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「kk6_572-577」(2011/12/26 (月) 00:03:11) の最新版変更点
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絶望は終わった、という言い方は正しくないかもしれない。
江ノ島盾子が死の間際に残した“希望と絶望は表裏一体”という言葉は、きっと真実なのだと思う。
希望の先には絶望が、そしてその絶望を乗り越えた先にはまた希望が。
生きる限り、そのサイクルが終わることは無いのだろう。
だがそれはそれとして、一先ずは。
世界は絶望から立ち直り、ひととき平和という名の希望が訪れようとしている。
僕らがあの学園を“卒業”してから、五年。
少しずつではあるが、世界は僕らのよく知っていた日常の姿を取り戻しつつあるのだ。
そして、その傍らで。
僕個人の――いや、“僕ら”の人生においてもまた、大きな転機が今まさに到来している。
「ただいま」
帰宅の挨拶を口にしながら玄関のドアを開く。
数ヶ月前に構えたばかりの“僕ら”の新居。
それまでは僕らにとってオフィスがそのまま自宅とイコールだったけれど、これからはそうもいかなくなる。
というわけで新たにマンションの一室を借りたのだが、どうも僕はこの新たな生活に慣れきることができていないらしい。
例えば――小さなところでは、“苗木”と書かれた表のネームプレート。
僕らがずっと寝食の場としてきたオフィスの表札に冠されているのは、僕ではなく僕の上司の姓だ。
それにすっかり慣れてしまったから、ドアの前に僕の姓がでかでかと記されているという事実はそれだけで新鮮というかなんというか。
見る度に、未だむずがゆいような照れくさいような気持ちに襲われてしまう。
そして、大きなところでは――
「お帰りなさい、誠君。遅かったわね」
ドアの向こうで、僕の上司であるところの彼女が帰りを待ってくれていること。
彼女が“霧切探偵事務所”の所長職を一時休業する前は、もっぱら僕がオフィスで帰りを待つ側だった。
今はそれが丁度逆転している形だ。
「まだ起きてたんだ。夜更かしは身体に障るよ、響子さん」
「そうはいかないわよ。あなただって、私の帰りが遅い時にはいつも寝ずに待っていてくれたでしょう?」
ソファから立ち上がった彼女が僕へと歩み寄る。
きびきびとした足取りも、それにあわせて微かに揺れる銀色の長い髪も、深く澄んだすみれ色の瞳も、出会った頃から変わらない。
しかしながらゆったりとしたデザインのチュニックにレギンスといういでたちは、僕にとって見慣れた彼女のファッションとは大きく趣の異なるものだ。
加えて――そのお腹はふっくらと膨れている。
妊娠六ヶ月。
あと数ヶ月で僕は父親に、彼女は母親になる。
簡潔に説明するならば、つまりはそれが僕らの現況だ。
「お疲れ様。夕食はちゃんととったの?」
「うん、簡単にだけどね」
「明日はこれといった予定はなかったわよね? 夕食時には帰ってきてくれることを期待してもいいのかしら」
「そのつもりだよ。約束する」
言葉を交わしつつ、彼女は僕の手から外気でひんやりと冷えたコートを受け取る。
そして――僕の真正面、半歩の距離で。
「……」
コートを手にしたまま、彼女はじっと僕を見つめている。
その瞳の奥に浮かぶ色は、僕に何かをせがんでいるかのようで――。
これもまた、いつの間にか始まっていた僕らの新しい習慣の一つ。
そっと、彼女の唇に僕の唇を重ねる。
挨拶みたいなものなんだから、あくまで軽くだ。
事務所の床は全面リノリウム張りだけれど、この家には玄関に靴を脱ぐスペースがある。
だから家の中では二人ともスリッパ履きで、この瞬間にはそれが非常にありがたい。
具体的に何がどうありがたいのかは、語るまい。
「……何故キスの前に若干の間が空くのかしら」
唇を離したところで、軽いジト目が僕に向けられる。
「誰かに見られているわけでもなし、照れるようなことでもないと思うけれど?」
「いやまあ、そうなんだけど……どうも、ね」
「まったく、いい加減慣れてほしいものだわ」
そういう彼女も幾分頬が赤かったりするのだが。
僕がそれを口に出すより早く、彼女はくるりと踵を返す。
こんな時の彼女は大抵の場合照れ隠しをしているのだということを、僕は既に知っている。
