7cm(前編1)

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 たったそれだけの距離を、僕達は踏み越せずにいる。 ――――――――――――――――――  弾丸論破 ナエギリSS 『7cm』 ―――――――――――――――――― 「あ、霧切さん、そのブーツ…」 「あら、気が付いてくれたのね」  教室の隅でかしましく話している女子の一団。  誉められた行為じゃないけれど、その話題は否が応でも僕の耳に届いてしまう。 「シックで大人っぽくて…よく似合ってますよ!」 「そ、そうかしら…」  舞園さんにブーツを誉められたことが嬉しいんだろう。  相変わらず表情は変わらないけれど、声の調子から判断して、機嫌はかなりよさそうだ。  僕はトイレに行くという口実で立ち上がり、すれ違いざまに恨めしい気持ちでそのブーツを睨んだ。  可愛くない。  霧切さんは可愛いけど、そのブーツは可愛くない。  なんて、くだらないことを考えて、前を見ずに教室をうろうろしていたから。 「わぷっ!?」 「ひゃっ…」  ふと目の前に現れた黒い壁に気づけず、僕はそれに突っ込んでしまった。  頭から降ってくる、聞き慣れた声の、聞き慣れない悲鳴。  ふわりと顔を包み込んだ、柔らかい二つの球。  見上げると、その恐ろしく柔らかい丘の向こうから、大きな青灰色の瞳が、パチクリと僕を見返していた。  その間、数秒。  その間というのは、ええと、つまり、  僕が江ノ島さんの胸に顔を埋めさせたまま、混乱しつつ現状の把握に努めている時間を指している。 「っ…!」  教室が音を失くし、全クラスメイトの視線が注がれたところで、ようやく僕は気が付く。  自分がどれほどのことをしでかしてしまったのか。  勢いよく顔を引きはがして、そのまま振り抜くように頭を下げた。 「ごごごゴメンなさい江ノ島さんっ!えと、その、僕ボーっとしてて…!!」  江ノ島さんは、恥ずかしがったり怒りに震えたり、ということは全くなく、ただ驚いた表情を見せている。  それから白い歯を見せて、にかっと笑うと、 「そーんな謝んないでよ、苗木ぃ。そこまで頭下げられたら、こっちは怒るに怒れないでしょ」 「ご、ゴメン…」 「超高校級のギャルにパフパフされるなんて、滅多にないんだからね。感謝しろよー」  そう言うと江ノ島さんはひらひらと手を振り、戦刃さんの机の方に向かう。  どうやら、あまり気にしていないみたいだ。  そうと分かった瞬間、どっと体から力が抜けた。  た、助かった…  もし相手が朝日奈さんや腐川さんなら、しばらくは…いや、卒業までは口を利いて貰えなかったかもしれない。  いや、それだけで済めばまだ良い方だろう。社会人であれば、痴漢で訴えられても文句は言えない。  次からはフラフラ教室を歩かないように、と決意を固め、  ぞくん、と、  氷のような怖気が背中を走り抜けた。  風邪でも引いたかな、と考えている呑気な僕の頭は、まったく理解していなかった。  全然助かってなんかないことに。  むしろ、泥沼に片足を突っ込んでしまっているということに。 ――――――――――――――――――  あ・の・変態アンテナ…!!  他の女子にセクハラをするなと、あれほど言って聞かせたのに。 「…霧切さん?顔が般若みたいになってますよ」  舞園さんの言葉で、どうにか我に返る。  どうやら無意識に、アンテナセクハラ野郎を睨みつけてしまっていたらしい。  ふと彼女の顔を見れば、ニヤニヤといやらしい笑みが浮かんでいた。 「苗木君、ですよね」 「…なんのことかしら」 「バレバレですよ。私エスパーですから」  ふふふ、と微笑んでいる彼女が一体何を勘違いしているのかは分からないけれど。  これは嫉妬なんかじゃない。あえていうなら殺意、そう、殺意だ。  彼は乙女の敵なのだ。  江ノ島さんが寛大で、許してくれたからいいものの。  ボーっとして突っ込んでしまうのはまだいい、いや、本当はダメだけれど。  そのまま顔を埋めているなんて、絶対わざとだ。そうに決まっている。  私はもう一度アンテナに視線を送り、殺気を込めた。  何よ、鼻の下なんか伸ばしちゃって。  確かに江ノ島さんは、女の私でも思わずドキッとしてしまうくらい、扇情的な体つきをしているけれど。  ぶつかった時にふるふると揺れた胸、その弾力はゼリーを思わせる。  くびれた腰に、艶めかしい足。短いスカート、制服から覗く谷間。どれをとっても、色っぽい。  そして裏表のないサバサバした性格。ああいうのを、男受けするというのだろう。  そして、と私は目の前のアイドルにも目を向けた。彼女もなかなかどうして、魅力に溢れている。  顔立ちは可憐で、身体もか細い。長く綺麗な黒髪も、私にはない魅力だ。守ってあげたくなる、いかにもヒロインないでたち。  そして腹立たしくも、胸は私よりも大きい。反則だ、こんなの。  私の視線に気づき、一瞬困ったような表情をしつつ、『負けませんよ!』という目で睨み返してくる。その仕種も反則だ。  他にも、元気いっぱいの巨乳スイマー、(黙っていれば)清楚な文学少女、人形のような不思議ギャンブラー、etc.  とにかくこのクラスには、魅力ある女子生徒が多く在籍している。  彼のようなケダモノを野放しにしておくにはあまりに危険。  苗木君も彼女たちのような、いかにも女の子らしい女の子の方が好きなんだろうか。  別に、彼の好みなんかどうでもいいけど。  と、物思いに耽っていたところで、  ぴんぽんぱんぽーん  という、なんとも間の抜けたチャイムが鳴り響いた。 ――――――――――――――――――  ぞく、と、本日二度目の怖気が背中に走る。  なんだろう、今日はやけに寒いな。  秋が近いせいだろうか。  なんて呑気な事を考えながら、僕の体は数人の友人たちに振り回されている。  原因は言わずもがな、さっきのラッキースケベについて。 「なあなあ、どうだったんだよ、江ノ島の胸!」  ヘッドロックをかましながら、やたらテンションの高い桑田君が尋ねてくる。  キマっているわけじゃないけれど、そんな彼が僕を振り回すので、転んでしまいそうになる。 「胸の揺れ具合もさることながら、その後のフォローもたまらんベ!奴さんはいい嫁さんになるな、俺の占(ry」  うんうんと頷いている葉隠君も、鼻の下を伸ばしているから全然決まってない。  頼むからそういう女性談義は、僕を巻きこまずにやってほしい。  ほら、クラスメイトの突き刺さるような視線が痛い。特に女子の。  どうか僕だけは同類視されませんように、と願ってみるけれど、無理な話だろう。  事を起こした張本人なんだから。  泣きたい。  彼らは矢のような視線の雨をものともせずに、男子高校生トークを繰り広げている。  一方で当人である僕は、とにかく謝らなければと必死だったから、江ノ島さんの反応や感想なんて全然覚えていない。  