ある夏の、甘い出来事

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 いつもジャケットをきっちりと着込み、背筋を真っ直ぐに伸ばして隙を見せず、凛とした雰囲気を纏う人――それがボクの抱いている、霧切さんへのイメージだ。  彼女がダレている姿なんて見たことがない、想像すらできない。  だからボクは、我が目を疑った。  食堂の一角で、椅子に座りテーブルに突っ伏しているのは、本当に霧切さんなのかと。  なんとなく食堂全体を見回し、霧切さん(仮)以外に誰もいないことを確認する。そうして足音を殺し、息を潜めてその背中へと近付いていく。  ゆっくりと規則正しく上下する背中に、まずはホッと一安心。これで実は人形でした、死体でしたというビックリどっきりイベントの恐れはない。  次に確かめる点は、この人物の正体だ。  顔を見れば一発でわかるのだが、あいにくとそれは叶わない。腕を枕代わりにし、その中に埋めてしまっているからだ。  ならば、と頭に目を向けるまでもなく、先ほどからボクの視界に映る髪は、色素が抜け透き通るように美しく。その隙間から覗くうなじは陶磁器のように白く、思わず触れてみたい欲求に駆られるけれど、反面、安易に触れてはならないという気持ちもあって、ボクの手は中途半端に虚空をさまよう。  今ここで目を覚まされたら、あらぬ誤解を受けそうだな。そうなる前に、自分から起こしてしまおうか。  だけど揺さぶろうとした背中に、霧切さんがいつも羽織っているジャケットがない。あるのは薄手のシャツだけだ。  たったそれだけの変化なのに、ひどく細く、儚げに見えて。  ボクの手は、またも宙をさまよう羽目になる。    触れられないのなら、声を掛ければいい。  そんな簡単な解決案を思いついたのは、それから十数分後のことだった。  もっと早くに気付よと自分でも思うけれど、こんな無防備な霧切さん(仮――いや、もう確定でいいや)を見れる機会はそうそうないだろうから良しとしよう。 「霧切さん」  とりあえず名前を呼んでみた。反応はない。 「霧切さん、起きてよ。風邪引くよ」 「……ん……」  微かに身じろぐ。そして――  ガバッと音がしそうな勢いで、霧切さんは上体を起こした。 「お、おはよう」 「……苗木君。いつからそこにいたの……?」  少し物憂い声なのは、寝起きだからだろうか。 「えと、さっきだよ。ついさっき、ここに来たんだ」 「嘘ね」  その言葉がスイッチにでもなったのか、途端に彼女の目は鋭く、声は凛としたものになる。 「目が泳いでいるわよ。本当は、いつからいたの?」 「……だいぶ前から……」 「……寝顔は見た?」 「見てないよ。見たくても見れなかったし」 「そう。なら、いいわ」  いいんだ。  てっきり、すぐに起こさなかったことを責められるのかと思っていたのに、彼女にとって重要なのは、寝顔を見たか否かであるらしい。  もしも見ていたら、どうなっていたんだろう……?  世の中には、知らない方がいいことがたくさんある。今回のもきっとそれだ。だから答えは、聞かないでおこう。 「ところで霧切さん。なんでこんな所で寝ていたの?」 「好きで寝ていたわけじゃないわ。少しだけ休憩するつもりだったのよ。ただ……」  決まりが悪そうに、霧切さんは目を伏せる。 「思っていた以上に、暑さに参ってたみたいで……」 「つまりは夏バテ?」 「まあ、そんなようなものね」  やや不満そうではあるものの、霧切さんは頷いた。  自分の弱みを徹底的に隠す彼女にとって、夏バテですらも本来であれば人には知られたくないことらしい。今回はボクに見られてしまったから、渋々認めたのだろうけど。 「霧切さんって、結構難儀な性格してるよね」 「何よ、急に。喧嘩を売っているの?」  寝起きの彼女は好戦的になるようだ。ボクは苦笑いを浮かべて首を横に振る。 「違うよ。