Chapter_1


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1970 CMUへ企業幹部の研修派遣

  • 創立前のPFE出身者同窓会
 1986年12月17日、CMUの学長RichardM.Cyert博士他8名の教授が来日し、通商産業省後援の「日米ハイテクビジネス・フォーラム」が開催された。このフォーラムについては後に詳述するが、2つのフォーラムの成功を喜んで実行委員長をつとめたCMU出身で東京工業大学学長松田武彦博士の労をねぎらう集いに置いて、「この日をCMU同窓会の発足の日にしたい」と話された。
 総会のような公的な集まりでの発言ではなかったが、この日をCMU日本同窓会の創立の日とすることが自然の流れとして固まっていった。そして当然のことのように、「会長は松田さん」として、サロン的な集いが時折開かれた。
 その集いにCMU短期間の幹部研修プログラム(PFE=Program For Executeves)を終了した企業の幹部が参加することもあった。日本の企業とCMUが技術提携や経営指導契約の関係が行われた背景に、PFE出身者の力添えがあったように思われる。
 CMU日本同窓会の歩みを述べるに当たって、1970年に実施されたPFEへの日本企業からの派遣についてふれておく。
 1970年早春、日本生産性本部(現社会経済生産性本部)が主催して、元日経連合会長鈴木永二氏を団長に、経営戦略研修団がCMUに派遣された。続いて同年秋、経営科学研修団の名のもとに、日本生産性本部から企業の幹部がCMUの研修に派遣された。
 二つの研修団の世話役の肝いりで、1970年にCMUで研修を受けた企業の幹部が同窓会を開くようになった。ただし、CMU PFE同窓会とは名乗らなかった。
 このことについては、1999年のCMUAJの総会において顧問の役を引き受けた和光経済研究所吉田春樹所長が、その著書において述べている。 なお、1986年にCMU同窓会が発足した以降、PFE出身者は誇りをもって、同窓会に出席していた。


1986 「日常ハイテクビジネス・フォラム」開催とCMU日本同窓会の発足

  • 国際委員会の意義と役割
 CMUと世界の産業界をつなぐ絆として、国際委員会を創設することが、Cyert学長によって提案され、8名の国際的に活躍する学識経験者によって構成された。1985年2月、事務局はPittsburghのMorewood Avenueに置かれた。CMUに在籍していた富田勝氏はOfficerとして委員の末席に加わっている。
 委員の中には、ノーベル賞(経済学)のHerbert Simon教授がいて、国際的な共同体制づくりの推進者としての役割を担ったようである。この国際委員会のProjectの一つが日本の産業界とCMUを結ぶ「日米ハイテクビジネスフォーラム」の開催である。
 フォーラムのサブタイトルは”日米産業技術協力:実りある協調への一助”である。日米両国の産業界と学界の協力・協調によって、21世紀への技術革新に関連するビジネスチャンスを生み出そうという目的が明確に示されたフォーラムである。
  • ”フォーラム”の成功と同窓会の発足
 実行委員長はCMU出身の松田武彦博士(東京工業大学学長)である。このフォーラムのために来日したのはCyert学長はじめ8名の教授(人工知能、ロボット、ソフトウエアエンジニアリング等の分野を代表するそうそうたる顔ぶれ)、加えてナショナル・サイエンス・ファンデーション(NSF)のコンピュータ部門の責任者K.Custis博士も参加している。
 開催日は1986年2月17日、18日の両日、会場はキャピタル東急ホテル・竹の間。通商産業省後援
ということもあって、参加者は官・産・学の代表83名。フォーラムに内容が参加者の関心対象である先端技術分野のことであり、しかも産学共同研究で最も成果をあげているCMUの実績をふまえた討議であったため、高い評価をもって閉会した。
 CMU出身者は誰もが誇らしい気持ちで、お互いに成功を喜びあった。松田会長も満足しているように見受けられた。このような感激の中で、一同は松田会長の労をねぎらった。その時、CMU同窓会の発足を提案した松田会長に異を唱える者がいなかったのは当然である。

1987 CMU東京オフィスと恣意的集い

1986年17日、18日両日にわたるCMU主催「日米ハイテク・ビジネス・フォーラム」の成功の背景には、日本債権信用銀行(現あおぞら銀行)とCMU東京オフィスの活動があった。日本債権信用銀行の支援は会計処理業務において、またCMU東京オフィスはフォーラム開催に伴う雑務処理業務において、それぞれの役割を全うした。
 前者はおそらくCMUのPFE出身がいて会計処理業務を引き受けたと推察する。一方、後者の場合は東京都千代田区三番町にあった株式会社インテリジェント・テクノロジーが、CMUから業務を委託されて活動していたのである。この会社は、CMUの企業提携プログラム、契約研究プログラム、企業向け大学院研修プログラム等におてCMU東京オフィスの名前で活発な業務を展開していった。
 しかし同窓会に関する業務には無関係であった。しかし、CMUから教授が来日すると聞いては松田会長や一筆者に連絡をくれたので、その都度CMU出身者が恣意的に教授を囲む集いを開き、これが期せずして同窓会となっていた。

1988 サロン的有志の集いから組織化への動き

 CMUと株式会社インテリジェントテクノロジーとのCMU東京オフィスとしての業務契約は1988年までであったのか、次第にCMUから教授が来日することについての連絡が途絶えた。したがって、前述の恣意的な集いは無くなったが、松田会長がGSIAの出身であったことから、松田会長へは来日するGSIAの教授の連絡があり、その時はCMUの出身者に連絡を取り合ってサロン的な集いを開いた。
 このようなとき、いつも話題になるのが、CMUで時期を過ごした人から、日本にいるCMU関係者の総合的な組織を作ってはどうかということであった。また、来日する教授達やCMU当局の強いすすめもあって、CMU日本同窓会の本格的立ち上げへの声が高くなっていった。
 特にGSIAの出身者が多くなってきたこともあり、この人たちの日本同窓会の意欲が強くなった。当時はCIT出身者の数は少なく、GSIA出身者に総合的な組織としての日本同窓会の設立をお願いすることとなった。
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