7cm(後編2)

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「あの、だから…謝らないといけないとは、思っていたんだけど」  それは、違う。  あなたが謝るようなことじゃないんだ。  怒っていたんじゃない。  私が勝手に、機嫌を悪くしていただけ。 「ま、待って…」  と、言いつつも、そこから先に繋げる言葉が見つからない。  違う、あなたにそんな的外れな謝罪をさせるために、約束を持ちだしたわけじゃないのに。 「でも、理由もわからずにただ謝るのも、霧切さんに失礼かな、って思って…」  理由なんて、わかる方がおかしい。  私が彼にあたっていた理由なんて、的外れもいいところなんだから。  あなたが他の女の子と楽しそうにしていたから、嫉妬しただなんて。  口が裂けても言えるもんか。 「……ごめん、なさい」  だから、それよりも先に。  私は自分の非を詫びた。 「えっ、な、なんで、霧切さんが」 「違うのよ、苗木君…あなたの罪悪感を煽るためにあんなこと言ったわけじゃないの」  自分が悪いのに先に謝られる辛さは、もう身に染みている。  素直になることには、相変わらず抵抗がある。  それは、素のままの自分を晒すということだ。  それは、とても恥ずかしくて、とても向こう見ずで。  それこそ苗木君とまだ、出会う前。  馬鹿みたいに裏切られて、安易な信頼への代償を払ったことも忘れてはいない。  だから、怖い。  人を信用して、自分の素直な気持ちを晒すということは。  私にとっては、敵に自分の弱点を教えるが如く、最も愚かな行為に等しかった。  けれど、苗木君は違う。  彼は敵なんかじゃない。  彼は私に、素直な気持ちでもって接してくれているのに。  いつまでも私が意地を張っているのは、それこそ彼に対して失礼だ。 「…謝るべきは、私の方なのに」 「だ、だから霧切さんが謝ることなんて、」 「…ずっと」 「え?」 「怯えていたでしょう、私に」  カチ、と、時計が次の針音を刻むと同時に、彼が凍りついた。  ビク、と、その体が強張ったのがおかしいくらいにわかる。  目はあちこちに泳ぎ出し、息を詰まらせたように口を開きっぱなし。  まるで小動物みたいだ。  ホント、嘘が下手なんだから、と、思わず頬が緩みそうになってしまう。  けれど、と、私は気を引き締める。  彼が体を強張らせたのは、つまり、 「怯えてなんか、ないよ」 「言い方が悪いかしら。ずっと私が不機嫌だったから、気を使わせて…」 「そ、そんなこと…そもそも僕が霧切さんを怒らせて、」  バチ、と、目が合う。  泳いでいた苗木君の瞳が、いきなり私を捉えた。  追い詰められたような、切迫した表情で。  いつも見せる、優しい光をたたえた瞳ではない。  時折見せる、射抜くような強い意志を宿らせた瞳でもない。  その瞳は、 「…ずっと、聞きたかったことがあるんだ…けど、怖くて聞けなかった」  奇遇なことだ。  私もずっと、あなたに怖くて聞けなかったことがある。  彼の瞳の奥に、私が映し出されている。  まるで水の底を見ているかのように、透き通って揺れる。  瞳の奥の私が、はたして苗木君と同じ表情をしている。 「僕は……、ずっと霧切さんに迷惑をかけてる…」  私は、ずっとあなたに理不尽を強いている。 「背も低いし、意気地無しで…自分でもわかってるけど、全然男らしくなんてない」  無愛想で、意地っ張りで…自分でもわかっている、全然女らしくなんてない。 「時々不安になるんだ…僕は、君の隣にいちゃいけないんじゃないか、って」  時々不安になるのよ、私なんかがあなたの隣にいていいのか、って。 「…ねえ、霧切さん」  次に紡がれるであろう言葉は。  寸分違わず、私の口が紡ぐ言葉と、同じなんだろう。 「どうして、一緒にいてくれるの…?」 ―――――  バチ、と、目が合う。  伏せられていた霧切さんの瞳が、いきなり僕を捉えた。  自分の罪を告白するような、思いつめた表情で。  いつも見せる、凛とした鋭い光のある瞳ではない。  時折見せる、慈愛に溢れた穏やかな瞳でもない。  ずっと、聞きたかったことがあるんだ。  けど、怖くて聞けなかった。 「奇遇なことね。私もあなたに、ずっと聞きたかったことがあるのよ」  彼女の瞳の奥に、僕が映し出されている。  