ただ、もう少し……人に頼ってもいいんじゃないかなって思っただけさ」  頼れるほど信じられる人。そんな人が一人でもいれば、彼女はもう少し、楽に生きられるのではないだろうか。感情さえも押し隠して、強く在る必要はなくなるのではないだろうか。  彼女の生き方は時として、ひどく不器用に映るから。ボクはつい、そんなことを思ってしまう。  願わくば、ボクがその一人になれますように――。 「じゃあ苗木君、あなたに一つ、頼みがあるんだけど」  えっ、いきなり願いが叶った!?  浮き立つボクに、霧切さんは無表情で厨房を指差し、感情のこもらぬ声で言った。 「冷凍庫から、アイスを持ってきてくれるかしら?」  それって、ただのパシリ。  などと言い返せるはずもなく、ボクはすごすごと厨房に向かった。 「二種類しかなかったよ」 「二種類もあれば十分じゃない。だけど、このチョイスは謎ね」  テーブルの上に二つのアイスを並べ、ボク達は顔を突き合わせて座る。  一つはカップに入ったレモンシャーベット。そしてもう一つ、これが問題であった。 「チョコミントアイス。これが大量に、冷凍庫に詰め込まれていたんだよ」 「黒幕の好みかしら?」 「それで夜な夜な食べに来ているとか?」 「有り得るわね。誰にも見つからずに落ち着いて食べられるように……その為に食堂だけが、夜間は立ち入り禁止にされているのかも」 「なるほど。これで一つ、学園の謎が解けたね」 「この上もなく、どうでもいい真相だったわ」  好き勝手なことを言いながら、ボクはチョコミントアイスを、霧切さんはレモンシャーベットを手に取り封を開ける。 「なんだかんだと言う割には、真っ先にそれを選んだわね」 「チョコミントって、食べたことないから気になってさ。霧切さんはある?」 「ないわね。食べようとも思わない」 「なんでさ?」 「それは……食べてみればわかるわよ。きっとあなたは、後悔することになるでしょうね……」  そんな意味深な言い方をされると、ひどく食べづらい。  ボクはしばし逡巡した後、男は度胸とばかりにかぶり付いた。 「どう?」 「うん……」  口の中いっぱいに広がるミントの香りは清涼感をもたらし、散りばめられたチョコチップがアクセントとなって飽きを覚えさせず、後味はスッキリ爽やか。ワッフルコーンのおかげで食べごたえもあり、これはかなり―― 「おいしいよ。何個でもいけるかも」 「嘘……でしょ……」  霧切さんは、彼女にしては珍しく愕然とした表情で、信じられないといったようにかぶりを振る。 「チョコミントなんて……歯磨き粉の味しかしないはずよ……?」 「それは違うよ! 歯磨き粉にチョコは入っていないじゃないか!!」  「そういう問題じゃないのよ、苗木君」 「霧切さんも食べてみなよ。絶対においしいから。考え変わるから」 「でも……」 「ほら、騙されたと思って」 「……本当に騙したら、承知しないわよ」  ぼそりと恐ろしいことを呟いて。霧切さんはボクが差し出したアイスに躊躇いながらも口を近付け、ぺろりと一回、小さく舐め取る。 「……歯磨き粉」 「そんな少しじゃわからないって。もっと食べてみなよ」 「何度食べたところで、変わらないと思うけど……」   そうは言いながらも今度は小さくかじり取るあたり、少なくともマズいとは思っていないのだろう。 「コーンも食べなよ。サクサクしておいしいよ」 「もういいわ。それ以上貰ったら、あなたの食べる分がなくなるわよ?」  笑みを含ませ彼女は断ると、スプーンで掬ったシャーベットをボクの方へと差し出してくる。 「お礼よ。それとも、レモンは嫌いだったかしら……?」 「ううん。好きだよ」 「そ、そう」  なぜか一瞬だけ。霧切さんは目を泳がせ、右手を僅かに引っ込める。しかしすぐに立て直したらしく、改めてスプーンを近付けてきた。  素直に口を開け、食べさせてもらってるボクは、端から見たら雛鳥みたいかもしれない。だとしたら、霧切さんは親鳥か。  