「まあ、それはともかくとして……もうこんな時間だけれど、何か飲む?」
僕のコートをポールハンガーに掛けつつ、彼女が尋ねる。
「あ、いいよ。自分でやるから、響子さんは座ってて」
「そう言わないで。少しくらい、我が家の大黒柱を労わせてちょうだい」
「だ、大黒柱……?」
「あら、本当の事じゃないの。頼りにしているわよ、誠君」
微笑みながらそう言うと、彼女はもうキッチンへと足を向けている。
こういうところは、なんというか相変わらずだ。
内心苦笑しつつ、先刻まで彼女が座っていたのとは向かい側のソファに腰を下ろす。
「それで何にする? 実はグレンフィディック40年があるのだけれど」
「……どうしたの、そんな上物?」
「今日来客があってね。頂き物よ」
「そっか……でも、アルコールはやめとくよ。お茶、もらえるかな?」
「そう? 私に遠慮しなくてもいいのよ?」
「いや、僕一人で飲むのは勿体無いしさ……響子さんが飲めるようになったら、その時に二人で空けようよ」
キッチンからの声に答えつつ、何気なくテーブルの上の本を手にとってみる。
先刻まで彼女が読んでいたその本は、探偵小説の文庫本でもハードカバーの洋書でもなく、出産育児のハウツー本。
――本当に、もうすぐその時がやって来るんだ。
改めてそんな感慨を覚えてしまう。
僕と彼女の間に、子供が生まれる。
それを想った時に湧き上がってるくるこの気持ちはなんと表現するべきなのだろう。
一言で要約するなら、“幸せ”だとか“嬉しい”だとか、つまりはそういうことになるのだと思う。
だけれどそんな簡素でありふれた言葉だけでは、全てを言い表すにはまるで足りない。
ならばと頭を捻って言葉を探してみても、なかなかうまい言葉が浮かばないのだが。
己のボキャブラリの貧しさがちょっと悲しい……などと軽く自虐している間にも、僕の頬は自然に緩んできていたりする。
まあ要するに、強いて言葉を選ぶなら僕は“幸せ”で“嬉しい”のだ。
しっくりこないが、さしあたってはそれで良しとしておこう。
ただ、その一方で。
僅かに、ほんの僅かにではあるものの、僕は不安を感じていたりもする。
本当に自分なんかに父親が務まるのか――来るべき時が近づくにつれ、時折そんな考えが頭をよぎってしまう。
この期に及んで不甲斐ないとは自分でも思うのだけれど。
彼女は、どうなのだろう。
自分が母親になることについて、彼女はどう考えているのだろう。
不安は――無いのだろうか。
「その本も頂き物よ。十神夫人からのね」
不意に掛けられた声が、僕を物思いから現実へと引き戻す。
顔をあげると、当の彼女が急須と湯呑みを載せた盆を運んでくるところだ。
「え? じゃあ来客って……」
「二人とも元気そうだったわよ。それに、お子さんもね」
テーブルに置いた揃いの湯呑み二つにお茶を注ぐと、彼女は片方を僕に差し出す。
「そっか……来てくれてたんだ」
それを受け取りつつ、僕は一足早く子供をもうけた元クラスメート二人の顔を脳裏に描く。
この上なく多忙な身だろうに、きっとスケジュールの合間を縫ってわざわざ会いにきてくれたのだろう。
だとしたら、悪い事をしてしまったものだ。
僕は僕で所員が一人だけになったオフィスを切り盛りするのにおおわらわだから、思えばもう長いこと顔を合わせていない。
お茶を啜りながら彼女の口から彼らの近況を聞いていると、自然と懐かしさがこみ上げてくる。
「冬子さんにいろいろとアドバイスして貰ったわ……すっかり母親ね、彼女。変われば変わるもの……なんて言い方は流石に失礼でしょうけど」
「へぇ……」
「……何か言いたげね」
「いや、そんなことは……」
「大方『私も人のことを偉そうには言えない』なんて思っているんでしょう?」
「だから……思ってないって」
「別にいいのよ。ある程度は自覚しているし」
「ちょっと、拗ねなくたっていいじゃないか……」
僕も彼に会えていたなら――父親の心構えについて意見を尋ねてみるのもよかったかもしれない。
自分が父親になると知った時、果たして彼は何を思っただろう。
自信家の彼でも、不安を感じたりはしなかっただろうか。
こんなことを聞いたとしても、おそらく十中八九は鼻で笑われて終わりだとは思うが。
「あなたに会えなくて随分残念そうにしていたわよ、十神君。『もう二度と俺の方からは出向かん』ですって」
「ははっ……相変わらずだね。今度はこちらから訪ねなきゃ」
「そうね。その時は……この子も一緒に、ね」
そう言って彼女は自分のお腹にそっと触れる。
