「超高校級の平凡(後編)」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
「超高校級の平凡(後編)」(2011/07/15 (金) 17:02:56) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
不二咲さんを慰めて部屋まで送り、部屋に荷物だけ置いて、私はそのまま玄関へ向かう。
二枚の皿と、少し高いペット用の缶詰を持って。
「餌の時間よ、マコ」
わん!
玄関を出てそう呟くと、鎖を鳴らして白い影が飛び込んでくる。
走ってきたその犬は、私に飛びかかってくるんじゃないかというくらいの勢いで突っ込んできたが、
すんでのところで鎖が伸び切り、首輪に引っ張られて引き戻され、きゅう、と情けない声をあげた。
それでも余程餌を待ち焦がれているのか、自分の首が締まるのも構わず、
ずるずると地面をひっかいてこちらに来ようとしている。
けれど、
「待て」
私がそう言うと、即座に数歩下がってその場に腰を下ろした。
「ホント、馬鹿なんだか素直なんだか、わからないわね…」
苗木君が言うには、マコは私に一番懐いているらしい。
こうやって躾を覚えさせたのは苗木君なのに、100%で言うことを聞くのは私の方だそうだ。
『僕が拾って来たのになぁ』
声の調子と対照的に、彼の顔は全然悔しくなさそうだった。
二、三週間前までは、ああやって屈託なく笑っていたのに。
二枚の皿に、餌と水をそれぞれ入れて目の前に置く。
「食べていいわよ」
そう合図すると同時に、マコは皿に顔を突っ込んだ。
尻尾が勢いよくブンブンと振られているのを見て、微笑ましい気持ちになる。
そっと、背中を撫でる。
マコはこちらを一瞥して、それからまた餌に視線を戻した。
尻尾が一段と激しく振られている。
「これくらいわかりやすければ、苦労はしないんだけど…」
「誰が?」
「――っ!!?」
あまりに突然だったので、私は思わず立ち上がってしまった。
誰もいないと思って口にした独り言に、返事が返ってきた。
「戦刃、さん…」
少し後ろの柱に、彼女は背を預けて立っていた。
相変わらず眠そうな目で、ぼんやりとこちらを見ている。
「いつから、そこに?」
まだ悲鳴をあげている心臓をなだめすかして、私は尋ねた。
「『マコ、餌の時間よ』から」
「つまり、最初からね…」
ふう、と、溜め息が出た。
後ろに立たれていることにも気がつけなかったなんて、少しショックだ。
「今日の餌当番…私もなんだけど」
「あ…」
「声をかけてくれなかったから…行った方がいいのかわからなくて」
あまりにもテンションが低いので、何を考えているのか分からない。
「私は邪魔…?そうなら、戻るけれど」
「そ、そんなことないわ」
「…なら、いい」
戦刃さんは私の隣まで来て、その場にしゃがんだ。
マコは彼女に気が付いたのか、また顔をあげると、
わん!
と、高い声で鳴いて、じっと見つめている。
不思議な人だ。
「…最近、クラスが暗い」
あなたがそれを言うか。
「どう思う?」
「え?」
「クラスが…」
理解するまでに、数秒。
なるほど。
彼女なりに、世間話をしようと気遣ってくれているんだ。
私としては何も喋らないままでも、それはそれで落ち着くからいいんだけど。
「…そうね。まるでお葬式を見ている気分ね」
「苗木」
「苗木君が?」
「あいつが元気が無いから、みんな暗いんじゃないかなって。霧切は、何か知らない?」
「…なぜ、それを私に聞くのかしら」
「別に。気づいていないなら、いい」
気づくって、何に?
何であなたは、そんなに苗木君のことを分かったように言うの?
もやっとする。
そうして、次の言葉を紡ごうとした瞬間。
「さっきも学園長室に呼ばれていたし」
そんな彼女の言葉に、私の言葉は掻き消された。
「…今度はそういう言い訳を使ってきたのね」
「言い訳?」
「彼、最近クラスメイトと距離を置いているみたいで…ウソの用事をでっちあげているのよ」
私のその言葉に、戦刃さんは目を丸くした。
そして、
「私は、実際に苗木が学園長室に入って行くのを見ただけだけど」
そう、教えてくれた。
ぐらり、と、目の前の風景が歪む。
苗木君があの人に?
何の用事で?
やつれた苗木君の姿が頭に浮かんだ。
何を話しかけても生返事で、クラスメイトを避けていて――
『苗木君、学校辞めたりしないよね…?』
不二咲さんとの会話を思い出す。
ドクン。
心臓から冷たい血が、全身に押し出される。
「…戦刃さん」
「いいよ」
「…」
「行ってきても。マコの世話は、私がやっておく」
「ありがとう、色々と」
「そっちのマコは、任せるから」
きっと冗談のつもりだったんだろう。
戦刃さんは穏やかにほほ笑んだ。
こんな笑顔も出来るのか、と、口には出さずに呟いて。
私は彼女に背を向け、走り出した。
「…まあ、人間よりも犬を世話する方が楽だからな」
後ろで何か独りごちていたが、耳には入ってこなかった。
足取りは、早歩き。次第に大股、駆け足、一段飛ばし。
廊下をまさかの全力疾走。
どこぞの風紀委員に見つかれば、ただじゃ済まないだろう。
でも、今はそんなことを気にしている余裕はない。
嫌な予感とか、虫の知らせとか、そんな陳腐な言葉で飾るにはあまりに揃いすぎていた。
まるで舞台劇のように、あらかじめ用意されていたみたいに。
フラグ、というやつだろうか。
そして、息を切らせながら、
この学校の中で一番開けたくなかった扉を、私は目の前にしている。
扉の向こうにいるのは、かつて私を、母を、霧切の名を捨てたロクデナシ。
そこには原稿用紙を何枚渡されても書き記せないほどの恨み辛みがある。が、今は省略。
それよりも大事な事が、今はある。
そっと壁に近づいて、耳をそばだてた。
幼い頃に聞きなれた父の声と、それとは別にまたよく聞きなれた中性的な声とが聞こえる。
「自主的な中途退学のためには、君本人と保護者の――」
ああ、ダメだ。
当たって欲しくない予感ほど、当たってしまう。
まるでパズルのピースが、一つ一つ嵌まっていくようにして。
私の頭の中で、結論付けられた。
苗木君は、学校を辞めようとしている。
――どうして…!
