生徒会室 と書かれたプレートの部屋。
ドアは開いたままになっていて、室内の様子は丸見えだ。
そこに、岡井さんはぼんやり立ち尽くしていた。
表情は見えない。こっちに背中を向けて、奥の窓の方を見ている。
心臓が飛び出しそうなぐらい、ズキズキと高鳴る。荒くなった息が岡井さんに聞こえるんじゃないかって、口をギュッて閉ざしたせいで、呼吸が余計苦しくなって悪循環。
それにしても、私はここに何をしに来たんだろう。せっかくだから、話の1つもしてみたいとは思うけれど・・・。
“お願いがあります。・・・もし、だめだと思ったら、今日のところは諦めて。それだけは、絶対に”
そう、さっきの・・・鈴木さん、は、私が岡井さんに何かしら話しかけようとしているのを見抜いていた。それで、釘を刺してきたんだろう。
だめだと思ったら、か・・・。
正直今、声を掛けていいのかわからない。いや、かける言葉がわからないから、私も一緒に同じ方向を見た。
1分、2分。それ以上かもしれないけれど、どんどん時間が流れていくのに、岡井さんは動かない。長い栗色の髪が、夕日の赤に照らされて、キラキラツヤツヤ輝いている。
その髪に、触れてみたいと思った。
吸い寄せられるように、フラフラと部屋の中に入り、背後に立っても、まだ岡井さんは正面を向いたまま。私の存在には気がついていないようだった。
それにしても・・・やっぱり、背が小っちゃいな。私と同じぐらいか。
バニラみたいな、外国のお菓子みたいな甘い匂いが鼻をくすぐる。なんていうか、お金持ちの人の匂いだって思った。
至近距離で見たら、このツヤツヤの髪なんて、まるでみずきちゃんちで見たフランス人形のやつみたいだ。人間のとは思えない。
絹みたいなそれにどうしても触れてみたくなって、震える指を伸ばす。
「・・・舞美さん、えりかさん」
だけど、それは突然の事だった。
ずっと黙っていた岡井さんが、急に声を出した。
「うわあ」
完全に油断していた私は、思わず間抜けな声を出す。
「え?」
「だ、だめ!!」
お金持ちを驚かす→嫌われる→逮捕→死刑
そんな図式が頭に浮かんで、私はとっさに岡井さんの目を手で隠してしまった。
「きゃあっ!」
「あ、ち、ちがうんす全然ちがうんです!」
やばい、完全に変質者だ。
岡井さんも相当驚いたらしく、慌てて私の手を引き剥がそうとしてくる。
「ど、どなた?どうして千聖の目を隠すの!?」
「あ、あぅ・・・えっと、その」
逮捕、死刑、嫌われたくない。顔を見られたらおわり。そんなの嫌だ!!
私は完全に混乱して、ついおかしなことを言ってしまった。
「わ、私は幽霊だ!見たら呪われるぞ!」
――ああ、何てバカなんだ。
中等部の大きいお姉さんに、こんなのが通用するはずないのに。つい、クソナマイキな弟を黙らせるときと同じ方法を取ってしまった。
驚かせた上に馬鹿にしたから、これはきっと拷問されてからの死刑だな。みずきちゃんちにそういう本があったっけ。釜茹で、火あぶり・・・できたら楽なやつがいいかな。
「・・・幽霊、さん?まあ・・・」
だけど、意外なことに、岡井さんは怒るでもなく、私の手を強く握っていたその指の力を抜いてくれた。
「あの・・・」
「このお部屋にも、昔亡くなった方の幽霊が出るのよ。昔、お会いしたことがあるわ。きもだめし大会で・・・」
「あ、う・・・そ、それは私の仲間だ!」
「まあ、そうなの。それならきっと学校の中に、他にもたくさんいらっしゃるのね」
岡井さんは楽しそうにクフフと笑った。
長い睫毛が、手のひらを擦ってこそばゆい。
初めて聞いた、岡井さんの声。舌ったらずでふにゃふにゃしてるのに、か細いって感じでは全然ない。ずっと聞いてたくなるような、気持ちいい声だ。
「・・・あなたは、初等部にいらっしゃる幽霊さんなの?」
「え・・・」
「だって、千聖の妹よりも、だいぶ声が幼いもの。小さな手ね。寒いのでしょう?とても冷たいわ。・・・あ、でも幽霊さんなら、もともと手が冷たいから、あまり関係ないのかしら。ウフフ」