そう思って彼女の顔を見ると、目はやさしげに細められ、口元にはふんわりと柔らかな笑みが――  ボクは勢いよく、顔を背けた。  霧切さんに失礼だとか、彼女がこの反応にどう思うかだとか、そんなことを考える余裕は欠片もなかった。  だって自分の頬には、瞬く間に熱が集まってくるし。  心臓はバクバクと、大きく鳴りはじめるし。  そうして今更ながら気が付いた。ボク達って、実はとんでもないことしてないか?  互いのアイスを差し出して、食べさせて。ボクに至っては、自分が口を付けたものを霧切さんに食べさせたわけで。  これって、つまり―― 「ごごごごめっ、ごめん霧切さん!! セセ、セクッ、セッ、セッ、セクハラだよねコレココ、コレって!!」 「落ち着いて苗木君。腐川さんみたいになってるわ」 「落ち着いてられないよ!! だってボクはキミに――」 「落ち着きなさい。苗木君」  静かなトーンで、噛んで含めるような言い方に、ボクは冷静さを取り戻しかけるけど、霧切さんの表情を見た途端にまたも消し飛んだ。 「霧切さん顔赤いよ! キミこそ落ち着いてないだろ!?」 「わざわざ教えてくれなくても結構よ。少なくとも、あなたよりは落ち着いているわ」  とてもそうは見えない。なんかそわそわしてるし。   ボクの疑念を感じ取ったのか、霧切さんは若干言い訳がましく口を開いた。 「落ち着いて……いたのよ。あなたが騒ぐから感染ったじゃない」 「ボク、病原菌みたいなんだけど」  「まったく、せっかく人が、深く考えないようにしていたのに……」  ――意識させるなんて。  あまりに小さく、ともすれば聞き逃しそうになるけれど、幸か不幸か、いま食堂にはボクと霧切さんの二人しかいなくて。  最後のその言葉を、ボクはしっかりと拾い上げてしまった。 「じゃ、じゃあさ……霧切さんは気付いてたの? その……ボク達がやっていたことに……」 「当たり前でしょう。だけど、やっぱりあなたは無意識だったのね。何も考えていない顔だったもの」  その言い方だと、あまりにボクがバカみたいだ。  反論したいのは山々だったけど、彼女にしたことを思うと、そんな風に言われても仕方がない。 「まぁ、だからこそ、私も平気でいられたんだけど」 「……ごめん……」  目を見るべきなのはわかっているけど、勇気が持てずに俯いて謝るボクに霧切さんは―― 「どうして?」  心底意外そうに聞き返してきた。ボクは思わず顔を上げる。 「え、だって……嫌じゃなかった?」 「……嫌がってるように見えた?」  逆に不安そうに訊ねられ、ボクは慌てて首を振る。 「見えなかった!! けど、ボクが自分に都合よく解釈したのかもしれないし、錯覚とか勘違いとかそういった可能性も……」 「バカね」  言葉とは裏腹に、霧切さんは穏やかに微笑んでいた。 「そんな可能性、有り得ないわ。もっと自分の目と心を信じたら?」 「とは言われてもさ……!!」 「私は、信じているんだから」  え、と。声に出したつもりだったけど。  ボクの口からは、呼気しか漏れなかった。 「でなければ食べ比べなんて……こんなにも感情を表すなんて……できるわけがないでしょう……?」  そう……だ。  彼女は最初からずっと、不満も戸惑いも露わにしていたじゃないか。幾度となく、口元を綻ばせていたじゃないか。  無表情で無感情? どこがだ。  彼女はこんなにも表情豊かで、ボクを……信じてくれている。  たった一つの切実な願いは、既に叶っていたんだ。 「霧切さん。どこまでなら許してくれる?」 「どういう意味?」 「例えば……」  彼女の後ろに移動して、両腕を回し抱き締める。  言葉にすればたったこれだけのことだけど、いざ実行するとなると勇気と度胸が必要だ。  自分の中にあるそれら全てを総動員し、下手をすれば学級裁判に臨む時よりも決死の覚悟で、ボクは霧切さんの思っていたよりもずっと細い肩を、体を、背後から力いっぱい抱き締めた。  