まるで灯を見ているかのように、輝いて揺れる。  瞳の奥の僕は、はたして彼女と全く同じ表情をしている。 「私は、ずっとあなたに理不尽を強いているでしょう」  僕は、ずっと霧切さんに迷惑をかけている。 「無愛想で、意地っ張りで…自分でもわかってる、全然女らしくなんてない」  背も低いし、意気地無しで…自分でもわかっているけど、全然男らしくなんてない。 「時々不安になるのよ。私は、苗木君の隣にいてはいけないんじゃないか、って」  時々不安になるんだ、僕なんかが君の隣にいていいのか、って。 「…ねえ、苗木君」  次に紡がれるであろう言葉は。  寸分違わず、僕の口が紡ぐ言葉と、同じなんだろう。 「どうして、一緒にいてくれるの…?」 ―――――――――― 「「どうして、一緒にいてくれるの…?」」  二人分の声が重なって、二人だけの図書館に響いた。  二人が互いに、ずっとため込んでいた疑問だった。  そして、それは本来なら。  二人が互いに、決して尋ねることの出来ない質問だった。  聞きたかった。  けれど、聞けなかった。  自分の存在意義を、相手に問う質問だった。  苗木誠が、苗木誠でなかったのなら。  霧切響子が、霧切響子でなかったのなら。  どちらか片方でも違ったのなら、その疑問は生まれることはなかっただろう。  ただ、事この二人に関しては。  互いが互いに、複雑に関係を絡みあわせていたから。  霧切響子は、後悔していた。  苗木誠に、あまりにも辛く当たってきたこと。  理不尽に殴ったり、心ない言葉を浴びせかけてきたことを。  自分には、彼の隣にいる価値はないと思っていた。  それでも苗木誠は、変わらず自分と接してくれる。  苗木誠も、後悔していた。  霧切響子を、あまりにも蔑ろにしてしまったこと。  幾度も自分を助けてくれた彼女に、何一つ恩を返せていなかったことを。  自分には、彼女の隣にいる価値はないと思っていた。  それでも霧切響子は、見捨てず側にいてくれる。  だから、二人は。  相手に認めてもらえなければ、自分を許すことは出来なかった。  自分から歩み寄る資格なんてないと、そう思わずにはいられなかった。  あまりにも、近すぎた二人だった。  机で隣り合う、二人の距離はたった7cm。  手を伸ばせば、触れる距離なのに。  一歩踏み込めば、届く距離なのに。  たったそれだけの差を気にして、二人は自分を遠ざけた。 「……僕は」  その、どうしようもなく歪で、永遠とも思われた均衡を。  先に破ったのは、『超高校級の希望』となるべき少年だった。 ―――――  時を止めたような長い沈黙を、震えた声が破る。 「僕は、霧切さんが…」  ドクン、と、心臓が嫌な跳ね方をした。  思いつめたような、苗木君の顔。  聞こえた鼓動は、もしかしたら彼のものだったのかもしれない。  その続きを聞きたい自分と、聞きたくない自分がいる。  霧切さんが、何?  私のことを、どう思っているの?  わかっていた、はずなのに。  自分自身で、何度も言い聞かせていたはずなのに。  桑田君や葉隠君にまで、言われたことなのに。  怖い。  他の誰よりも、彼の口から言われるのが一番怖い。  心臓の跳ねる激しさに、痛みさえ覚える。  手を握り締めていなければ、震えだしてしまいそう。  視線なんて、到底合わせられない。  瞳を閉じてしまわない様に、こらえるのが精いっぱいだ。  矛盾。  先程までは、彼の正直な本音を聞ければ、とまで思っていたのに。  その彼の本音が、ここまで怖いだなんて。  ああ、本当に、なんて面倒くさい人間なんだ、私は。  こんなだから苗木君も、  その口がゆっくり開く、  待って、  まだ、  心の準備が、  止めて、  言わないで、 「僕は、霧切さんが…無愛想とか、理不尽とか、思ったことは一度もないよ」  恐る恐る、伏せていた顔を上げる。  苗木君はまだ、当惑した様子だったけれど。  それでも真っ直ぐな眼差しで、私を覗き込んでいた。 「嘘よ…」  思わず、口から零れおちる。  彼が嘘をつくときの特徴は、経験上よく知っていた。  目を泳がせて、決してこちらを見ようとしない。  その彼の目が、  依然として優しい光をたたえて、私を覗き込んでいる。 「不満に思ったこと…一度や二度じゃないでしょう」 「確かにぶたれたりしたら、そんなぁ、って思うことはあるけどさ」  少し照れくさそうに、鼻頭を掻いて。  