大人ナエギリ 良い夫婦の日

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 特別な記念日だったわけじゃない。  祭日でも、どちらかの誕生日でも、二人が初めてキスをした日でも、なんでもない。  ただの、平日。 『ごめんなさい…こっちは天気が悪くて、帰るのが遅れそうなの』 「ううん、気にしないでよ。えっと、今はロンドンだっけ?」  しばらく探偵事務所を休み、海外で暮らしていた頃の友人に会いに行く。  そう決めて、霧切さんが出かけて一週間が経過していた。  一緒に行かないか、と誘われていたけれど、僕は遠慮しておいた。  恋人という関係ではあるけれど、いつもどこでも一緒という訳にはいかない。  せっかく古い友人に会うというのに、今の彼氏が付いていってもお邪魔だろう、と。  僕なりに、気を利かせたつもりだったんだけれど。  一週間という時間は、思っていたよりも長くて。  普段隣にいる人がいない、ただそれだけで、心に穴が開いたような喪失感。  間違ってコーヒーを二人分淹れてしまったり、お風呂から上がってもお湯を捨てるのを忘れたり。  一日、また一日とカレンダーに印を付け、ようやく帰ってくると心待ちにしていた、その前日。  彼女からかかってきた電話、帰るのがもう少し遅れるという旨の内容だった。 『本当に、ごめんなさい…』 「そ、そんなに謝らないでよ。霧切さんのせいじゃないんだし」 『でも…』 「わざわざ国際電話を掛けて教えてくれただけでも嬉しいよ。久しぶりに声も聞けたし」 『バカ…。もうしばらく、事務所の仕事をお願いできるかしら』 「うん、任せて。何日くらいになるの?」  彼女の言った日取りと、カレンダーの日付を数え合わせる。 『帰るのは…そうね、三日後くらいかしら』 「あ……そっか、わかった」 『…何か、都合悪いの?』 「え? ううん、別に」  帰国は三日後、十一月の二十二日。  空港からこの事務所まで、早くても半日はかかる。  到着する頃には、日付は変わってしまっているだろう。  特別な記念日じゃない。  ちょっと期待していたのは、きっと僕だけだったから。  その日に合わせて少しだけ高いワインや、いつもよりも凝った料理を、帰国祝いと称して振舞うつもりだっただけだから。 「気をつけて、帰ってきてね」  出来るだけ、落胆が彼女に伝わらないように。  僕は、めいいっぱいに明るい声を出して、受話器を置いた。 ――――― 『気をつけて、帰ってきてね』 「……」  返事は、上手く出来なかった。  彼が落胆しているのは声で分かるけれど、その理由は推し測れない。  なんて言葉を掛けるべきか、その答えを見つける前に、通話は途切れた。 「日本のボーイフレンド、でしょ?」 「……そうよ」  ホームステイ先の友人が、通話中もずっと目を光らせていた。  日本語は分からなくても、雰囲気で伝わってしまうのだろう。 「ふーん…響子も、そういう歳になったんだねー」 「…あなたもフラフラしていないで、そろそろいい人の一人や二人、見つけなさいよ」  からかい返すと、大きなクマのぬいぐるみを投げつけられた。  本人は、割と気にしている様子だ。  少しだけ不機嫌そうに眉をひそめたが、私の恋人への興味が湧き出すのを止められないらしく、また目を光らせる。 「いつから付き合ってるの?」 「…そうね、いつからだったかしら」 「誤魔化さないでよ」  本当に、いつからだったろうか。  気づけば、いつも一緒にいた気がする。  事件を見つけては彼を振り回し、よほど私が危なっかしかったのか、彼はいつも後ろに着いてきてくれて。  好意を抱くまでには、あまり長い時間は必要無かった。  