その『どうして』は、
どうして辞めてしまうの、という純粋な疑問だったかもしれない。
どうして私には相談してくれなかったの、という理不尽な憤りだったかもしれない。
とにかく、次の瞬間。
私はこの世で一番開けたくなかった扉を、殴る様にして開けていた。
――――――――――――――――――
「これは苗木君個人の問題だ。関係のない君が口をはさむべきじゃない」
霧切さんと学園長の間にある確執は、なんとなく知っていた。
本人たちの口から直接聞いたわけじゃないけれど、学園長もそんなことを匂わせていたし。
それに、まとめサイトにも似たような噂はあったから。
霧切さんも余程毛嫌いしているらしくて、普段は視界にも入れたくないとまで言っていた記憶がある。
その、霧切さんが。
「関係あります。彼は私の大切なクラスメイトです」
感情をむき出しにして、学園長に噛みついていた。
学園長は、寂しそうに、そして満足そうに微笑を浮かべているだけだった。
生徒と教師という関係でも、例え憎まれていても、彼女と触れあえる嬉しさを噛みしめているようだった。
そして、それとはまた別の問題だけど。
どうやら、霧切さんにも聞かれてしまったみたいだ。
別にどうしても退学したいってわけじゃなかった。
そう、本当に、こんなに騒ぎ立てるような問題じゃないんだ。
ただ、居心地が悪かったから。
他の学校のことも気になったから。
『超高校級の幸運』の中退率を知って、なんとなく。
理由ならいくらでも挙げられた。
40%超。
約半分だ。
半分の『超高校級の幸運』が、この学校を中退している。
その数字を見て、どことなく安心してしまった自分がいた。
僕だけじゃなかった。
居心地の悪さを感じているのは。
そんな、会ったこともない相手に対する、漠然とした仲間意識。
本気で退学しようと思ったわけじゃない。
ただ、聞いておきたかった。
退学や転校のための手続きとか、過去に退学していった『超高校級の希望』の話とか。
「とにかく、苗木君は連れて行きます」
「許可できない」
「話をするだけです」
「では、ここですればいいだろう」
「あなたに…学園長には、聞かれたくないので」
「それならやっぱり容認できないな。苗木君を脅して、退学を思い留まらせる魂胆かもしれないだろう」
僕の腕を握る霧切さんの手に、一層と力が入る。
だんだん手が痺れてきた。
どちらにせよこのままじゃ、らちが明かないだろう。
「あの」
僕は握られている方とは反対の手を挙げて、学園長に向けて言った。
「僕は構いません」
「…」「…」
二つのよく似た視線が、僕の方を向く。
「今日は話が聞きたかっただけですし…また別の日に、改めて伺います」
僕がそう言うと、存外にも学園長は簡単に折れてしまった。
「そうか…わかった」
霧切さんは、僕をじっと見ていた。
力は少し弱まったけれど、まだ腕を握られたままだった。
「すみません」
「いや、いいよ。また来てくれ…まあ、来ない方がいいんだけどな」
霧切さんが僕の腕を引っ張る。
さっさとこの部屋を出る、という合図のようだ。
僕は引きずられるようにして立ち上がり、学園長に会釈をした。
「失礼しました」
閉まる扉の向こうで、学園長は全てを見越したような穏やかな笑みを浮かべていた。
――――――――――――――――――
驚くほど冷静に、私は怒りに震えていた。
学園長室であの人と会話してしまったというのもあるが、今はそれよりも。
「霧切さん、痛い…」
引きずっている彼のことで、頭がいっぱいだった。
彼が言っているのは、私が握っている腕のことだろう。
たぶん痛いはずだ。
力を抑える気もなかったから。
思いっ切り怒鳴り散らしてやりたかった。
また殴ってやるのもいいかもしれない。
でも、それは違う。
それは私の憂さを晴らすだけで、根本的な解決にはならない。
階段の踊り場まで引き連れてから、私は彼を壁にたたきつけるようにして開放した。
彼は別段逃げ出すこともなく…というか、そのつもりなら学園長室であんなこと言わないだろうけど。
とにかく壁を背にして、私に向き直った。
余程痛かったのか、私が掴んでいた腕を擦っている。
「退学って、どういうこと…?」
努めて声に表情を乗せないようにする。
気を抜けば、「馬鹿じゃないの!?」と、怒りのまま怒鳴り散らしてしまいそうだったから。
「あ、はは…やっぱ、聞いちゃってたんだ」
シラを切るわけでもなく、諦めたように苗木君が笑う。
それは、ここ数日見ることのなかった、吹っ切れたような笑みだった。
「盗み聞きなんて、人が悪「質問に答えなさい」
有無を言わさずに、詰め寄る。
「学園長室で、あなたたちはそう言っていたわ」
「そうだね」
「っ…学校を辞めて、何がしたいのか知らないけれど…」
相変わらず彼は、気の抜けたような笑みを浮かべていた。
まるで、恥ずかしい秘密がばれてしまった、とでも言わんばかりに。
私は溜息も苛立ちも隠さず、バサバサと髪を掻き上げた。
血が上って熱くなった頭を、少し冷やしたかった。
「…最近元気が無かったことと、関係があるのね?」
「どうかな」
「とにかく、話して。あなたが学校を辞めようと思っている理由を」
「…」
「それも教えられずに辞められるなんて、納得できないわ」
ふ、と。
苗木君の瞳が、それまでと違った色を宿した。
「言わなきゃダメ?」
「ふざけない、で――」
その目に射抜かれて、居竦む。
いつも私を見ている、柔らかい目じゃなかった。
まるで虚空を見ているような。
なんで?
なんでそんな目で見るの…?
