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その冷たい感触は、気がつくと背中に回されていた。優しいコロンの香りが、私を包む。・・・お嬢様が、私を抱きしめていた。

あまり体の接触を好まないお嬢様の抱擁は、生まれたての動物の赤ちゃんがお母さんにしがみつくようにぎこちないものだった。
どうしていいのかわからなくて、私もお嬢様を抱き返そうとした。すると、お嬢様はするりと私の手を抜けて、今度はしゃがみこむ愛理さんの頭を抱え込むようにして抱いた。

「おじょう、さま・・・?」


次は、目一杯背伸びして舞美さんの首筋に顔を押し付ける。最後に、萩原さんの細い体に腕を巻きつけるように優しく包んだ。

声が出せない代わりに、せめて感謝の気持ちが伝わるようにと、苦手なスキンシップを試みてくれたお嬢様。
微笑んではいたけれど、その笑顔はどこか遠かった。淡くて、儚くて、触れたら壊れてしまうシャボン玉のようだと思った。


「・・・千聖」


眉をしかめた萩原さんが、体を離そうとするお嬢様の両腕を掴んで、無茶な体勢で抱きしめる。2人はベンチに倒れこんだ。


「だ、大丈夫ですか?舞、お嬢様・・・」


慌てて近寄る舞美さんに反応もせず、萩原さんはキツく目を閉じて、ベンチにお嬢様を押し付けたまま、固まっていた。


「・・・帰ろ、千聖」

やがて萩原さんはゆっくり体を起こして、無理やり唇を歪めて笑顔を作った。

「靴、履いてないじゃん。汚れちゃってるよ。千聖は舞がいないとダメなんだから。しょうがないなあ」
「あ、それは私が」


「いいから。舞がやる。・・・やりたいの」


萩原さんはお嬢様の足元に跪いて、綺麗に揃えられたバレエシューズを、冷え切った足に被せてあげた。
まだあどけなさの残るその横顔が、切なさに染まる。それがとても哀しく感じられて、私と舞美さんは手を繋いだまま、黙って立ち尽くすしかなかった。


“ありがとう”

口パクでお嬢様が告げると、少しだけ萩原さんの表情が緩む。すっごく気が強い子という印象を持っていたけれど、本当は繊細で優しい心を持っているんだろう。冷えたお嬢様のふくらはぎを、萩原さんは何度もさすってあげていた。


「今、お屋敷の方に連絡を入れました。温かい食事を用意しておいてくれるそうです」

電波が入らなかったのか、少し私たちから離れていた愛理さんが、ケータイを片手に戻ってきた。お屋敷、という言葉を聞いて、お嬢様は不安そうに吐息を漏らす。


「あ、あの、大丈夫ですっ!愛理が手紙を見つけて、すぐに村上さんと私たちに教えてくれたんで、お屋敷の人にはみんなで林道にランニングに行くって言っておきましたから!だから、大丈夫です!何なら帰り、本当に走って帰ります?とか言ってw」

「もう、そんなこと言ったの舞美ちゃん?舞とかメイドさんがランニングとかおかしいじゃーん」
「ケッケッケ、私も走るのはちょっとなぁ~」


お嬢様を気づかって、明るい声が湖に響く。お嬢様もうっすらと笑っている。その頬は、愛理さんのカイロのおかげか幾分赤みを取り戻してきていた。


「じゃあ、行こうか」


だけど、萩原さんが手を引っ張って立ち上がらせようとすると、お嬢様は体を引いた。


「千聖・・?」


小さく首を振って、まだここに居たいとばかりに足を踏ん張らせる。

「お嬢様、これからどんどん冷え込んでくるから、もう戻りましょう。ね?」

“もう少し、待って”

「何でよ。だってもう・・・」


言いかけた萩原さんは、千聖の後ろに視線を固めて、絶句した。つられて振り返った私たちも、そこに佇む人を見て、呆然としてしまった。



「・・・舞波さん・・・・・」

湖と林道を繋ぐ入り口に、舞波さんが立っていた。

セミロングの髪が乱れて、この寒いのにおでこにうっすら汗が滲んでいる。
一体どこから走ってきたのだろうか。荒い息もそのままに、舞波さんはずんずんとお嬢様に近づいていく。おっとりと物腰の柔らかい印象だったのに、すごい気迫を感じる。私たちは思わず、家来のように背筋を伸ばして道を開けてしまった。・・・あの萩原さんまで。


