女王は船を浮かべる

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女王は船を浮かべる」(2012/12/21 (金) 14:01:03) の最新版変更点

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窓の向こうに見える陸地が、どんどん遠ざかって小さく見える。反対にどんどん大きくなるのが晴れ晴れとした冬の空と青い海。 ……ボクは、ありふれた日常への未練を吐き出すように大きくため息をついた。 「苗木君。海ぐらい、これからいくらでも見られますわよ? さあ、まずはお茶にしましょう」 振り返ると、セレスさんがテーブルの上にティーセットを並べていた。 壁に掛けられた時計を見ると、午後3時──もうお茶の時間か。 彼女はボクとは対照的に心から楽しそうに振舞っている。 ……ここは海に浮かぶ豪華客船。ボクはセレスさんと、その特等船室の中にいる。 何でも揃った豪華客船を『動くホテル』と例えるのを聞いた事があるが、まさにこの部屋は一流ホテルのスイートルームのようだ。 騙まし討ちのような形で無理やり連れて来られたのでなければ、ボクももっと、この状況を楽しめただろう事は想像に難くない……。 ほんの数時間前──寄宿舎の廊下で、大きなキャリーバッグを運ぶセレスさんとバッタリ出会った。 これから旅行に出掛けるという彼女の荷物を外まで運んであげるだけのつもりが、 巧みな話術に乗せられてこの船室に連れてこられ、気がついた時には船が港を離れていた。 そりゃ、特に冬休みの予定はないけど、普通に誘ってくれれば良かったのに。 ……いや、それはそれで問題があるか。クラスメイトの女子と二人きりで旅行なんて……。 「それで、この船……どこに向かってるの?」 窓のそばを離れて、セレスさんの待つテーブルの方に歩きながら尋ねた。 「近年開発が目覚しい、太平洋上のリゾート地『ジャバウォック島』ですわ。  うふふっ、良かったですわね。……お正月は南の島で迎えられますわ」 日帰りかと思ったら、まさかの海外旅行!!?? あっさり言ってのける彼女に、ボクは愕然とするしかない。 「ちょっ……ボク、着替えも何も持ってないよ!? それにパスポートも!」 「心配要りませんわ。船の中の売店に大抵の物は揃っていますし、パスポートならここに」 そう言ってセレスさんは、ゴスロリ服のポケットから薄い手帳を取り出した。 受け取って中を開くと、確かに苗木誠──ボクのパスポートで間違いない。……な、何でここに!? 「先日、あなたのお母様に用意して頂きましたの。『学園の課外授業に必要ですのに、苗木君が家に忘れてしまって』  ……と、言って。人を疑う事を知らない、素敵なお母様ですわね。うふふ」 ……ここまでやられると、ツッコむ気力も湧いてこず、かえって感心してしまう。 ボクは観念して、前向きに思考を切り替えた。 紅茶を飲みながら聞いた所によると、セレスさんが行きつけのカジノでペア旅行券を貰ったのが事の起こりらしい。 そこで、『荷物持ち兼ボディーガード兼暇潰し役』として、『ナイト』のボクを『招待して差し上げる』気になったんだとか……。 「さて。お茶も飲み終えた事ですし、そろそろ行きましょうか」 「……行くって、どこに?」 セレスさんにつられて立ち上がったものの、この船はまだ太平洋の真っ只中に浮いているはずだ。 「“超高校級のギャンブラー”であるわたくしが行く所といえば、カジノに決まっているでしょう。  船が目的地に着くまでには、まだまだ時間がありますもの」 「カジノ!? そんなの、あるの?」 「当然ですわ。この船は豪華客船としては規模が小さい方ですが、  長旅でも退屈しないようにレストラン、バー、カジノ、劇場、映画館、プール……大抵の物は揃っていますわよ」 ボクは唖然とした。これが知られざる上流階級の世界の一端か……。 「……ですが、苗木君。