二人きりの今、彼女は手袋を身につけていない。
裸の掌で胎内の我が子を撫で摩るその面差しは、とても優しい。
自分の気持ちを率直に表すのが苦手な彼女だけれど、今はその瞳に溢れんばかりの慈しみの一切を包み隠すことなく湛えている。
母親の顔、というやつだろうか。
それがこれまでになく美しくて、僕は思わず見蕩れてしまう。
「……何?」
「ん、いや……なんでもないよ。ところでさ」
視線に気付き怪訝な表情を返す彼女に対し、僕は慌てて話題を切り替える。
別にやましいことがあるわけでもないのだし、慌てる必要はないはずなのだが。
……そう、やましいことなんてない。
母親の顔をした彼女があまりに綺麗だったから、ちょっとだけ我が子にジェラシーを感じてしまっていただとか、そんなことは断じてないのだ。
「えっと、今日の案件のことなんだけど。今話してもいい?」
「ああ……そうね。聞かせてもらうわ」
その言葉を合図とするように、先刻まで母親のそれだった彼女の瞳は微かな鋭い光を宿す。
出会った頃から幾度となく目にしてきた、探偵としての彼女の眼。
「それじゃあ、話すね……」
彼女が休業せざるを得なくなったことで、僕の肩書きは“探偵助手”から“探偵代理”になった。
この五年で彼女から探偵術のイロハをみっちりと叩き込まれた甲斐あってか、どうにかこうにか僕は新たな役職を果たすことができている。
とはいえ、どうしても及ばざる点は出てくるもので。
そんな時には、やはり彼女に助言を求めざるを得なくなる。
実際のところとしては、彼女が安楽椅子探偵で僕はその耳目といった方が正確なのだと思う。
だからこうして帰宅後に一日の調査内容を報告することが僕の日課となるのも、まあ必然と言っていいだろう。
以前僕が『ネロ・ウルフとアーチーみたいだね』と言った時には彼女は少し心外な様子だったが……まあそれは余談。
幸いなことに、ここ最近の依頼で人の命が絡むようなものはそうそう無い。
専ら人探しや物探し――七年前の“あの事件”の関係で、生き別れた肉親や失くしてしまった大切な品を捜してくれといった内容のものが主だ。
今日僕がこなしてきた案件も例外ではなく、彼女の助言のお陰もあって無事に一組の親子を再会させることができた。
「――と、まあそんな感じで一件落着。今回もまた響子さんに頼っちゃったけどね」
「いえ。あなたが必要なことを確実に観て、聴いて、考えてくれているからこそ、私も適切な助言ができるのよ。あなたはもっと自分を誇っていいわ」
「そ、そうかな……」
「そうよ。私が保証するわ。今日もご苦労様……これからも、よろしく頼むわね」
労いの言葉を僕にかけながら、彼女は小さく笑みをもらす。
ちょっとばかり情けない気もするが……やっぱり、彼女に仕事ぶりを褒めてもらえるのは素直に嬉しい。
それにつけても――やはりというかなんというか。
いつものことなのだが、僕からこうして仕事の話を聞いていると、我が愛しのネロ・ウルフはどうにも血が騒いで仕方がない様子だ。
人探しなんて探偵の初歩、というのは彼女の弁だったけれど。
そんな朝飯前の案件の話でも、内心うずうずしているのが見て取れる。
物心ついた頃からずっと霧切の探偵であり続けてきた彼女にとって、これほど長く自らの生業から離れるなんて久しくなかったことだろう。
そのことを思えば、無理もないことかもしれない。
「あのさ、響子さん。やっぱり、早く仕事に復帰したい?」
「え……?」
「いや、そんな顔してたからさ」
空になった湯呑みにおかわりを注ぎながら、言葉にして尋ねてみる。
「そう、ね――」
顎に手を添えて、彼女は思案顔を作る。
事件に臨んで推理を巡らす時に彼女がよく見せる仕草。
ただ、その面持ちは僕の見知った探偵としての彼女のものとは少し違う気がする。
どこがどうとは言いがたいが、彼女には珍しい種類の表情だ。
しかしそれも寸刻のことで、すぐに彼女は顔を上げる。
「そういう気持ちが無いと言えば嘘になるけれど……でも、今は後回しね」
軽く髪をかきあげると、もう彼女の顔から探偵の鋭さは影を潜めている。
「私が今第一に考えるべきは何よりこの子のことなのだし……安楽椅子探偵というのも、なかなか貴重な体験だしね」
「そっか……」
「それに何より、あなたがいてくれるから」
「え、僕?」
「さっきも言った通りよ。現場のことはあなたに任せておいて間違いないから、私も安心してこの子のことに専念していられるの」