それでも彼は、まだ私に笑いかけてくれている。  嘘じゃ、ないの…? 「そういうところも霧切さんの魅力だって…僕は思うよ」  照れくさそうな笑顔のまま『魅力』だなんて言われて、思わず頬が熱くなる。  きっと、そんなつもりで言ったわけじゃないんだろうけど。  こういう天然ジゴロなところが、江ノ島さんも言っていた、女子に人気のある理由なんだろう。 「クールに見えて、本当はすごく優しいところとか…論理的に見えて、気持ちが先に出ちゃうところとか」  指を折って、彼は私の長所と思しきものを数える。  恥ずかしい、顔から火が出そうだ。  ずるい。  卑怯だ、そんなことを言うのは。  こんな面と向かって人を褒めちぎっても、たちが悪いことに、彼には打算や邪気がない。  本心から、こんなことを言っているんだ。  そう思うと、余計に恥ずかしくなる。  と、今度は別の理由で顔を伏せかけた時、  彼の顔が少しだけ陰ったのを、私は見逃さなかった。 「あと…僕みたいな情けない奴も、見捨てないでいてくれるところとか」  諦めたように笑って、そんな自虐を混ぜてきた。  それは、それだけは聞き捨てならない。 「それは違うわ」 ――――― 「それは違うわ」  居心地悪そうに目を伏せていた霧切さんが、その言葉とともにいつもの調子を取り戻した。  あまりにも唐突で。  今度は、僕が面食らう番だった。 「え、あの」 「誰が、情けない奴ですって?」  そんなの、僕以外にいないだろう。  『超高校級の幸運』なんて、偶然でこの学園にやってきた。  才能なんてまるでなくて、『超高校級の平凡』とまで言われるほどだ。  彼女の気持ちを察する聡明さも、彼女を支える腕力も、迷惑をかけない男らしさも。  何一つ、ない。 「私だって一度も、あなたが情けない人だなんて思ったことはないわ」  だから、彼女がどれほど真剣な目でそう言ってくれても。  僕は自分を信じることはできない。 「それこそ嘘だよ…自分でもわかってる、霧切さんが嫌になるほど、」 「私が、いつ、」  僕の言葉を遮って、彼女がずい、と踏み込んでくる。  上体を乗り出して、僕に詰め寄る。  ドキ、と、  それまで止まっていたんじゃないかと思うくらいに、急に心臓が跳ねた。 「私がいつ、そんなことを言ったというの? あなたのことが嫌になると」 「言っ…て、ないけど」  ちょっ、近、 「そうね、言ってないわ。私はあなたのことを情けないだなんて、思ったことはない」 「や、でも、」 「それとも苗木君は、私が嘘をついていると思っているのかしら?」  さらにぐいぐいと、霧切さんが押し迫ってくる。  人差し指を僕の額に押し付けて。 「おっ、思ってない…です」 「……よろしい」  目の前数センチで、彼女がほほ笑む。  うわ、こんな近距離で、  そんな可愛い顔、反則だ。  ……なんか、押し切られる形になってしまった。  こういうところが、僕は自分で男らしくないと思っている次第なんですが。  でも。  こんなに彼女が熱弁してくれるなんてこと、滅多になくて。 「でも…ホントに僕は男らしくなくて、霧切さんにあれだけ迷惑かけてきたのに…」 「私だって、全然女の子っぽくないでしょう。あなたは優しいから、文句も言わずに側にいてくれるけれど」 「それは違うよ!文句だなんて…僕は、僕自身が霧切さんの側にいたいから…」 「…私だって、同じよ。恩返しがほしくて助けたわけじゃない。私が、あなたの側にいたかったから…」 「……」 「……」 ―――――――――― 「あ゛ぁあああ~~!! 焦れったい、焦れったいぃいい~~!!」 「ちょ、江ノ島さん! 気持ちはわかりますけど、静かにしないとダメですよ…」 「見つめ合ってないでキスの一つでもかませっての、草食動物どもめぇえ…」 「……なぁ、やっぱりやめた方がいいんじゃないか」 「あぁ?何言ってんだ兄弟、おめぇが言いだしたんだろうが」 「いや、しかし…趣味が悪いんじゃないか、級友のプライベートを覗き見るだなんて」 「ちょっと石丸君、今更そういうのは言いっこなしですよ」 「覗き見るんじゃねえ、心配だから見守ってるだけだろうが」 「いや、しかし…後で苗木君と霧切君に謝りに行かなければ…」 「はぁ?どんだけ真面目なのよ、言わなくていいんだってばそういうの」 「しかし、君たちは罪悪感は感じないのか!?」 