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春だというのに、肌に刺さる空気は冷たく、私は羽織っていたストールを強く体に巻きつけた。

メイドも運転手も、誰もそばにはいない。誰にも何も言わず、こっそり家を出て来てしまった。今頃、大騒動になっているかもしれない。


“これからも千聖のそばに居てくれるなら、迎えに来て。このままお帰りになるなら、千聖には構わずに行って。”


そんな手紙を、自分の部屋に置いてきた。きっともう、舞波ちゃんはあの魔法のような力で、私の居場所を突き止めているに違いない。来てくれるのかどうかは、わからないけれど。


学校へ行くための林道を逆方向に進んで、40分ぐらい歩いたところにある、小さな湖。
私はそのほとりにあるベンチに座り込んで、風に揺れる水面をぼんやりと眺めていた。


初めて舞波ちゃんが家に来た日、リップとパインを連れて、一緒に散歩に行った。
その時、“きっとこの先の道に、いい場所があるよ”そう言って舞波ちゃんが連れてきてくれたのが、ここだった。
家から遠いので毎日来る事は出来なかったけれど、私にとっては特別な場所。舞波ちゃんが見つけてくれた、素敵な空間だったから。


「・・・クシュン」


とはいえ、一人ぼっちで過ごすにはすこし物寂しい場所だ。
水の近くは冷えると、舞波ちゃんが言っていたのを思い出した。衝動的に出てきてしまったけれど、コートぐらい着てくるべきだったかもしれない。今更家には戻れないから、どうしようもないけれど。

もう日も落ちかけた時分に、私以外人気はなかった。誘拐されそうになって以来、こんな風に1人になることはなかったのに、不思議と怖いとは思わなかった。それよりも、ここを動きたくなかった。

こうして空気の良い静かな場所にいると、いろんなことが頭に浮かぶ。

あんな書き置きを残して、一体私は自分が何をしたいのか、まだ自分でもちゃんと理解できていない。

もちろん、舞波ちゃんにはこれからもお屋敷にいてほしいと思っている。だけど、何が何でも舞波ちゃんを引きとめようと考えていた頃とは考え方が変わってきたような気がする。少しはワガママな感情を抑えることができるようになったのかもしれない。

――でも、こんな風に舞波ちゃんを試すような真似をして、きっとまた村上さんに叱られてしまうわね。

村上さんがあの大きな目を見開いて怒るのを想像すると、なぜか少しだけ心が明るくなった。

村上さんは私のワガママを許してくれないけれど、ただその場しのぎのために、心にもないことを言って私を慰めたりしない。だから、“バカ”なんて言われてしまったけれど、全く不愉快ではなかった。
むしろ、正しいことを言っていたとすら思う。

メイド長は村上さんのことをとても怒っていたけれど、早く謹慎が解けたらいいのに。何でも思ったことを言ってもらえるのは、嬉しい事だとわかったから。これからも千聖の家で働いてほしい。
村上さんは、必要以上に私を特別扱いしない。メイドとしてはよくないことかもしれないけれど、私はそれが嬉しい。舞波ちゃんと違ってすぐに眉を吊り上げるけれど、ちゃんと私のことを考えてくれている証拠だと思うから別に構わない。

ふと、舞のことが思い浮かんだ。

舞も、少し村上さんに似たところがあるのかもしれない。
まだ仲良くなってから1週間と少しぐらいしか経っていないけれど、舞は私をよく気にかけてくれる。“お嬢様”とは呼ばず、千聖と名前で呼んで普通に接してくれる。私を他の人と区別したりしない。とても嬉しいことだ。

学校を休むようになってからは、頻繁に家に来てくれるようになったし、声が出なくなったらインターネットや本で調べたことを色々と教えてくれた。
だけど、もっと仲良くなりたいと思って寮に誘ったら、舞は激しく首を横に振った。どうして嫌なのかは自分で考えてと言われた。
きっと、私が悪いのだと思うけれど、どうしたらいいのかわからない。
私には何か欠けているものがあるのだと思う。それが何なのか自分でわからない限りは、せっかく友だちになってくれた舞とも、これ以上親密になることは無理なのかもしれない。

舞美さんや愛理さんも、すごく私に親切にしてくれる。お2人が寮に来たばかりの頃と比べれば、少しずつだけれど打ち解けることができている。
たまに舞美さんと行く朝のランニングも、お庭で偶然会った愛理さんとボーッと過ごす時間も、とても楽しい。

でも、ふとした時に感じる私への遠慮や気づかいに、とても胸が痛む。
お2人は寮に入る条件として、私のお世話をしなければならないらしい。もしもそのことで、辛い気持ちになっているなら・・・そう考えると、私は自分の存在が、人を傷つけているようで悲しくなる。
やっぱり、私は一人ぼっちでいた方がいいんじゃないか、と思ってしまう。