「・・・」

お嬢様は、驚いてはいないようだった。表情を変えずに、ベンチに座ったまま、舞波さんをまっすぐに見ていた。


「・・・」
舞波さんも、何も言わない。そのまま随分長い事、2人は見つめ合っていた。


そして、お嬢様の唇が震えながら開いた。


「まぃ、は、ちゃん・・・」

搾り出すような小さな声だけど、お嬢様は確かに舞波さんの名前を呼んだ。


「お嬢様、声・・・!」
「ごめ・・・なさ、しんぱい、かけて・・・」

「ううん、そんな・・・よかった、お嬢様・・・!ね、村上・・・あ、あれ?舞・・?」

泣き笑いで喜ぶ舞美さんと愛理さんは、顔をこわばらせる私達を見て、首をかしげた。・・・どうやら、萩原さんも私と同じようなことを考えているみたいだ。


――こんなことを言ったら、せっかく取り戻したお嬢様の声をまた奪ってしまうかもしれない。でも、言わなければもっと・・・


「お・・・お嬢様、・・・・・あの・・舞波さんは・・・・・」
「だい、じょうぶよ・・むらかみさん・・・」

意を決して口を開くと、お嬢様は私に儚く笑いかけた。そのまま、舞波ちゃんに向き直る。


「まいは、ちゃん、は、おわかれを、いいに、きたのね?」


萩原さんが、深いため息をついた。

「残れないのに、ここに来てごめんね・・・。このまま千聖の顔を見ないで、黙って出て行くなんて・・・やっぱり、できなかった。」


それは、この状況において非情な言葉だったはずなのに、お嬢様はいいのよ、とつぶやいて、さっき私たちにしたように、舞波さんを両手で包んだ。


「千聖・・・パーティの日、私を呼んでくれてありがとう。お屋敷に置いてくれてありがとう。歴史の本、いっぱい貸してくれてありがとう。メイドさんのお仕事、経験させてくれてありがとう。私と友だちになってくれてありがとう。
ずっとずっと優しくしてくれてありがとう。」

舞波さんは時折声を詰まらせて、長い間お嬢様へのお礼の言葉を言い続けた。どちらかと言えば口下手で、感情を表に出す事が不得意な舞波さんの、次々溢れるお嬢様への思い。


頬を滑る涙を拭おうともせず、目を真っ赤にした愛理さんは優しく笑って2人を見ていた。

2人の邪魔をしないようにと、舞美さんはしゃくり上げる音を一生懸命こらえながら、両手を硬く握って立ち尽くしていた。

萩原さんの手は、救いを求めるように震えて踊り、私の手と触れ合った。私はその手を握り締めた。振り払われなかったから、そのまま手を繋ぎ続けた。こんなに寒いのに、私たちの手はひどく湿っていた。


しばらくして舞波さんの言葉がとぎれても、2人は静かに抱き合っていた。
お互いの感触を体に残すように、硬く、強く。


「まい、は、ちゃん」
「うん」
「わたしも、まいはちゃんに、であえてよかったわ」

お嬢様は、とても幸せそうだった。久しぶりに発された声はまだ掠れてぎこちない小さなものだったけれど、不思議な力強さと温かさが伝わってくる。

「まいはちゃんは、ちさとの、はじめてのおともだちよ。
はなれても、ずっとだいすき」
「ありがとう。・・・手紙、書くからね。たまには電話で話したりもしよう。またいつか、会いに来るから」


ゆっくりと、重なっていたシルエットが二つに分かれる。
別れの時が来たのだと、私は悟った。


「愛理さん、読書会楽しかったです。お餞別の本、読んだら感想送りますね」
「またお屋敷に来たら、いつでも開催しましょう。ケッケッケ」

「舞美さん、いろいろ気にかけてくださってありがとうございます。生徒会のお仕事、頑張ってください」
「こちらこそ!学校のこととか、心配なことがあったら何でも言ってくださいね!一応生徒会長なんで・・・あ、でも違う学校だからあんまり関係ないか、とかいってw」

「舞さん。・・・千聖をお願いします。」
「・・・」

萩原さんは何も応えなかったけれど、はっきりとうなずいた。
舞波さんは嬉しそうに笑うと、ゆっくり私のほうに向き直る。


「ウフフ・・・。めぐさん。」
「はい」
「一緒に働けてよかった。めぐさんは、強いです。強くて、優しい。私の昔の話に本気で怒ってくれて、嬉しかった。もっといっぱいお話したかったな。」
「そんなの、これからだっていくらでも。・・・私こそ、舞波さんにいろんなこと教えてもらいました。今まで周りにはいなかったタイプで、もし学校とかで知り合ってたなら、友達になれたかは微妙なとこだけど・・・でも、こういう縁があって・・・
ごめん、自分でも何を言ってるんだかよくわからなくなってきた、とかいってw」