「ちょ、声でか、」 「あれ、二人…近くね?」 「えっ」 「おい、あの距離…」 「霧切さん、大胆…!」 「ふ、『不純異性交遊』だ!」 「まだ言うかお前は!」 「っておい、狭い…」 「江ノ島さん、しゃがんで、見えないです…」 「ちょっと、コラ、押すなって…!」 ――――――――――  僕たちは、しばらくそのままお互いに見つめあっていた。  互いの瞳に映った、自分自身を見ていたのかもしれない。  まるで鏡のように、同じように笑い、同じように悩んだ、瞳の中。  つまるところ、僕と彼女は。  似た者同士なんだ。  鏡映しのように。  相手から見ればどうでもいいような、ちっぽけな悩み。  それを、  決して届くことのない、遠い距離だと。  決して超えることのできない、高い壁だと。  勝手に、思い込んでいたのかもしれない。  僕からすれば、霧切さんが無愛想だなんて、本当に瑣末な問題で。 ―――――  私からすれば、苗木君が意気地無しなんて、本当に瑣末な問題なんだから。  そんな小さな欠点を遥かに超える魅力を、私はいくつも知っている。  あなたが一つの理由で以て、自分を蔑むのなら。  私は二つの理由で以て、あなたを称賛しよう。 「霧切さん、もしかして僕たち…」 「ええ。お互いに、悩みすぎていたみたいね」  ぷっ、と、苗木君が噴き出した。  くすり、と、思わず私も笑いを洩らしてしまう。  ゆるり、と、凝り固まっていた空気が緩んでいく。  それもそのはずだ。  お互いに感じていた引け目は、もう解消されたんだから。  何よりも信頼できる、お互いの言葉で。 「でも、良かった…僕、絶対霧切さんに愛想を尽かされているって、ずっと思ってたから」  誤解だけどセクハラもしちゃったし、と、おどけたように苗木君が鼻の頭を掻く。  困ったときや照れ隠しに、よく彼が見せる仕草だ。 「それを言うなら私だって…絶対あなたに嫌われていると思っていたわ」 「あ、でも…パンチとかはさすがに今後は勘弁してほしかったり」 「さあ、どうしようかしら? 苗木君、別に嫌ではないみたいだし」 「いや、さすがに痛いのはちょっと…」 「ふふ…じゃあ、今後のあなたの言動次第ね」  そう冗談めいて、笑いあって、ふと彼が重心をずらした時、  ふと、長椅子におかれた私の腕に、彼の手が触れた。  そうだ、さっき。  あまりにも彼が卑屈なことを言うから、勢いで身を乗り出してしまったんだっけ。  その距離、約7cm。  遠くにいると思っていた彼が、驚くほど近くにいた。  文字通り、目と鼻の先に、彼の顔があった。  一歩踏み込めば、届く距離。  手を伸ばせば、触れる距離。  体を乗り出せば、唇が―― 「あ、ゴメン…」  そのことに苗木君も気付いたのか、恥ずかしそうに触れ合っていた手を引っ込めようとする。  その腕を、  気付いた時には、私の指が捉えていた。 「ふぇっ!?」  突然のことに驚いたのか、苗木君が突拍子もない声を上げた。  その怯えたような姿が、とても愛らしく思えて、 「苗木、君…」 「え? あ…」  私は、 「あの、霧切さん…?」 「……嫌なら、拒みなさい」  してほしい、なんて言えるわけない。  嫌われていないと、わかっただけだ。  言ってしまえば、マイナスだと思っていたのがゼロに戻っただけ。  スタート地点に立っただけだ。  そこまで踏み込んでしまうのは、やりすぎだとわかっているのに。  雰囲気に流されているのかも。  もう、止まれない。  言葉にするのは、まだ恥ずかしいから。  代わりに私は、目を細めて顔を近づけた。  無音の図書館に、心臓の律動が響いている。 「霧切、さん…」  苗木君は、拒まない。  気づいてはいるのだろう、顔を真っ赤に染めている。  彼の瞳の奥の私と、きっと同じくらい真っ赤に。  それでも、  拒まないなら――  上体を近づける。  触れ合った指先を絡める。  無音の図書館で、二人分の心音が近くなる。  遠かった7cmが、少しずつ近くなる。  鼻先が触れ合う寸前。  彼はまだ、目を閉じない。  吐息がかかる。  瞳の向こうに映る私が、少しずつ近くなる。  無音の図書館を、 「ちょっと、コラ、押すなって…!」  ぶち壊すかの如く、聞き覚えのある級友の声が響き渡った。 ―――――――――― [[To epilogue.>7cm(エピローグ)]] ----