でも、確かに柔らかかったな…  女の人の胸に、あんなマシュマロみたいな柔らかさがあるなんて。  頬が熱くなる。  こんなんだから、霧切さんにセクハラアンテナ野郎だなんて呼ばれてしまうんだろう。  と、そこで。  ぴんぽんぱんぽーん  という、なんとも間の抜けたチャイムが鳴り響いた。 『校内放送、校内放送。身体測定のため、次から読み上げるクラスは、体育館に向かってください。繰り返します――』 「…んぉ、やっと俺らのクラスか」  むくり、と、それまで隣の席で眠っていた大和田君が目を覚ました。  そう、今日は身体測定。  どこぞの学園都市よろしく、この学校では生徒の調子には万全の注意が払われている。  身体測定、学力調査、体力測定。  つい先日にも、超人との壁にぶつかってしまった凡人の僕にとっては、トラウマを抉られる心地である。  どうして人間は、こうも数字で人を表すのが好きなんだろうか。  オンリーワンでいいじゃないか、なんて凡人めいたことを考えつつ。  それでも『超高校級の希望』として在学している以上、学校の方針には従う義務がある。  当然、月に一度の身体測定も、サボるなんてわけにはいかない。 「やっと起きたべ、大和田っち」  年長者の余裕か、それとも恐いもの知らずなのか、葉隠君は馴れ馴れしげに大和田君と接している。  まあ、彼も見た目ほど怖い人間ではない、というのは周知の事実なんだけど。  確かに喧嘩っ早いし、緊張すると怒鳴る癖があるみたいだし、怒ると怖いけれど。  でも、彼はマコの世話を手伝ってくれている。  それだけで、彼を取り巻く数々の恐い噂を、僕の脳内から払拭させるには十分だ。 「…っつーかお前ら、人の席の周りでギャーギャー騒ぎやがって。全然眠れねえよ。転がすぞコラ」  そんな大和田君が、あくびをしながら体を起して、  僕はそっと、目をそむけた。 「…ほら、さっさと行こうぜ大和田」 「…だべ、早いところ終わらせて、食堂に向かうべ」  桑田君が急かす。心なしか肩が震えている。  葉隠君はあごを擦るフリをして口元を隠している。  その仕種で、僕は二人が共犯だと理解した。 「はーあ、めんどくせえな…なんでこんな何度も身体測定があんだよ…」  大和田君は気付いている様子はなく、眠そうに頭をガシガシと掻いている。  その頭から、まっすぐリーゼントが伸びている。  まっすぐ、直角に。  そりゃあ、あんな髪型で机に突っ伏して寝たら、曲がってしまうのは道理だった。  僕は折れたトウモロコシを思い起こして、とても残念な気持ちになった。 「あの、大和田君…」  教えてあげようと声をかけた僕を、葉隠君と桑田君が睨みつけた。 「なー、苗木っちも早く行くベー」 「食堂の席、なくなっちまうぜ」  その目は、『面白いからバラすな』と、そう言っていた。  あとで二人とも、転がされるな。  そう思いつつも、僕も彼らに従って黙ってついて行くわけだけど。  よく考えれば、教えた瞬間に肉片にされてしまうかもしれないのだし。 「きゃっ…」 「うぉ、っと」  聞き慣れた声、そして聞き慣れた悲鳴。  僕はふと、扉の方に目を向けて、そして、  待ってました、と言わんばかりに、心臓が跳ねた。  僕の目に飛び込む、その光景。  霧切さんが、大和田君に抱かれていた。  状況はすぐに理解出来た。  たぶん扉を出たところで、二人はぶつかってしまったんだろう。  体格の問題で、霧切さんの方が弾かれてしまい、体勢を崩す。  それを助けるように、大和田君が彼女を支えたんだ。  霧切さんが、大和田君の胸板にもたれかかっていた。  大和田君が、霧切さんの肩を抱いていた。 「大丈夫かよ?」 「え、ええ…ありがとう」  心臓が跳ねたのは、その光景を見た一瞬だけだった。  今は泥沼を跳ねまわる様にして、粘っこく鼓動が鳴っているだけ。  そんな自分の鼓動を聞きながら、僕は。 「どうしたべ?苗木っち」 「…なんでも、ない」  僕は、形容しがたい感情に包まれた。  僕の平和な頭を、心を揺さぶるには、そんな何でもない光景は、十分すぎた。  倒れそうになった霧切さんの体を支えていた大和田君の腕や背中は、とても逞しく見えた。  筋骨隆々、男たるものかくあるべし。  対して、僕はどうだろう。  貧弱、いや、平凡。  丸太のような大和田君の腕に比べたら、さしずめマッチ棒のような腕だ。 「…」  ちりちり、と、不安が軒端の焚火のように煙をあげて、心を燻してきた。  もう、大和田君の直角リーゼントじゃ、笑えなくなっていた。  もし、僕が霧切さんとぶつかってしまったら。  たぶん、大和田君のようには出来ない。彼女の体を支えられないだろう。  それより、僕の方が吹き飛ばされてしまうかもしれない。  思えば、彼女の前で。  僕は一度も、男らしいことをしたことがないかもしれない。  大抵は談笑で、それも彼女には教えられてばかり。  時々セクハラ(誤解だけど)じみた言動を繰り返しては、彼女を怒らせている。  彼女は怒りはするけれど、けっして僕を見放したりはしなかった。  僕が中退を考えていると知った時、涙を流して止めてくれた。  だから、  無意識のうちに、きっと自惚れていたんだろう。  もしかしたら僕は、彼女にとって特別な存在なんじゃないかって。  何の根拠もないのに。  止めてくれたのは、『友達として』当然の反応じゃないか。  セクハラをしても見捨てられなかったのは、彼女が優しいってだけじゃないか。  僕は、僕は、  そして、気づいた。  彼女が僕にどれほどの優しさをかけてくれたか、けっして忘れたわけじゃなかった。  寮でマコを飼うために、嫌っているはずの学園長に口添えをしてくれたこともあった。  周囲との劣等感に悩まされて中退を考えていると知って、本気で怒り、本気で泣いてくれた。  そして僕の学園生活が少しでも有意義になる様に、みんなの協力を集めてくれたんだ。  そんな彼女に。  僕は、何一つ恩を返せていなかった。  そんな僕を。  どうして彼女が、特別だなんて思うことがあるだろうか。  彼女にとって、僕はただの友人か、それ以下でしかないかもしれない。  男として意識してもらえるような存在じゃないかもしれないんだ。 「苗木っち?おーい」 「…ダメだ、完全に石だ。先に行こうぜ」 「だべ。あの頭で身体測定は、流石に地獄だべ」 ――――――――――――――――――  変態アンテナのことを考えていたせいで、大和田君にぶつかってしまった。  これじゃ、人のことは言えない。  私も廊下を歩く時は注意しないと。  それにしても、あのリーゼントは大丈夫なんだろうか。  折れたトウモロコシのように、途中で直角に曲がっていたけれど。  ああいうファッションが流行っているのだろうか。よくわからない。 