舞波ちゃんと出会ったのは、丁度私がそうやってクヨクヨしている時期だった。
初対面の時から、舞波ちゃんはすぐに私の気持ちを理解してくれた。だから、私は舞波ちゃんに強く惹かれた。
舞波ちゃんは不思議な力を持っていて、誰にでも分け隔てなく優しくて、陽だまりのようにほんわり温かい。
太陽のように照りつける光じゃなくて、うとうととまどろんでしまうような穏やかな光。いつまでもそばにいて、私を照らしていてほしいと思った。

だから、舞波ちゃんがいなくなると知った時は、まるで暗い谷底に突き落とされてしまったような気分だった。
しかも、舞波ちゃんを辛い目に合わせた人達が住む街へと帰るのだという。その理由を、何度聞いても舞波ちゃんははっきり答えてはくれなかった。
私は打ちのめされて、塞ぎこみ、声を出す事すら出来なくなった。家族が帰ってくるほどの騒動になり、その騒動のさなかに村上さんに「ばか!」と怒鳴られたのだった。

「・・・フフ」
喉が震えて、少しだけ笑い声みたいなものが漏れた。あの時は本当にびっくりしたけれど・・・村上さんのおかげで、こうして少しは冷静になれた気がする。

もしも舞波ちゃんがお屋敷には残らず、帰るという決意を変えなかったとしても、私は舞波ちゃんを恨んだり、嫌いになったりすることは絶対にない。
いっぱい泣くかもしれないけれど、大好きな舞波ちゃんの決めたことなら、応援できると思う。

それでも、ここに舞波ちゃんが来てくれることは、私にとって最後の希望。あと1日でもいいから、私のために時間を設けてくれると信じたかった。・・・私が舞波ちゃんを好きなように、舞波ちゃんも私を思ってくれてると心から感じたかった。

「・・・・ックシュン」

二度目のくしゃみ。もう辺りはだいぶ暗くなっていた。湖の向こう岸の森も、暗く生い茂って手招きするかのように揺れる。・・・だんだん、怖いという感情が湧き上がってきた。
私は靴を脱いで、ベンチの上で体育座りのような体勢になった。行儀が悪いのはわかっていたけれど、昔から体を丸めていると、安心感を持つことができた。

おでこを膝につけて、ただひたすら大好きな人の名前を思う。



舞波ちゃん、私を見つけて。


「待っ・・・」


私の制止よりも先に、萩原さんの手は、ベンチの上で膝を抱えるお嬢様の肩を掴んだ。

「・・・!」

振り返ったお嬢様は、萩原さんと私たち――愛理さんと舞美さん、村上、を、驚いた様子で見比べた。

一体、いつからここにいたんだろう。小麦色の頬はうっすら青みがかり、唇も色を失い欠けている。

「・・・お嬢様、」

どこかおぼつかない足取りで、愛理さんが2人の元へ歩み寄った。お嬢様の手を握り締める。予想以上に冷たかったようで、小さく息を呑む音がした。

「・・・お嬢様、カイロ持って来ました。使ってください。寒かったよね、気づかなくてごめんなさい、お嬢様」

色白の愛理さんの、鼻の頭が赤くなった。


愛理さんは、お嬢様の手紙の第一発見者だった。今日は学校の用事で、お嬢様のお部屋に立ち寄るのが遅くなってしまったらしい。それで、責任を感じてしまっているのかもしれない。


「・・・千聖」


萩原さんも一度名前を呼んだっきり、肩を掴んだまま黙ってしまった。私だって、かける言葉が見つからない。私の手を掴む舞美さんの手に、痛いぐらい力が篭った。


“お嬢様は、湖にいると思います”


青ざめてうろたえる私たちに、舞波さんは一言そう告げると、淡々と荷物の整理に戻った。

萩原さんは今にも掴みかかりそうな勢いで怒っていたけれど、私はそれを制して、3人をここに連れてきた。・・・見つかって、本当によかった。

今頃舞波さんはもうお迎えが来て、お屋敷を発ってしまったかもしれない。でも、私はそれが薄情や冷酷だとは思わなかった。お屋敷には残れないから、舞波さんはここに来なかった。そこには、私たちにはわからないような苦しみがあったと思うから。

「お嬢様」

私の声に、お嬢様はビクッと肩を揺らした。母親に怒られるのを恐れる子供みたいだ。相手は一昨日あれだけ自分を怒鳴った人間なんだから、無理もない。

「お嬢様、帰ろう」


だから私は、なるべく優しい声を出した。
5月とは思えないほど寒い日に、薄着のまま大好きな人を待ち続けたその気持ちを思ったら、とても怒ることなんてできなかった。

「今日は寒いから、お嬢様の大好きなカルビクッパを作ってもらいましょう。あったまりますよ。お風呂は、檜の入浴剤を入れてみましょうか。今日は、お好きなテレビ番組がありましたね。眠くなるまでじっくりご覧になって・・・」


自分の声が、ひどく震えているのがわかった。だけど、喋り続けなければならなかった。私はメイドで、お嬢様の心をひどく傷つけて、まだそのことを謝ってなくて、だから・・・


ふと、頬に冷たい感触を覚えた。反射的に口を噤む。
お嬢様の小さな手が、私の顔に添えられていた。



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