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*佐藤 大翔 ■キャラ名 佐藤 大翔(さとう はると) ■性別 男性(異性愛者) ■持ち物 日記 ■ステータス 攻撃力:5 防御力:3 反応:1 精神:3 **&font(b,15px){特殊能力 『ナッシングアビリティ』 }&font(b,12px){発動率なし} 一般人なので魔人能力はない。 **&font(b,15px){キャラクター設定} 希望崎学園大学で勤務している教授。 「<よりよく生きることのできる人間>を育成する活動」を研究する教育学を専門としている。 顔はフットボールアワーの岩尾に似ており、お世辞にも美形とは言えないが、教師としては理想的な先生といえる。 周囲で嫌なことが起きても、他人や環境のせいにしたりせず、自分の問題として責任を持って対処しようとする。 また、学生を自立した存在と認めており、適切な距離からあたたかく見守り、優しく教えている。 独裁的に命令したり、過保護に甘やかしたりすることはない。 過干渉は、何かをされること、してもらうことを待つ、無責任な人間へと、学生たちを導くからである。 言葉をかけるよりも、ただ黙って見ている方が、相手を信頼していることが伝わるものである。 佐藤先生にとって<よりよく生きることのできる人間>とは、どんな状況からでも自分の意志と責任で行動を選択できる人間である。 佐藤先生は共同体主義者(コミュニタリアン)である。 企業で不祥事があった場合、問題を起こした担当者を退職すれば、会社は不祥事に対し、なんの責任もないだろうか。 それとも、問題の担当者がいなくなっても、会社に不祥事の責任は残るだろうか。 佐藤先生は後者を支持する。 所属する共同体(コミュニティ)で問題が起きた場合、共同体の人間はその責任を負うべきと考えている。 たとえ、自分がその問題に直接関与しなかったとしてもだ。 たしかに、「お父さんが起こしてくれないと遅刻する」と言う子供を、父親が起こさなかったとしても、遅刻したのは父親の責任ではない。 子供には自分で時間通りに起きる能力があるからだ。 他人のせいにするのは無責任だろう。 しかし、そのような考え方をするよう育てた責任はある。 子供が誰かに迷惑をかけたなら、家族として謝罪する。 学生が誰かに世話になったなら、学校の人間として感謝する。 日本の政治家が他国に失礼な発言をしたなら、日本人として外国に謝る。 それが、人間としてよりよい生き方だと、佐藤先生は考えている。 ただし、佐藤先生は、人にはそれぞれ立場があり、価値観が違うということも知っている。 自分が正しいと思っていることでも、相手からは誤りに見えるかもしれない。 また、逆に自分が間違いと思っていることでも、相手からは正しいと感じているかもしれない。 そのため、佐藤先生は、まず話を傾聴し、相手がどのような立場で、どのような感情を抱いており、どう考えているのか、確認する。 そして、相手が「自分の考えや気持ちを理解してくれた」と思ってから、自分の話をする。 つまり、先に相手の立場から考えるのだ。 もちろん、それによって自分の意見が変わることがある。 自分が変化することに、人は恐怖を覚えるものである。 自分の価値観が変わるからだ。 しかし、佐藤先生は、社会常識や世間の流行に寄りかかっていない。 佐藤先生は、自分自身の良心に忠実に従っているのだ。 どんな権力や暴力をもってしても、その人の良心は誰にも犯すことはできない。 そして、自分の良心に導かれているため、佐藤先生は変化を恐れない。 変化とは、相手と同じ考えになるということではない。 同じ考えの人間と交流(コミュニケーション)しても、そこから得るものはないだろう。 そうではなく、相手の価値観を認め、肯定するのが、佐藤先生のやり方である。 この謙虚さが佐藤先生の武器と言える。 また、佐藤先生は調和を重んじる人間である。 自分の仕事に生きがいを感じているが、仕事中毒(ワーカホリック)ではない。 家庭や友人関係、自分の体調など、ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)を考えている。 同様に、佐藤先生はお金を大事と考えているが、拝金主義者ではない。 お金は便利でいろいろな使い道があるが、人格や知性、健康など、お金で買えないものもたくさんあるからだ。 健康には、食生活や運動習慣、規則正しい睡眠といった本人の努力が必要である。 お金で健康食品を買ったり、スポーツジムの会員になったり、名医を雇ったりすることはできるが、それだけでは健康にはならない。 佐藤先生は能力主義でもない。 知性や身体能力を高める努力をしているが、能力さえあれば他は不要とは考えていない。 たしかに、自動車免許を持っていない者に車の運転を任せようとは思わない。 その能力がないからだ。 能力のない人間は信用して仕事を任せられない。 しかし、能力があっても不誠実な人間は、やはり信用できない。 誠実とは自分の言葉を真実にすることだ。 佐藤先生は、自分の能力や不測の事態を考え、守れる約束だけをするようにしている。 また佐藤先生は、中二力によって一夜にして優れた能力を得ようとは考えない。 仮にそうやって権力や知性を得たとしても、勇気や責任感、愛情深さなどが手に入る訳ではないからだ。 人格は、能力をはぐくむ過程で作られるものと、佐藤先生は考えている。 一足飛びに能力を得ても、人格までは作られないのだ。 そんな佐藤先生は全国風紀委員連合に所属している。 封印という名で行われる妖怪差別から萎を救うためである。 事件があった当時、性科学はなく、充分な性教育が行われていたか不明である。 そのため、行為を失敗した責任を、萎に押し付けた恐れがあると、佐藤先生は考えている。 萎の妖気が原因という点も、佐藤先生が確認したい部分である。 もし、性的不能の原因が伝染病なら、病院で隔離し、対処法を調査する方が好ましい。 また、萎の犯罪行為によって性的不能になったとしても、現代の日本の刑法に照らし合わせた場合、もう刑期は終わっていると考えられる。 いずれにせよ、これ以上不当な拘禁を放置することは、同じ日本に住む者として恥ずかしいと佐藤先生は感じている。 もちろん、佐藤先生は変態と呼ばれる人々に対して、なんの敵意も害意もない。 むしろ、協力的ですらある。 たとえば、希望崎保育園で阿部高和と行為に及んだ万丈ロックは、同性から得た性的快楽に罪悪感を感じ、それを否定しようとした。 だが佐藤先生は、世間の常識にまどわされず、自分の感情に素直になるようロックにすすめた。 また、ただ人を愛したいだけなのに、相手が同性というだけで偏見を受けている阿部に対しても、佐藤先生は優しく受け入れた。 こういったエピソードは数多くある。 そのため、佐藤先生の態度が全国風紀委員連合で問題視されたこともある。 しかし、様々な変態に落ち着いて対処できる佐藤先生は非常に頼りになるため、現在ではなかば黙認されている。 萎と変態が共に手を取り合って、共存共栄できるよう佐藤先生の努力は続く。 *

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