「うーい」  そんな気の抜けるような声を後ろから掛けられる。  振り向けば、さっき教室で騒いでいた男子組が、愉快そうに追いかけてきた。 「あら、色情魔トリオ…じゃなかった、桑田君と葉隠君」 「なんだべ、その犯罪臭いあだ名」 「ごめんなさい、口が滑ったのよ。気にしないで」 「いや、気にするだろ…」  クスクスと笑う舞園さんを庇うように、彼らとの間に私の身体を割って入れる。  先ほど江ノ島さんの胸で盛り上がっていたように、いつ彼らが舞園さんをそういう目で見るか、わかったものじゃない。 「…って、苗木君は?」  そういえば、先ほどは二人と一緒にいたはずなのに。 「おやおや?彼氏の姿が見えないと不安ですかい?」  ニヤニヤと、桑田君がからかってくる。  …彼氏、じゃない。  誰かさんがっ変な写真を撮ってばらまいてくれたおかげで、そういう噂が広まってしまったけれど。  色々な人に突っ込まれるけれど、私と苗木君はそういう関係じゃない。  まったく最近の若い世代は、男と女が連れ添っていれば、すぐカップルだなんだと騒ぎたてて。  彼は…大切な、友人だ。そういう汚れた妄想は、私にも彼にも失礼だ。控えてもらいたい。  というのを、最初は比較的冷静に説明して回っていたのだけれど。  ごく一部の悪意ある連中は、全く聞く耳を持たずに未だにからかってくる。  なのでこちらとしても、実力行使で黙らせる必要が出てきてしまう。 「…喧嘩を売っている、と捉えてもいいのかしら?」 「ちょ、霧切さん…」 「止めないで、舞園さん」 「お?なんだ、やる気かぁ?言葉に対して暴力に訴えるってことは負けを認めるってぎゃあああああ痛え痛え痛え!!!」 「く、桑田っちー!!」  護身術は、こんなところでも役に立ってくれるものだ。  覚えておいてよかった。  外国語を教えるついでに、苗木君にも習わせてみようか。 「折れる折れる折れるってー!!霧切テメー、女だからって許さああああああスイマセンごめんなさいあ゛ぁああああ!!!」 「な、なんてことするべ霧切っちー!!鬼、悪魔、怨霊退さ――」 「次は葉隠君かしら?」 「あ、そういや大和田っちに髪のこと教えてやんねーと」 「葉隠、おい!見捨てんのかよ!?友達だろうが!」 「…」  どうも目の前で陳腐な友情劇が始まってしまいそうだったので、興を殺がれて手を離した。  もう少しで、彼の望み通りに、もう野球をしなくていい体にしてあげられたのだけれど。 「おぁ…いってぇ…腕が取り外し式になるところだったぜ…」 「大丈夫だべか、桑田っち!」  無駄な時間を過ごしてしまった。  早く行きましょう、と、舞園さんに目で合図を送る。  と、背中を向けた時。 「こりゃ、苗木も苦労するわ…」  おそらく何の気なしに、桑田君が呟いた。  場合によっては、聞き流すことのできた言葉だった。 「…苗木君は、関係ないでしょ」  けれど私は、立ち止ってしまった。  例えば、彼がラッキースケベを起こした今朝のあの現場を見ていなかったら。  それで自分と他の女子を比べて、あんな気持ちになっていなければ。  その言葉が、これほど嫌に響くこともなかっただろう。 「な、なんだよ…別にそういう意味で言ったんじゃねーって」  痛めつけたのが効いているのか、桑田君はいつもの調子よりも少し弱弱しく抗議の声をあげる。 「じゃあ、どういう意味で言ったの?」 「…」 「…別に締めあげたりはしないから、教えて」  苦労って、なんだ。  彼はそんな、嫌々に私と付き合っているのだろうか。  探偵として、そう、あくまで探偵として、第三者の見解が欲しい。  そして、  言われることも、なんとなく想像はついていた。 「霧切っち…いつも苗木っちにこんな、関節キメたりとかしてるんか?」 「俺だったら、そんな攻撃力の高い女子、二度と近づきたくねーな」 「それは…彼がセクハラしてきた時だけよ」 「でもそれも、だいたい事故なんだべ?」「自分より強い女子が隣にいるって、男としては結構プライド傷つくぜ」 「苗木っちはお人好しだから、なんも言ってこないだろうけど…」「あいつだって殴られりゃ痛いし、けなされたらへこむし」 「苗木っちの気持ち、考えたことあるベ?」「時々見てると、やりすぎだろって思う時、結構あるぜ」  彼らの口調が、少しずつ私を責めるようになってきた時。 「よくこんな暴力女と――」 「桑田君…!!」  轟、と。  雷が落ちたような声だった。  私たち三人は、その場に居竦んでしまった。  怒鳴ったのは舞園さんだ。  いつもの鈴の音のような綺麗な声じゃなかった。  耳を押さえるのも忘れ、私は茫然と舞園さんに目を向ける。  もう大音声をあげたりはしなかったが、憤慨した様子で男子を睨んでいる。 「…葉隠君も。言い方とか、あるじゃないですか」 「「あ…」」  暴力女。たぶん、その言葉を指しているんだろう。  桑田君も葉隠君も、何かに気づいたように、急に気まずそうな顔をしてみせた。 「…わりぃ、霧切。そういうつもりで言ったわけじゃなくてな…」 「いえ、事実を話すように言ったのは私の方よ」 「俺も調子に乗っちゃって…悪かったベ」 「気にしていないわ」 「「「…」」」  どことなく気まずい空気が流れる。 「…行きましょうか、身体測定」  舞園さんに手を取られ、少し早い足取りで体育館に引きずられていく。  桑田君と葉隠君は、何かに気を使ったように、ゆっくり歩き出した。  別に、本当に気にしてなんかいない。  第三者の意見は重要だとは言ったが、それはあくまで第三者の意見。  重要なのはあくまでそこから汲み取れる事実であり、感想じゃない。  他人にどう思われようが、私には関係ないはずだ。  そんなことをいちいち気にしていたら、探偵なんかやっていられない。  そして実際に、暴力女と呼ばれても仕方のないようなことを、私はこれまで苗木君にしてしまってきている。  それは、紛れもない事実であり、第三者から見た私と苗木君の関係でもある。  むしろ教えてくれて、感謝しているくらいだ。  けれど。  苗木君本人は、どうなんだろう。  彼らの言うとおり、私のことを暴力女だと思っているんだろうか。  矛盾。  第三者の意見が重要だと言っていたくせに、今の私は当事者である苗木君の意見を知りたがっている。  さっきだって、そうだ。  誤魔化さずに認めてしまえば、気になってしまった。  苗木君はやっぱり、江ノ島さんや舞園さんのような女の子が好みなんだろうか、と。  自分と他人を比べようとしたのは、もしかしたら初めてかもしれない。  私は彼を、どうしたいんだろう。  彼に、どうしてほしいんだろう。 ―――――――――――――――――― 「…あれ、苗木?何してんの?」 「…あ」  教室でボーっとしているうちに、どうやら他の人はみんな体育館へ向かってしまったらしい。  保体委員の朝日奈さんが、教室を見回りに来ていた。 「もう測定始まってるよ?