そこまで私があなたに、何か酷いこと――
ハッとする。
ついさっき、不二咲さんに言われたことを、こうも簡単に失念してしまっていた。
そうだ、『超高校級の幸運』の中退の理由じゃないか。
他のクラスメイトとの壁。
劣等感とプレッシャー。
「あ…」
気付いた時には、もう遅かった。
自分の無神経さを悔いても。
「あんまり、言いたくないんだけどさ」
言葉を失う。
今この瞬間にも、彼は私に対して鬱屈とした感情を抱いているのかもしれないというのに。
どんな気持ちで、さっきまでの私の無神経な罵倒を受け止めていたんだろう。
私が気付いたということに、苗木君も気づいていた。
「うーん、なんていうかさ…僕にもよくわからないんだ」
いつもの調子で、苗木君は話し始める。
「最初は、こんなすごい人たちと一緒の高校に通えるなんて、って興奮してたんだけどね」
そこには、重さも、切なさも、険しさもない。
軽く、明るく、柔らかく。
いつもの、苗木君の話調子だった。
「ホントに最初は気にしてなかったんだけどさ…みんな、すごいじゃん」
曖昧な言葉で、ぼかされる。
『みんな、すごいじゃん』。
その一言に、どれだけの悔しさや苦しみが集約されているのか、私は知ることができない。
だって、だって私は。
「霧切さんも、さ。すごいじゃん。僕に出来ないこと、何でも出来るよね。
外国語も話せるし、運動神経もいいし…身長だって、僕よりも高い」
彼が引いた境界線の、向こう側にいるんだから。
「あ、誤解しないでね。まだ退学するって決めたわけじゃないんだ」
「…」
「ただ、そういう選択肢もあるんだな、って思って」
「そういう、選択肢…?」
「うん。こんな身の丈に合わない学校じゃなくて、普通の高校生として、普通の学校生活を送ってみたりさ」
それだと、退学じゃなくて転校になるのかな、と、彼は笑って付け足す。
私は笑えなかった。
どうであれ、彼がこの学校からいなくなってしまうことに、代わりはない。
「だ、ダメよ…」
そんな、どうしようもない言葉しか出てこなかった。
いつものように、論理的に彼を説得できない。
ダメって何だ。
決めるのは、私じゃなくて苗木君だ。
辛かったのは、私じゃなくて苗木君だ。
「…転校は、おススメしないわ」
「どうして?」
「…あなたの顔と名前は、希望ヶ峰学園のまとめサイトで晒されてしまっているんだから…
転校なんてすれば、その先で好奇の目で見られるだろうし、絶対に苛められるわ」
最悪。
希望ヶ峰学園に残るメリットではなく、希望ヶ峰学園を去るデメリットを押し付ける。
それは、逃げ道を潰して彼を追い詰める、酷い手口だった。
「それでも、いいよ」
「よくない!」
思わず叫んでしまう。
もう全然論理的じゃない。
苗木君が納得できるような言葉を、並べる余裕すらない。
ついさっき彼が挙げてくれた長所なんて、なんの役にも立たなかった。
「それでもいいんだ。今よりは」
「っ…」
彼といると、いつも自分の無力さを思い知らされる。
苗木君は、思い通りにならない。
心を許す前に、どんどん近付いてきて。
勇気を出して歩み寄ったと思ったら、ずっとずっと遠くにいる。
「わかんないよ、霧切さんには」
もう彼は、笑顔の仮面を外していた。
初めて素の表情を見た気がした。
無表情で言い放ったその事実は、
私が一番聞きたくなかった言葉だった。
「わかってくれるのは、学園長くらいだ」
言葉が私を突き放す。
こっちに来るな。
境界線を跨いで来るな。
君にはわからない。
こっちの苦労は分からない。
そう言われているようだった。
「あなただって…」
退きそうになるのを、必死で踏ん張ってこらえる。
「あなただってわからないでしょ…!」
下を向いたまま、逃げたまま。
「あなたが私たちにとって、どれほど――」
大切な存在か。
――――――――――――――――――
「あなたが私たちにとって、どれほど――」
そこまで言って、霧切さんは黙ってしまった。
霧切さんは、表情が乏しい。
本人いわく、喜怒哀楽は人並に感じているけど、それを表に出さないようにしているだけだという。
その霧切さんが。
これほどまで辛そうな顔をしているのを、僕は初めて見た。
眉をひそめ、何かに耐えるように唇は真一文字。
手は力を込めて握られたまま。
僕のために、悩んでくれているのだろうか。
僕のせいで、悩んでしまっているのだろうか。
思い上がりもはなはだしいけれど、そう思うと罪悪感に駆られる。
ああ、もしかしたら霧切さんは。
僕が転校すると決めたら、悲しんでくれるのかな。
――――――――――――――――――
「…あのさ、霧切さん」
そう呟いた彼は、またあの落ち着いた笑みを取り戻していた。
「霧切さんがそう言ってくれるのは、すごく嬉しいよ」
「…」
「僕も、本気で転校しようって言ってるわけじゃないから」
「…」
虚ろな声。
そんな声で言われたら、本当に信じられなくなる。
本当に、彼はいつか突然、私たちの前から姿を消してしまうんじゃないか。
別れは、どうせいつかは来る。
仮に本当に彼が転校をしないとしても、卒業すれば私たちは離れ離れになってしまう。
あと何回、彼と共にあの廊下を帰れるんだろうか。
くだらない談笑と突っ込み合いに、心地よい平凡に、身を委ねて。
「僕、先に帰るね」
「…」
苗木君が背中を向ける。
私の眼には、その背中がとても遠くに映った。
「…かないで」
「ん?」
私は、
苗木君の背中を、抱きしめていた。
「行かないで…!!」
「え、ちょ…」
体当たりのようにして抱きついたのに、彼の体は揺らぐことなく私を受け止めてしまった。
苗木君が驚いて声をあげるのも構わずに、きつく、きつく、彼の背中を抱きしめた。
離せば、どこかに行ってしまう。
本気でそう思った。
「お願い、行ってはダメ…っ、置いていかないで…!!」
鼻の奥がツンとする。
彼が去ってしまった後の学校を思い浮かべたせいだ。
ああ、もう。
17歳にもなって、人前でこんな醜態をさらすなんて。
情けない。
せめて、と、嗚咽だけは噛み殺す。
困っている時に、相談に乗る資格も。
学校を辞めると言われて、それを止める力も。
どちらも私は持っていなかった。
…いや、違った。
そんな押しつけがましい理由が本音なんじゃない。
彼のためじゃなく、他の誰でもない私のために。
私は彼に、この学校に残って欲しいんだ。
「…あなたは、私たちのことなんて…どうも思っていないかもしれないけれど…
…あなたにとって私たちは、鬱陶しい存在なのかもしれないけれど…」
彼の背中は、見た目より大きい。
その背中に、顔を押し付ける。
黒く濡れた線が、制服に伸びた。
私はみっともない鼻声で、彼の背中に語り続ける。
「私は…私たちは、あなたがいなくなったら…すごく、寂しい」
それは、どうしようもない自分の都合。
ぼそぼそと呟いた声はとても小さくて、彼に届いたかどうかも定かじゃない。
でももう、得意の建前は彼には通用しないから。
自分を守るためにガチガチに理論武装で固めようとしても、彼の前じゃ裸に等しいから。
――――――――――――――――――