バレンタインにチョコを贈ったり、イタズラと称して頬にキスをしたり。  けれど、まさか卒業しても着いてきてくれるとは思わなくて。  冗談半分で誘った『探偵事務所の助手』という、なんとも拙い申し出を快諾してくれて。  同じ屋根の下で暮らすようになって、言葉を重ね、唇を重ね、やがて体を重ね。  何度も言葉にして、愛してると伝えあったけれど。  この関係はどこから始まったのか、考えればどんどん深みにはまってしまう。 「…響子、結構大胆」 「いや、不健全な付き合いをしているワケじゃないのよ。ちゃんとお互いの親とも顔を合わせたし」 「えーっと、なんだっけそれ…『出来ちゃった結婚』?」 「どうしてそういう不純な日本語ばかりを覚えているのかしら」 「だって、先にキスとかそういう色んなことして…それから事後承諾で付き合ってるんでしょ?」 「いや、そうじゃなくて、あの…」  どうしよう。  言葉で説明するのは難しいけれど、そうじゃないんだ。  私たちは本当に、お互いに純粋に好き合って、だから今回帰るのが延期しただけですごく寂しいし、  あ、と独りごちだ。 ―――――  十一月二十二日は、明け方から音もなく雪が降り続いていた。  事務所の机、鳴ることのない電話の前で待機しながら、二杯目のコーヒーを入れる。  やることはやってしまっていた。  床には掃除機を掛け、夕飯の支度を済ませ、過去の事件のファイリングを終えて。  さて、と暇を持て余す。  この事務所に泊まり込むことは、珍しくはなかった。  いくら探偵とはいえ、女性の独り暮らしは大変そうだし。  彼女も何かにつけて僕を泊まらせようと、お酒を飲ませたり時計の針をわざと遅らせたり。  そんな微笑ましい記憶が、とても遠い日のものに思えてきた。  話し相手にもならないけれど、無いよりはましだ、とテレビの電源を入れる。  天気予報士が言うには、雪は夜更けまで続くらしい。  彼女が帰ってくるのは、日付が明日になってから。  加えて雪も止まないのだから、帰宅は相当遅れるはずだ。  日が暮れて、部屋の中にまで寒さが染み込んでくる。  暖房を入れるついでに立ち上がり、時計を見ればもう夕飯時。 「…出来れば、一緒に今日を迎えたかったなぁ」  それは本当につまらない、日本の俗習。  この日を何と呼ぶのか、海外での暮らしが長い彼女はきっと知らない。  教えようとは思わなかった。  僕だけが知っていればいい。  教えてしまうということは、すなわち彼女を僕に縛り付けてしまうことのように思えたから。  ガスコンロに火を灯す。  腕によりを掛けて作ったのは、ただのスパゲッティ。  昼のうちにソースや副菜を作っておいたから、あとは麺を茹でるだけだ。  ミートソースを絡めるだけで、隠し味も特別なものじゃないけれど、彼女はこれを好きだと言ってくれた。  この事務所に僕が来て、初めて作った思い出の料理だったりもする。  なんでも出来るように見えて、実は自炊が苦手な彼女のために、覚えたての料理の知識で精一杯に振舞って。  今日を、思い出の日にしたかったから、作った料理だ。  コンロの熱で暖を取っていると、玄関で呼び鈴が鳴った。  以来客だろうか。電話を寄越さずに来るというのは、珍しい。  幸いパスタをお湯に入れる前だったので、コンロの火を止めて玄関に向かう。 「はい、どちらさまです、か……」 「――ただいま」  雪女のように頭から足先まで、真っ白に染まった事務所の主が立っていた。 ――――― 「え、な……」  期待通りの反応で、思わずクスリと笑いを洩らしてしまう。  マフラーで口元を隠して、努めて落ち着いた声で。 「帰ってきたわよ、苗木君。お帰り、は?」 