「……なんか、照れるなぁ。そんな風に言われると」
「だから、今はこれでいいのよ。そう思えるのもあなたのお陰……ありがとう、誠君」
「あ、ああ……どう、いたしまして」
ぎこちなく礼を返す僕を見て、彼女はくすりと笑う。
母親――か。
よく言えば孤高、悪く言えばスタンドプレイヤーとでもいうか。
以前の彼女は何でも一人で抱え込んで、一人で突っ走ってしまうところがあった。
探偵の仕事のこととなると、殊更その傾向が強い。
それが今は僕に実務を預けて、そしてお腹の子のことを一番に考えてくれている。
本当に変われば変わるもの……なんて言ったらまた彼女にジト目を向けられてしまいそうだけれど。
そう――彼女は母親になろうとしているのだ。
来るべき、その時に向けて。
「話は変わるんだけど……もう一つ聞いてもいいかな」
「何かしら?」
「響子さんは……不安に思ったことはない? その、自分が母親になることについてさ」
そんな彼女を見ているうちに――僕は思わず尋ねていた。
自分の中にある、一抹の不安について。
唐突な僕の問いかけに、彼女も幾分面食らった様子をみせる。
「あなたは、不安なの?」
「……ほんの少し、だけどね。いや、勿論嬉しいって気持ちの方が強いんだけどさ」
「そう……」
彼女は軽く瞼を閉じると、手にした湯呑みに口をつける。
そして一拍の間を置いてから言葉を続ける。
「私も、同じよ……ふとした時に『私みたいな女が母親になれるのか?』なんて考えてしまうくらいにはね。だけど……」
「だけど?」
「怖くはないわ」
「不安なのに……でも怖くない?」
「ええ。これもまた、あなたのお陰ね」
「僕の……?」
ついつい鸚鵡返しを重ねてしまう僕の姿は、傍から見たらさぞかし間抜けなことだろう。
いつもなら即座に突っ込まれているところだが、彼女はただ穏やかな視線を僕に向けるのみだ。
「ええ、あなたのお陰。あなたのような人と一緒なら……この先何が待っていようと、私はむしろ楽しみよ」
「あ……」
それは僕らが絶望の学園を“卒業”して絶望の世界へと旅立ったあの日、彼女が僕に言ってくれたこと。
忘れていたわけではないけれど、なんだかひどく懐かしく響く。
あれからもう――五年になる。
「あの時、あなたがくれた“希望”は今も変わらず私の中にあるわ。だからこそ、私は今日まで歩いてこれた……そして、これからも」
少し面映げに笑うと、彼女は再びお腹を撫でる。
その表情はとても柔らかくて、ちょっとずるいくらいに綺麗だ。
「そしてこの子も、あなたがくれた私の新しい“希望”。あなたがいるから、この子がいるなら……たとえ不安だろうと、私はそれに立ち向かえるの」
「“希望”……ああ、そうか――」
それは“幸せ”や“嬉しい”とさして変わらない、ごく簡素でありふれた言葉のはずだけど。
僕らにとっては、何より特別な意味を持った言葉。
ああ、そうか――。
今しがた口にしたことを、声には出さず反芻する。
初心を忘れていた、とでもいうべきか。
自分の中から霞が晴れていくのを感じる。
「今度は僕の方が“希望”をもらっちゃった、のかな……」
「もう平気かしら?」
「うん、すっかりね。何を不安に思ってたんだろうってくらいに」
ソファから立ち上がり、向かいに座る彼女の隣へ席を移す。
「ねえ、触ってもいい?」
「許可を求める必要はないでしょう? あなたの子なんだから」
「ああ……それもそうか」
そっと彼女のお腹に手を添えてみる。
柔らかく、そして暖かい――確かな命の存在が伝わってくる。
希望というものに形があるとすれば、それはきっとこんな触れ心地なのだろう。
静かに、僕の手の上から別の手が重ねられる。
顔を上げると、すみれ色の瞳が僕を真っ直ぐに見つめている。
どちらからともなく顔を寄せ合い、僕らは口づけを交わす。
さっきのような軽い挨拶代わりではない、愛を――希望を交換するのに充分な深さをもった口づけを。
かつて、彼女は僕を“希望”と呼んだ。
だけど僕が“希望”になれたのだとしたら、それは“希望”の差す方へと僕を導いてくれた彼女がいたからこそだと思う。
彼女に面と向かって言えば否定するかもしれないけれど、僕にとっては彼女こそが“希望”。
思えば僕らは互いに“希望”を分け合って、ここまでやって来れたのだ。
僕が彼女に“希望”をあげて、彼女が僕に“希望”をくれて。
そしてこれからは――この子も一緒に。
希望は前に進むんだ。
「! 今、この子……!?」
