうを言って帰っていった憂と、まるで入れ違うように曽我部先輩が生徒会室に入ってきたのは、はたして偶然だったのだろうか。
「お呼び立てして申し訳ありません、会……いえ、先輩」
「感心しないわね。あんなカワイイ下級生を生徒会室に連れ込んでふたりっきり、なんて」
「感心しないわね。あんなカワイイ下級生を生徒会室に連れ込んでふたりっきり、なんて」
涼やかな声にこれだけ毒を含ませられるのは、ある意味才能といっていいかもしれない。まったくイヤな才能だけど。ほんと、なんでこんな人を好きになっちゃったんだろうな。
「知り合いの相談に乗っていただけです。何もやましいことはありません」
「あらそう、ずいぶんとカワイイ下級生の知り合いがいて羨ましい限りだわ。もしよかったらどういうお知り合いなのか、詳しく聞かせてくれないかしら」
「どういうもなにも、ただの幼なじみです」
「ウソね」
「あらそう、ずいぶんとカワイイ下級生の知り合いがいて羨ましい限りだわ。もしよかったらどういうお知り合いなのか、詳しく聞かせてくれないかしら」
「どういうもなにも、ただの幼なじみです」
「ウソね」
なんか一言のもとに否定されてしまった。しかも口を尖らせたりして。まるで小さな子どもが拗ねてるみたいで、ちょっとカワイイ。
「貴女の幼なじみは2年生じゃない。確か軽音部の平沢……平沢……ええと、なんだったかしら」
「私の幼なじみで軽音部のギターをやってる平沢唯は確かに2年ですが、今の子はその妹の憂というんです」
「それは本当のことなんでしょうね。天地神明に向かって誓えるの?」
「私の幼なじみで軽音部のギターをやってる平沢唯は確かに2年ですが、今の子はその妹の憂というんです」
「それは本当のことなんでしょうね。天地神明に向かって誓えるの?」
ひょっとして今日はよほど虫のいどころが悪いのだろうか。たとえば友チョコが2ケタに達しなかったとか、そんな理由で。
「天地神明でも神さまでも自分の良心に対してでも、真実であると誓います。これでいいですか?」
「だいたい真鍋さんはいろいろと怪しいわよ」
「だいたい真鍋さんはいろいろと怪しいわよ」
いちおう憂については納得してくれたようだが、今度は別方向から食い下がろうとする。ここまでしつこい先輩もちょっとめずらしい。
「たとえば生徒会の役員からして、全員女子で固めているじゃない」
「女子高で男子の生徒会役員を選出する方法があったら、ぜひ教えてください」
「そう言われてみれば、それはなかなか難しい問題だわ。私の在籍期間中でも解決できなかったくらいだし」
「女子高で男子の生徒会役員を選出する方法があったら、ぜひ教えてください」
「そう言われてみれば、それはなかなか難しい問題だわ。私の在籍期間中でも解決できなかったくらいだし」
そう言って曽我部先輩は右手の人差し指を軽くあごにあて、さも不思議そうに小首をこくんと傾げた。本当にボケているだけなのか、それとも何か含むところがあって演技してるのか。未だによくわからない人である。
できれば永遠にこんな時間が続いてほしいものだけど、さすがに今日ばかりはそういうわけにもいかない。意を決して、スクールバッグから小さな紙袋を取り出すと、恐る恐る差し出した。
「あの、会長。これを受け取ってください」
「これは?」
「チョコレートです、もちろん」
「これは?」
「チョコレートです、もちろん」
ようやく先輩が真顔になった。もっとも、どこか面白そうな目の色を浮かべているように見えるのは、決して私の錯覚ではないだろう。だてに二年近くも生徒会活動に参加していたわけではないのだ。
「これは義理チョコなのかしら。それとも友チョコなのかしら。ひょっとしてそのどちらでも、ない?」
質問、というよりも確認する様な口調で、曽我部先輩は私に答えを求める。
「どちらでも、ありません」
「であれば、これを受け取るわけにはいかないわ」
「そうですか……」
「であれば、これを受け取るわけにはいかないわ」
「そうですか……」
まあ、わかってはいたけどね。できるだけ平静を装ったつもりだったが、それでも落胆が表われていたのだろうか。
「勘違いしないでね。別に私は真鍋さんのことを嫌ってるわけじゃないのよ」
「同性だから受け入れられない、ということでしょうか」
「それも少し違うかな。私が疑問視してるのは、貴女の気持ち」
「同性だから受け入れられない、ということでしょうか」
「それも少し違うかな。私が疑問視してるのは、貴女の気持ち」
意外な言葉に私は混乱する。気持ちが、何だって?