「私は…私たちは、あなたがいなくなったら…すごく、寂しい」
思い上がりかもしれないけど。
その言葉は、初めて聞いた霧切さんの本音だと思った。
きつく、抱きしめられる。少し苦しいくらいに。
誰かにこんなに強く抱きしめられたことなんて、なかったかもしれない。
――――――――――――――――――
私はそのまま、長い間彼を抱きしめていた。
最初は抱きしめるというより、しがみつくという感じだったけれど。
彼は文句も言わず、抵抗もせず、ただ大人しく抱きつかれてくれたので。
ああ、本当に、まだどこにもいかないんだ。
そう思うと、落ち着いた。
彼の背中は見かけよりもずっと大きくて、温かくて。
ふと、幼い頃、父に背負われていた記憶を思い出す。
あの頃の私は泣き虫で、泣き叫ぶ私を、父はこうして背負ってあやしていた。
落ち着く。
「霧切さん…」
しばらくして。
沈黙を破る様に、彼が尋ねる。
「…何」
背中を抱きしめて、数分が経過。
彼の声の調子も、普段通りに戻っていた。
「えっと…もしかして泣いてた?」
当然そこまで時間が経てば、さっきまで興奮していた私も、だんだん素に戻ってくる。
自分の好意をふと思いだして、顔が火照る。
恥ずかしい。
抱きついていることも恥ずかしいけど、離してしまうのも恥ずかしい。
「…泣いてない」
「でも、なんか背中が濡れt」
「うるさい。泣いてない」
「はい…」
抗議するように背中をきつく抱きしめてやると、彼は大人しくなった。
背中をとって正解だ。
正面だったら、顔を見られて言い訳は出来なかった。
――――――――――――――――――
さて、どうしよう。
霧切さんの腕は、僕の前でがっしりと組まれている。
まずはこの体勢から抜け出さなきゃ。
ひとまず、それからだ。
お礼を言うのも。
謝るのも。
仲直りするのも。
まだ決めたわけじゃない。
僕は宙にぶら下がったまま、ふらふらしている。
他の学校への期待や希望は、相変わらずある。
明日以降も、学園長室で詳しい話を聞いてみようと思う。
安易に彼女を安心させる言葉は、今はまだ口には出来ない。
彼女の腕に包まれているこの安心感が、ずっと続くわけじゃないんだ。
もしかしたら、明日にはまた心変りして、学校へ通い続けることを苦痛に感じているかもしれない。
それでも。
彼女は、僕がいなくなったら寂しいと、そう言ってくれた。
それは、この学校に留まり続けるための、一つの理由になったから。
それも含めて、彼女にちゃんと伝えるために。
まずは、抜け出さなければいけない。
たぶん離してと直接言っても、彼女は話してくれないだろう。
策は一応、あるにはある。
あるにはあるが。
僕自身の無事を保障しない上に、このムードもぶち壊しだ。
けれど、言わなきゃ。
けっしてそれを伝えた後の彼女の反応が見たいとか、そういう理由じゃない。
「霧切さん」
「…うん」
背中から、くぐもった声がする。
「…その…柔らかいのが…当たってるん、だけ、ど…」
「うん……は?」
「…き、着やせするタイプなんだね、はは、は……」
「…」
ゴーン、と。
「あぐっ!!!」
床と僕の頭が、ドラムとスティックの要領で愉快な音を立てる。
一瞬遅れてきた重い痛みに、僕は地面をのた打ち回った。
「う、う゛ぁああ…うぁあああぉお…」
何をどうやったか分からないけど、おそらく以前話していた護身術の類なんだと思う。
膝の裏側を押されて、肩を掴まれて後ろ向きに引きずり倒された僕は、
ろくに受け身も取れずに、頭を思いっ切り硬い床に打ちつけられた。
視界がバチバチと暗く光る。
見れば、いつも通りの迫力を感じさせる無表情の霧切さんが、
虫でも見るような目つきで僕を見下ろしていた。
「…人が真剣に、心配している時に…そう、そうね。そういう人だったわね、あなたは」
「そ、それは違「言い訳無用」
ドス、と、鳩尾に膝が降ってくる。
「ぐふぅっ…!お、おも、」
「おも?おも、って何かしら?重いとか?」
「ま、まさか!全然!っお、おも…くないです…あ゛ぁあああ!!重く、ないから、どいてぇええ…!」
「おかしなことを言うのね。重くないならどかなくていいでしょう?」
「…あ、れ、霧切さん」
「何?弁解?」
「いや…」
「言いなさい。言いたいことがあるなら言うと、約束したでしょう」
「目が赤いっていうか、ほっぺたに涙の跡があr はぁあ゛ぁあああぅ!!」
「なんだ…喧嘩を売っているなら、初めからそう言えばいいのに…」
「ごべんなざい、ぐ、ふぅうう…」
理不尽にも、鳩尾の上の膝に全体重を掛けられる。
だって、言えって言われたから言ったのに。
ああ、このやり取り、前にもあったな、と。
次第に遠くなっていく意識の中で、僕はそんなことを思った。
――――――――――――――――――
忘れてた。彼はこういう人だった。
こっちが真剣な時ほど、ふざけるんだ。
和ませようとしてくれているのか何なのかは分からないけれど。
そんなセクハラじみたスキンシップをされても、素直に喜べるほど私は人間が出来ていない。
彼の胸の上で正座すると、どんどん苗木君の顔が紫色になっていった。
いい気味だ。
人がせっかく、いい気分で抱きついていたのに。台無しにして。
馬鹿。
「ほら、女子と触れあえて嬉しいでしょう?この変態」
「あ、はは……こんな攻撃的な触れ合いは、ちょっ、と…」
「これくらいで許してあげるのよ。ありがたく思いなさい」
「わ、わーい…ふぐぅぇええ…」
私にとって苗木君は、これほどまでにかけがえのない存在なのに。
彼にとって私は、学校生活とともに、簡単に切り捨てられる存在のようだ。
それが悔しくて。
私は彼に攻撃する。
彼に対して、何が出来るだろうか。
境界線の向こう側にいる私から。
彼に留まってもらうために。
他でもない自分のために。
「…」
「…?」
す、と何気なく彼の上から降りる。
彼は、またいつもの気の抜けた笑みに戻っていた。
「…あれ、もう許してくれるの?」
「何?もっとやってほしいの?」
「…まあ、殴ってくれた方が、気は楽かな」
「…マゾね」
「霧切さんはサドだよね」
「そうかもね」
相手をあなたに限定して言えば、そんなことはないんだけど。
なんて、口が裂けても言えるはずもなく。
「…あなたは私のことを責めないのね」
「ん?何か言った?」
聞こえているくせに。
「なんでもないわ」
責められた方が気持ちが楽。
その言い分は、痛いほどわかった。
だけど私たちは、お互いを責めない。
自分にそんな資格がないと、わかっているからだろう。
「まあ、でも、そうね。殴られた方が気が楽だというのなら、絶対に殴ってあげないわ」
「あはは、それは…困ったな」
「困りなさい。そして一生後悔しなさい」
「セクハラのこと?」
「それも含めて、よ」
す、と彼の手が伸びて、私の手を掴む。
少し驚いたけど、私もその手を、そっと握り返した。
「…さ、帰りましょう、苗木君」
[[エピローグへ>超高校級の平凡(エピローグ)]]
----
不二咲さんを慰めて部屋まで送り、部屋に荷物だけ置いて、私はそのまま玄関へ向かう。
二枚の皿と、少し高いペット用の缶詰を持って。
「餌の時間よ、マコ」
わん!