「うん……蹴った! お腹、蹴ったね!」
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絶望は終わった、という言い方は正しくないかもしれない。
江ノ島盾子が死の間際に残した“希望と絶望は表裏一体”という言葉は、きっと真実なのだと思う。
希望の先には絶望が、そしてその絶望を乗り越えた先にはまた希望が。
生きる限り、そのサイクルが終わることは無いのだろう。
だがそれはそれとして、一先ずは。
世界は絶望から立ち直り、ひととき平和という名の希望が訪れようとしている。
僕らがあの学園を“卒業”してから、五年。
少しずつではあるが、世界は僕らのよく知っていた日常の姿を取り戻しつつあるのだ。
そして、その傍らで。
僕個人の――いや、“僕ら”の人生においてもまた、大きな転機が今まさに到来している。
「ただいま」
帰宅の挨拶を口にしながら玄関のドアを開く。
数ヶ月前に構えたばかりの“僕ら”の新居。
それまでは僕らにとってオフィスがそのまま自宅とイコールだったけれど、これからはそうもいかなくなる。
というわけで新たにマンションの一室を借りたのだが、どうも僕はこの新たな生活に慣れきることができていないらしい。
例えば――小さなところでは、“苗木”と書かれた表のネームプレート。
僕らがずっと寝食の場としてきたオフィスの表札に冠されているのは、僕ではなく僕の上司の姓だ。
それにすっかり慣れてしまったから、ドアの前に僕の姓がでかでかと記されているという事実はそれだけで新鮮というかなんというか。
見る度に、未だむずがゆいような照れくさいような気持ちに襲われてしまう。
そして、大きなところでは――
「お帰りなさい、誠君。遅かったわね」
ドアの向こうで、僕の上司であるところの彼女が帰りを待ってくれていること。
彼女が“霧切探偵事務所”の所長職を一時休業する前は、もっぱら僕がオフィスで帰りを待つ側だった。
今はそれが丁度逆転している形だ。
「まだ起きてたんだ。夜更かしは身体に障るよ、響子さん」
「そうはいかないわよ。あなただって、私の帰りが遅い時にはいつも寝ずに待っていてくれたでしょう?」
ソファから立ち上がった彼女が僕へと歩み寄る。
きびきびとした足取りも、それにあわせて微かに揺れる銀色の長い髪も、深く澄んだすみれ色の瞳も、出会った頃から変わらない。
しかしながらゆったりとしたデザインのチュニックにレギンスといういでたちは、僕にとって見慣れた彼女のファッションとは大きく趣の異なるものだ。
加えて――そのお腹はふっくらと膨れている。
妊娠六ヶ月。
あと数ヶ月で僕は父親に、彼女は母親になる。
簡潔に説明するならば、つまりはそれが僕らの現況だ。
「お疲れ様。夕食はちゃんととったの?」
「うん、簡単にだけどね」
「明日はこれといった予定はなかったわよね? 夕食時には帰ってきてくれることを期待してもいいのかしら」
「そのつもりだよ。約束する」
言葉を交わしつつ、彼女は僕の手から外気でひんやりと冷えたコートを受け取る。
そして――僕の真正面、半歩の距離で。
「……」
コートを手にしたまま、彼女はじっと僕を見つめている。
その瞳の奥に浮かぶ色は、僕に何かをせがんでいるかのようで――。
これもまた、いつの間にか始まっていた僕らの新しい習慣の一つ。
そっと、彼女の唇に僕の唇を重ねる。
挨拶みたいなものなんだから、あくまで軽くだ。
事務所の床は全面リノリウム張りだけれど、この家には玄関に靴を脱ぐスペースがある。
だから家の中では二人ともスリッパ履きで、この瞬間にはそれが非常にありがたい。
具体的に何がどうありがたいのかは、語るまい。
「……何故キスの前に若干の間が空くのかしら」
唇を離したところで、軽いジト目が僕に向けられる。
「誰かに見られているわけでもなし、照れるようなことでもないと思うけれど?」
「いやまあ、そうなんだけど……どうも、ね」
「まったく、いい加減慣れてほしいものだわ」
そういう彼女も幾分頬が赤かったりするのだが。
僕がそれを口に出すより早く、彼女はくるりと踵を返す。
こんな時の彼女は大抵の場合照れ隠しをしているのだということを、僕は既に知っている。
「まあ、それはともかくとして……もうこんな時間だけれど、何か飲む?」
僕のコートをポールハンガーに掛けつつ、彼女が尋ねる。
「あ、いいよ。自分でやるから、響子さんは座ってて」