頭を掻く私を見て、皆が笑った。・・・よかった、こういう空気でお別れすることができて。誰もさよならを言わず、再会を当たり前に信じているのがわかった。

「・・・めぐさんの忘れ物も、きっとすぐ近くで見つかりますよ。」
「え・・・」
「お心当たりは?」
「・・・・あるっちゃあります」


忘れ物、たくさんありすぎて、どれのことだかわからないけど。舞波さんがそういうなら、そうなんだろう。無意識に顔がほころんだ。


「では、そろそろ」
「・・そうですね。舞波さん、本当にひとりで大丈夫ですか?お屋敷までは一緒に・・・」
「いえ、少し経ったらここに両親が来てくれるので。大丈夫」
「わかりました」

舞美さんと愛理さんが先頭。お嬢様と萩原さんが真ん中。私が一番後ろ。名残惜しいけれど、湖の入り口へと足を進めた。

「舞波さん、ありがとう。」
「バイバイ、またね」


林道に入っても、いつまでも後ろを向いては手を振る私や舞美さんたちとは違って、お嬢様はまっすぐ前を見て、一度も舞波さんの方を振り返らず、歩き続けた。

舞波さんのシルエットがどんどん小さくなる。
そして、完全にその姿が見えなくなった頃、お嬢様は急に足を止めた。

「・・・お嬢様?」
「っ・・・・」

夢遊病のようにフラフラと2,3歩歩いたところで、木の根元に倒れこむようにうずくまるお嬢様。


「ぅ・・・」
両手で顔を覆って、激しく肩を震わせている。

「あ・・・」


さっき泣かなかったのは、もう悲しみを乗り越えていたからじゃない。ただ、お嬢様は我慢していただけだったんだ。


旅立つ舞波さんを心配させないように、舞波さんが見る最後の自分の顔が、笑顔であるように。必死で抑えてきた感情が、ついに爆発してしまったようだった。


「まいは・・・ちゃっ・・・まい・・・は・・・・」

嗚咽の切れ間に、お嬢様は何度も舞波さんの名前を呼んだ。愛理さんは何か言おうと口を開いたけれど、言葉が見つからなかったようで、再び口を閉ざして立ち尽くしていた。



「・・・千聖。」

お嬢様の傍らに座り込んでいた萩原さんが、髪を撫で、頭をコツンとぶつけて寄り添う。


「千聖。舞、寮に入る。・・・しばらくは、舞波さんの代わりでもいいよ。これから舞のこともっと知って、好きになってくれるなら。
私、千聖の大切な人になりたい。これからは舞が守ってあげる。だからもう泣かないで、千聖。私がずっとそばにいるから、泣かないで・・・」


こんな優しい顔もするんだ、と思うほど、萩原さんは柔和に微笑んで、お嬢様の体を支えていた。
深い悲しみの中で泣きじゃくり続けるお嬢様に、その声が届いているのかはわからない。
今のお嬢様はもう心の容量がいっぱいで、何も考えられないかもしれない。けれど、萩原さんの無償の愛情は、これからゆっくりお嬢様の心を癒してくれる。舞波さんの超能力じゃないけど、なぜかそう強く確信する事ができた。


「・・・行きましょう、お嬢様」
私は2人に近づくと、少し強引に、お嬢様の手を引っ張って立ち上がらせた。
萩原さんがお嬢様の隣で一緒に歩いていくのなら、私は後ろから背中を押して、お嬢様を幸せな未来へ導いていきたい。そのためには、いつまでもここに立ち止まっているわけにはいかないと思った。

「歩けますか?」
「だ、だい、じょうぶ、よ」
「さ、行きましょう!今日のごはんは何でしょうね?私、おなかグーグーです、とかいってw」

明るく笑ってまたお嬢様の前を歩こうとした舞美さんは、ふと思い立ったような顔になって、私と愛理さんの腕を取ってお嬢様の横に並んだ。

「せっかくだし、みんなで一緒に歩きましょう。昔、こういうドラマありませんでした?Gメン750なんとか」
「Gメン多っ!ていうか古すぎてわかんないし」
「いやいや、わかってんじゃん!」