「あの、だから…謝らないといけないとは、思っていたんだけど」  それは、違う。  あなたが謝るようなことじゃないんだ。  怒っていたんじゃない。  私が勝手に、機嫌を悪くしていただけ。 「ま、待って…」  と、言いつつも、そこから先に繋げる言葉が見つからない。  違う、あなたにそんな的外れな謝罪をさせるために、約束を持ちだしたわけじゃないのに。 「でも、理由もわからずにただ謝るのも、霧切さんに失礼かな、って思って…」  理由なんて、わかる方がおかしい。  私が彼にあたっていた理由なんて、的外れもいいところなんだから。  あなたが他の女の子と楽しそうにしていたから、嫉妬しただなんて。  口が裂けても言えるもんか。 「……ごめん、なさい」  だから、それよりも先に。  私は自分の非を詫びた。 「えっ、な、なんで、霧切さんが」 「違うのよ、苗木君…あなたの罪悪感を煽るためにあんなこと言ったわけじゃないの」  自分が悪いのに先に謝られる辛さは、もう身に染みている。  素直になることには、相変わらず抵抗がある。  それは、素のままの自分を晒すということだ。  それは、とても恥ずかしくて、とても向こう見ずで。  それこそ苗木君とまだ、出会う前。  馬鹿みたいに裏切られて、安易な信頼への代償を払ったことも忘れてはいない。  だから、怖い。  人を信用して、自分の素直な気持ちを晒すということは。  私にとっては、敵に自分の弱点を教えるが如く、最も愚かな行為に等しかった。  けれど、苗木君は違う。  彼は敵なんかじゃない。  彼は私に、素直な気持ちでもって接してくれているのに。  いつまでも私が意地を張っているのは、それこそ彼に対して失礼だ。 「…謝るべきは、私の方なのに」 「だ、だから霧切さんが謝ることなんて、」 「…ずっと」 「え?」 「怯えていたでしょう、私に」  カチ、と、時計が次の針音を刻むと同時に、彼が凍りついた。  ビク、と、その体が強張ったのがおかしいくらいにわかる。  目はあちこちに泳ぎ出し、息を詰まらせたように口を開きっぱなし。  まるで小動物みたいだ。  ホント、嘘が下手なんだから、と、思わず頬が緩みそうになってしまう。  けれど、と、私は気を引き締める。  彼が体を強張らせたのは、つまり、 「怯えてなんか、ないよ」 「言い方が悪いかしら。ずっと私が不機嫌だったから、気を使わせて…」 「そ、そんなこと…そもそも僕が霧切さんを怒らせて、」  バチ、と、目が合う。  泳いでいた苗木君の瞳が、いきなり私を捉えた。  追い詰められたような、切迫した表情で。  いつも見せる、優しい光をたたえた瞳ではない。  時折見せる、射抜くような強い意志を宿らせた瞳でもない。  その瞳は、 「…ずっと、聞きたかったことがあるんだ…けど、怖くて聞けなかった」  奇遇なことだ。  私もずっと、あなたに怖くて聞けなかったことがある。  彼の瞳の奥に、私が映し出されている。  まるで水の底を見ているかのように、透き通って揺れる。  瞳の奥の私が、はたして苗木君と同じ表情をしている。 「僕は……、ずっと霧切さんに迷惑をかけてる…」  私は、ずっとあなたに理不尽を強いている。 「背も低いし、意気地無しで…自分でもわかってるけど、全然男らしくなんてない」  無愛想で、意地っ張りで…自分でもわかっている、全然女らしくなんてない。 「時々不安になるんだ…僕は、君の隣にいちゃいけないんじゃないか、って」  時々不安になるのよ、私なんかがあなたの隣にいていいのか、って。 「…ねえ、霧切さん」  次に紡がれるであろう言葉は。  寸分違わず、私の口が紡ぐ言葉と、同じなんだろう。 「どうして、一緒にいてくれるの…?」 ―――――  バチ、と、目が合う。  伏せられていた霧切さんの瞳が、いきなり僕を捉えた。  自分の罪を告白するような、思いつめた表情で。  いつも見せる、凛とした鋭い光のある瞳ではない。  時折見せる、慈愛に溢れた穏やかな瞳でもない。  ずっと、聞きたかったことがあるんだ。  けど、怖くて聞けなかった。 「奇遇なことね。私もあなたに、ずっと聞きたかったことがあるのよ」  彼女の瞳の奥に、僕が映し出されている。  まるで灯を見ているかのように、輝いて揺れる。  瞳の奥の僕は、はたして彼女と全く同じ表情をしている。 