「そう言わないで。少しくらい、我が家の大黒柱を労わせてちょうだい」
「だ、大黒柱……?」
「あら、本当の事じゃないの。頼りにしているわよ、誠君」
微笑みながらそう言うと、彼女はもうキッチンへと足を向けている。
こういうところは、なんというか相変わらずだ。
内心苦笑しつつ、先刻まで彼女が座っていたのとは向かい側のソファに腰を下ろす。
「それで何にする? 実はグレンフィディック40年があるのだけれど」
「……どうしたの、そんな上物?」
「今日来客があってね。頂き物よ」
「そっか……でも、アルコールはやめとくよ。お茶、もらえるかな?」
「そう? 私に遠慮しなくてもいいのよ?」
「いや、僕一人で飲むのは勿体無いしさ……響子さんが飲めるようになったら、その時に二人で空けようよ」
キッチンからの声に答えつつ、何気なくテーブルの上の本を手にとってみる。
先刻まで彼女が読んでいたその本は、探偵小説の文庫本でもハードカバーの洋書でもなく、出産育児のハウツー本。
――本当に、もうすぐその時がやって来るんだ。
改めてそんな感慨を覚えてしまう。
僕と彼女の間に、子供が生まれる。
それを想った時に湧き上がってるくるこの気持ちはなんと表現するべきなのだろう。
一言で要約するなら、“幸せ”だとか“嬉しい”だとか、つまりはそういうことになるのだと思う。
だけれどそんな簡素でありふれた言葉だけでは、全てを言い表すにはまるで足りない。
ならばと頭を捻って言葉を探してみても、なかなかうまい言葉が浮かばないのだが。
己のボキャブラリの貧しさがちょっと悲しい……などと軽く自虐している間にも、僕の頬は自然に緩んできていたりする。
まあ要するに、強いて言葉を選ぶなら僕は“幸せ”で“嬉しい”のだ。
しっくりこないが、さしあたってはそれで良しとしておこう。
ただ、その一方で。
僅かに、ほんの僅かにではあるものの、僕は不安を感じていたりもする。
本当に自分なんかに父親が務まるのか――来るべき時が近づくにつれ、時折そんな考えが頭をよぎってしまう。
この期に及んで不甲斐ないとは自分でも思うのだけれど。
彼女は、どうなのだろう。
自分が母親になることについて、彼女はどう考えているのだろう。
不安は――無いのだろうか。
「その本も頂き物よ。十神夫人からのね」
不意に掛けられた声が、僕を物思いから現実へと引き戻す。
顔をあげると、当の彼女が急須と湯呑みを載せた盆を運んでくるところだ。
「え? じゃあ来客って……」
「二人とも元気そうだったわよ。それに、お子さんもね」
テーブルに置いた揃いの湯呑み二つにお茶を注ぐと、彼女は片方を僕に差し出す。
「そっか……来てくれてたんだ」
それを受け取りつつ、僕は一足早く子供をもうけた元クラスメート二人の顔を脳裏に描く。
この上なく多忙な身だろうに、きっとスケジュールの合間を縫ってわざわざ会いにきてくれたのだろう。
だとしたら、悪い事をしてしまったものだ。
僕は僕で所員が一人だけになったオフィスを切り盛りするのにおおわらわだから、思えばもう長いこと顔を合わせていない。
お茶を啜りながら彼女の口から彼らの近況を聞いていると、自然と懐かしさがこみ上げてくる。
「冬子さんにいろいろとアドバイスして貰ったわ……すっかり母親ね、彼女。変われば変わるもの……なんて言い方は流石に失礼でしょうけど」
「へぇ……」
「……何か言いたげね」
「いや、そんなことは……」
「大方『私も人のことを偉そうには言えない』なんて思っているんでしょう?」
「だから……思ってないって」
「別にいいのよ。ある程度は自覚しているし」
「ちょっと、拗ねなくたっていいじゃないか……」
僕も彼に会えていたなら――父親の心構えについて意見を尋ねてみるのもよかったかもしれない。
自分が父親になると知った時、果たして彼は何を思っただろう。
自信家の彼でも、不安を感じたりはしなかっただろうか。
こんなことを聞いたとしても、おそらく十中八九は鼻で笑われて終わりだとは思うが。
「あなたに会えなくて随分残念そうにしていたわよ、十神君。『もう二度と俺の方からは出向かん』ですって」
「ははっ……相変わらずだね。今度はこちらから訪ねなきゃ」
「そうね。その時は……この子も一緒に、ね」
そう言って彼女は自分のお腹にそっと触れる。
二人きりの今、彼女は手袋を身につけていない。
裸の掌で胎内の我が子を撫で摩るその面差しは、とても優しい。