っていうか早く来てくれないと、私の仕事が長引くんだから!」 「うん…ごめん」 「…なんか元気ないじゃん。いつもの苗木らしくない…ってゆーか、最近そういうの多いよね」 「そ、そういうのって?」 「テンション低かったり、かと思えばいつも通りだったり」  ああ、彼女にまで見抜かれてしまっている。  たぶんそれほど、見て分かるくらいに、今の僕はおかしいんだ。  僕は、おかしい。  自覚しているわけじゃない、というか一応『超高校級の平凡』だと自負しているんだけれど。  霧切さんにはよく言われる。趣味や能力は一般人なのに、時々常軌を逸した言動に出る、と。 『捨て犬をかわいそうと思うのは普通だけれど、そこから寮で飼おうと走り回る人間はなかなかいないわ』  別に普通であることに執着するわけじゃないけれど、そんなにおかしいだろうか。  とにかく、普段からおかしい僕が、更におかしくなってしまっている。  これはちょっと、めんどくさい。  そう、他人事のように思った。 「朝日奈さん、さ」 「んー?」  ちょっと聞きたいことが、と出かかった声を、無理矢理飲み込む。  ふと、何の気なしに相談しようとしてしまっている自分がいた。 「…もう身長測った?」  すんでのところで思い留まる。  なんとなく、本人には失礼すぎて言えないけれど、止めておいた方がいい気がした。 「あ、うん。保体委員は自分の分、先に測っちゃってるからねー」 「何センチ?」 「それが、去年と同じ160止まり…」 「そっか…」 「あ、苗木!抜け駆けはダメだよ?同じチビ同士、ちゃんと苗木も測ったら私に教えてよね」 「…女子で160は、そんなに小さくないと思うんだけど」 「うー…でも、うちのクラスはみんな、身長高いからなぁ…」  チビ、という言葉に抵抗感を覚えたけれど、ぐっと我慢する。  悪気があって言っているわけじゃないんだから。  きっと彼女なら、相談があると言えば親身になって聞いてくれるはずだ。  でも、『男の沽券に関わる問題を、女子に相談してどうする』と、僕のちっぽけなプライドが叫んでいる。  加えて、彼女はきっと小難しい話は得意じゃないだろう。  僕自身、自分の中にあるこの感情を、上手く整理して言葉で説明できる自信がなかった。  この考えを上手く汲み取ってくれるような人に聞くのが妥当。  いつもなら、その相手は霧切さんだった。  彼女はとても頭がよくて、それに本人に言えば否定されるけれど、すごく優しい。  何か悩んでいれば、向こうからそれに気が付いてくれる。  …逆を言えば、彼女には隠し事が出来ない。  顔に出やすい僕は、特に。  だから、こんな気持ちのまま彼女と向き合うことは憚られた。  そんな彼女は、いつも言っている。  相談とはけっして『逃げ』じゃない。  他者の視点を借りることが、問題解決には重要なのだ、と。  誰かいないだろうか。  相談に適役な誰かが。  彼女のように聡明か、もしくは同じ悩みを抱えているような誰か… ――――――――――――――――――  身長体重座高に視力、脈拍や血液検査云々等々etc.  ちょっとやりすぎなほどあった項目が埋まっていく。  数値を見る限り、どうやら今月の私も健康そのもののようだ。  舞園さんを初め、他の女子たちは、その増減で一喜一憂しているようだけれど、私はあまり気にならなかった。  とりあえず健康であれば、それでよかったんだ。  少なくとも、今までは。 「…舞園さん」  私はおずおずと話しかける。 「むぅ」 「…」 「…あ、霧切さん。どうでしたか?」 「…いつも通りよ」  そうですか、と微笑んで、彼女は再び診察表とにらめっこ。  先日から『乙女の聖戦なんです!』と言って間食を抜いていたが、思わしい結果は出たのだろうか。  断食やホームレスの真似事ならともかく、ダイエットはしたことがないからわからない。  …そういや以前、そんなことを彼女にほのめかしたらすごい目つきで睨まれたっけ。  おそらく舞園さんは、自分の結果で手いっぱいだ。  もう少し、余裕のある人を探してみようか。  項目が多いから効率を重視したのだろう、計測はほとんど女子と男子をまとめて体育館で行われる。  もちろん体重などを測る時は列で分けるし、女子の体重を口に出して計測するような保体委員もいない。  ただ、どうしてもそれだけじゃ済まない問題がある。  目下、私が一番気になっている数値でもある。  スリーサイズだ。  というか、女子なら本来最優先で知りたい数字なんだろう。  こればかりはさすがに同じ空間でやるわけにはいかないだろう。  他の計測を終えると男子は体育館に残り、女子は保健室へと移動する。  廊下ではきゃあきゃあと、測定結果を聞きあう女子たちの声が溢れている。  数値と一緒に、どこまで本音を曝け出しているのだろうか。 「おっすー、ちょいと失礼」  ふわり、と、お菓子のような甘い匂いが鼻孔をくすぐる。  軽快な声とともに横を通り過ぎたのは、ちょうど今朝苗木君のラッキースケベの被害者となった『超高校級のギャル』。  言っては何だが、やはりモデル業は違うと再確認させられる。  背も高く、スタイルもよく、歩く姿一つをとっても綺麗だ。  そういえば以前、彼女が載っていた雑誌で『男心を掴む特集』なんてやっていた気がする。  江ノ島さんになら、聞いてもらえるだろうか。  はた、と、今度は廊下の向こう側からやってくる二つの影に気づく。  一人は保体委員の朝日奈さん。  もう一人は…  と、目を合わせようとすると、彼はまるで怯えているかのように目をそむけ、廊下の端を歩きだした。  あからさまに私と距離を取った。  むっとする。  誰のせいでここまで悩まされてると思ってるのよ唐変木ラッキースケベだか何だか知らないけれど  朝っぱらから人の胸に顔を突っ込んでおいてよくまあ平然としていられるわねこのセクハラ大魔神  隣には巨乳の代名詞のような女の子を連れて良い御身分ねいや朝日奈さんが悪いわけじゃないけど  どうせあなたも他の男子達と同じで可愛くて話しやすくて優しくて胸の大きい人が好きなんでしょ  胸が小さな愛想のない暴力女で悪かったわねって別に全然悪いことしてないけどああイライラする  なんてことは断じて全然これっぽっちも思っていないけれど。  ついでに言えば、桑田君と葉隠君に言われたことを、彼の顔を見た途端に思い出したわけじゃないし、  朝のラッキースケベの件だって別にもう気にしていないし、  素直に話しかけられない自分自身に腹を立てているわけでもない。 「…チッ」 「…」  通り過ぎる時に、思わず舌が鳴った。  ビクン、と、苗木君が体を震わせる。きっと寒いんだろう。秋が近いから。 「…恋敵に言うのもなんですが」  隣で舞園さんが、やれやれと言った感じで頭を振った。 「先が思いやられますね」 [[続く>7cm(前編2)]] ----