「私は、ずっとあなたに理不尽を強いているでしょう」  僕は、ずっと霧切さんに迷惑をかけている。 「無愛想で、意地っ張りで…自分でもわかってる、全然女らしくなんてない」  背も低いし、意気地無しで…自分でもわかっているけど、全然男らしくなんてない。 「時々不安になるのよ。私は、苗木君の隣にいてはいけないんじゃないか、って」  時々不安になるんだ、僕なんかが君の隣にいていいのか、って。 「…ねえ、苗木君」  次に紡がれるであろう言葉は。  寸分違わず、僕の口が紡ぐ言葉と、同じなんだろう。 「どうして、一緒にいてくれるの…?」 ―――――――――― 「「どうして、一緒にいてくれるの…?」」  二人分の声が重なって、二人だけの図書館に響いた。  二人が互いに、ずっとため込んでいた疑問だった。  そして、それは本来なら。  二人が互いに、決して尋ねることの出来ない質問だった。  聞きたかった。  けれど、聞けなかった。  自分の存在意義を、相手に問う質問だった。  苗木誠が、苗木誠でなかったのなら。  霧切響子が、霧切響子でなかったのなら。  どちらか片方でも違ったのなら、その疑問は生まれることはなかっただろう。  ただ、事この二人に関しては。  互いが互いに、複雑に関係を絡みあわせていたから。  霧切響子は、後悔していた。  苗木誠に、あまりにも辛く当たってきたこと。  理不尽に殴ったり、心ない言葉を浴びせかけてきたことを。  自分には、彼の隣にいる価値はないと思っていた。  それでも苗木誠は、変わらず自分と接してくれる。  苗木誠も、後悔していた。  霧切響子を、あまりにも蔑ろにしてしまったこと。  幾度も自分を助けてくれた彼女に、何一つ恩を返せていなかったことを。  自分には、彼女の隣にいる価値はないと思っていた。  それでも霧切響子は、見捨てず側にいてくれる。  だから、二人は。  相手に認めてもらえなければ、自分を許すことは出来なかった。  自分から歩み寄る資格なんてないと、そう思わずにはいられなかった。  あまりにも、近すぎた二人だった。  机で隣り合う、二人の距離はたった7cm。  手を伸ばせば、触れる距離なのに。  一歩踏み込めば、届く距離なのに。  たったそれだけの差を気にして、二人は自分を遠ざけた。 「……僕は」  その、どうしようもなく歪で、永遠とも思われた均衡を。  先に破ったのは、『超高校級の希望』となるべき少年だった。 ―――――  時を止めたような長い沈黙を、震えた声が破る。 「僕は、霧切さんが…」  ドクン、と、心臓が嫌な跳ね方をした。  思いつめたような、苗木君の顔。  聞こえた鼓動は、もしかしたら彼のものだったのかもしれない。  その続きを聞きたい自分と、聞きたくない自分がいる。  霧切さんが、何?  私のことを、どう思っているの?  わかっていた、はずなのに。  自分自身で、何度も言い聞かせていたはずなのに。  桑田君や葉隠君にまで、言われたことなのに。  怖い。  他の誰よりも、彼の口から言われるのが一番怖い。  心臓の跳ねる激しさに、痛みさえ覚える。  手を握り締めていなければ、震えだしてしまいそう。  視線なんて、到底合わせられない。  瞳を閉じてしまわない様に、こらえるのが精いっぱいだ。  矛盾。  先程までは、彼の正直な本音を聞ければ、とまで思っていたのに。  その彼の本音が、ここまで怖いだなんて。  ああ、本当に、なんて面倒くさい人間なんだ、私は。  こんなだから苗木君も、  その口がゆっくり開く、  待って、  まだ、  心の準備が、  止めて、  言わないで、 「僕は、霧切さんが…無愛想とか、理不尽とか、思ったことは一度もないよ」  恐る恐る、伏せていた顔を上げる。  苗木君はまだ、当惑した様子だったけれど。  それでも真っ直ぐな眼差しで、私を覗き込んでいた。 「嘘よ…」  思わず、口から零れおちる。  彼が嘘をつくときの特徴は、経験上よく知っていた。  目を泳がせて、決してこちらを見ようとしない。  その彼の目が、  依然として優しい光をたたえて、私を覗き込んでいる。 「不満に思ったこと…一度や二度じゃないでしょう」 「確かにぶたれたりしたら、そんなぁ、って思うことはあるけどさ」  少し照れくさそうに、鼻頭を掻いて。  それでも彼は、まだ私に笑いかけてくれている。  嘘じゃ、ないの…? 