自分の気持ちを率直に表すのが苦手な彼女だけれど、今はその瞳に溢れんばかりの慈しみの一切を包み隠すことなく湛えている。
母親の顔、というやつだろうか。
それがこれまでになく美しくて、僕は思わず見蕩れてしまう。
「……何?」
「ん、いや……なんでもないよ。ところでさ」
視線に気付き怪訝な表情を返す彼女に対し、僕は慌てて話題を切り替える。
別にやましいことがあるわけでもないのだし、慌てる必要はないはずなのだが。
……そう、やましいことなんてない。
母親の顔をした彼女があまりに綺麗だったから、ちょっとだけ我が子にジェラシーを感じてしまっていただとか、そんなことは断じてないのだ。
「えっと、今日の案件のことなんだけど。今話してもいい?」
「ああ……そうね。聞かせてもらうわ」
その言葉を合図とするように、先刻まで母親のそれだった彼女の瞳は微かな鋭い光を宿す。
出会った頃から幾度となく目にしてきた、探偵としての彼女の眼。
「それじゃあ、話すね……」
彼女が休業せざるを得なくなったことで、僕の肩書きは“探偵助手”から“探偵代理”になった。
この五年で彼女から探偵術のイロハをみっちりと叩き込まれた甲斐あってか、どうにかこうにか僕は新たな役職を果たすことができている。
とはいえ、どうしても及ばざる点は出てくるもので。
そんな時には、やはり彼女に助言を求めざるを得なくなる。
実際のところとしては、彼女が安楽椅子探偵で僕はその耳目といった方が正確なのだと思う。
だからこうして帰宅後に一日の調査内容を報告することが僕の日課となるのも、まあ必然と言っていいだろう。
以前僕が『ネロ・ウルフとアーチーみたいだね』と言った時には彼女は少し心外な様子だったが……まあそれは余談。
幸いなことに、ここ最近の依頼で人の命が絡むようなものはそうそう無い。
専ら人探しや物探し――七年前の“あの事件”の関係で、生き別れた肉親や失くしてしまった大切な品を捜してくれといった内容のものが主だ。
今日僕がこなしてきた案件も例外ではなく、彼女の助言のお陰もあって無事に一組の親子を再会させることができた。
「――と、まあそんな感じで一件落着。今回もまた響子さんに頼っちゃったけどね」
「いえ。あなたが必要なことを確実に観て、聴いて、考えてくれているからこそ、私も適切な助言ができるのよ。あなたはもっと自分を誇っていいわ」
「そ、そうかな……」
「そうよ。私が保証するわ。今日もご苦労様……これからも、よろしく頼むわね」
労いの言葉を僕にかけながら、彼女は小さく笑みをもらす。
ちょっとばかり情けない気もするが……やっぱり、彼女に仕事ぶりを褒めてもらえるのは素直に嬉しい。
それにつけても――やはりというかなんというか。
いつものことなのだが、僕からこうして仕事の話を聞いていると、我が愛しのネロ・ウルフはどうにも血が騒いで仕方がない様子だ。
人探しなんて探偵の初歩、というのは彼女の弁だったけれど。
そんな朝飯前の案件の話でも、内心うずうずしているのが見て取れる。
物心ついた頃からずっと霧切の探偵であり続けてきた彼女にとって、これほど長く自らの生業から離れるなんて久しくなかったことだろう。
そのことを思えば、無理もないことかもしれない。
「あのさ、響子さん。やっぱり、早く仕事に復帰したい?」
「え……?」
「いや、そんな顔してたからさ」
空になった湯呑みにおかわりを注ぎながら、言葉にして尋ねてみる。
「そう、ね――」
顎に手を添えて、彼女は思案顔を作る。
事件に臨んで推理を巡らす時に彼女がよく見せる仕草。
ただ、その面持ちは僕の見知った探偵としての彼女のものとは少し違う気がする。
どこがどうとは言いがたいが、彼女には珍しい種類の表情だ。
しかしそれも寸刻のことで、すぐに彼女は顔を上げる。
「そういう気持ちが無いと言えば嘘になるけれど……でも、今は後回しね」
軽く髪をかきあげると、もう彼女の顔から探偵の鋭さは影を潜めている。
「私が今第一に考えるべきは何よりこの子のことなのだし……安楽椅子探偵というのも、なかなか貴重な体験だしね」
「そっか……」
「それに何より、あなたがいてくれるから」
「え、僕?」
「さっきも言った通りよ。現場のことはあなたに任せておいて間違いないから、私も安心してこの子のことに専念していられるの」
「……なんか、照れるなぁ。そんな風に言われると」
「だから、今はこれでいいのよ。そう思えるのもあなたのお陰……ありがとう、誠君」
