茅ヶ崎の駅を出ると、海岸へ向かって歩いた。
もうすぐ夕方になるとはいえ夏の日差しはまだ高く、照りつける太陽がまぶしい。
その中を歩くのだから熊井ちゃんなんかもう汗だくだ。前髪が額にぺったりくっついてしまってる。
相変わらずの汗っかきさんだな、熊井ちゃん。
滝のように汗が流れてる熊井ちゃんを見ると夏だなあと実感する。
毎度思うけど、その汗は本当にすごい。
だが、その姿がかえって爽やかに見えるのは、このすらっとした容姿だからだろう。
こんな爽やか汗かきさん、そうそういないだろうなあ。他に見たこと無いもん、美人でありながらここまで汗だくの人。
海岸についた。
砂浜に下りると、きらめく海を目の前にして気分が浮き立ってしまう。
沖合に烏帽子岩が見える。
「熊井ちゃん、あれ烏帽子岩だよ。あー、やっぱり泳ぎたいなーくっそー」
思わず靴を脱いで波打ち際まで走ったりしてはしゃいでしまった。僕ひとりで。
熊井ちゃんがそんな僕を無表情で眺めているのが見えた。
気のせいかな、今日の熊井ちゃんは珍しく元気がないみたいに見える。
波打ち際をぶらぶらと歩いた。
後ろ手に靴を持って、足元に視線を落としながら歩く熊井ちゃん。夕陽に照らされて伸びる長い影。
その光景はとても絵になっていて、映画のワンシーンのようだった。
熊井ちゃん、女優さんみたいだ。
そこにあった流木を見つけ腰を掛ける。
熊井ちゃんは遠くを見つめていた。
その表情には熊井ちゃんらしからぬシリアスなふいんきが漂っていた。
電車の中の会話もそうだったけど、今日の彼女の様子はやっぱりちょっとおかしい。
急に海を見に行こうとか言い出したことといい、熊井ちゃん何か悩みでもあるのだろうか。
熊井ちゃんの真剣なまなざし。
その表情はとても大人っぽくて。
思うに、最近の彼女はどんどん大人っぽくなっているような気がする(見た目だけは)。
しかしまあ、こうやって見ると本当にカッコいい美人さんだな。
大ボケをかましている時と同じ人とはとても思えない。
水平線の彼方を見つめながら、ずっと熊井ちゃんは黙っていた。
たっぷり30分は経っただろうか、横目で見つめた僕に熊井ちゃんが語りはじめた。
「うちには犬がいるんだ」
犬、ですか。
彼女の視線は遠くを見つめたままだ。
「チワワでね。とってもかわいいんだよ」
「ミントちゃんでしょ。知ってるよ」
「えっ!? なんで知ってるの?」
「なんでって・・・そりゃ、前に熊井ちゃんが教えてくれたからだよ。それにミントと散歩してる時に会ったことだってあるじゃん」
いつものくまくまトークなのかなと思ったが、熊井ちゃんの表情はやはり硬いままだった。
間違いない。今日の熊井ちゃんはちょっと変だ(いや、いつも変だけどさ)。
そんな一人ボケツッコミをしそうになったが、目の前の彼女の表情を見ると自重してしまう。
それを見れば、僕も真剣な表情にならざるを得ない。
「ミントがウチに来たのは、まだ生まれたばっかりの頃だったの。それからはずっと一緒だった・・・」
そして、そこでまた言葉に詰まってしまう熊井ちゃん。
「・・・・・」
だんだん空気が重くなってくるのを実感する。
だから、僕も真剣な表情のまま彼女の話しの続きを待つ。
「ミント・・・・・」
そう言った熊井ちゃんが唇を噛んだ。
遠くを見つめるその瞳。驚いたことに、そこにはうっすら涙が浮かんでいるじゃないか。
熊井ちゃん・・・
「ミントがね・・・・ミントが・・・・・」
まさか・・・・ まさか、ミント・・・・
僕の背中を緊張が走る。話の続きを聞くのが怖い。
感情が溢れてきたのか、熊井ちゃんは堰を切ったかのように話し始めた。
「ミント・・・・ 子犬の頃からずっと一緒で、あんなにうちのことが大好きだったミントなのに・・・」
「うちもミントが大好きだった。大好きで大好きで。だからあんなに可愛がって・・・・」
「それなのに・・・・・」
「それなのに、最近うちよりも弟に懐き始めて・・・ どうして、ミント?」
「うちと遊んでいても、弟が帰ってくるとミントはそっちに行っちゃうんだよ。残されたうちは一人ぼっち・・・・」
「うちらの仲はこれからもずっと変わらずに続くんだって、そう思ってたのはうちだけだったの?」
「もうミントはうちのことなんかどうでもいいんだ・・・」
そこまで一気に言うと、熊井ちゃんは俯いてしまった。
そのとき地面に落ちたのは、額の汗だったろうかそれとも・・・
えーと・・・・
どう反応すればいいんだろ・・・
一瞬だけちょっと脱力してしまったけれど、でもすぐに熊井ちゃんの言うことを受け止めることができた。
これ、熊井ちゃんは決してふざけてませんから。
彼女はホント純粋な女の子なんで。
本当にショックを受けてるんですよ、彼女は。
だから、いま彼女の目の前にいる僕がその気持ちを分かってあげなくてどうするんだ!