「そういうところも霧切さんの魅力だって…僕は思うよ」  照れくさそうな笑顔のまま『魅力』だなんて言われて、思わず頬が熱くなる。  きっと、そんなつもりで言ったわけじゃないんだろうけど。  こういう天然ジゴロなところが、江ノ島さんも言っていた、女子に人気のある理由なんだろう。 「クールに見えて、本当はすごく優しいところとか…論理的に見えて、気持ちが先に出ちゃうところとか」  指を折って、彼は私の長所と思しきものを数える。  恥ずかしい、顔から火が出そうだ。  ずるい。  卑怯だ、そんなことを言うのは。  こんな面と向かって人を褒めちぎっても、たちが悪いことに、彼には打算や邪気がない。  本心から、こんなことを言っているんだ。  そう思うと、余計に恥ずかしくなる。  と、今度は別の理由で顔を伏せかけた時、  彼の顔が少しだけ陰ったのを、私は見逃さなかった。 「あと…僕みたいな情けない奴も、見捨てないでいてくれるところとか」  諦めたように笑って、そんな自虐を混ぜてきた。  それは、それだけは聞き捨てならない。 「それは違うわ」 ――――― 「それは違うわ」  居心地悪そうに目を伏せていた霧切さんが、その言葉とともにいつもの調子を取り戻した。  あまりにも唐突で。  今度は、僕が面食らう番だった。 「え、あの」 「誰が、情けない奴ですって?」  そんなの、僕以外にいないだろう。  『超高校級の幸運』なんて、偶然でこの学園にやってきた。  才能なんてまるでなくて、『超高校級の平凡』とまで言われるほどだ。  彼女の気持ちを察する聡明さも、彼女を支える腕力も、迷惑をかけない男らしさも。  何一つ、ない。 「私だって一度も、あなたが情けない人だなんて思ったことはないわ」  だから、彼女がどれほど真剣な目でそう言ってくれても。  僕は自分を信じることはできない。 「それこそ嘘だよ…自分でもわかってる、霧切さんが嫌になるほど、」 「私が、いつ、」  僕の言葉を遮って、彼女がずい、と踏み込んでくる。  上体を乗り出して、僕に詰め寄る。  ドキ、と、  それまで止まっていたんじゃないかと思うくらいに、急に心臓が跳ねた。 「私がいつ、そんなことを言ったというの? あなたのことが嫌になると」 「言っ…て、ないけど」  ちょっ、近、 「そうね、言ってないわ。私はあなたのことを情けないだなんて、思ったことはない」 「や、でも、」 「それとも苗木君は、私が嘘をついていると思っているのかしら?」  さらにぐいぐいと、霧切さんが押し迫ってくる。  人差し指を僕の額に押し付けて。 「おっ、思ってない…です」 「……よろしい」  目の前数センチで、彼女がほほ笑む。  うわ、こんな近距離で、  そんな可愛い顔、反則だ。  ……なんか、押し切られる形になってしまった。  こういうところが、僕は自分で男らしくないと思っている次第なんですが。  でも。  こんなに彼女が熱弁してくれるなんてこと、滅多になくて。 「でも…ホントに僕は男らしくなくて、霧切さんにあれだけ迷惑かけてきたのに…」 「私だって、全然女の子っぽくないでしょう。あなたは優しいから、文句も言わずに側にいてくれるけれど」 「それは違うよ!文句だなんて…僕は、僕自身が霧切さんの側にいたいから…」 「…私だって、同じよ。恩返しがほしくて助けたわけじゃない。私が、あなたの側にいたかったから…」 「……」 「……」 ―――――――――― 「あ゛ぁあああ~~!! 焦れったい、焦れったいぃいい~~!!」 「ちょ、江ノ島さん! 気持ちはわかりますけど、静かにしないとダメですよ…」 「見つめ合ってないでキスの一つでもかませっての、草食動物どもめぇえ…」 「……なぁ、やっぱりやめた方がいいんじゃないか」 「あぁ?何言ってんだ兄弟、おめぇが言いだしたんだろうが」 「いや、しかし…趣味が悪いんじゃないか、級友のプライベートを覗き見るだなんて」 「ちょっと石丸君、今更そういうのは言いっこなしですよ」 「覗き見るんじゃねえ、心配だから見守ってるだけだろうが」 「いや、しかし…後で苗木君と霧切君に謝りに行かなければ…」 「はぁ?どんだけ真面目なのよ、言わなくていいんだってばそういうの」 「しかし、君たちは罪悪感は感じないのか!?」 「ちょ、声でか、」 「あれ、二人…近くね?」 「えっ」 「おい、あの距離…」 「霧切さん、大胆…!」 