「おっしゃる意味がよくわかりません」
「貴女はこれから生徒会長として、桜高生徒会を背負わなければならない。全校生徒の代表、醜の御盾としてね」
「もちろんです。そのために選挙を戦いぬいたのですから」
「でも貴女は、無意識のうちに私に寄りかかろうとしてるのでは?」
「そんなことは……ないです」
「貴女はこれから生徒会長として、桜高生徒会を背負わなければならない。全校生徒の代表、醜の御盾としてね」
「もちろんです。そのために選挙を戦いぬいたのですから」
「でも貴女は、無意識のうちに私に寄りかかろうとしてるのでは?」
「そんなことは……ないです」
どうしたの、私。どうしてキッパリと否定できないの。
「本当に、心の底からそう言い切れるのかしら。恋愛感情と依存心を取り違えてないと」
怜悧な光を浮かべた先輩の瞳に見つめられ、私は懸命に反論しようとする。だが舌が凍り付いたように動かない。何ひとつ言葉が浮かんでこない。
「人の上に立つというのは孤独なものなのよ。孤高と言い換えた方がいいかな」
沈黙している私から視線をはずし、まるでひとり言のように先輩は続ける。
「決断を迫られた時、貴女は常にひとりで決めなければならない。絶対に周りに頼ってはダメ。もしその決断が誤っていたら、その人に責任を押し付けることになってしまうから」
今さら思い返すまでもない。会長自身がそうだった。他者の意見を聞き入れることはあっても、決して自分から意見を求めようとはしなかった。
「それでは、どうしたら信じていただけるのでしょう」
「そうねえ……では、こういうのはどうかしら」
「そうねえ……では、こういうのはどうかしら」
再び先輩の瞳が私を捉えたまま、すうっと顔が近づく。私は逃げることも顔をそむけることもできない。全てが消え去ってしまったと思ったパンドラの箱の底にも、まだ何かが残されていたのだろうか。
「貴女の、来年の卒業式の日にもう一度会いましょう。この生徒会室で」
「それは……」
「それは……」
予想もしない曽我部先輩の言葉が、私にはなかなか認識できない。いや、言葉としては理解できても、いったいそれが何を意味しているのか。
「生徒会長の職をまっとうして、それでも私への気持ちが変わらないと確信できたのなら、ここに来てちょうだい。もちろん会う気がなければ来なくてもいい」
大抵の人が舞い上がってしまう柔らかい微笑みを浮かべながら、先輩はさらに言葉を重ねていく。
「私もそれまで、貴女にどう対処すべきかゆっくり考えてみることにする。その結果どうしても受け入れられないという結論に達したら、やっぱり私もここには来ない。それでどうかしら」
つまり先送りということね。ようやく頭が回りだした。ここで私が心折れれば生徒会自体が弱体化し、理事会サイドの部活再編計画を阻止できなくなってしまうから。
いや待てよ。実は先輩も戸惑ってるのかもしれない。それにここで返事を強要してさらに固辞されるよりは、いくらか可能性があるのかも。なにせ人間の圧倒的多数は異性愛者なのだし、頭から否定されても不思議はない。考えてみると言ってもらえただけでも十分な成果じゃないだろうか。
それに、たとえこれが私に生徒会長を続けさせるだけの時間稼ぎだとしても、今の先輩にその気がないのなら、万が一の翻意に賭けるしかないじゃない。たとえそれがどれほど分のない賭けだとしても。
「……わかりました。では、来年の卒業式の日に、ここで」
やっぱりかなわないな、この人には。せっかく自分のもっとも有利と思われる場所と時間とアイテムを選んだのに、さらりとかわされたあげく、逆に主導権まで握られてしまうなんて。
さすがは先輩、完敗です。本当に、心の底から、そう思います。
◇ ◆ ◇
星空の元、暗い夜道をひとり、私は自宅へ向かってゆっくりと歩いていた。先輩に渡すはずだった手作りチョコをかじる。両の頬をつたう苦い涙を、懸命にハンカチでぬぐいながら。
さすがに、このまままっすぐ家に帰るのはまずいわね。途中の公園のベンチにでも座って涙が枯れるのを待とう。両親はまだしも、弟や妹によけいな心配をさせたくない。そう考えて、底冷えのするベンチに腰を降ろした時のことだった。ふところの携帯電話がぶるっと震えたのは。