「え?え?」
・・・もしかして、岡井さん、私の言った事ガチで信じてる?まさか・・・。だって、もうまもなく高校生でしょ?でも、お金持ちっておかしい人多いし(みずきちゃんがいい例だ)これは妙なことになってきたぞ。
勝手にキョドッてる私にかまわず、岡井さんは楽しそうに喋り続ける。
「それで、幽霊さんは、生徒会室にどんな御用?」
「あ?よ、用事?」
「お友達の、高等部の幽霊さんに会いにいらしたのかしら?生憎、今はお留守になさってるみたいだけれど」
そうだよ、と答えようとして、私は言葉を飲み込んだ。
あの綺麗な目で見つめられたら、ちゃんと話せないかもしれないけれど、目隠しをしている今なら、素直に言えるような気がする。
ゴクッ、と自分がつばを飲み込む音が、やけに大きく響いた。
「・・・私は、あの、岡・・・ち、ちさとちゃんが、心配で」
「心配?」
「だって、泣いてたでしょ。さっき。
笑ってたけど、泣いてた」
手のひらの中で、岡井さんの睫毛が揺れた。すぐに、何のことだかわかったらしい。
「・・・・誰も、気づいていないと思っていたわ」
乾いた、少しもたもたした口調で岡井さんはつぶやく。
「う・・・あー、だから、あたしは幽霊だから、お見通しなのだ」
「そうだったわね」
優しいのね、と岡井さんはつぶやく。
「あー、でも、優しくないっすよ。
あたしすぐケンカ強いんですぐ友達泣かしちゃうし、あと先生にも目つけられてて
・・・いや、先生っていうのは幽霊の学校の先生で地獄からきた鬼で」
うわあ・・・、変な汗、かきまくりだ。
暴れん坊でもいいから、嘘はつかないようにお母さんからキツくいわれてきた私は、どんなことでも正直に話すように心がけていた。
それで友達とトラブルになることもあったけど、ちゃんと言いつけを守ってきたつもりだ。
だから、今こんなおかしな嘘に嘘を重ねているのは、すごく心が痛い。
大体、バレバレだろう。こんなの。いっそ正体を明かしたほうがいいんだろうか。
「・・・幽霊さん。気に掛けてくれて、ありがとう」
私の動揺がわかってるのかいないのか、岡井さんの口調は相変わらず淡々としている。
「さっき泣いていたのはね、悲しかったからではないの。
舞美さん、・・・生徒会長、とても素敵な挨拶をなさっていたでしょう?それを聞いていたら、私にとって大切な人達と過ごした、たくさんの思い出がよみがえって。
たくさんたくさん、思い出しすぎて、思い出が瞳から零れ落ちてしまったのね。だから、あれは幸せな涙なのよ」
「う・・・ん。そうなんだ・・・涙にも、いろいろあるんだね」
ぶっちゃけ、私はお母さんに怒られての逆切れ泣きぐらいしかないから、よくわからんけど。
“幸せな涙”という言葉はカッコイイと思った。今度みずきちゃんに言ってみようっと。
「だけど・・・正直に言うとね、少しぐらいは寂しい気持ちもあったのよ。だから、この場所で、自分なりに、卒業生の皆さんとのお別れをしようと考えていたの」
「そっか。・・・あの、うん。悲しくて落ち込んでるんじゃないなら、うん。邪魔しちゃって、ごめんね!」
私は岡井さんの目を覆っていた手を離して、ギュッと抱きついてみた。
「きゃんっ」
「・・・あ、後ろ向いちゃダメ!あの・・・呪われるよ!あたし幽霊だし!」
まだ顔を見る勇気はない。ガサツで問題児な私を知られて、嫌われたくないから。
同じぐらいの背丈なのに、私の棒きれみたいな体とは違って、柔らかい感触。みずきちゃんちにあった、おっきなぬいぐるみを思い出す。
自分の顔が、真っ赤になっているのがわかる。
おでこを押し当ててる岡井さんの細い首筋にも、私の熱くなった体温が伝わってしまっているかもしれない。
早く離れなきゃ。そう思っているのに、体が金縛りにあったように動かない。岡井さんの腕に食い込ませた両手が、大げさな演技のように震えていた。
「あの・・・」