彼女がボクの名を呼んだような気がするけれど、構わずに抱き締め続ける。いや、正確には構う余裕がなかった。  触れたいと思い続けていた体に、ようやく触れることができて。  その髪に、顔を埋めることができて。  におい、ぬくもり、感触。彼女の全てを自分の中に染み込ませることに、夢中だったからだ。 「もうボク、このまま死んでもいいや……」 「それは困るわ……」  夢見心地での呟きに、椅子に座り俯いた、普段よりも小さく感じる霧切さんはボクの腕にそっと右手を添えてくる。 「あなたが死んでしまったら、私の生きる理由がなくなるじゃない」 「……学園の謎を解き明かすっていう理由は?」  少し意地悪な気持ちで問うと、彼女は心なしか口を尖らせ、右手にギリギリと力を込めてきた。 「そ、れ、が、終、わ、っ、た、ら。理由がなくなると言ってるのよ」 「待っ、痛い痛い!! なんか極っちゃってるよ霧切さーん!?」 「謝ったら許してあげなくもないわ」 「それって許さない可能性もあるよね!?」 「謝らないよりは、許す可能性が高いけど」 「生意気でしたごめんなさい!!」 「潔いのは結構だけど、ちょっと情けないわよ、苗木君……」  力を抜いてくれたのはいいけれど、そんな哀れむような目を向けないでほしい。ボクは気まずく視線を逸らし……ふと思い立って元へと戻す。  今ならできる。  アイスを介してじゃない。直接、彼女の唇へと―― 「そこまでよ、苗木君」  顔を近付けもう少しというところで、霧切さんは席を立ち、やんわりとボクの腕を振りほどく。 「ここから先はまだ許せないわ。寝顔に、手袋の下も」 「な、なんで?」  そもそも、基準がよくわからない。 「だって、一度に全てを許してしまったら……」  そこでニヤリと、彼女は笑った。  恐らく羞恥からだろう、赤く染まった顔では、いまいち迫力がなかったけれど。 「つまらないでしょう? 目的は大事よ。私を理由に、あなたも生きて」 ----
 いつもジャケットをきっちりと着込み、背筋を真っ直ぐに伸ばして隙を見せず、凛とした雰囲気を纏う人――それがボクの抱いている、霧切さんへのイメージだ。  彼女がダレている姿なんて見たことがない、想像すらできない。  だからボクは、我が目を疑った。  食堂の一角で、椅子に座りテーブルに突っ伏しているのは、本当に霧切さんなのかと。  なんとなく食堂全体を見回し、霧切さん(仮)以外に誰もいないことを確認する。そうして足音を殺し、息を潜めてその背中へと近付いていく。  ゆっくりと規則正しく上下する背中に、まずはホッと一安心。これで実は人形でした、死体でしたというビックリどっきりイベントの恐れはない。  次に確かめる点は、この人物の正体だ。  顔を見れば一発でわかるのだが、あいにくとそれは叶わない。腕を枕代わりにし、その中に埋めてしまっているからだ。  ならば、と頭に目を向けるまでもなく、先ほどからボクの視界に映る髪は、色素が抜け透き通るように美しく。その隙間から覗くうなじは陶磁器のように白く、思わず触れてみたい欲求に駆られるけれど、反面、安易に触れてはならないという気持ちもあって、ボクの手は中途半端に虚空をさまよう。  今ここで目を覚まされたら、あらぬ誤解を受けそうだな。そうなる前に、自分から起こしてしまおうか。  だけど揺さぶろうとした背中に、霧切さんがいつも羽織っているジャケットがない。あるのは薄手のシャツだけだ。  たったそれだけの変化なのに、ひどく細く、儚げに見えて。  ボクの手は、またも宙をさまよう羽目になる。    触れられないのなら、声を掛ければいい。  そんな簡単な解決案を思いついたのは、それから十数分後のことだった。  もっと早くに気付よと自分でも思うけれど、こんな無防備な霧切さん(仮――いや、もう確定でいいや)を見れる機会はそうそうないだろうから良しとしよう。 「霧切さん」  とりあえず名前を呼んでみた。