 たったそれだけの距離を、僕達は踏み越せずにいる。 ――――――――――――――――――  弾丸論破 ナエギリSS 『7cm』 ―――――――――――――――――― 「あ、霧切さん、そのブーツ…」 「あら、気が付いてくれたのね」  教室の隅でかしましく話している女子の一団。  誉められた行為じゃないけれど、その話題は否が応でも僕の耳に届いてしまう。 「シックで大人っぽくて…よく似合ってますよ!」 「そ、そうかしら…」  舞園さんにブーツを誉められたことが嬉しいんだろう。  相変わらず表情は変わらないけれど、声の調子から判断して、機嫌はかなりよさそうだ。  僕はトイレに行くという口実で立ち上がり、すれ違いざまに恨めしい気持ちでそのブーツを睨んだ。  可愛くない。  霧切さんは可愛いけど、そのブーツは可愛くない。  なんて、くだらないことを考えて、前を見ずに教室をうろうろしていたから。 「わぷっ!?」 「ひゃっ…」  ふと目の前に現れた黒い壁に気づけず、僕はそれに突っ込んでしまった。  頭から降ってくる、聞き慣れた声の、聞き慣れない悲鳴。  ふわりと顔を包み込んだ、柔らかい二つの球。  見上げると、その恐ろしく柔らかい丘の向こうから、大きな青灰色の瞳が、パチクリと僕を見返していた。  その間、数秒。  その間というのは、ええと、つまり、  僕が江ノ島さんの胸に顔を埋めさせたまま、混乱しつつ現状の把握に努めている時間を指している。 「っ…!」  教室が音を失くし、全クラスメイトの視線が注がれたところで、ようやく僕は気が付く。  自分がどれほどのことをしでかしてしまったのか。  勢いよく顔を引きはがして、そのまま振り抜くように頭を下げた。 「ごごごゴメンなさい江ノ島さんっ!えと、その、僕ボーっとしてて…!!」  江ノ島さんは、恥ずかしがったり怒りに震えたり、ということは全くなく、ただ驚いた表情を見せている。  それから白い歯を見せて、にかっと笑うと、 「そーんな謝んないでよ、苗木ぃ。そこまで頭下げられたら、こっちは怒るに怒れないでしょ」 「ご、ゴメン…」 「超高校級のギャルにパフパフされるなんて、滅多にないんだからね。感謝しろよー」  そう言うと江ノ島さんはひらひらと手を振り、戦刃さんの机の方に向かう。  どうやら、あまり気にしていないみたいだ。  そうと分かった瞬間、どっと体から力が抜けた。  た、助かった…  もし相手が朝日奈さんや腐川さんなら、しばらくは…いや、卒業までは口を利いて貰えなかったかもしれない。  いや、それだけで済めばまだ良い方だろう。社会人であれば、痴漢で訴えられても文句は言えない。  次からはフラフラ教室を歩かないように、と決意を固め、  ぞくん、と、  氷のような怖気が背中を走り抜けた。  風邪でも引いたかな、と考えている呑気な僕の頭は、まったく理解していなかった。  全然助かってなんかないことに。  むしろ、泥沼に片足を突っ込んでしまっているということに。 ――――――――――――――――――  あ・の・変態アンテナ…!!  他の女子にセクハラをするなと、あれほど言って聞かせたのに。 「…霧切さん?顔が般若みたいになってますよ」  舞園さんの言葉で、どうにか我に返る。  どうやら無意識に、アンテナセクハラ野郎を睨みつけてしまっていたらしい。  ふと彼女の顔を見れば、ニヤニヤといやらしい笑みが浮かんでいた。 「苗木君、ですよね」 「…なんのことかしら」 「バレバレですよ。私エスパーですから」  ふふふ、と微笑んでいる彼女が一体何を勘違いしているのかは分からないけれど。  これは嫉妬なんかじゃない。あえていうなら殺意、そう、殺意だ。  彼は乙女の敵なのだ。  江ノ島さんが寛大で、許してくれたからいいものの。  ボーっとして突っ込んでしまうのはまだいい、いや、本当はダメだけれど。  そのまま顔を埋めているなんて、絶対わざとだ。そうに決まっている。  私はもう一度アンテナに視線を送り、殺気を込めた。  何よ、鼻の下なんか伸ばしちゃって。  確かに江ノ島さんは、女の私でも思わずドキッとしてしまうくらい、扇情的な体つきをしているけれど。  ぶつかった時にふるふると揺れた胸、その弾力はゼリーを思わせる。  くびれた腰に、艶めかしい足。短いスカート、制服から覗く谷間。どれをとっても、色っぽい。  そして裏表のないサバサバした性格。ああいうのを、男受けするというのだろう。  そして、と私は目の前のアイドルにも目を向けた。彼女もなかなかどうして、魅力に溢れている。  顔立ちは可憐で、身体もか細い。長く綺麗な黒髪も、私にはない魅力だ。守ってあげたくなる、いかにもヒロインないでたち。  そして腹立たしくも、胸は私よりも大きい。反則だ、こんなの。  私の視線に気づき、一瞬困ったような表情をしつつ、『負けませんよ!』という目で睨み返してくる。その仕種も反則だ。  他にも、元気いっぱいの巨乳スイマー、(黙っていれば)清楚な文学少女、人形のような不思議ギャンブラー、etc.  とにかくこのクラスには、魅力ある女子生徒が多く在籍している。  彼のようなケダモノを野放しにしておくにはあまりに危険。  苗木君も彼女たちのような、いかにも女の子らしい女の子の方が好きなんだろうか。  別に、彼の好みなんかどうでもいいけど。  と、物思いに耽っていたところで、  ぴんぽんぱんぽーん  という、なんとも間の抜けたチャイムが鳴り響いた。 ――――――――――――――――――  ぞく、と、本日二度目の怖気が背中に走る。  なんだろう、今日はやけに寒いな。  秋が近いせいだろうか。  なんて呑気な事を考えながら、僕の体は数人の友人たちに振り回されている。  原因は言わずもがな、さっきのラッキースケベについて。 「なあなあ、どうだったんだよ、江ノ島の胸!」  ヘッドロックをかましながら、やたらテンションの高い桑田君が尋ねてくる。  キマっているわけじゃないけれど、そんな彼が僕を振り回すので、転んでしまいそうになる。 「胸の揺れ具合もさることながら、その後のフォローもたまらんベ!奴さんはいい嫁さんになるな、俺の占(ry」  うんうんと頷いている葉隠君も、鼻の下を伸ばしているから全然決まってない。  頼むからそういう女性談義は、僕を巻きこまずにやってほしい。  ほら、クラスメイトの突き刺さるような視線が痛い。特に女子の。  どうか僕だけは同類視されませんように、と願ってみるけれど、無理な話だろう。  事を起こした張本人なんだから。  泣きたい。  彼らは矢のような視線の雨をものともせずに、男子高校生トークを繰り広げている。  一方で当人である僕は、とにかく謝らなければと必死だったから、江ノ島さんの反応や感想なんて全然覚えていない。  でも、確かに柔らかかったな…  女の人の胸に、あんなマシュマロみたいな柔らかさがあるなんて。  