玄関を出てそう呟くと、鎖を鳴らして白い影が飛び込んでくる。
走ってきたその犬は、私に飛びかかってくるんじゃないかというくらいの勢いで突っ込んできたが、
すんでのところで鎖が伸び切り、首輪に引っ張られて引き戻され、きゅう、と情けない声をあげた。
それでも余程餌を待ち焦がれているのか、自分の首が締まるのも構わず、
ずるずると地面をひっかいてこちらに来ようとしている。
けれど、
「待て」
私がそう言うと、即座に数歩下がってその場に腰を下ろした。
「ホント、馬鹿なんだか素直なんだか、わからないわね…」
苗木君が言うには、マコは私に一番懐いているらしい。
こうやって躾を覚えさせたのは苗木君なのに、100%で言うことを聞くのは私の方だそうだ。
『僕が拾って来たのになぁ』
声の調子と対照的に、彼の顔は全然悔しくなさそうだった。
二、三週間前までは、ああやって屈託なく笑っていたのに。
二枚の皿に、餌と水をそれぞれ入れて目の前に置く。
「食べていいわよ」
そう合図すると同時に、マコは皿に顔を突っ込んだ。
尻尾が勢いよくブンブンと振られているのを見て、微笑ましい気持ちになる。
そっと、背中を撫でる。
マコはこちらを一瞥して、それからまた餌に視線を戻した。
尻尾が一段と激しく振られている。
「これくらいわかりやすければ、苦労はしないんだけど…」
「誰が?」
「――っ!!?」
あまりに突然だったので、私は思わず立ち上がってしまった。
誰もいないと思って口にした独り言に、返事が返ってきた。
「戦刃、さん…」
少し後ろの柱に、彼女は背を預けて立っていた。
相変わらず眠そうな目で、ぼんやりとこちらを見ている。
「いつから、そこに?」
まだ悲鳴をあげている心臓をなだめすかして、私は尋ねた。
「『マコ、餌の時間よ』から」
「つまり、最初からね…」
ふう、と、溜め息が出た。
後ろに立たれていることにも気がつけなかったなんて、少しショックだ。
「今日の餌当番…私もなんだけど」
「あ…」
「声をかけてくれなかったから…行った方がいいのかわからなくて」
あまりにもテンションが低いので、何を考えているのか分からない。
「私は邪魔…?そうなら、戻るけれど」
「そ、そんなことないわ」
「…なら、いい」
戦刃さんは私の隣まで来て、その場にしゃがんだ。
マコは彼女に気が付いたのか、また顔をあげると、
わん!
と、高い声で鳴いて、じっと見つめている。
不思議な人だ。
「…最近、クラスが暗い」
あなたがそれを言うか。
「どう思う?」
「え?」
「クラスが…」
理解するまでに、数秒。
なるほど。
彼女なりに、世間話をしようと気遣ってくれているんだ。
私としては何も喋らないままでも、それはそれで落ち着くからいいんだけど。
「…そうね。まるでお葬式を見ている気分ね」
「苗木」
「苗木君が?」
「あいつが元気が無いから、みんな暗いんじゃないかなって。霧切は、何か知らない?」
「…なぜ、それを私に聞くのかしら」
「別に。気づいていないなら、いい」
気づくって、何に?
何であなたは、そんなに苗木君のことを分かったように言うの?
もやっとする。
そうして、次の言葉を紡ごうとした瞬間。
「さっきも学園長室に呼ばれていたし」
そんな彼女の言葉に、私の言葉は掻き消された。
「…今度はそういう言い訳を使ってきたのね」
「言い訳?」
「彼、最近クラスメイトと距離を置いているみたいで…ウソの用事をでっちあげているのよ」
私のその言葉に、戦刃さんは目を丸くした。
そして、
「私は、実際に苗木が学園長室に入って行くのを見ただけだけど」
そう、教えてくれた。
ぐらり、と、目の前の風景が歪む。
苗木君があの人に?
何の用事で?
やつれた苗木君の姿が頭に浮かんだ。
何を話しかけても生返事で、クラスメイトを避けていて――
『苗木君、学校辞めたりしないよね…?』
不二咲さんとの会話を思い出す。
ドクン。
心臓から冷たい血が、全身に押し出される。
「…戦刃さん」
「いいよ」
「…」
「行ってきても。マコの世話は、私がやっておく」
「ありがとう、色々と」
「そっちのマコは、任せるから」
きっと冗談のつもりだったんだろう。
戦刃さんは穏やかにほほ笑んだ。
こんな笑顔も出来るのか、と、口には出さずに呟いて。
私は彼女に背を向け、走り出した。
「…まあ、人間よりも犬を世話する方が楽だからな」
後ろで何か独りごちていたが、耳には入ってこなかった。
足取りは、早歩き。次第に大股、駆け足、一段飛ばし。
廊下をまさかの全力疾走。
どこぞの風紀委員に見つかれば、ただじゃ済まないだろう。
でも、今はそんなことを気にしている余裕はない。
嫌な予感とか、虫の知らせとか、そんな陳腐な言葉で飾るにはあまりに揃いすぎていた。
まるで舞台劇のように、あらかじめ用意されていたみたいに。
フラグ、というやつだろうか。
そして、息を切らせながら、
この学校の中で一番開けたくなかった扉を、私は目の前にしている。
扉の向こうにいるのは、かつて私を、母を、霧切の名を捨てたロクデナシ。
そこには原稿用紙を何枚渡されても書き記せないほどの恨み辛みがある。が、今は省略。
それよりも大事な事が、今はある。
そっと壁に近づいて、耳をそばだてた。
幼い頃に聞きなれた父の声と、それとは別にまたよく聞きなれた中性的な声とが聞こえる。
「自主的な中途退学のためには、君本人と保護者の――」
ああ、ダメだ。
当たって欲しくない予感ほど、当たってしまう。
まるでパズルのピースが、一つ一つ嵌まっていくようにして。
私の頭の中で、結論付けられた。
苗木君は、学校を辞めようとしている。
――どうして…!