反応はない。 「霧切さん、起きてよ。風邪引くよ」 「……ん……」  微かに身じろぐ。そして――  ガバッと音がしそうな勢いで、霧切さんは上体を起こした。 「お、おはよう」 「……苗木君。いつからそこにいたの……?」  少し物憂い声なのは、寝起きだからだろうか。 「えと、さっきだよ。ついさっき、ここに来たんだ」 「嘘ね」  その言葉がスイッチにでもなったのか、途端に彼女の目は鋭く、声は凛としたものになる。 「目が泳いでいるわよ。本当は、いつからいたの?」 「……だいぶ前から……」 「……寝顔は見た?」 「見てないよ。見たくても見れなかったし」 「そう。なら、いいわ」  いいんだ。  てっきり、すぐに起こさなかったことを責められるのかと思っていたのに、彼女にとって重要なのは、寝顔を見たか否かであるらしい。  もしも見ていたら、どうなっていたんだろう……?  世の中には、知らない方がいいことがたくさんある。今回のもきっとそれだ。だから答えは、聞かないでおこう。 「ところで霧切さん。なんでこんな所で寝ていたの?」 「好きで寝ていたわけじゃないわ。少しだけ休憩するつもりだったのよ。ただ……」  決まりが悪そうに、霧切さんは目を伏せる。 「思っていた以上に、暑さに参ってたみたいで……」 「つまりは夏バテ?」 「まあ、そんなようなものね」  やや不満そうではあるものの、霧切さんは頷いた。  自分の弱みを徹底的に隠す彼女にとって、夏バテですらも本来であれば人には知られたくないことらしい。今回はボクに見られてしまったから、渋々認めたのだろうけど。 「霧切さんって、結構難儀な性格してるよね」 「何よ、急に。喧嘩を売っているの?」  寝起きの彼女は好戦的になるようだ。ボクは苦笑いを浮かべて首を横に振る。 「違うよ。ただ、もう少し……人に頼ってもいいんじゃないかなって思っただけさ」  頼れるほど信じられる人。そんな人が一人でもいれば、彼女はもう少し、楽に生きられるのではないだろうか。感情さえも押し隠して、強く在る必要はなくなるのではないだろうか。  彼女の生き方は時として、ひどく不器用に映るから。ボクはつい、そんなことを思ってしまう。  願わくば、ボクがその一人になれますように――。 「じゃあ苗木君、あなたに一つ、頼みがあるんだけど」  えっ、いきなり願いが叶った!?  浮き立つボクに、霧切さんは無表情で厨房を指差し、感情のこもらぬ声で言った。 「冷凍庫から、アイスを持ってきてくれるかしら?」  それって、ただのパシリ。  などと言い返せるはずもなく、ボクはすごすごと厨房に向かった。 「二種類しかなかったよ」 「二種類もあれば十分じゃない。だけど、このチョイスは謎ね」  テーブルの上に二つのアイスを並べ、ボク達は顔を突き合わせて座る。  一つはカップに入ったレモンシャーベット。そしてもう一つ、これが問題であった。 「チョコミントアイス。これが大量に、冷凍庫に詰め込まれていたんだよ」 「黒幕の好みかしら?」 「それで夜な夜な食べに来ているとか?」 「有り得るわね。誰にも見つからずに落ち着いて食べられるように……その為に食堂だけが、夜間は立ち入り禁止にされているのかも」 「なるほど。これで一つ、学園の謎が解けたね」 「この上もなく、どうでもいい真相だったわ」  好き勝手なことを言いながら、ボクはチョコミントアイスを、霧切さんはレモンシャーベットを手に取り封を開ける。 「なんだかんだと言う割には、真っ先にそれを選んだわね」 「チョコミントって、食べたことないから気になってさ。霧切さんはある?」 「ないわね。食べようとも思わない」 「なんでさ?」 「それは……食べてみればわかるわよ。きっとあなたは、後悔することになるでしょうね……」  そんな意味深な言い方をされると、ひどく食べづらい。  ボクはしばし逡巡した後、男は度胸とばかりにかぶり付いた。 「どう?」 