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全部、夢だったらいいのにな。
私はきつく目を閉じて、そんなことを思った。
これは悪い夢で、目が覚めたらいつものように、千聖が笑顔で私を迎えてくれる。
そんな当たり前の日常が、戻っていたらいいのに。
だけど、おそるおそる開けた目の前には、当然千聖はいなくて。
千聖だけじゃなくて、誰一人傍にはいなくて。
もう誰もいなくなったレッスン室で、私は一人ぼっちだった。
“愛理に何がわかるの”
さっきの千聖の言葉が、何度も耳もとで繰り返されて、心臓が止まりそうなほど激しく波打った。
どうやら私は、千聖のことをひどく傷つけてしまったみたいだ。
どうやら、というところがいかにも私らしい。この期に及んで、自分の発言の一体どこがいけなかったのか、正しくは理解できていないのだ。
それでも、私が悪かったっていうのはわかっている。でも、自分の言ったことを今更取り消したら、余計に千聖を傷つけるだろう。だって、私は、ただ・・・
あの時、舞ちゃんはあからさまに私を睨みつけて、うつむいたまま動かない千聖を黙って抱きしめていた。
なっきぃは?舞美ちゃんはどうだっただろう。まるで現実感がなくて、よく思い出せない。
「あれ…?やだな、なんで…」
膝の上に、ポツポツとしずくが落ちてくる。
私は泣いているみたいだった。
一度溢れてしまえばもうそれは止まらず、私は両手で顔を覆ってしゃくり上げた。
怖いよ。
助けて。
胸の奥から自然に溢れてくる言葉が、もう少しで口から出てきてしまいそうになったその時、
私の肩に、静かに手が置かれた。
*****
電車がガタゴト揺れる音と、乗客の笑い声が勘に触る。
うるさい、静かにしてよ。
私はどうしようもなく苛立っていて、軽く床を蹴った。
「舞さん・・・?」
隣の座席に腰掛ける、小さな肩が揺れて、かすれた声が私の名前を刻んだ。
「ごめん。足滑っただけ。それより千聖、もうすぐ駅着くよ・・・」
「・・・」
「千聖、」
「え?・・・あ・・・ごめんなさい。ありがとう、舞さん」
無理やりに唇を歪めて作ったその笑顔は、いつもみたいに目を三日月にする前に、スッと引っ込んでしまった。
思わずため息をついた私に、千聖はまた「ごめんなさい」と言った。
「いいよ、別に。舞がちゃんと乗り過ごさないように見てるから」
「ごめんなさい・・・」
「いいってば。もう謝らないで?」
自分でもびっくりするぐらい、甘い声が出た。
だって、わかるから。千聖が今、どれだけ苦しい気持ちになっているのか。私はなっきぃよりも舞美ちゃんよりも、・・・・・愛理よりも、わかってあげられるはずだ。
(愛理、か・・・)
後で、メールか電話で謝らなきゃ。
あの時――私が勢いで睨みつけてしまった時、愛理はどんな気持ちになったのだろう。
千聖のことばっか考えて、一瞬でも愛理を敵のように思ってしまった自分の小ささが情けなくて悔しい。
私だって、本当はわかっている。別に愛理が悪いんじゃないってことぐらい。
さっき千聖が言ったとおり、あれは“愛理にはわからない”ことだから。愛理は“自分がわからないっていうことをわかっていなかった”ただそれだけのことだ。
別に、二度と修復できないほどの溝が、2人の間にできてしまったってわけじゃないと思う。ちゃんと話し合えばわかることだから、きっと大丈夫。
そう自分に言い聞かせても、結局胸のもやもやは収まってくれない。
こんな時、今までだったら、すぐに間に入って仲直りの手伝いをしてくれる人がいた。
自分のことみたいに真剣に悩み事を聞いて、一緒に泣きながら笑ってくれた人がいた。
自分にそれができないとは思わない。
私は私なりの方法で、解決策を考えることができるはず。
でも、あんな千聖を見たのは初めてで・・・いつも優しい千聖の心の暗いところに、土足で踏み入ってしまうのが怖かった。
えりか。
栞菜。
胸をよぎる大好きな人たちの名前。℃-uteとして一緒に頑張っていた頃の、優しい笑顔が蘇って、私は慌てて鼻をすすりあげた。
私や千聖がもっともっと子供だった時は、めぐだっていてくれた。
今はもうそばにいない人たちの愛情に、どれだけ私たちは助けられてきたんだろう。
「・・・舞さん?」
挙動不審な態度が引っかかったのか、千聖はしばらく私を見つめてから、静かに微笑んだ。何にも映っていない、空っぽな笑顔で。
「・・・私、大丈夫よ。舞さん」
「・・・・・うん」
――うそつき。
いつからか、千聖は嘘とわかる嘘が上手になってしまった。
大丈夫、なんて言いながら、助けてって悲鳴を上げてるのがわかる。
わかっているのに、私は何もできない。こんなに近くにいるのに、怖いぐらい千聖を遠くに感じる。
「・・・今日は、送ってくれてありがとう、舞さん」
「うん」
「今朝お話していた、舞さんのお勧めのバラエティ、21時からだったかしら?見たらまたメールするわね。そうだ、今朝、明日菜がね・・・」
千聖は急に、堰を切ったように喋りだした。
ただ言葉と言葉をつなぐだけの、何にもならないスカスカな会話だけど、それでもいい。千聖がそうしたいって思うなら、話し相手ぐらいにはなれる。
「明日もダンスレッスン、頑張りましょう」
「うん、がんばろうね」
「最近、ずっと寒いのね。早く暖かくなるといいのに」
「そ、だね・・・」
ふいに声が詰まって、慌てて千聖の反対側に顔を背ける。
「舞さん?」
「・・・大丈夫。なんかむせちゃった」
「まあ・・・」
優しい手が、背中をゆっくりとさすってくれる。
私、全然だめじゃん。
輝きのない、真っ黒なビー玉みたいな千聖の目の色に浸食されていくように、私の胸の中の霧もどんどん色濃くなっていくようだった。
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最終更新:2013年11月24日 09:59