漫才みたいなやり取りで、お嬢様もついに「・・・ウフフフ」と小さく笑い出した。

――きっと大丈夫。この人達がいれば、お嬢様は悲しみの淵から這い上がってこれるはず。大切な友だちは、何も1人だけじゃなくたっていいんだから。



「あ・・・・」


ふいに、愛理さんが空を指差した。
厚い雲に覆われたそこから、小さな白い粒がふわふわと舞い落ちてきていた。



「雪だ・・・」
「嘘みたい・・・もう5月なのに」


大粒の塊が次から次へと降りてきて、地面を白く飾り始める。



「・・・まいは、ちゃん、かしら」

ほっぺたや鼻の頭に雪の粒を纏ったお嬢様が、ぽつりと呟いた。

「・・・私も、同じこと思ってました」

この雪は、舞波さんの涙。
感情表現の少ない舞波さんが、お嬢様を思って静かに零した真っ白で淡い気持ち。手のひらや髪に落ちてすぐに消えてしまうけれど、しっかりと心に染み込んでくる。


「また、会えますよ。今度はお嬢様が、舞波さんのお家にお邪魔するのもいいかもしれないですね」
「ええ・・・いつか、また」



雪を体に纏ったまま歩き続けていたら、ずっと奥の方で光がちらついてきた。お屋敷の、外灯だ。気配で、メイド仲間や執事さんたちが何人も外で待っているのがわかった。


「・・・お嬢・・・・千聖。」
「え・・・」
「千聖には、私たちがいますから」


小声でそう告げると、お嬢様は泣きはらした目をパチパチさせて、「やっぱり、むらかみさんは、おもしろいわ」と笑ってくれた。


――大丈夫だよ、舞波さん。これからは、私が。
手のひらに落ちてきた一際大きな雪の塊は、まるで舞波さんから私へのバトンのようだった。


「めぐ?千聖のお話を聞いてるの?」
「へ?・・ごめん、聞いてなかった」
「もう、ひどいわ!舞波ちゃんに書くお手紙のこと、相談しようと思ってたのに。ねえ、写真を送ろうと思ってるのだけれど、どれがいいかしら?なっきぃとえりかさんと栞菜のことも紹介したいわ。」


――そして、現在。

言うまでもないけれど、お嬢様――千聖は、もうすっかり元気を取り戻した。学内にも寮にもたくさんの友だちが出来て、毎日楽しそうに笑っている。

千聖と舞波さんとの文通は、あれから半年以上経った今もまだ続いている。遠く離れても、二人の友情は途絶えることはなかった。私はそれがとても嬉しかった。

「あのね、舞波ちゃんは歴史が好きでしょう?最近、あの、インターネットの・・・チャット、というのかしら?そこで歴史のお話をして仲良くなった方と、メル友さんになったそうよ。
その方がレキジョ?さんになりたいと言うから、舞波さんがいろいろ教えてさしあげてるみたい。ハンドルネームが“プリンセスピーチ”さんですって。ウフフ、何だかももちゃんみたいな人ね」
「プッ、たしかに、センスが・・・」
「舞波ちゃん、学校でも趣味の合うお友だちと、歴史研究同好会を作って充実していらっしゃるみたい。・・・よかったわ。もう舞波ちゃんをいじめる人はいないのね」

今でも、舞波さんの話をするお嬢様の表情は優しい。その顔は、私を勇気付けてくれる。

――いつになるかわからないけれど、私もこんな風に、大切な人と微笑み合う事ができるようになりたい。


「・・・それにしても、桃子さんといえば。ムフフ」
「え?」
「千聖、舞波さんとお別れするとき“舞波ちゃんが千聖の初めてのお友だち”って言ってたじゃん?だけど、あの時ってもう、桃子さんと友だちだったんだよね?中1の時点で、もう知り合いだったんでしょ?」
「あ、え、えと、それはあのとっさにももちゃんのこと忘れフガフガフガフガ」
「あーあ!かわいそーな桃子さん!今度お屋敷に遊びにいらしたら言いつけてやろっと。では、わたくしはこれで♪」
「ま、待ってめぐ!違うの、だめよももちゃんに言ったら!命令よ!」

わめく千聖を置き去りにして、私は部屋を出た。妙に晴れやかな気分で、鼻歌が自然にこぼれてくる。


「ありがとう!おともだち。心が強くなるぅ~・・なんつって」

もし舞波さんと再会できる時が来たら、その時は私の最高の友達を笑顔で紹介したいな、と思いつつ、私はケータイに貼ってある色あせたツーショットのプリクラを、そっと指でなぞった。


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