「うん……」  口の中いっぱいに広がるミントの香りは清涼感をもたらし、散りばめられたチョコチップがアクセントとなって飽きを覚えさせず、後味はスッキリ爽やか。ワッフルコーンのおかげで食べごたえもあり、これはかなり―― 「おいしいよ。何個でもいけるかも」 「嘘……でしょ……」  霧切さんは、彼女にしては珍しく愕然とした表情で、信じられないといったようにかぶりを振る。 「チョコミントなんて……歯磨き粉の味しかしないはずよ……?」 「それは違うよ! 歯磨き粉にチョコは入っていないじゃないか!!」  「そういう問題じゃないのよ、苗木君」 「霧切さんも食べてみなよ。絶対においしいから。考え変わるから」 「でも……」 「ほら、騙されたと思って」 「……本当に騙したら、承知しないわよ」  ぼそりと恐ろしいことを呟いて。霧切さんはボクが差し出したアイスに躊躇いながらも口を近付け、ぺろりと一回、小さく舐め取る。 「……歯磨き粉」 「そんな少しじゃわからないって。もっと食べてみなよ」 「何度食べたところで、変わらないと思うけど……」   そうは言いながらも今度は小さくかじり取るあたり、少なくともマズいとは思っていないのだろう。 「コーンも食べなよ。サクサクしておいしいよ」 「もういいわ。それ以上貰ったら、あなたの食べる分がなくなるわよ?」  笑みを含ませ彼女は断ると、スプーンで掬ったシャーベットをボクの方へと差し出してくる。 「お礼よ。それとも、レモンは嫌いだったかしら……?」 「ううん。好きだよ」 「そ、そう」  なぜか一瞬だけ。霧切さんは目を泳がせ、右手を僅かに引っ込める。しかしすぐに立て直したらしく、改めてスプーンを近付けてきた。  素直に口を開け、食べさせてもらってるボクは、端から見たら雛鳥みたいかもしれない。だとしたら、霧切さんは親鳥か。  そう思って彼女の顔を見ると、目はやさしげに細められ、口元にはふんわりと柔らかな笑みが――  ボクは勢いよく、顔を背けた。  霧切さんに失礼だとか、彼女がこの反応にどう思うかだとか、そんなことを考える余裕は欠片もなかった。  だって自分の頬には、瞬く間に熱が集まってくるし。  心臓はバクバクと、大きく鳴りはじめるし。  そうして今更ながら気が付いた。ボク達って、実はとんでもないことしてないか?  互いのアイスを差し出して、食べさせて。ボクに至っては、自分が口を付けたものを霧切さんに食べさせたわけで。  これって、つまり―― 「ごごごごめっ、ごめん霧切さん!! セセ、セクッ、セッ、セッ、セクハラだよねコレココ、コレって!!」 「落ち着いて苗木君。腐川さんみたいになってるわ」 「落ち着いてられないよ!! だってボクはキミに――」 「落ち着きなさい。苗木君」  静かなトーンで、噛んで含めるような言い方に、ボクは冷静さを取り戻しかけるけど、霧切さんの表情を見た途端にまたも消し飛んだ。 「霧切さん顔赤いよ! キミこそ落ち着いてないだろ!?」 「わざわざ教えてくれなくても結構よ。少なくとも、あなたよりは落ち着いているわ」  とてもそうは見えない。なんかそわそわしてるし。   ボクの疑念を感じ取ったのか、霧切さんは若干言い訳がましく口を開いた。 「落ち着いて……いたのよ。あなたが騒ぐから感染ったじゃない」 「ボク、病原菌みたいなんだけど」  「まったく、せっかく人が、深く考えないようにしていたのに……」  ――意識させるなんて。  あまりに小さく、ともすれば聞き逃しそうになるけれど、幸か不幸か、いま食堂にはボクと霧切さんの二人しかいなくて。  最後のその言葉を、ボクはしっかりと拾い上げてしまった。 「じゃ、じゃあさ……霧切さんは気付いてたの? その……ボク達がやっていたことに……」 「当たり前でしょう。だけど、やっぱりあなたは無意識だったのね。何も考えていない顔だったもの」  その言い方だと、あまりにボクがバカみたいだ。  