その『どうして』は、
どうして辞めてしまうの、という純粋な疑問だったかもしれない。
どうして私には相談してくれなかったの、という理不尽な憤りだったかもしれない。
とにかく、次の瞬間。
私はこの世で一番開けたくなかった扉を、殴る様にして開けていた。
――――――――――――――――――
「これは苗木君個人の問題だ。関係のない君が口をはさむべきじゃない」
霧切さんと学園長の間にある確執は、なんとなく知っていた。
本人たちの口から直接聞いたわけじゃないけれど、学園長もそんなことを匂わせていたし。
それに、まとめサイトにも似たような噂はあったから。
霧切さんも余程毛嫌いしているらしくて、普段は視界にも入れたくないとまで言っていた記憶がある。
その、霧切さんが。
「関係あります。彼は私の大切なクラスメイトです」
感情をむき出しにして、学園長に噛みついていた。
学園長は、寂しそうに、そして満足そうに微笑を浮かべているだけだった。
生徒と教師という関係でも、例え憎まれていても、彼女と触れあえる嬉しさを噛みしめているようだった。
そして、それとはまた別の問題だけど。
どうやら、霧切さんにも聞かれてしまったみたいだ。
別にどうしても退学したいってわけじゃなかった。
そう、本当に、こんなに騒ぎ立てるような問題じゃないんだ。
ただ、居心地が悪かったから。
他の学校のことも気になったから。
『超高校級の幸運』の中退率を知って、なんとなく。
理由ならいくらでも挙げられた。
40%超。
約半分だ。
半分の『超高校級の幸運』が、この学校を中退している。
その数字を見て、どことなく安心してしまった自分がいた。
僕だけじゃなかった。
居心地の悪さを感じているのは。
そんな、会ったこともない相手に対する、漠然とした仲間意識。
本気で退学しようと思ったわけじゃない。
ただ、聞いておきたかった。
退学や転校のための手続きとか、過去に退学していった『超高校級の希望』の話とか。
「とにかく、苗木君は連れて行きます」
「許可できない」
「話をするだけです」
「では、ここですればいいだろう」
「あなたに…学園長には、聞かれたくないので」
「それならやっぱり容認できないな。苗木君を脅して、退学を思い留まらせる魂胆かもしれないだろう」
僕の腕を握る霧切さんの手に、一層と力が入る。
だんだん手が痺れてきた。
どちらにせよこのままじゃ、らちが明かないだろう。
「あの」
僕は握られている方とは反対の手を挙げて、学園長に向けて言った。
「僕は構いません」
「…」「…」
二つのよく似た視線が、僕の方を向く。
「今日は話が聞きたかっただけですし…また別の日に、改めて伺います」
僕がそう言うと、存外にも学園長は簡単に折れてしまった。
「そうか…わかった」
霧切さんは、僕をじっと見ていた。
力は少し弱まったけれど、まだ腕を握られたままだった。
「すみません」
「いや、いいよ。また来てくれ…まあ、来ない方がいいんだけどな」
霧切さんが僕の腕を引っ張る。
さっさとこの部屋を出る、という合図のようだ。
僕は引きずられるようにして立ち上がり、学園長に会釈をした。
「失礼しました」
閉まる扉の向こうで、学園長は全てを見越したような穏やかな笑みを浮かべていた。
――――――――――――――――――
驚くほど冷静に、私は怒りに震えていた。
学園長室であの人と会話してしまったというのもあるが、今はそれよりも。
「霧切さん、痛い…」
引きずっている彼のことで、頭がいっぱいだった。
彼が言っているのは、私が握っている腕のことだろう。
たぶん痛いはずだ。
力を抑える気もなかったから。
思いっ切り怒鳴り散らしてやりたかった。
また殴ってやるのもいいかもしれない。
でも、それは違う。
それは私の憂さを晴らすだけで、根本的な解決にはならない。
階段の踊り場まで引き連れてから、私は彼を壁にたたきつけるようにして開放した。
彼は別段逃げ出すこともなく…というか、そのつもりなら学園長室であんなこと言わないだろうけど。
とにかく壁を背にして、私に向き直った。
余程痛かったのか、私が掴んでいた腕を擦っている。
「退学って、どういうこと…?」
努めて声に表情を乗せないようにする。
気を抜けば、「馬鹿じゃないの!?」と、怒りのまま怒鳴り散らしてしまいそうだったから。
「あ、はは…やっぱ、聞いちゃってたんだ」
シラを切るわけでもなく、諦めたように苗木君が笑う。
それは、ここ数日見ることのなかった、吹っ切れたような笑みだった。
「盗み聞きなんて、人が悪「質問に答えなさい」
有無を言わさずに、詰め寄る。
「学園長室で、あなたたちはそう言っていたわ」
「そうだね」
「っ…学校を辞めて、何がしたいのか知らないけれど…」
相変わらず彼は、気の抜けたような笑みを浮かべていた。
まるで、恥ずかしい秘密がばれてしまった、とでも言わんばかりに。
私は溜息も苛立ちも隠さず、バサバサと髪を掻き上げた。
血が上って熱くなった頭を、少し冷やしたかった。
「…最近元気が無かったことと、関係があるのね?」
「どうかな」
「とにかく、話して。あなたが学校を辞めようと思っている理由を」
「…」
「それも教えられずに辞められるなんて、納得できないわ」
ふ、と。
苗木君の瞳が、それまでと違った色を宿した。
「言わなきゃダメ?」
「ふざけない、で――」
その目に射抜かれて、居竦む。
いつも私を見ている、柔らかい目じゃなかった。
まるで虚空を見ているような。
なんで?
なんでそんな目で見るの…?