「あ、うん…お帰り、なさい」  ああ、これだ。  戸惑いつつも、迎え入れてくれる暖かい声。  ようやく日本に帰ってきたことを実感する。  ホームステイ先に無理を言って、少し高めの便のチケットを取って時間の融通を利かせ。  昨日の深夜に日本に着いて一泊し、早朝にホテルを発ち。  電車を乗り継ぎ、バスを乗り継ぎ、そして雪に足を取られながらも凱旋。  さすがに疲れたけれど、この反応で一気に疲れなど消し飛んでしまう。 「てっきり…着くのは明日になると思ってたよ。雪、ひどかったし」  玄関先で、苗木君の手が私の体の雪を払う。  帽子の上なんかスゴイ事になっていて、まるで雪だるまだ。 「なんとかして、今日中に戻りたいと思っていたのよ」 「え? それって、」 「電話であなた、寂しくて死んじゃいそうな声をしていたから」 「う…、まあ、その…」  からかい笑いながら、コートを渡す。  あっちの友人に聞かれれば、『どの口がいうのか』と大笑いされてしまうだろうけれど。  彼の声を聞いた瞬間に、途端に懐郷病がぶり返した。  旅行はもちろん楽しかったけれど、この事務所で二人過ごしている時間を、片時も忘れたことなどなかった。  旅は家の素晴らしさを再確認するためのものだ、とはよく言ったものだ。  それでも。  苗木君の前では強がっていたい。 「…寂しかったよ」 「……え?」 「あ、その…何でもない」 「何でもない、じゃないでしょう。ちゃんと言いなさい」  冷えた手を、悪戯代わりに服の中に突っ込むと、ひぇあ、と女の子のような悲鳴を上げる。  そのまま、私は苗木君を抱き寄せた。 ――――― 「あの、霧切さん…?」  コートをしまうために背中を向けると、手袋を脱いだ彼女の両手が、僕の肌にしがみつく。  霧切さんは応えずに、まるで僕の体温を味わうかのように、ゆっくりと瞳を閉じた。 「…手、冷えてるね。寒いの苦手じゃなかったっけ」 「大の苦手よ。途中、何度も凍え死ぬかと思ったわ」 「…それでも、帰ってきてくれたんだね」 「旅行もいいけれど、やっぱり家が恋しくなるのよ」  ぐりぐり、と、背中に頭を押し付けられている。  今日は珍しく甘えたがりだ。  やっぱり、霧切さんも寂しかったんだろうか。  僕だけが彼女を思っていたわけじゃないと、そう信じたい。 「ね、苗木君…温めてほしいわ」  耳元で囁かれる、熱っぽい声。  ドクン、と素直に反応した心臓を恨めしく思いながら、服に忍び込んだ彼女の腕をはがす。 「……まずは夕飯。そしてお風呂。霧切さん、疲れてるでしょ」 「その前に、ベッドよ。苗木君…あなたは女の子に、これ以上言わせる甲斐性無しじゃないでしょう」  冬の寒さは、人肌の恋しさを思わせるらしい。  十一月二十二日。  ゴロ合わせにしては上手い日を選んだものだ。  僕は振り返って、霧切さんに向き直った。  暖かい部屋に入って、少しだけ蕩けている瞳。溶けた雪で、ほんの少し湿った髪。  冷えた体を温めるように、背中に腕を回す。 「は、あ…」  温められてほっとしたのか、ゆっくりと霧切さんが息を吐いた。  それが頬に触れて、それすら冷たかった。  そのまま愛撫しそうになる、堪え性のない指をなんとか押さえつけ、 「…はい、ここまで」  雪のように冷たくなった頬に、軽く口付をして、手を離す。  よほど期待していたのか、恨めしそうにジト目で睨まれるけれど、知らんぷり。 「……せっかく恋人が、遠路はるばる帰ってきたのに、この仕打ち?」 「だから、最高の御もてなしを用意して待っていたんじゃない。ほら、座ってて。すぐ出来るから」  拗ねながらも素直にダイニングに向かう彼女に、再び微笑ましさを覚えながら。  僕は沸かしかけのお湯を、もう一度火にかけた。 ----