反論したいのは山々だったけど、彼女にしたことを思うと、そんな風に言われても仕方がない。 「まぁ、だからこそ、私も平気でいられたんだけど」 「……ごめん……」  目を見るべきなのはわかっているけど、勇気が持てずに俯いて謝るボクに霧切さんは―― 「どうして?」  心底意外そうに聞き返してきた。ボクは思わず顔を上げる。 「え、だって……嫌じゃなかった?」 「……嫌がってるように見えた?」  逆に不安そうに訊ねられ、ボクは慌てて首を振る。 「見えなかった!! けど、ボクが自分に都合よく解釈したのかもしれないし、錯覚とか勘違いとかそういった可能性も……」 「バカね」  言葉とは裏腹に、霧切さんは穏やかに微笑んでいた。 「そんな可能性、有り得ないわ。もっと自分の目と心を信じたら?」 「とは言われてもさ……!!」 「私は、信じているんだから」  え、と。声に出したつもりだったけど。  ボクの口からは、呼気しか漏れなかった。 「でなければ食べ比べなんて……こんなにも感情を表すなんて……できるわけがないでしょう……?」  そう……だ。  彼女は最初からずっと、不満も戸惑いも露わにしていたじゃないか。幾度となく、口元を綻ばせていたじゃないか。  無表情で無感情? どこがだ。  彼女はこんなにも表情豊かで、ボクを……信じてくれている。  たった一つの切実な願いは、既に叶っていたんだ。 「霧切さん。どこまでなら許してくれる?」 「どういう意味?」 「例えば……」  彼女の後ろに移動して、両腕を回し抱き締める。  言葉にすればたったこれだけのことだけど、いざ実行するとなると勇気と度胸が必要だ。  自分の中にあるそれら全てを総動員し、下手をすれば学級裁判に臨む時よりも決死の覚悟で、ボクは霧切さんの思っていたよりもずっと細い肩を、体を、背後から力いっぱい抱き締めた。  彼女がボクの名を呼んだような気がするけれど、構わずに抱き締め続ける。いや、正確には構う余裕がなかった。  触れたいと思い続けていた体に、ようやく触れることができて。  その髪に、顔を埋めることができて。  におい、ぬくもり、感触。彼女の全てを自分の中に染み込ませることに、夢中だったからだ。 「もうボク、このまま死んでもいいや……」 「それは困るわ……」  夢見心地での呟きに、椅子に座り俯いた、普段よりも小さく感じる霧切さんはボクの腕にそっと右手を添えてくる。 「あなたが死んでしまったら、私の生きる理由がなくなるじゃない」 「……学園の謎を解き明かすっていう理由は?」  少し意地悪な気持ちで問うと、彼女は心なしか口を尖らせ、右手にギリギリと力を込めてきた。 「そ、れ、が、終、わ、っ、た、ら。理由がなくなると言ってるのよ」 「待っ、痛い痛い!! なんか極っちゃってるよ霧切さーん!?」 「謝ったら許してあげなくもないわ」 「それって許さない可能性もあるよね!?」 「謝らないよりは、許す可能性が高いけど」 「生意気でしたごめんなさい!!」 「潔いのは結構だけど、ちょっと情けないわよ、苗木君……」  力を抜いてくれたのはいいけれど、そんな哀れむような目を向けないでほしい。ボクは気まずく視線を逸らし……ふと思い立って元へと戻す。  今ならできる。  アイスを介してじゃない。直接、彼女の唇へと―― 「そこまでよ、苗木君」  顔を近付けもう少しというところで、霧切さんは席を立ち、やんわりとボクの腕を振りほどく。 「ここから先はまだ許せないわ。寝顔に、手袋の下も」 「な、なんで?」  そもそも、基準がよくわからない。 「だって、一度に全てを許してしまったら……」  そこでニヤリと、彼女は笑った。  恐らく羞恥からだろう、赤く染まった顔では、いまいち迫力がなかったけれど。 「つまらないでしょう? 目的は大事よ。私を理由に、あなたも生きて」 ----

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