あなたのその格好で船内をうろつくのは些か問題がありますわね。  一緒に歩くわたくしに恥をかかせないように、衣装を借りてきて下さいな」 言いながら、セレスさんがこの船のパンフレットを差し出した。 『その格好』──いつもの学生服とパーカーだ──で船に乗るハメになったのはセレスさんのせいなんだけど……。 どうやら貸衣装のサービスまでやっているらしい。 「1階のホールで落ち合いましょう。わたくしも用意をしていきますから……」 船員もお客も外国人だらけの船の中で四苦八苦しながらも、なんとか衣装を借りる事ができて良かった。 青い目のスタッフに日本語がわかる人がいるのも一流の豪華客船ならではだろうか……。 ボクは不慣れで窮屈な黒のタキシードに身を包み、慌てて待ち合わせ場所のホールに向かった。 ちょっとした集会でも開けそうなぐらい広く、煌びやかに飾られたホールで辺りを見回す。 ここでは大勢のお客が行き交っているが、やはりほとんどが外国人で、しかも大人ばかりだ。 セレスさんが来ていればかなり目立つはずだけど……見当たらない。 まだ、部屋にいるんだろうか? 不安になり始めた頃、一人の女の子がつかつかとこちらに歩いてきた。 「……ふぅん。『馬子にも衣装』と言ったところでしょうか。なかなかお似合いですわよ」 ……話しかけられるまで、誰だかわからなかった。ボクに向かって満足げに微笑むのは他でもない、セレスさんだ! 彼女の格好は、いつもと大きく変わっていた。 頭の左右で一際存在感を放っていた縦ロールのウィッグが外され、髪は前を残してアップに纏められている。 そして服は、いつものゴスロリ服が、胸元から上……白い肩が大胆に露出した黒のドレスに。 普段、ほとんど肌を出さないセレスさんだけに、ボクはどきりとして思わず目を逸らしてしまった。 「……ちょっと。余所見をする前に、何か言う事があるのではありませんか?」 セレスさんの方は相変わらずの調子だが、こっちはまだ動揺が治まらない。 ──綺麗だよ? ……ダメだ。そんな事、直接言える訳がない。……色っぽいね? ……いや、ええっと── 「セ……セレスさんも、よく似合ってるよ。……そのドレス」 「……もっと、気の利いた事は言えませんの? これではおめかしをした甲斐がありませんわ」 セレスさんは呆れたように小さくため息をついた。……返す言葉もない。 もし仮に、歯の浮くようなキザなセリフを思いついたところでボクには似合わないだろうけど……。 「まあ、いいですわ。それより、早く行きましょうか。……手を」 何の事かよくわからないまま両手を差し出すと、彼女はボクの左腕を抱くようにして自分の腕を絡めた。 幸いにも(?)ボクの手は胸に当たらずに済んだが……予想外の大胆な行動に、またどきりとする。 「こんな格好までして、男女二人で歩くのに腕でも組まないと不自然ですから。  ……ほら、わたくしにつり合うように、優雅にきりきり歩いて下さい」 こうして、半ば引っ張られるようにしてボクはセレスさんと一緒に歩き出した。 こちらは緊張のあまり転ばないように歩くので精一杯だったが、彼女の足取りは優雅で軽やかだ。 ただ、その横顔が少し赤く見えたのは照明の悪戯だろうか……。 多くのお客で賑わうカジノで、ボクとセレスさんは──と言うより……ボクと一緒のセレスさんが注目を集めていた。 理由は一目瞭然だ。複数人で囲む卓の上で、彼女の前にだけ山のようにチップが積み上げられている。 チップが1枚当たり大体1000円として、これ……一体いくら勝ってるんだろう……? まるで現実味のない光景に想像さえ追いつかない。 学園の外で見るのは初めてだけど、これが“超高校級のギャンブラー”の才能か……。改めて、心から感服した。 こちらが大きく勝つたびに、どんどんディーラーの顔つきが険しくなっていき、見物人が増えていく。 言うまでもなく、彼らの注目を一番に集めているのはセレスさんだが、何割かの視線は連れのボクにも移ってくる。 