 特別な記念日だったわけじゃない。  祭日でも、どちらかの誕生日でも、二人が初めてキスをした日でも、なんでもない。  ただの、平日。 『ごめんなさい…こっちは天気が悪くて、帰るのが遅れそうなの』 「ううん、気にしないでよ。えっと、今はロンドンだっけ?」  しばらく探偵事務所を休み、海外で暮らしていた頃の友人に会いに行く。  そう決めて、霧切さんが出かけて一週間が経過していた。  一緒に行かないか、と誘われていたけれど、僕は遠慮しておいた。  恋人という関係ではあるけれど、いつもどこでも一緒という訳にはいかない。  せっかく古い友人に会うというのに、今の彼氏が付いていってもお邪魔だろう、と。  僕なりに、気を利かせたつもりだったんだけれど。  一週間という時間は、思っていたよりも長くて。  普段隣にいる人がいない、ただそれだけで、心に穴が開いたような喪失感。  間違ってコーヒーを二人分淹れてしまったり、お風呂から上がってもお湯を捨てるのを忘れたり。  一日、また一日とカレンダーに印を付け、ようやく帰ってくると心待ちにしていた、その前日。  彼女からかかってきた電話、帰るのがもう少し遅れるという旨の内容だった。 『本当に、ごめんなさい…』 「そ、そんなに謝らないでよ。霧切さんのせいじゃないんだし」 『でも…』 「わざわざ国際電話を掛けて教えてくれただけでも嬉しいよ。久しぶりに声も聞けたし」 『バカ…。もうしばらく、事務所の仕事をお願いできるかしら』 「うん、任せて。何日くらいになるの?」  彼女の言った日取りと、カレンダーの日付を数え合わせる。 『帰るのは…そうね、三日後くらいかしら』 「あ……そっか、わかった」 『…何か、都合悪いの?』 「え? ううん、別に」  帰国は三日後、十一月の二十二日。  空港からこの事務所まで、早くても半日はかかる。  到着する頃には、日付は変わってしまっているだろう。  特別な記念日じゃない。  ちょっと期待していたのは、きっと僕だけだったから。  その日に合わせて少しだけ高いワインや、いつもよりも凝った料理を、帰国祝いと称して振舞うつもりだっただけだから。 「気をつけて、帰ってきてね」  出来るだけ、落胆が彼女に伝わらないように。  僕は、めいいっぱいに明るい声を出して、受話器を置いた。 ――――― 『気をつけて、帰ってきてね』 「……」  返事は、上手く出来なかった。  彼が落胆しているのは声で分かるけれど、その理由は推し測れない。  なんて言葉を掛けるべきか、その答えを見つける前に、通話は途切れた。 「日本のボーイフレンド、でしょ?」 「……そうよ」  ホームステイ先の友人が、通話中もずっと目を光らせていた。  日本語は分からなくても、雰囲気で伝わってしまうのだろう。 「ふーん…響子も、そういう歳になったんだねー」 「…あなたもフラフラしていないで、そろそろいい人の一人や二人、見つけなさいよ」  からかい返すと、大きなクマのぬいぐるみを投げつけられた。  本人は、割と気にしている様子だ。  少しだけ不機嫌そうに眉をひそめたが、私の恋人への興味が湧き出すのを止められないらしく、また目を光らせる。 「いつから付き合ってるの?」 「…そうね、いつからだったかしら」 「誤魔化さないでよ」  本当に、いつからだったろうか。  気づけば、いつも一緒にいた気がする。  事件を見つけては彼を振り回し、よほど私が危なっかしかったのか、彼はいつも後ろに着いてきてくれて。  好意を抱くまでには、あまり長い時間は必要無かった。  バレンタインにチョコを贈ったり、イタズラと称して頬にキスをしたり。  けれど、まさか卒業しても着いてきてくれるとは思わなくて。  