そこまで私があなたに、何か酷いこと――
ハッとする。
ついさっき、不二咲さんに言われたことを、こうも簡単に失念してしまっていた。
そうだ、『超高校級の幸運』の中退の理由じゃないか。
他のクラスメイトとの壁。
劣等感とプレッシャー。
「あ…」
気付いた時には、もう遅かった。
自分の無神経さを悔いても。
「あんまり、言いたくないんだけどさ」
言葉を失う。
今この瞬間にも、彼は私に対して鬱屈とした感情を抱いているのかもしれないというのに。
どんな気持ちで、さっきまでの私の無神経な罵倒を受け止めていたんだろう。
私が気付いたということに、苗木君も気づいていた。
「うーん、なんていうかさ…僕にもよくわからないんだ」
いつもの調子で、苗木君は話し始める。
「最初は、こんなすごい人たちと一緒の高校に通えるなんて、って興奮してたんだけどね」
そこには、重さも、切なさも、険しさもない。
軽く、明るく、柔らかく。
いつもの、苗木君の話調子だった。
「ホントに最初は気にしてなかったんだけどさ…みんな、すごいじゃん」
曖昧な言葉で、ぼかされる。
『みんな、すごいじゃん』。
その一言に、どれだけの悔しさや苦しみが集約されているのか、私は知ることができない。
だって、だって私は。
「霧切さんも、さ。すごいじゃん。僕に出来ないこと、何でも出来るよね。
外国語も話せるし、運動神経もいいし…身長だって、僕よりも高い」
彼が引いた境界線の、向こう側にいるんだから。
「あ、誤解しないでね。まだ退学するって決めたわけじゃないんだ」
「…」
「ただ、そういう選択肢もあるんだな、って思って」
「そういう、選択肢…?」
「うん。こんな身の丈に合わない学校じゃなくて、普通の高校生として、普通の学校生活を送ってみたりさ」
それだと、退学じゃなくて転校になるのかな、と、彼は笑って付け足す。
私は笑えなかった。
どうであれ、彼がこの学校からいなくなってしまうことに、代わりはない。
「だ、ダメよ…」
そんな、どうしようもない言葉しか出てこなかった。
いつものように、論理的に彼を説得できない。
ダメって何だ。
決めるのは、私じゃなくて苗木君だ。
辛かったのは、私じゃなくて苗木君だ。
「…転校は、おススメしないわ」
「どうして?」
「…あなたの顔と名前は、希望ヶ峰学園のまとめサイトで晒されてしまっているんだから…
転校なんてすれば、その先で好奇の目で見られるだろうし、絶対に苛められるわ」
最悪。
希望ヶ峰学園に残るメリットではなく、希望ヶ峰学園を去るデメリットを押し付ける。
それは、逃げ道を潰して彼を追い詰める、酷い手口だった。
「それでも、いいよ」
「よくない!」
思わず叫んでしまう。
もう全然論理的じゃない。
苗木君が納得できるような言葉を、並べる余裕すらない。
ついさっき彼が挙げてくれた長所なんて、なんの役にも立たなかった。
「それでもいいんだ。今よりは」
「っ…」
彼といると、いつも自分の無力さを思い知らされる。
苗木君は、思い通りにならない。
心を許す前に、どんどん近付いてきて。
勇気を出して歩み寄ったと思ったら、ずっとずっと遠くにいる。
「わかんないよ、霧切さんには」
もう彼は、笑顔の仮面を外していた。
初めて素の表情を見た気がした。
無表情で言い放ったその事実は、
私が一番聞きたくなかった言葉だった。
「わかってくれるのは、学園長くらいだ」
言葉が私を突き放す。
こっちに来るな。
境界線を跨いで来るな。
君にはわからない。
こっちの苦労は分からない。
そう言われているようだった。
「あなただって…」
退きそうになるのを、必死で踏ん張ってこらえる。
「あなただってわからないでしょ…!」
下を向いたまま、逃げたまま。
「あなたが私たちにとって、どれほど――」
大切な存在か。
――――――――――――――――――
「あなたが私たちにとって、どれほど――」
そこまで言って、霧切さんは黙ってしまった。
霧切さんは、表情が乏しい。
本人いわく、喜怒哀楽は人並に感じているけど、それを表に出さないようにしているだけだという。
その霧切さんが。
これほどまで辛そうな顔をしているのを、僕は初めて見た。
眉をひそめ、何かに耐えるように唇は真一文字。
手は力を込めて握られたまま。
僕のために、悩んでくれているのだろうか。
僕のせいで、悩んでしまっているのだろうか。
思い上がりもはなはだしいけれど、そう思うと罪悪感に駆られる。
ああ、もしかしたら霧切さんは。
僕が転校すると決めたら、悲しんでくれるのかな。
――――――――――――――――――
「…あのさ、霧切さん」
そう呟いた彼は、またあの落ち着いた笑みを取り戻していた。
「霧切さんがそう言ってくれるのは、すごく嬉しいよ」
「…」
「僕も、本気で転校しようって言ってるわけじゃないから」
「…」
虚ろな声。
そんな声で言われたら、本当に信じられなくなる。
本当に、彼はいつか突然、私たちの前から姿を消してしまうんじゃないか。
別れは、どうせいつかは来る。
仮に本当に彼が転校をしないとしても、卒業すれば私たちは離れ離れになってしまう。
あと何回、彼と共にあの廊下を帰れるんだろうか。
くだらない談笑と突っ込み合いに、心地よい平凡に、身を委ねて。
「僕、先に帰るね」
「…」
苗木君が背中を向ける。
私の眼には、その背中がとても遠くに映った。
「…かないで」
「ん?」
私は、
苗木君の背中を、抱きしめていた。
「行かないで…!!」
「え、ちょ…」
体当たりのようにして抱きついたのに、彼の体は揺らぐことなく私を受け止めてしまった。
苗木君が驚いて声をあげるのも構わずに、きつく、きつく、彼の背中を抱きしめた。
離せば、どこかに行ってしまう。
本気でそう思った。
「お願い、行ってはダメ…っ、置いていかないで…!!」
鼻の奥がツンとする。
彼が去ってしまった後の学校を思い浮かべたせいだ。
ああ、もう。
17歳にもなって、人前でこんな醜態をさらすなんて。
情けない。
せめて、と、嗚咽だけは噛み殺す。
困っている時に、相談に乗る資格も。
学校を辞めると言われて、それを止める力も。
どちらも私は持っていなかった。
…いや、違った。
そんな押しつけがましい理由が本音なんじゃない。
彼のためじゃなく、他の誰でもない私のために。
私は彼に、この学校に残って欲しいんだ。
「…あなたは、私たちのことなんて…どうも思っていないかもしれないけれど…
…あなたにとって私たちは、鬱陶しい存在なのかもしれないけれど…」
彼の背中は、見た目より大きい。
その背中に、顔を押し付ける。
黒く濡れた線が、制服に伸びた。
私はみっともない鼻声で、彼の背中に語り続ける。
「私は…私たちは、あなたがいなくなったら…すごく、寂しい」
それは、どうしようもない自分の都合。
ぼそぼそと呟いた声はとても小さくて、彼に届いたかどうかも定かじゃない。
でももう、得意の建前は彼には通用しないから。
自分を守るためにガチガチに理論武装で固めようとしても、彼の前じゃ裸に等しいから。