無敵のギャンブラーはあまりに若く、外国人の目から見ても文句なしの美少女だろう。なのに、その隣に侍るのは平凡な少年……。 感嘆のため息が羨望の眼差しに変わり、さらにそれが失望のため息に──と勝手に感じてしまうのは気のせいか。 どうにもいたたまれなくなり、ボクは横からセレスさんのドレスの袖を引いた。 「ね、ねえ。もうだいぶ勝ったし、そろそろ部屋に戻らない?」 「……今、いい所ですわ。静かにして下さい」 前を向いたまま突っぱねる彼女の鋭い目つきは、獲物を狙うヒョウのようだ。 ……ダメだ。完全に集中モードに入ってる……。 ボクはせめて邪魔をしないように、断りを入れて席を離れた。 ゲームに疲れたお客が気軽に休めるように、という配慮だろうか。カジノのすぐ隣でサロンが開放されている。 ボクは人目を避けて足早にサロンに入り、禁煙席を選んで腰を下ろした。 ……広々としたサロンは客足がまばらで、とても静かだ。 ボクと同じ禁煙席──斜め向かいに座っている白人の男性に習い、ゆったりとしたソファに体を預けて瞑目する。 柔らかなシートと相まって、微かに聞こえるクラシック音楽が子守唄のように心地いい。 豪華客船なんて、ボクみたいな凡人からすると遠い世界だけど……こういう雰囲気はいいな……。 …………。 「──苗木君、起きて下さい。ゲームは終わりましたわ……」 突然、近くで声が聞こえて、ボクはびくりとして目を開いた。……すぐ目の前に、セレスさんが澄まし顔で立っている。 どうやら、いつの間にかうたた寝をしてしまったらしい。ボクは慌ててソファから立ち上がった。 「ご、ごめん。あんまり気持ち良かったから、つい……」 ボクが恐縮して頭を下げると、間を置いてセレスさんの方も物憂げに俯く。 「……あの……もしかして、退屈でしたか?」 余計な気まで遣わせてしまったようだ。ボクは首をぶんぶん横に振って否定した。 「い、いや、そんな事ないよ! 本当に、ちょっと休んでたら気持ち良くなっちゃって。……ごめん」 「そう……ですか。それなら、いいのですが」 顔を上げたセレスさんの表情は、いつもの柔らかいものに戻っていてほっとする。 さらに話題を変えようとゲームの結果を聞いてみると、機嫌よく得々と話してくれた。 ボクが中座してからもセレスさんは一人で勝ち続け、あれから倍ほどもチップを稼いだらしい。 さすがにカジノの支配人が泣きついてきて、“今日の所は”許して差し上げたんだとか。 ……ボクは彼女の勝利を祝福し……その支配人に少し同情した。 気を取り直して、そろそろ夕食にしようと歩き出した所で後ろから声をかけられた。 振り向くと──居眠りをする前に離れた席に座っていた、あの白人の男性が親しげな様子で近づいてくる。 ボクはうろたえるばかりだったが、意外にもセレスさんが外国語で返答し、にっこりと微笑む。 それから二言、三言とスムーズな外国語(少なくとも英語ではない事ぐらいはボクにもわかる)のやり取りが続き、 最後に男性は陽気な笑い声を上げて去って行った。 「……今の人、知り合い?」 「いえ……。あの方はわたくしを知っているようですが、わたくしの記憶にはありません。  ただ、先程のお話からすると、以前どこかのカジノで同じ卓を囲んだ事があるのでしょうね。  わたくしはどこに行っても目立ちますから、よくある事ですわ」 セレスさんが、興味の無い相手に無関心なのは相変わらずのようだ。 しかし、堂々とした話しぶりで全くそれを感じさせない所はさすがとしか言いようがない。それにしても── 「びっくりしたよ。セレスさん、外国語も得意なんだね」 「得意という程ではありません。合法のカジノは海外にしかありませんから、通っているうちに自然に身に付いただけですわ。  現に今のはフランス語ですが、道を尋ねられる程度のものですし……」 セレスさんはつまらなそうに髪を触りながら横を向いてしまったが、ボクは彼女の新たな一面を知って素直に感心した。 「……セレスさんって、凄い人なんだね。やっぱり、その……色々と」 「ふん……。