冗談半分で誘った『探偵事務所の助手』という、なんとも拙い申し出を快諾してくれて。  同じ屋根の下で暮らすようになって、言葉を重ね、唇を重ね、やがて体を重ね。  何度も言葉にして、愛してると伝えあったけれど。  この関係はどこから始まったのか、考えればどんどん深みにはまってしまう。 「…響子、結構大胆」 「いや、不健全な付き合いをしているワケじゃないのよ。ちゃんとお互いの親とも顔を合わせたし」 「えーっと、なんだっけそれ…『出来ちゃった結婚』?」 「どうしてそういう不純な日本語ばかりを覚えているのかしら」 「だって、先にキスとかそういう色んなことして…それから事後承諾で付き合ってるんでしょ?」 「いや、そうじゃなくて、あの…」  どうしよう。  言葉で説明するのは難しいけれど、そうじゃないんだ。  私たちは本当に、お互いに純粋に好き合って、だから今回帰るのが延期しただけですごく寂しいし、  あ、と独りごちだ。 ―――――  十一月二十二日は、明け方から音もなく雪が降り続いていた。  事務所の机、鳴ることのない電話の前で待機しながら、二杯目のコーヒーを入れる。  やることはやってしまっていた。  床には掃除機を掛け、夕飯の支度を済ませ、過去の事件のファイリングを終えて。  さて、と暇を持て余す。  この事務所に泊まり込むことは、珍しくはなかった。  いくら探偵とはいえ、女性の独り暮らしは大変そうだし。  彼女も何かにつけて僕を泊まらせようと、お酒を飲ませたり時計の針をわざと遅らせたり。  そんな微笑ましい記憶が、とても遠い日のものに思えてきた。  話し相手にもならないけれど、無いよりはましだ、とテレビの電源を入れる。  天気予報士が言うには、雪は夜更けまで続くらしい。  彼女が帰ってくるのは、日付が明日になってから。  加えて雪も止まないのだから、帰宅は相当遅れるはずだ。  日が暮れて、部屋の中にまで寒さが染み込んでくる。  暖房を入れるついでに立ち上がり、時計を見ればもう夕飯時。 「…出来れば、一緒に今日を迎えたかったなぁ」  それは本当につまらない、日本の俗習。  この日を何と呼ぶのか、海外での暮らしが長い彼女はきっと知らない。  教えようとは思わなかった。  僕だけが知っていればいい。  教えてしまうということは、すなわち彼女を僕に縛り付けてしまうことのように思えたから。  ガスコンロに火を灯す。  腕によりを掛けて作ったのは、ただのスパゲッティ。  昼のうちにソースや副菜を作っておいたから、あとは麺を茹でるだけだ。  ミートソースを絡めるだけで、隠し味も特別なものじゃないけれど、彼女はこれを好きだと言ってくれた。  この事務所に僕が来て、初めて作った思い出の料理だったりもする。  なんでも出来るように見えて、実は自炊が苦手な彼女のために、覚えたての料理の知識で精一杯に振舞って。  今日を、思い出の日にしたかったから、作った料理だ。  コンロの熱で暖を取っていると、玄関で呼び鈴が鳴った。  以来客だろうか。電話を寄越さずに来るというのは、珍しい。  幸いパスタをお湯に入れる前だったので、コンロの火を止めて玄関に向かう。 「はい、どちらさまです、か……」 「――ただいま」  雪女のように頭から足先まで、真っ白に染まった事務所の主が立っていた。 ――――― 「え、な……」  期待通りの反応で、思わずクスリと笑いを洩らしてしまう。  マフラーで口元を隠して、努めて落ち着いた声で。 「帰ってきたわよ、苗木君。お帰り、は?」 「あ、うん…お帰り、なさい」  ああ、これだ。  戸惑いつつも、迎え入れてくれる暖かい声。  ようやく日本に帰ってきたことを実感する。  