画面を見ると、相手は新生徒会の副会長だった。電話でまだよかった。こんな泣き顔を見られるなんて恥ずかしすぎる。ふた呼吸ほどして心を落ち着かせてから、ようやく電話を受ける。
「前副会長派が動いてる、ですって」
だが彼女の報告は、自分の涙がたちまち引っ込むほどの驚くべきものだった。脳裏に前副会長のいやらしい笑みの張り付いた顔が浮かぶ。まったくゴキブリ並みにしぶといわね。せっかく穏便に会長選立候補辞退で収めてあげたのに、その好意が今回は裏目に出たらしい。おもてだって生徒会を動かせないからって、裏から部長会議を操作しにかかるとは。
『すでに判明してるだけでバレー部、柔道部、吹奏楽部、ジャズ研から』
「報告のない有力部はすでに寝返ったか、日和見を決め込んでいるというところかしらね」
『おそらくは。その推測には全面的に同意します』
「報告のない有力部はすでに寝返ったか、日和見を決め込んでいるというところかしらね」
『おそらくは。その推測には全面的に同意します』
半数近くの有力部が何らかの形で切り崩しにあっている。説得の条件は廃部される部の部費を回すとか、個別に弱みを握られてるとか、そんなところか。まったく、ずいぶんとナメたまねを。選挙の一件でも懲りずにこんなことをやらかして、まだ無事でいられると思えるその神経を疑うわね。
一部の有力部に課外活動の予算と人員を集約し活躍させることによって、学校のブランド力の向上を目指す。そんな理事会サイドの意向を受けて、前副会長とその一派は動いてる。始末に負えないことに、彼女たちもそれなりに学校の未来を考えてのことであり、その心情までは否定できない。そしてだからこそ生半可な説得も通用しないのだ。彼女たちは自分たちこそ正義だと信じきっているから。
しかし私は絶対にそれを認めることができない。そもそもこの学校の自由な校風とまるで対立する考えだからだ。その上もし弱小部が根こそぎ廃部という方針が打ち出されたら、軽音部など真っ先にその対象となってしまう。そして澪の話によれば、未だに楽譜も音楽用語もろくにマスターできない唯では、他の場所で演奏活動を続けていくのは難しいという。
つまり、たとえどのような手段を取ってでも、私は軽音部を存続させなければならないのだ。唯の活動の場、そして彼女とそれを取り巻く人々の笑顔を守るために。
それでは、この新たな状況にどう対応しよう。いやむしろどう利用すべきか。ただの一撃でこの動きを止める手段。新しい生徒会の方針に反することが得策ではないと思わせる方法。いや、二度と逆らう気を起こさせないよう教育するには。
──限られた戦力の柔軟な運用。
ああ、そうか。すっかり忘れてた。もう私は醜の御盾を司るものだってことを。
澪、梓、さらには憂。
曽我部先輩が寄せてくれる信頼。
何よりも唯の笑顔と居場所を守るために。
曽我部先輩が寄せてくれる信頼。
何よりも唯の笑顔と居場所を守るために。
私は、やるべきことをやらなきゃいけない。
『いったいどうしたらいいんでしょう、会長』
沈黙に不安を感じたのだろう。途方に暮れたような副会長の声が聞こえた。そんな彼女を安心させるために、できる限り優しい声で答えてやる。
「簡単なことだわ」
むしろ中学レベルの方程式の解法を解説するような気やすさで、私は新生徒会長として最初の方針を示した。
「前副会長を粛清する」
これが醜の御盾ということなんですよね、曽我部先輩──。
◇ ◆ ◇
私の望みはただひとつ。
先輩が私を受け入れてくれる未来。
そのためにはたとえどんなことでもする。
先輩が私を受け入れてくれる未来。
そのためにはたとえどんなことでもする。
会長職だってやりとげる。
たとえ理事会にだって負けない。
無謀とも思える大学にだって挑戦しよう。
たとえ理事会にだって負けない。
無謀とも思える大学にだって挑戦しよう。
それでもなお奇跡が必要だというのなら、私がこの手で起こしてみせる。
一度で足りなければ、二度でも、三度でも。
この想いが届く日まで、何度でも。
この想いが届く日まで、何度でも。
(つづく)