頬が熱くなる。  こんなんだから、霧切さんにセクハラアンテナ野郎だなんて呼ばれてしまうんだろう。  と、そこで。  ぴんぽんぱんぽーん  という、なんとも間の抜けたチャイムが鳴り響いた。 『校内放送、校内放送。身体測定のため、次から読み上げるクラスは、体育館に向かってください。繰り返します――』 「…んぉ、やっと俺らのクラスか」  むくり、と、それまで隣の席で眠っていた大和田君が目を覚ました。  そう、今日は身体測定。  どこぞの学園都市よろしく、この学校では生徒の調子には万全の注意が払われている。  身体測定、学力調査、体力測定。  つい先日にも、超人との壁にぶつかってしまった凡人の僕にとっては、トラウマを抉られる心地である。  どうして人間は、こうも数字で人を表すのが好きなんだろうか。  オンリーワンでいいじゃないか、なんて凡人めいたことを考えつつ。  それでも『超高校級の希望』として在学している以上、学校の方針には従う義務がある。  当然、月に一度の身体測定も、サボるなんてわけにはいかない。 「やっと起きたべ、大和田っち」  年長者の余裕か、それとも恐いもの知らずなのか、葉隠君は馴れ馴れしげに大和田君と接している。  まあ、彼も見た目ほど怖い人間ではない、というのは周知の事実なんだけど。  確かに喧嘩っ早いし、緊張すると怒鳴る癖があるみたいだし、怒ると怖いけれど。  でも、彼はマコの世話を手伝ってくれている。  それだけで、彼を取り巻く数々の恐い噂を、僕の脳内から払拭させるには十分だ。 「…っつーかお前ら、人の席の周りでギャーギャー騒ぎやがって。全然眠れねえよ。転がすぞコラ」  そんな大和田君が、あくびをしながら体を起して、  僕はそっと、目をそむけた。 「…ほら、さっさと行こうぜ大和田」 「…だべ、早いところ終わらせて、食堂に向かうべ」  桑田君が急かす。心なしか肩が震えている。  葉隠君はあごを擦るフリをして口元を隠している。  その仕種で、僕は二人が共犯だと理解した。 「はーあ、めんどくせえな…なんでこんな何度も身体測定があんだよ…」  大和田君は気付いている様子はなく、眠そうに頭をガシガシと掻いている。  その頭から、まっすぐリーゼントが伸びている。  まっすぐ、直角に。  そりゃあ、あんな髪型で机に突っ伏して寝たら、曲がってしまうのは道理だった。  僕は折れたトウモロコシを思い起こして、とても残念な気持ちになった。 「あの、大和田君…」  教えてあげようと声をかけた僕を、葉隠君と桑田君が睨みつけた。 「なー、苗木っちも早く行くベー」 「食堂の席、なくなっちまうぜ」  その目は、『面白いからバラすな』と、そう言っていた。  あとで二人とも、転がされるな。  そう思いつつも、僕も彼らに従って黙ってついて行くわけだけど。  よく考えれば、教えた瞬間に肉片にされてしまうかもしれないのだし。 「きゃっ…」 「うぉ、っと」  聞き慣れた声、そして聞き慣れた悲鳴。  僕はふと、扉の方に目を向けて、そして、  待ってました、と言わんばかりに、心臓が跳ねた。  僕の目に飛び込む、その光景。  霧切さんが、大和田君に抱かれていた。  状況はすぐに理解出来た。  たぶん扉を出たところで、二人はぶつかってしまったんだろう。  体格の問題で、霧切さんの方が弾かれてしまい、体勢を崩す。  それを助けるように、大和田君が彼女を支えたんだ。  霧切さんが、大和田君の胸板にもたれかかっていた。  大和田君が、霧切さんの肩を抱いていた。 「大丈夫かよ?」 「え、ええ…ありがとう」  心臓が跳ねたのは、その光景を見た一瞬だけだった。  今は泥沼を跳ねまわる様にして、粘っこく鼓動が鳴っているだけ。  そんな自分の鼓動を聞きながら、僕は。 「どうしたべ?苗木っち」 「…なんでも、ない」  僕は、形容しがたい感情に包まれた。  僕の平和な頭を、心を揺さぶるには、そんな何でもない光景は、十分すぎた。  倒れそうになった霧切さんの体を支えていた大和田君の腕や背中は、とても逞しく見えた。  筋骨隆々、男たるものかくあるべし。  対して、僕はどうだろう。  貧弱、いや、平凡。  丸太のような大和田君の腕に比べたら、さしずめマッチ棒のような腕だ。 「…」  ちりちり、と、不安が軒端の焚火のように煙をあげて、心を燻してきた。  もう、大和田君の直角リーゼントじゃ、笑えなくなっていた。  もし、僕が霧切さんとぶつかってしまったら。  たぶん、大和田君のようには出来ない。彼女の体を支えられないだろう。  それより、僕の方が吹き飛ばされてしまうかもしれない。  思えば、彼女の前で。  僕は一度も、男らしいことをしたことがないかもしれない。  大抵は談笑で、それも彼女には教えられてばかり。  時々セクハラ(誤解だけど)じみた言動を繰り返しては、彼女を怒らせている。  彼女は怒りはするけれど、けっして僕を見放したりはしなかった。  僕が中退を考えていると知った時、涙を流して止めてくれた。  だから、  無意識のうちに、きっと自惚れていたんだろう。  もしかしたら僕は、彼女にとって特別な存在なんじゃないかって。  何の根拠もないのに。  止めてくれたのは、『友達として』当然の反応じゃないか。  セクハラをしても見捨てられなかったのは、彼女が優しいってだけじゃないか。  僕は、僕は、  そして、気づいた。  彼女が僕にどれほどの優しさをかけてくれたか、けっして忘れたわけじゃなかった。  寮でマコを飼うために、嫌っているはずの学園長に口添えをしてくれたこともあった。  周囲との劣等感に悩まされて中退を考えていると知って、本気で怒り、本気で泣いてくれた。  そして僕の学園生活が少しでも有意義になる様に、みんなの協力を集めてくれたんだ。  そんな彼女に。  僕は、何一つ恩を返せていなかった。  そんな僕を。  どうして彼女が、特別だなんて思うことがあるだろうか。  彼女にとって、僕はただの友人か、それ以下でしかないかもしれない。  男として意識してもらえるような存在じゃないかもしれないんだ。 「苗木っち?おーい」 「…ダメだ、完全に石だ。先に行こうぜ」 「だべ。あの頭で身体測定は、流石に地獄だべ」 ――――――――――――――――――  変態アンテナのことを考えていたせいで、大和田君にぶつかってしまった。  これじゃ、人のことは言えない。  私も廊下を歩く時は注意しないと。  それにしても、あのリーゼントは大丈夫なんだろうか。  折れたトウモロコシのように、途中で直角に曲がっていたけれど。  ああいうファッションが流行っているのだろうか。よくわからない。 「うーい」  そんな気の抜けるような声を後ろから掛けられる。  振り向けば、さっき教室で騒いでいた男子組が、愉快そうに追いかけてきた。 