山岡鉄舟


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山岡 鉄舟(鐵舟)(やまおか てっしゅう)は、日本の武士(幕臣)、政治家、思想家。爵位は子爵。剣・禅・書の達人としても知られる。

鉄舟は号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(鐵太郎)。諱は高歩(たかゆき)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。
目次
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   1 概説
   2 生涯
       2.1 誕生
       2.2 幕臣時代
       2.3 江戸無血開城
       2.4 明治維新後
   3 人物・評価
   4 山岡鉄舟が登場する作品
   5 脚注
   6 関連項目
   7 外部リンク

概説 [編集]

江戸に生まれる。家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学び、武術に異常なほどの才能を示す。浅利義明(中西派一刀流)門下の剣客。維新後、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。

幕臣として、清河八郎とともに浪士隊を結成。江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会する。

明治維新後は、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。

勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。
生涯 [編集]
誕生 [編集]

天保7年(1836年)6月10日、江戸本所に蔵奉行・木呂子村の知行主である小野朝右衛門高福の四男として生まれる。母は塚原磯(常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女。先祖に塚原卜伝)。

9歳より久須美閑適斎より神陰流(直心影流)剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごす。弘法大師流入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭に書を学び、15歳で52世を受け継ぎ、一楽斎と号す。また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶ。
幕臣時代 [編集]

嘉永5年(1852年)、父の死に伴い江戸へ帰る。井上清虎の援助により安政2年(1855年)に講武所に入り、千葉周作らに剣術を学ぶ。また同時期、山岡静山に忍心流槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚。身長六尺二寸(188センチ)、体重二十八貫(105キロ)と大柄な体格であった。

安政4年(1857年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。文久3年(1863年)、浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。浪士組は新徴組として再組織される。この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。この頃から剣への求道が一段と厳しくなる。禅にも参じて剣禅一如の追求を始めるようになる。元来仏法嫌いであったらしいが、高橋泥舟の勧めもあり、自分でも感ずるところがあり始めたという。禅は芝村の名刹である長徳寺の住職である順翁について学んだ。
江戸無血開城 [編集]

慶応4年(1868年)、精鋭隊歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会する。

2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかった。そこで、鉄舟に白羽の矢が立った。

このとき、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという[1]。

3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、

   一、江戸城を明け渡す。
   一、城中の兵を向島に移す。
   一、兵器をすべて差し出す。
   一、軍艦をすべて引き渡す。
   一、将軍慶喜は備前藩にあずける。

というものであった。このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ。西郷はこれは朝命であると凄んだ。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷はこの論理をもっともだとして認めた。これによって江戸無血開城がすみやかにおこなわれる。

3月13日・14日の勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会った。5月、若年寄格幹事となる。
明治維新後 [編集]

明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下る。6月、静岡藩藩政補翼となり、清水次郎長と意気投合、「壮士之墓」を揮毫して与えた。明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られている。宮内大丞、宮内少輔を歴任した。明治15年(1882年)、西郷との約束どおり致仕。明治20年(1887年)5月24日、功績により子爵に任ぜられる。

明治16年(1883年)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立した。

明治18年(1885年)には、一刀流小野宗家第9代の小野業雄からも道統と瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承し、一刀正伝無刀流(無刀流)を開いた。

明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であった。享年53。全生庵に眠る。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。
人物・評価 [編集]

   剣・禅・書の達人として知られる。
       人から頼まれれば断らずに書いたので各地で鉄舟の書が散見される。一説には生涯に100万枚書したとも言われている[2]。
       禅においても、三島の竜沢寺 星定和尚のもとに3年間足繁く参禅し、箱根で大悟したという逸話が残っている。禅道の弟子に三遊亭円朝らがいる。
   その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。
   木村屋のあんパンを好んでおり、毎日食べていたともいわれる。また木村屋の看板も鉄舟の揮毫によるものである。

山岡鉄舟が登場する作品 [編集]

小説

   南條範夫『山岡鉄舟』 文春文庫
   大森曹玄『山岡鉄舟』 春秋社
   津本陽『春風無刀流』 文春文庫
   神渡良平『春風を斬る―小説・山岡鉄舟』 PHP研究所
   北方謙三『草莽枯れ行く』 集英社、『黒龍の柩』 毎日新聞社
   小島英煕『山岡鉄舟』 日本経済新聞出版社
   小島政二郎『円朝』 河出文庫
   山本兼一『命もいらず名もいらず』 NHK出版

漫画

   手塚治虫『陽だまりの樹』
   斉藤岬『ひなたの狼』

テレビアニメ

   幕末機関説いろはにほへと

テレビドラマ

   三姉妹(1967年・NHK大河ドラマ、演:生井建夫)
   勝海舟(1974年・NHK大河ドラマ、演:宍戸錠)
   田原坂(1987年・日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:横内正)
   勝海舟(1990年・日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:勝野洋)
   徳川慶喜(1998年・NHK大河ドラマ、演:伊武雅刀)
   新選組!(2004年・NHK大河ドラマ、演:羽場裕一)
   遺恨あり 明治十三年 最後の仇討(2011年・テレビ朝日ドラマスペシャル、演:北大路欣也)

脚注 [編集]

   ^ 鉄舟自身が書いた記録「慶應戊辰三月駿府大総督府ニ於イテ西郷隆盛氏ト談判筆記」によると、後日、鉄舟は大総督府の参謀から呼び出された。鉄舟が出頭すると、村田新八が出てきて言った。「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。その旨を先鋒隊から知らせてきたので、私と中村半次郎(桐野利秋)とで、あなたを後から追いかけ、斬り殺そうとした。しかしあなたが早くも西郷のところに到着して面会してしまったので、斬りそこねた。あまりにくやしいので、呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。他に御用のおもむきはない」。鉄舟は「それはそうだろう。わたしは江戸っ子だ。足は当然速い。貴君らは田舎者でのろま男だから、わたしの足の速さにはとても及ぶまい」と言い、ともに大笑いして別かれた、という。
   ^ 全生庵編『最後のサムライ 山岡鐵舟』(教育評論社 2007年 ISBN 4905706211)pp189-191によると、鉄舟は亡くなる前年の明治20年から健康がすぐれず、勧告に従い「絶筆」と称して揮毫を断るようになったが、ただ全生庵を通して申し込まれる分については例外として引き受けた。しかし、その「例外」分の揮毫だけでも8ヶ月間に10万1380枚という厖大な数にのぼった(受取書が残っている)。またその翌年の2月から7月まで、すなわち亡くなる直前まで、布団の上で剣術道場の建設のために扇子4万本の揮毫をした。鉄舟は、人が揮毫の謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま本箱に突っ込んでおいた。そして貧乏で困窮した者が助けを求めてくると、本箱から惜しげもなくお金を取り出して与えた。しばしばそういう場面を目撃した千葉立造が「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と訊くと、鉄舟は「わたしはそもそも字を書いて礼をもらうつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えた。こんな具合だったので、鉄舟はずっと貧乏であった。

関連項目 [編集]

   江戸開城
   幕末の三舟
   幕末の人物一覧
   川合清丸
   武士道
   日本の書家一覧


参照:ウィキペディア「山岡鉄舟」より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F



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