「あ、ああ……どう、いたしまして」
ぎこちなく礼を返す僕を見て、彼女はくすりと笑う。
母親――か。
よく言えば孤高、悪く言えばスタンドプレイヤーとでもいうか。
以前の彼女は何でも一人で抱え込んで、一人で突っ走ってしまうところがあった。
探偵の仕事のこととなると、殊更その傾向が強い。
それが今は僕に実務を預けて、そしてお腹の子のことを一番に考えてくれている。
本当に変われば変わるもの……なんて言ったらまた彼女にジト目を向けられてしまいそうだけれど。
そう――彼女は母親になろうとしているのだ。
来るべき、その時に向けて。
「話は変わるんだけど……もう一つ聞いてもいいかな」
「何かしら?」
「響子さんは……不安に思ったことはない? その、自分が母親になることについてさ」
そんな彼女を見ているうちに――僕は思わず尋ねていた。
自分の中にある、一抹の不安について。
唐突な僕の問いかけに、彼女も幾分面食らった様子をみせる。
「あなたは、不安なの?」
「……ほんの少し、だけどね。いや、勿論嬉しいって気持ちの方が強いんだけどさ」
「そう……」
彼女は軽く瞼を閉じると、手にした湯呑みに口をつける。
そして一拍の間を置いてから言葉を続ける。
「私も、同じよ……ふとした時に『私みたいな女が母親になれるのか?』なんて考えてしまうくらいにはね。だけど……」
「だけど?」
「怖くはないわ」
「不安なのに……でも怖くない?」
「ええ。これもまた、あなたのお陰ね」
「僕の……?」
ついつい鸚鵡返しを重ねてしまう僕の姿は、傍から見たらさぞかし間抜けなことだろう。
いつもなら即座に突っ込まれているところだが、彼女はただ穏やかな視線を僕に向けるのみだ。
「ええ、あなたのお陰。あなたのような人と一緒なら……この先何が待っていようと、私はむしろ楽しみよ」
「あ……」
それは僕らが絶望の学園を“卒業”して絶望の世界へと旅立ったあの日、彼女が僕に言ってくれたこと。
忘れていたわけではないけれど、なんだかひどく懐かしく響く。
あれからもう――五年になる。
「あの時、あなたがくれた“希望”は今も変わらず私の中にあるわ。だからこそ、私は今日まで歩いてこれた……そして、これからも」
少し面映げに笑うと、彼女は再びお腹を撫でる。
その表情はとても柔らかくて、ちょっとずるいくらいに綺麗だ。
「そしてこの子も、あなたがくれた私の新しい“希望”。あなたがいるから、この子がいるなら……たとえ不安だろうと、私はそれに立ち向かえるの」
「“希望”……ああ、そうか――」
それは“幸せ”や“嬉しい”とさして変わらない、ごく簡素でありふれた言葉のはずだけど。
僕らにとっては、何より特別な意味を持った言葉。
ああ、そうか――。
今しがた口にしたことを、声には出さず反芻する。
初心を忘れていた、とでもいうべきか。
自分の中から霞が晴れていくのを感じる。
「今度は僕の方が“希望”をもらっちゃった、のかな……」
「もう平気かしら?」
「うん、すっかりね。何を不安に思ってたんだろうってくらいに」
ソファから立ち上がり、向かいに座る彼女の隣へ席を移す。
「ねえ、触ってもいい?」
「許可を求める必要はないでしょう? あなたの子なんだから」
「ああ……それもそうか」
そっと彼女のお腹に手を添えてみる。
柔らかく、そして暖かい――確かな命の存在が伝わってくる。
希望というものに形があるとすれば、それはきっとこんな触れ心地なのだろう。
静かに、僕の手の上から別の手が重ねられる。
顔を上げると、すみれ色の瞳が僕を真っ直ぐに見つめている。
どちらからともなく顔を寄せ合い、僕らは口づけを交わす。
さっきのような軽い挨拶代わりではない、愛を――希望を交換するのに充分な深さをもった口づけを。
かつて、彼女は僕を“希望”と呼んだ。
だけど僕が“希望”になれたのだとしたら、それは“希望”の差す方へと僕を導いてくれた彼女がいたからこそだと思う。
彼女に面と向かって言えば否定するかもしれないけれど、僕にとっては彼女こそが“希望”。
思えば僕らは互いに“希望”を分け合って、ここまでやって来れたのだ。
僕が彼女に“希望”をあげて、彼女が僕に“希望”をくれて。
そしてこれからは――この子も一緒に。
希望は前に進むんだ。
「! 今、この子……!?」
「うん……蹴った! お腹、蹴ったね!」
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