「あら、色情魔トリオ…じゃなかった、桑田君と葉隠君」 「なんだべ、その犯罪臭いあだ名」 「ごめんなさい、口が滑ったのよ。気にしないで」 「いや、気にするだろ…」  クスクスと笑う舞園さんを庇うように、彼らとの間に私の身体を割って入れる。  先ほど江ノ島さんの胸で盛り上がっていたように、いつ彼らが舞園さんをそういう目で見るか、わかったものじゃない。 「…って、苗木君は?」  そういえば、先ほどは二人と一緒にいたはずなのに。 「おやおや?彼氏の姿が見えないと不安ですかい?」  ニヤニヤと、桑田君がからかってくる。  …彼氏、じゃない。  誰かさんがっ変な写真を撮ってばらまいてくれたおかげで、そういう噂が広まってしまったけれど。  色々な人に突っ込まれるけれど、私と苗木君はそういう関係じゃない。  まったく最近の若い世代は、男と女が連れ添っていれば、すぐカップルだなんだと騒ぎたてて。  彼は…大切な、友人だ。そういう汚れた妄想は、私にも彼にも失礼だ。控えてもらいたい。  というのを、最初は比較的冷静に説明して回っていたのだけれど。  ごく一部の悪意ある連中は、全く聞く耳を持たずに未だにからかってくる。  なのでこちらとしても、実力行使で黙らせる必要が出てきてしまう。 「…喧嘩を売っている、と捉えてもいいのかしら?」 「ちょ、霧切さん…」 「止めないで、舞園さん」 「お?なんだ、やる気かぁ?言葉に対して暴力に訴えるってことは負けを認めるってぎゃあああああ痛え痛え痛え!!!」 「く、桑田っちー!!」  護身術は、こんなところでも役に立ってくれるものだ。  覚えておいてよかった。  外国語を教えるついでに、苗木君にも習わせてみようか。 「折れる折れる折れるってー!!霧切テメー、女だからって許さああああああスイマセンごめんなさいあ゛ぁああああ!!!」 「な、なんてことするべ霧切っちー!!鬼、悪魔、怨霊退さ――」 「次は葉隠君かしら?」 「あ、そういや大和田っちに髪のこと教えてやんねーと」 「葉隠、おい!見捨てんのかよ!?友達だろうが!」 「…」  どうも目の前で陳腐な友情劇が始まってしまいそうだったので、興を殺がれて手を離した。  もう少しで、彼の望み通りに、もう野球をしなくていい体にしてあげられたのだけれど。 「おぁ…いってぇ…腕が取り外し式になるところだったぜ…」 「大丈夫だべか、桑田っち!」  無駄な時間を過ごしてしまった。  早く行きましょう、と、舞園さんに目で合図を送る。  と、背中を向けた時。 「こりゃ、苗木も苦労するわ…」  おそらく何の気なしに、桑田君が呟いた。  場合によっては、聞き流すことのできた言葉だった。 「…苗木君は、関係ないでしょ」  けれど私は、立ち止ってしまった。  例えば、彼がラッキースケベを起こした今朝のあの現場を見ていなかったら。  それで自分と他の女子を比べて、あんな気持ちになっていなければ。  その言葉が、これほど嫌に響くこともなかっただろう。 「な、なんだよ…別にそういう意味で言ったんじゃねーって」  痛めつけたのが効いているのか、桑田君はいつもの調子よりも少し弱弱しく抗議の声をあげる。 「じゃあ、どういう意味で言ったの?」 「…」 「…別に締めあげたりはしないから、教えて」  苦労って、なんだ。  彼はそんな、嫌々に私と付き合っているのだろうか。  探偵として、そう、あくまで探偵として、第三者の見解が欲しい。  そして、  言われることも、なんとなく想像はついていた。 「霧切っち…いつも苗木っちにこんな、関節キメたりとかしてるんか?」 「俺だったら、そんな攻撃力の高い女子、二度と近づきたくねーな」 「それは…彼がセクハラしてきた時だけよ」 「でもそれも、だいたい事故なんだべ?」「自分より強い女子が隣にいるって、男としては結構プライド傷つくぜ」 「苗木っちはお人好しだから、なんも言ってこないだろうけど…」「あいつだって殴られりゃ痛いし、けなされたらへこむし」 「苗木っちの気持ち、考えたことあるベ?」「時々見てると、やりすぎだろって思う時、結構あるぜ」  彼らの口調が、少しずつ私を責めるようになってきた時。 「よくこんな暴力女と――」 「桑田君…!!」  轟、と。  雷が落ちたような声だった。  私たち三人は、その場に居竦んでしまった。  怒鳴ったのは舞園さんだ。  いつもの鈴の音のような綺麗な声じゃなかった。  耳を押さえるのも忘れ、私は茫然と舞園さんに目を向ける。  もう大音声をあげたりはしなかったが、憤慨した様子で男子を睨んでいる。 「…葉隠君も。言い方とか、あるじゃないですか」 「「あ…」」  暴力女。たぶん、その言葉を指しているんだろう。  桑田君も葉隠君も、何かに気づいたように、急に気まずそうな顔をしてみせた。 「…わりぃ、霧切。そういうつもりで言ったわけじゃなくてな…」 「いえ、事実を話すように言ったのは私の方よ」 「俺も調子に乗っちゃって…悪かったベ」 「気にしていないわ」 「「「…」」」  どことなく気まずい空気が流れる。 「…行きましょうか、身体測定」  舞園さんに手を取られ、少し早い足取りで体育館に引きずられていく。  桑田君と葉隠君は、何かに気を使ったように、ゆっくり歩き出した。  別に、本当に気にしてなんかいない。  第三者の意見は重要だとは言ったが、それはあくまで第三者の意見。  重要なのはあくまでそこから汲み取れる事実であり、感想じゃない。  他人にどう思われようが、私には関係ないはずだ。  そんなことをいちいち気にしていたら、探偵なんかやっていられない。  そして実際に、暴力女と呼ばれても仕方のないようなことを、私はこれまで苗木君にしてしまってきている。  それは、紛れもない事実であり、第三者から見た私と苗木君の関係でもある。  むしろ教えてくれて、感謝しているくらいだ。  けれど。  苗木君本人は、どうなんだろう。  彼らの言うとおり、私のことを暴力女だと思っているんだろうか。  矛盾。  第三者の意見が重要だと言っていたくせに、今の私は当事者である苗木君の意見を知りたがっている。  さっきだって、そうだ。  誤魔化さずに認めてしまえば、気になってしまった。  苗木君はやっぱり、江ノ島さんや舞園さんのような女の子が好みなんだろうか、と。  自分と他人を比べようとしたのは、もしかしたら初めてかもしれない。  私は彼を、どうしたいんだろう。  彼に、どうしてほしいんだろう。 ―――――――――――――――――― 「…あれ、苗木?何してんの?」 「…あ」  教室でボーっとしているうちに、どうやら他の人はみんな体育館へ向かってしまったらしい。  保体委員の朝日奈さんが、教室を見回りに来ていた。 「もう測定始まってるよ?っていうか早く来てくれないと、私の仕事が長引くんだから!」 「うん…ごめん」 「…なんか元気ないじゃん。