――――――――――――――――――
「私は…私たちは、あなたがいなくなったら…すごく、寂しい」
思い上がりかもしれないけど。
その言葉は、初めて聞いた霧切さんの本音だと思った。
きつく、抱きしめられる。少し苦しいくらいに。
誰かにこんなに強く抱きしめられたことなんて、なかったかもしれない。
――――――――――――――――――
私はそのまま、長い間彼を抱きしめていた。
最初は抱きしめるというより、しがみつくという感じだったけれど。
彼は文句も言わず、抵抗もせず、ただ大人しく抱きつかれてくれたので。
ああ、本当に、まだどこにもいかないんだ。
そう思うと、落ち着いた。
彼の背中は見かけよりもずっと大きくて、温かくて。
ふと、幼い頃、父に背負われていた記憶を思い出す。
あの頃の私は泣き虫で、泣き叫ぶ私を、父はこうして背負ってあやしていた。
落ち着く。
「霧切さん…」
しばらくして。
沈黙を破る様に、彼が尋ねる。
「…何」
背中を抱きしめて、数分が経過。
彼の声の調子も、普段通りに戻っていた。
「えっと…もしかして泣いてた?」
当然そこまで時間が経てば、さっきまで興奮していた私も、だんだん素に戻ってくる。
自分の好意をふと思いだして、顔が火照る。
恥ずかしい。
抱きついていることも恥ずかしいけど、離してしまうのも恥ずかしい。
「…泣いてない」
「でも、なんか背中が濡れt」
「うるさい。泣いてない」
「はい…」
抗議するように背中をきつく抱きしめてやると、彼は大人しくなった。
背中をとって正解だ。
正面だったら、顔を見られて言い訳は出来なかった。
――――――――――――――――――
さて、どうしよう。
霧切さんの腕は、僕の前でがっしりと組まれている。
まずはこの体勢から抜け出さなきゃ。
ひとまず、それからだ。
お礼を言うのも。
謝るのも。
仲直りするのも。
まだ決めたわけじゃない。
僕は宙にぶら下がったまま、ふらふらしている。
他の学校への期待や希望は、相変わらずある。
明日以降も、学園長室で詳しい話を聞いてみようと思う。
安易に彼女を安心させる言葉は、今はまだ口には出来ない。
彼女の腕に包まれているこの安心感が、ずっと続くわけじゃないんだ。
もしかしたら、明日にはまた心変りして、学校へ通い続けることを苦痛に感じているかもしれない。
それでも。
彼女は、僕がいなくなったら寂しいと、そう言ってくれた。
それは、この学校に留まり続けるための、一つの理由になったから。
それも含めて、彼女にちゃんと伝えるために。
まずは、抜け出さなければいけない。
たぶん離してと直接言っても、彼女は話してくれないだろう。
策は一応、あるにはある。
あるにはあるが。
僕自身の無事を保障しない上に、このムードもぶち壊しだ。
けれど、言わなきゃ。
けっしてそれを伝えた後の彼女の反応が見たいとか、そういう理由じゃない。
「霧切さん」
「…うん」
背中から、くぐもった声がする。
「…その…柔らかいのが…当たってるん、だけ、ど…」
「うん……は?」
「…き、着やせするタイプなんだね、はは、は……」
「…」
ゴーン、と。
「あぐっ!!!」
床と僕の頭が、ドラムとスティックの要領で愉快な音を立てる。
一瞬遅れてきた重い痛みに、僕は地面をのた打ち回った。
「う、う゛ぁああ…うぁあああぉお…」
何をどうやったか分からないけど、おそらく以前話していた護身術の類なんだと思う。
膝の裏側を押されて、肩を掴まれて後ろ向きに引きずり倒された僕は、
ろくに受け身も取れずに、頭を思いっ切り硬い床に打ちつけられた。
視界がバチバチと暗く光る。
見れば、いつも通りの迫力を感じさせる無表情の霧切さんが、
虫でも見るような目つきで僕を見下ろしていた。
「…人が真剣に、心配している時に…そう、そうね。そういう人だったわね、あなたは」
「そ、それは違「言い訳無用」
ドス、と、鳩尾に膝が降ってくる。
「ぐふぅっ…!お、おも、」
「おも?おも、って何かしら?重いとか?」
「ま、まさか!全然!っお、おも…くないです…あ゛ぁあああ!!重く、ないから、どいてぇええ…!」
「おかしなことを言うのね。重くないならどかなくていいでしょう?」
「…あ、れ、霧切さん」
「何?弁解?」
「いや…」
「言いなさい。言いたいことがあるなら言うと、約束したでしょう」
「目が赤いっていうか、ほっぺたに涙の跡があr はぁあ゛ぁあああぅ!!」
「なんだ…喧嘩を売っているなら、初めからそう言えばいいのに…」
「ごべんなざい、ぐ、ふぅうう…」
理不尽にも、鳩尾の上の膝に全体重を掛けられる。
だって、言えって言われたから言ったのに。
ああ、このやり取り、前にもあったな、と。
次第に遠くなっていく意識の中で、僕はそんなことを思った。
――――――――――――――――――
忘れてた。彼はこういう人だった。
こっちが真剣な時ほど、ふざけるんだ。
和ませようとしてくれているのか何なのかは分からないけれど。
そんなセクハラじみたスキンシップをされても、素直に喜べるほど私は人間が出来ていない。
彼の胸の上で正座すると、どんどん苗木君の顔が紫色になっていった。
いい気味だ。
人がせっかく、いい気分で抱きついていたのに。台無しにして。
馬鹿。
「ほら、女子と触れあえて嬉しいでしょう?この変態」
「あ、はは……こんな攻撃的な触れ合いは、ちょっ、と…」
「これくらいで許してあげるのよ。ありがたく思いなさい」
「わ、わーい…ふぐぅぇええ…」
私にとって苗木君は、これほどまでにかけがえのない存在なのに。
彼にとって私は、学校生活とともに、簡単に切り捨てられる存在のようだ。
それが悔しくて。
私は彼に攻撃する。
彼に対して、何が出来るだろうか。
境界線の向こう側にいる私から。
彼に留まってもらうために。
他でもない自分のために。
「…」
「…?」
す、と何気なく彼の上から降りる。
彼は、またいつもの気の抜けた笑みに戻っていた。
「…あれ、もう許してくれるの?」
「何?もっとやってほしいの?」
「…まあ、殴ってくれた方が、気は楽かな」
「…マゾね」
「霧切さんはサドだよね」
「そうかもね」
相手をあなたに限定して言えば、そんなことはないんだけど。
なんて、口が裂けても言えるはずもなく。
「…あなたは私のことを責めないのね」
「ん?何か言った?」
聞こえているくせに。
「なんでもないわ」
責められた方が気持ちが楽。
その言い分は、痛いほどわかった。
だけど私たちは、お互いを責めない。
自分にそんな資格がないと、わかっているからだろう。
「まあ、でも、そうね。殴られた方が気が楽だというのなら、絶対に殴ってあげないわ」
「あはは、それは…困ったな」
「困りなさい。そして一生後悔しなさい」
「セクハラのこと?」
「それも含めて、よ」
す、と彼の手が伸びて、私の手を掴む。
少し驚いたけど、私もその手を、そっと握り返した。
「…さ、帰りましょう、苗木君」
[[エピローグへ>超高校級の平凡(エピローグ)]]
----