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右のほっぺたがジンジンと痛い。

大きなヘッドフォンで聴覚を遮断したまま、私はうつむいて最終電車に乗り込んだ。

サラリーマン、OL、カップル、学生グループ。
かなり遅い時間なのに車内はそこそこ混んでいた。週末だから、これからどこかに出かける人も多いのだろう。なんとなく浮き足立った雰囲気が伝わってくる。


“出て行きなさい。”


手すりに凭れて窓の外を眺めていると、さっきのお母さんの声が頭の中で反響する。ぼんやり視界が霞んで、慌てて目尻をぬぐっても、あふれ出した涙は止まらない。


こんなにたくさん人がいるのに、泣いている私のことを気にかけている人は誰もいない。視界に入るのは、楽しそうな笑顔のグループ。ケータイをいじるおじさん。退屈そうな女の人。私は一人ぼっちだ。
ヘッドフォンから流れる音楽は、私の今の気分に全く似つかわしくない、甘いボーカルのポップな洋楽。全然気分が乗らないのに、何故か止める気にはなれなかった。
音漏れしたって構わない。私はボリュームを最大限に引き上げて、黙って目的地へ到着するのを待つ。
実家の最寄り駅からたったの2駅が、とてつもなく遠く感じられた。


降り立った駅前はさすがに人気がなく、私は早足でタクシー乗車口へ向かった。運転手さんは、こんな夜遅くに一人でタクシーに乗り込む私をいぶかしげに見ていたけど、行き先を告げると特に追求せずに発車してくれた。


走り出した車の中、私の頭の中は真っ白なまま。自分が今置かれている立場とか、状況とか、考えようとしてもまとまらない。心が思考を拒んでいるかのようだった。

親に殴られたのなんて、初めてだったな。そして、よくわからなかった。私はそれほど、悪いことを言ったのか?ていうかそもそも、何て言ったんだっけ?

(・・・だめだ。)

思い出そうとすると、頭にもやがかかってしまう。眠いのに、眠れない。何も感じられない。涙が止まったと同時に、感情まで麻痺してしまったのだろうか。・・・私、大丈夫かな?


「ここでいいです。」


大きな門扉の前でお金を払って、普段はあんまり使うことのない古風な鍵をバッグから取り出す。
私の今の住処――学生寮。
数時間前、今週末は実家に戻るね!と元気にここを出て行ったのが嘘みたいだ。

もうみんな寝ているだろうか。誰かの部屋に集まって、わいわいおしゃべりでもしているのかな。

あまり音を立てないように、そっとエントランスのドアを開ける。照明は最低限に絞られていて、物音はしない。

誰も起きていそうにない。一瞬ほっとした後、私の胸にいきなり寂しさが襲ってきた。思わずその場にうずくまる。


「・・・・栞菜?」

その時、小さな声とともに、肩に誰かの手が置かれた。
顔を上げると、薄暗い照明が見知ったその顔を照らし出していた。

「千聖お嬢様・・・・」

私は声にならないほど小さな掠れた声で、どうして、とつぶやいた。


「わからないわ。でも、待っていたの。栞菜が、戻ってくるような気がして」


まだ微かに痛むほっぺたに、お嬢様の小さな指の感触。哀れむでも問い詰めるでもなく、千聖お嬢様はただ黙って、キラキラと輝く瞳で私を見つめていた。

「お・・・じょぅ様、私・・・」

私は夢中で手を伸ばして、お嬢様の胸にすがりついた。急激に感情があふれ出して、とまっていたはずの涙がボロボロとほっぺたを滑り落ちた。

「私・・・お、お父さんも、おか・・・さんも、私のこと、嫌いにっ・・・なってしま・・・て」
「栞菜。」

抱きつかれるのが嫌いなはずなのに、お嬢様は優しく背中を撫でてくれた。優しいベビーパウダーの香りが私を包む。
私は激しくしゃくりあげながら、お嬢様に身を委ねた。


「わ、わたしなんて、いなくなればっ・・・私、どうすればいいのかっ・・・私は、両親とも大好きなのに・・・私、ひどいことっ・・・言ったから・・・嫌われて・・・・」

「栞菜、大丈夫よ。子供を嫌いになる親なんて、いないのよ。大丈夫よ・・・お父様も、お母様も、栞菜のことを、愛していらっしゃるわ。大丈夫・・・・」

耳元でささやくその言葉は、私の心に深く深く染み込んだ。
その場しのぎや口先だけの戯言なんかじゃない、本気のお嬢様の気持ちがそこにあったから。


「千聖のお部屋にいらっしゃい、栞菜。温かいお茶を入れてもらいましょう。」

やがて私の呼吸が落ち着いた頃、お嬢様はそっと体を離して立ち上がった。
部屋に戻る気持ちにはなれなかったから、私は導かれるままに、寮を後にした。

月明かりの下を、2人きりで歩く。いつもより大人びて見えるお嬢様の横顔は、今の私にとって、唯一の救いだった。



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