ホームステイ先に無理を言って、少し高めの便のチケットを取って時間の融通を利かせ。  昨日の深夜に日本に着いて一泊し、早朝にホテルを発ち。  電車を乗り継ぎ、バスを乗り継ぎ、そして雪に足を取られながらも凱旋。  さすがに疲れたけれど、この反応で一気に疲れなど消し飛んでしまう。 「てっきり…着くのは明日になると思ってたよ。雪、ひどかったし」  玄関先で、苗木君の手が私の体の雪を払う。  帽子の上なんかスゴイ事になっていて、まるで雪だるまだ。 「なんとかして、今日中に戻りたいと思っていたのよ」 「え? それって、」 「電話であなた、寂しくて死んじゃいそうな声をしていたから」 「う…、まあ、その…」  からかい笑いながら、コートを渡す。  あっちの友人に聞かれれば、『どの口がいうのか』と大笑いされてしまうだろうけれど。  彼の声を聞いた瞬間に、途端に懐郷病がぶり返した。  旅行はもちろん楽しかったけれど、この事務所で二人過ごしている時間を、片時も忘れたことなどなかった。  旅は家の素晴らしさを再確認するためのものだ、とはよく言ったものだ。  それでも。  苗木君の前では強がっていたい。 「…寂しかったよ」 「……え?」 「あ、その…何でもない」 「何でもない、じゃないでしょう。ちゃんと言いなさい」  冷えた手を、悪戯代わりに服の中に突っ込むと、ひぇあ、と女の子のような悲鳴を上げる。  そのまま、私は苗木君を抱き寄せた。 ――――― 「あの、霧切さん…?」  コートをしまうために背中を向けると、手袋を脱いだ彼女の両手が、僕の肌にしがみつく。  霧切さんは応えずに、まるで僕の体温を味わうかのように、ゆっくりと瞳を閉じた。 「…手、冷えてるね。寒いの苦手じゃなかったっけ」 「大の苦手よ。途中、何度も凍え死ぬかと思ったわ」 「…それでも、帰ってきてくれたんだね」 「旅行もいいけれど、やっぱり家が恋しくなるのよ」  ぐりぐり、と、背中に頭を押し付けられている。  今日は珍しく甘えたがりだ。  やっぱり、霧切さんも寂しかったんだろうか。  僕だけが彼女を思っていたわけじゃないと、そう信じたい。 「ね、苗木君…温めてほしいわ」  耳元で囁かれる、熱っぽい声。  ドクン、と素直に反応した心臓を恨めしく思いながら、服に忍び込んだ彼女の腕をはがす。 「……まずは夕飯。そしてお風呂。霧切さん、疲れてるでしょ」 「その前に、ベッドよ。苗木君…あなたは女の子に、これ以上言わせる甲斐性無しじゃないでしょう」  冬の寒さは、人肌の恋しさを思わせるらしい。  十一月二十二日。  ゴロ合わせにしては上手い日を選んだものだ。  僕は振り返って、霧切さんに向き直った。  暖かい部屋に入って、少しだけ蕩けている瞳。溶けた雪で、ほんの少し湿った髪。  冷えた体を温めるように、背中に腕を回す。 「は、あ…」  温められてほっとしたのか、ゆっくりと霧切さんが息を吐いた。  それが頬に触れて、それすら冷たかった。  そのまま愛撫しそうになる、堪え性のない指をなんとか押さえつけ、 「…はい、ここまで」  雪のように冷たくなった頬に、軽く口付をして、手を離す。  よほど期待していたのか、恨めしそうにジト目で睨まれるけれど、知らんぷり。 「……せっかく恋人が、遠路はるばる帰ってきたのに、この仕打ち?」 「だから、最高の御もてなしを用意して待っていたんじゃない。ほら、座ってて。すぐ出来るから」  拗ねながらも素直にダイニングに向かう彼女に、再び微笑ましさを覚えながら。  僕は沸かしかけのお湯を、もう一度火にかけた。 ----

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