検討用語辞典は行

◆ハ行の部
葉隠(はがくれ)
「葉隠武士」「葉隠精神」等の名称はよく聞かされているが葉隠という語源は定かでない。私は西行の『山家集』の中にある次の歌がその語流でないかと思っている。葉隠れは木の葉がくれの雑談であり今でいう縁陰閑話だという学者の説もあるが、私はこれ程のものがさしたる信念もなしに名づけられるものではないと思う。

「葉隠れに散りとどまれる花のみぞ、しのびし人に逢う心地する」(西行)
これは「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠精神とは逆行するように思う人があるかもしれないが「葉隠れに散りとどまれる花」忠誠の真の武士道があり「しのびし人」に耐え忍ぶ本当の葉隠精神があるように思う。

葉隠とは死に急ぎの哲学のように思われているが、葉隠の「死」とはただ自己の生命を断つことでなしに己を捨てて義を立てる精神に徹することであり何としても生き抜いて義を尽くすことがその本義である。葉隠の冒頭に「山の奥よりも土の下よりも、生々世々、御家を守護する心こそ鍋島侍の覚悟であり我等の真髄である」と書いてあるように、御家を守り君に忠を尽すことがその第一義である。

国を思い、君を案ずるならば軽々しく死に急いではならないし、七生までも生まれ変わってその目的を果たす覚悟がなければならない。
葉隠でいう「武士道は朝な夕な死に習い」ということはいかなる些事に関しても死力を尽して当れという心構えの程を教えたものである。葉隠精神が今の世に大きく謳歌されるゆえんのものもまたここにその素因があるのではあるまいか。最近の世相は国もなければ道もない。自分を守るためにはすべての物を犠牲にしてもかまわないという保身の術であり、延命の哲学に墜している。

かかる混迷の世代においてこそ「正義の旗手」をもって任ずる剣道家はすべからく葉隠の精神を体し「世直し運動」の先兵として活躍しなければならない。それが剣道人の使命であり責任である。

一の太刀(ひとつのたち)
これは塚原卜伝(つかはらぼくでん)の秘剣であり、いちの太刀ではなくひとつの太刀と読むそうである。

真意の程は分かりにくいがいろいろな本の結論は大体次のようである。
一つの太刀は三段の位なり
一つの位とて天の時なり(天の時)
一つの太刀とて地の利なり(地の利)
一つの太刀とて人物の巧みに結要す(人の和)

つまりは天の時、地の利、人の和の三位一体のことであり、この天地人の要素がひとつに和した時に初めて剣の真髄を発揮できるという訓えであろう。ただ打合いだけの古い時代にこうした大乗剣の真理に到達していた卜伝の剣道観を高く評価すべきであろう。

ふくろう剣法
梟(ふくろう)は暗いところはよく見えるが、明るいところは一向に見えないので、ふくろう剣法とは大事な理合いのところは一向に分からない盲剣法のことである。

武士の恥
一、聞き怯じ
二、身くずれ
三、内笑い
いずれも武士の恥であるが、中でも内笑いは人の心の中であざ笑われることで一番の恥とされている。
剣道界には段位称号なる権力があり下段者はこれに対して平身低頭しているが、その人物に対して、或はその行為に対して内心嘲笑しているかもしれない。現代の武士といわれる剣道家はこの内笑いをとくと警戒しなければならない。

仏性鬼面
指導者は表に威厳をたたえても内心は仏性をもって愛の教育をやれということである。
仏頂づらに鬼心では教育の成果は上がらない。

不動智神妙録
沢庵が禅学上の見地より剣道を論じて柳生但馬守に与えた名著であり、剣法と心法との接点を論じて極めて鋭い精彩を放っている。後生剣心一如を説く者多くはこの書に端を発し、剣道の術法が心法に結びついたのは主にこの書の力であると言われている。

武の七徳
一、暴を禁じ
二、兵をやめ
三、大を保ち
四、功を定め
五、民を安んじ
六、衆を和し
七、財を豊かにす
これは中国の訓えであり、武の精神を通じて治国平天下の行政的心法施策である。

不立文字、教外別伝(ふりゅうもんじ、きょうげべつでん)
「妙の字は小さい女の乱れ髪、結うにいわれず解くに解かれず」の道歌が伝えるようにいわれず解くに解かれぬ妙法が不立文字であり、教外別伝である。
剣道の極意はあまりにもむづかしくて筆にも言葉にもいい尽せないことが多く結局は修行によって体得する以外に道のないとこを教えている。

平常心是道
剣道的にいえば恐、驚、惑等の四病を排し、常に平静の心を持ち冷徹の精神を失わぬことが一番大事なことであり、それが正しい人の道であり最高の道徳である。

兵法(へいほう)(或はひょうほう)
兵法とは一般には軍略軍法などど解せられている。徳川時代には武術全般をさしていたが、どうしたものか特に剣術のことだけを兵法というようになった。
宮本武蔵は大の兵法と小の兵法との二つに分け、軍団による戦争を大の兵法と言い、一対一の剣術のことを小の兵法と言った。柳生但馬守も兵法を大小二つに分けてこれと全く同じ表現をしている。剣術を兵法と言うのは「兵は武器なり、これを持つ者を兵士と言い、これを習う術を兵法という」と言う言葉に由来していると言われている。

投りこみ面(ほりこみめん) 〈投りこみ小手〉
投りこむという言葉は剣道的には非常に邪道に聞こえるが、これは打突の内容至極のところを実によく表現している。
現在の剣道打突は極端に言えば自分の腕で竹刀を運んでいるので竹刀にブレーキがかかり、スピードも鈍り打ちの冴えも出ない。ところがこれを投りこむように腕の力を抜いて投げつければ、スピードも出るし、楽に打てて技もよく決まる。思い切り投りこんでその最後のところを小指でしめて太刀の流れないように極めるだけである。その緊張緩急の指の使い方が手の裡である。上手の人程楽に打って冴えが出るのはそのためである。よくよく吟味工夫すべきことだろう。片手突きを突いて見ればその機微のところがよく分かる。

放心
放心状態の放心ではなく、心を一ヶ所にとじこめず、自由に放っておけば自由に機能していつまでもお役に立つという意。
孟子のいう「心は要レ放、覓2放心1」もこの心である。

法定の形(ほうじょうのかた)
直心影流の形で、技よりも気を練り、間合いを知り、筋骨を鍛えることがその目的とされている。
多くの形の中でも傑出した気力迫力が感ぜられる。

歩歩これ道場(ほほこれどうじょう)
「一鉢千家の飯、歩歩これ道場」という禅家の言葉であり、一歩一歩が道を修めるよすがであり、天地至る所が修養の道場であるという意。「方々これ道場」も同意語である。


参照:剣道用語辞典 より
http://www.budogu.jp/column/kotoba.html#ha



榎本劍修堂 / 劒人倶楽部

埼玉県さいたま市見沼区大谷399

最終更新:2011年06月06日 11:08
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