「ふ、『不純異性交遊』だ!」 「まだ言うかお前は!」 「っておい、狭い…」 「江ノ島さん、しゃがんで、見えないです…」 「ちょっと、コラ、押すなって…!」 ――――――――――  僕たちは、しばらくそのままお互いに見つめあっていた。  互いの瞳に映った、自分自身を見ていたのかもしれない。  まるで鏡のように、同じように笑い、同じように悩んだ、瞳の中。  つまるところ、僕と彼女は。  似た者同士なんだ。  鏡映しのように。  相手から見ればどうでもいいような、ちっぽけな悩み。  それを、  決して届くことのない、遠い距離だと。  決して超えることのできない、高い壁だと。  勝手に、思い込んでいたのかもしれない。  僕からすれば、霧切さんが無愛想だなんて、本当に瑣末な問題で。 ―――――  私からすれば、苗木君が意気地無しなんて、本当に瑣末な問題なんだから。  そんな小さな欠点を遥かに超える魅力を、私はいくつも知っている。  あなたが一つの理由で以て、自分を蔑むのなら。  私は二つの理由で以て、あなたを称賛しよう。 「霧切さん、もしかして僕たち…」 「ええ。お互いに、悩みすぎていたみたいね」  ぷっ、と、苗木君が噴き出した。  くすり、と、思わず私も笑いを洩らしてしまう。  ゆるり、と、凝り固まっていた空気が緩んでいく。  それもそのはずだ。  お互いに感じていた引け目は、もう解消されたんだから。  何よりも信頼できる、お互いの言葉で。 「でも、良かった…僕、絶対霧切さんに愛想を尽かされているって、ずっと思ってたから」  誤解だけどセクハラもしちゃったし、と、おどけたように苗木君が鼻の頭を掻く。  困ったときや照れ隠しに、よく彼が見せる仕草だ。 「それを言うなら私だって…絶対あなたに嫌われていると思っていたわ」 「あ、でも…パンチとかはさすがに今後は勘弁してほしかったり」 「さあ、どうしようかしら? 苗木君、別に嫌ではないみたいだし」 「いや、さすがに痛いのはちょっと…」 「ふふ…じゃあ、今後のあなたの言動次第ね」  そう冗談めいて、笑いあって、ふと彼が重心をずらした時、  ふと、長椅子におかれた私の腕に、彼の手が触れた。  そうだ、さっき。  あまりにも彼が卑屈なことを言うから、勢いで身を乗り出してしまったんだっけ。  その距離、約7cm。  遠くにいると思っていた彼が、驚くほど近くにいた。  文字通り、目と鼻の先に、彼の顔があった。  一歩踏み込めば、届く距離。  手を伸ばせば、触れる距離。  体を乗り出せば、唇が―― 「あ、ゴメン…」  そのことに苗木君も気付いたのか、恥ずかしそうに触れ合っていた手を引っ込めようとする。  その腕を、  気付いた時には、私の指が捉えていた。 「ふぇっ!?」  突然のことに驚いたのか、苗木君が突拍子もない声を上げた。  その怯えたような姿が、とても愛らしく思えて、 「苗木、君…」 「え? あ…」  私は、 「あの、霧切さん…?」 「……嫌なら、拒みなさい」  してほしい、なんて言えるわけない。  嫌われていないと、わかっただけだ。  言ってしまえば、マイナスだと思っていたのがゼロに戻っただけ。  スタート地点に立っただけだ。  そこまで踏み込んでしまうのは、やりすぎだとわかっているのに。  雰囲気に流されているのかも。  もう、止まれない。  言葉にするのは、まだ恥ずかしいから。  代わりに私は、目を細めて顔を近づけた。  無音の図書館に、心臓の律動が響いている。 「霧切、さん…」  苗木君は、拒まない。  気づいてはいるのだろう、顔を真っ赤に染めている。  彼の瞳の奥の私と、きっと同じくらい真っ赤に。  それでも、  拒まないなら――  上体を近づける。  触れ合った指先を絡める。  無音の図書館で、二人分の心音が近くなる。  遠かった7cmが、少しずつ近くなる。  鼻先が触れ合う寸前。  彼はまだ、目を閉じない。  吐息がかかる。  瞳の向こうに映る私が、少しずつ近くなる。  無音の図書館を、 「ちょっと、コラ、押すなって…!」  ぶち壊すかの如く、聞き覚えのある級友の声が響き渡った。 ―――――――――― [[To epilogue.>7cm(エピローグ)]] ----

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