いつもの苗木らしくない…ってゆーか、最近そういうの多いよね」 「そ、そういうのって?」 「テンション低かったり、かと思えばいつも通りだったり」  ああ、彼女にまで見抜かれてしまっている。  たぶんそれほど、見て分かるくらいに、今の僕はおかしいんだ。  僕は、おかしい。  自覚しているわけじゃない、というか一応『超高校級の平凡』だと自負しているんだけれど。  霧切さんにはよく言われる。趣味や能力は一般人なのに、時々常軌を逸した言動に出る、と。 『捨て犬をかわいそうと思うのは普通だけれど、そこから寮で飼おうと走り回る人間はなかなかいないわ』  別に普通であることに執着するわけじゃないけれど、そんなにおかしいだろうか。  とにかく、普段からおかしい僕が、更におかしくなってしまっている。  これはちょっと、めんどくさい。  そう、他人事のように思った。 「朝日奈さん、さ」 「んー?」  ちょっと聞きたいことが、と出かかった声を、無理矢理飲み込む。  ふと、何の気なしに相談しようとしてしまっている自分がいた。 「…もう身長測った?」  すんでのところで思い留まる。  なんとなく、本人には失礼すぎて言えないけれど、止めておいた方がいい気がした。 「あ、うん。保体委員は自分の分、先に測っちゃってるからねー」 「何センチ?」 「それが、去年と同じ160止まり…」 「そっか…」 「あ、苗木!抜け駆けはダメだよ?同じチビ同士、ちゃんと苗木も測ったら私に教えてよね」 「…女子で160は、そんなに小さくないと思うんだけど」 「うー…でも、うちのクラスはみんな、身長高いからなぁ…」  チビ、という言葉に抵抗感を覚えたけれど、ぐっと我慢する。  悪気があって言っているわけじゃないんだから。  きっと彼女なら、相談があると言えば親身になって聞いてくれるはずだ。  でも、『男の沽券に関わる問題を、女子に相談してどうする』と、僕のちっぽけなプライドが叫んでいる。  加えて、彼女はきっと小難しい話は得意じゃないだろう。  僕自身、自分の中にあるこの感情を、上手く整理して言葉で説明できる自信がなかった。  この考えを上手く汲み取ってくれるような人に聞くのが妥当。  いつもなら、その相手は霧切さんだった。  彼女はとても頭がよくて、それに本人に言えば否定されるけれど、すごく優しい。  何か悩んでいれば、向こうからそれに気が付いてくれる。  …逆を言えば、彼女には隠し事が出来ない。  顔に出やすい僕は、特に。  だから、こんな気持ちのまま彼女と向き合うことは憚られた。  そんな彼女は、いつも言っている。  相談とはけっして『逃げ』じゃない。  他者の視点を借りることが、問題解決には重要なのだ、と。  誰かいないだろうか。  相談に適役な誰かが。  彼女のように聡明か、もしくは同じ悩みを抱えているような誰か… ――――――――――――――――――  身長体重座高に視力、脈拍や血液検査云々等々etc.  ちょっとやりすぎなほどあった項目が埋まっていく。  数値を見る限り、どうやら今月の私も健康そのもののようだ。  舞園さんを初め、他の女子たちは、その増減で一喜一憂しているようだけれど、私はあまり気にならなかった。  とりあえず健康であれば、それでよかったんだ。  少なくとも、今までは。 「…舞園さん」  私はおずおずと話しかける。 「むぅ」 「…」 「…あ、霧切さん。どうでしたか?」 「…いつも通りよ」  そうですか、と微笑んで、彼女は再び診察表とにらめっこ。  先日から『乙女の聖戦なんです!』と言って間食を抜いていたが、思わしい結果は出たのだろうか。  断食やホームレスの真似事ならともかく、ダイエットはしたことがないからわからない。  …そういや以前、そんなことを彼女にほのめかしたらすごい目つきで睨まれたっけ。  おそらく舞園さんは、自分の結果で手いっぱいだ。  もう少し、余裕のある人を探してみようか。  項目が多いから効率を重視したのだろう、計測はほとんど女子と男子をまとめて体育館で行われる。  もちろん体重などを測る時は列で分けるし、女子の体重を口に出して計測するような保体委員もいない。  ただ、どうしてもそれだけじゃ済まない問題がある。  目下、私が一番気になっている数値でもある。  スリーサイズだ。  というか、女子なら本来最優先で知りたい数字なんだろう。  こればかりはさすがに同じ空間でやるわけにはいかないだろう。  他の計測を終えると男子は体育館に残り、女子は保健室へと移動する。  廊下ではきゃあきゃあと、測定結果を聞きあう女子たちの声が溢れている。  数値と一緒に、どこまで本音を曝け出しているのだろうか。 「おっすー、ちょいと失礼」  ふわり、と、お菓子のような甘い匂いが鼻孔をくすぐる。  軽快な声とともに横を通り過ぎたのは、ちょうど今朝苗木君のラッキースケベの被害者となった『超高校級のギャル』。  言っては何だが、やはりモデル業は違うと再確認させられる。  背も高く、スタイルもよく、歩く姿一つをとっても綺麗だ。  そういえば以前、彼女が載っていた雑誌で『男心を掴む特集』なんてやっていた気がする。  江ノ島さんになら、聞いてもらえるだろうか。  はた、と、今度は廊下の向こう側からやってくる二つの影に気づく。  一人は保体委員の朝日奈さん。  もう一人は…  と、目を合わせようとすると、彼はまるで怯えているかのように目をそむけ、廊下の端を歩きだした。  あからさまに私と距離を取った。  むっとする。  誰のせいでここまで悩まされてると思ってるのよ唐変木ラッキースケベだか何だか知らないけれど  朝っぱらから人の胸に顔を突っ込んでおいてよくまあ平然としていられるわねこのセクハラ大魔神  隣には巨乳の代名詞のような女の子を連れて良い御身分ねいや朝日奈さんが悪いわけじゃないけど  どうせあなたも他の男子達と同じで可愛くて話しやすくて優しくて胸の大きい人が好きなんでしょ  胸が小さな愛想のない暴力女で悪かったわねって別に全然悪いことしてないけどああイライラする  なんてことは断じて全然これっぽっちも思っていないけれど。  ついでに言えば、桑田君と葉隠君に言われたことを、彼の顔を見た途端に思い出したわけじゃないし、  朝のラッキースケベの件だって別にもう気にしていないし、  素直に話しかけられない自分自身に腹を立てているわけでもない。 「…チッ」 「…」  通り過ぎる時に、思わず舌が鳴った。  ビクン、と、苗木君が体を震わせる。きっと寒いんだろう。秋が近いから。 「…恋敵に言うのもなんですが」  隣で舞園さんが、やれやれと言った感じで頭を振った。 「先が思いやられますね」 [[続く>7cm(前編2)]] ----

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