小さな鈴のような声で、私は正気に戻る。
「あ・・・う・・・あ、あたし帰る!ごめんなさい」
「えっ・・・」
「こっち見ないで!」
もう、怖くて後ろを振り向く事はできなかった。
突き飛ばすようにして岡井さんから離れると、私は一気に階段を駆け下りた。
ブレーキがきかない。
チビな体ですっとんでいく私を、すれ違う上級生が何事かと振り返っていくのがわかる。
「うわっ」
勢いあまって、最後の1段目で蹴っつまずいて膝を打つ。
「うあー、ちょー最悪・・・」
寒い日にむき出しの足をぶつけたもんだから、ものすごく痛い。
動けなくなってそのままうずくまっていると、急に視界が暗くなった。
「うふふふふ」
「・・・みずきちゃん」
学校指定の黒いコートを着込んだみずきちゃんが、腰をかがめて私を見ていた。
「大丈夫?」
「んー・・・」
今起こったことを、何て話したらいいのかわからなくてうつむく。
私のそういう態度はあきらかに変だっただろうけど、みずきちゃんは特に触れずにいてくれた。
「遥ちゃんのコートと鞄も持ってきたよ。一緒に帰ろう」
「・・・うん」
私の肩にコートをかけて、袖に腕を通してくれるみずきちゃん。
「・・・今日、みずきちゃんちに行ってもいいかな」
マフラーを巻いてくれている最中に、そう言ってみると、みずきちゃんはにっこり笑った。
「そういうと思って、ママにカップケーキ焼いてってメールしておいたから。遥ちゃん、好きでしょ?」
「うん!」
昇降口を出て、一番上の“あの部屋”を見上げる。
電気がついているから、岡井さんはまだあそこにいるのかもしれない。
あの柔らかい体の感触。甘い香り。まだリアルに思い出せる。
「みずきちゃん、教えてほしいんだけど。私ね・・・」
*
――♪♪♪
「おっ、やべっ」
始業のチャイムの音で、はっと我に返る。
岡井さんと出会った卒業式の日のことを思い出していると、いつもこうやって時間の感覚がおかしくなってしまう。
音楽の先生、リコーダーでチャンバラやってるの見られてから、すっげー目つけられてたんだっけ。
こりゃ、廊下側の小窓が開くよう、細工しておいたのが役に立つときが来たみたいだ。こっそり入ろう。
「あれ・・・」
ふと、校庭に目を向けると、高等部の青ジャージが、準備運動をしているのが目に入った。
ウ○ーリーだってろくに探せないはずの私なのに、すぐにその中から、お目当ての人を見つけ出してしまう。
“あの時”より少し短くした髪を、すっきりポニーテールでまとめあげた、小さな背丈の人。まつげくるんくるんさんと楽しそうにお喋りしている。
ふいに、その目が、私のいる2階へ向けられた気がした。
慌てて目を逸らそうとしたけれど、よく考えてみれば、そんなにビクビクすることはない。
あの時の私は幽霊だったんだから、正体はバレていないはず。
心臓をバクバクさせながら、とりあえずペコリと頭を下げると、岡井さんは目を三日月にして、会釈を返してくれた。あの深い茶色の目で、私をじっと見つめている。
こんな小さなやりとりだけでも、嬉しくって、心がくすぐったくなる。
“遥ちゃん、その気持ちっていうのはね・・・”
あの日、みずきちゃんが言っていた、私から岡井さんへの気持ちの名前。
本当に、“これ”が“それ”なのかはわからない。
そのことについては、深く考えるのは怖い気がするし、・・・きっと岡井さんに迷惑が掛かる。だから、今はその他大勢の存在として、見つめていられるだけで十分。
やがて、集合の合図の笛の方へと、岡井さんは身を翻して去っていく。
足、早いな。運動神経、案外いいのかも。お嬢様だからとあなどっていたけど、また新しい岡井さんを知ることができた。
グラウンドをチョウチョみたいに軽やかに走るその姿から、私はいつまでも目をそらせなかった。
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最終更新:2012年03月08日 20:30