熊井ちゃんは本当にミントのことが好きなんだな。
「好き」っていう気持ちは、時に切ないものだ。
それがよく分かるからこそ、そんな彼女の心の内を思うと僕も熱くなってきた。
だから、彼女にかける声にもつい力が入ってしまった。
「違うよ、友理奈ちゃん!」
あれ? 今「友理奈ちゃん」って言った?
どうして名前で呼んだんだろう。でも、今はとりあえずそこは置いとこう。
「ミントが熊井ちゃんのことをどうでもいいなんて思うわけないじゃん!!」
いや、本当のところはどうなのかなんて全くわかりませんけど。犬の気持ちだし。
でも、なんだか熱く語りたくなってしまったのは、それはきっとこの目の前の夕陽に照らされた海のせいなのだろう。
「それは親離れみたいなものなんだ。ミントはいま大人の階段をのぼってるってことなんだよ。だから熊井ちゃんがそれを受け止めてあげないと!」
あれ? でも、もうミントって4歳ぐらいじゃなかったっけ。それって人間の年齢に換算すると何歳ぐらいなんだろ。
まぁ、こまけえ事はいいや。
熊井ちゃんが僕の顔をじっと見つめる。
だから、真顔でそんなに見られたら怖いよ。熊井ちゃん。
「うん、そうだね。ミントのことを一番わかってるのは絶対うちなんだ。ミントとうちは硬い絆で結ばれてるんだから」
良かった。
彼女に意見などつい僭越なことをしてしまったが、それに対して怖い顔で見られたから殴られるのかと思ったよ。
珍しく彼女が僕の熱弁を受け止めてくれたことに感動。ここは畳み掛けよう。
「そうだよ、熊井ちゃん。ミントを信じてあげて」
「もちろん!! ミントごめんね。一瞬でもミントのことを疑っちゃって」
「きっとミントは熊井ちゃんの帰りをずっと待ってるよ」
「うん、わかる! ミントはね、うちが帰るといっつも尻尾をブンブン振りながら迎えてくれるんだから」
よしよし、いい具合に熊井ちゃんを誘導できてるぞ。
そろそろ帰れそうかなこれは。もう一押しだ。
「帰りが遅いから心配しているんじゃないかなミント。早く帰ってあげないと熊井ちゃん!」
「うち今すぐミントに会いたい。急いで帰るからね、待っててミント! だからもう帰るね。それじゃ!!」
そう言うと、一人で勢い良く立ち上がり、一瞥もくれず歩き出す熊井ちゃん。
それじゃ!って・・・・
ちょっと待ってよ熊井ちゃん。一緒に帰ろうよ!僕を置いて行かないで!!
さっさと駅に向かって颯爽と歩いて行く熊井ちゃんをあわてて追いかける。
電車に乗り熊井ちゃんと並んで座る。
並んで座ると僕も同じぐらいの背に見えるんだけどな。
「今度は乗り過ごさないようにしないとね。この電車、寝過ごすと前橋まで行っちゃうから気をつけないと」
「へー、そんなとこまで行っちゃうんだー。前橋って群馬県だよね。“群馬県”ってなんか響きがいいよね。ぐんまけん。あははは」
何を言ってるんだか。
県名で響きがいいも何もあるもんか。その感覚がよくわからない。
でも、熊井ちゃんがいつもの調子に戻ってくれたみたいで安心した。やっぱり彼女はこうでなきゃ。
エアコンの利いた車内は快適だった。
遠出してきてちょっと疲れてるのか、電車で揺られていると睡魔が襲ってくる。
熊井ちゃんはもうすでに熟睡中だ。僕もまぶたが重くなってきた。
まぁ、乗換駅まで一時間ぐらいかかるし、それまでちょっとひと眠りしよう。
まぶたを閉じながら考えていたのは、さっき何で僕は彼女のことを“友理奈ちゃん”って呼んだんだろう?ってこと。
“熊井友理奈”
カッコいい名前だよな。
小学校のとき、クラスの女子たちは彼女のことを「ゆり」って呼んでいた。
その呼び方がカッコ良かったし彼女に似合ってて、だからそれに憧れてたんだ。
だから、彼女のことを名前で呼んでみたいという願望が確かにあった。
友理奈ちゃん、か。
熊井ちゃんのことをいつもそう呼ぶ彼女。
さっき僕がそう呼んだのは、その呼び方が似合う彼女が羨ましかったのかもしれない。
だから、力を込めて熊井ちゃんを呼ぶあの場面で、ついそれを真似してみたんだ、きっと。
でも、その呼び方はやっぱり彼女だけのもの。
僕にとって、やっぱり“熊井ちゃん”が一番しっくりくる呼び方だ。
親しみと畏敬の念が込められた絶妙な呼び方だと今では思う、“熊井ちゃん”。
でも、そのうち「ゆり」っていう呼び方も一回やってみたい・・・・うん、その呼び方懐かしいな。本当に憧れてた。
あれ? ってことは小学校の時って僕は熊井ちゃんに憧れてたのかなあ。
もう憶えていないや、そんな昔のこと・・・
あの頃、僕は彼女のことをどう思ってたんだろう・・・・・
睡魔が襲ってくる。思考能力の低下とともに支離滅裂な内容になってきたが、記憶があるのはここまでだ。
いつの間にか僕も熟睡に入っていたようだ。
それでは、ちょっとの間おやすみなさい。
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最終更新:2011年10月17日 06:20