今頃、気がついたのですか? 鈍い人ですわね、あなたは」 それくらい当然でしょう、とでも言いたげなあっさりした口調だが、口元は緩んでいる。 こういう所はごく普通の女の子らしくて微笑ましい、というかちょっと可愛い。 そんな事を言ったら怒られそうだから言わないが……。 午後7時半。船は最終目的地『ジャバウォック島』に向けて、順調に航行を続けている。 ボクとセレスさんは、夕食を終えてレストランを出た。──と、同時にセレスさんがため息をつく。 「……ふぅ。わたくしとした事が、少々はしゃぎすぎてしまったようですわ。……疲れたので、早く部屋に戻りましょう」 「あ……。ボクはその前に売店に行きたいんだけど……」 実はずっと気になっていたが、中々切り出せずにいた。 ボクは着の身着のまま連れて来られたおかげで、替えの下着すら持っていない……。 「ああ……そうでしたわね。では、わたくしもご一緒に」 「いや、それはいいよ! 先に部屋に戻って休んでて。ボクもすぐに戻るから」 もちろんセレスさんへの気遣いもあったが、正直、下着を選んでいる所を見られるのは気恥ずかしい。 「……そうですか。では、お言葉に甘えて……。……ですが、広い船内で迷子にならないように気をつけて下さいね?」 セレスさんの念を押すような口調に、ボクは苦笑した。 「大丈夫だよ。子供じゃあるまいし……」 ……迷った。完全に迷子になってしまった。 売店で無事に買い物を済ませたものの、つい人の波に押されて道を間違えてしまったようだ。 ボクたちの特等船室があるのが3階で、カジノやレストラン、売店があるのが1階。少なくともここは1階のはずだけど── ……こうなったら、一度売店まで引き返そう。 売店からレストランに、レストランからホールに行く事が出来れば、3階へのエレベーターにたどり着く自信はある。 ボクは意を決して、勢いよく振り返った。 ──その瞬間、10メートルぐらい離れた廊下の奥で、誰かが柱の陰に隠れた……ように見えた。 それは本当に一瞬の事で、確かに見たかと聞かれれば断言は出来ない。 ……きっと、何かの見間違いか、たまたま誰かが柱の向こうを横切っただけだろう。 今はそんな事は気にしていられない。ボクは、売店のある方向に足を速めた。 高級そうなソファとテーブルが置かれたエレベーターホールを抜けて、客室が並んだ廊下へ。 この辺りは特等船室が集まったエリアらしく、エレベーターも専用の物を使った。 ……ホールからすぐの「3号室」がボクたちの部屋だ。……何とかたどり着けて良かった。 ドアについたノッカーを鳴らすと、すぐにドアが開いて中からセレスさんが顔を出した。 「おかえりなさい。……随分、時間がかかりましたわね」 「ご、ごめん。結局、迷っちゃって……」 言いながら、ボクはドギマギした。 セレスさんは──どうやらボクが売店に行っている間にお風呂に入ったようだ。 綺麗な黒髪がしっとりと潤いを帯びて光っており、白い頬はほんのりピンク色に染まっている。 服装もドレスから、寝巻きらしい黒のロングワンピース姿に変わっていた。 飾り気のないシンプルなデザインだが、タイトな艶のある生地が、彼女のほっそりとしたボディラインを強調している。 ──要するに、めちゃくちゃ色っぽい……! 「先にお風呂を頂きましたわ。まだ浴室は暖かいですから、宜しければあなたもどうぞ」 あくまでも自然なセレスさんの物言いにボクは頷きを返す事しか出来ず、なりゆきでお風呂に入る事になってしまった。 30分後……つい妙な方向に発展しそうになる想像を何度も振り払い、入浴を終えた。 部屋に戻ると、ボクがお風呂に入っている間に照明が一段落とされていて、全体に薄暗くなっている。 そんな中、ベッドの端に腰掛けていたセレスさんが、おもむろに口を開いた。 「……こちらへどうぞ、苗木君」 ペア旅行券で招待されたこの部屋は、ダブルの部屋。だから当然、置いてあるのもダブルベッドだ。 ……部屋が薄暗いのはもう寝るからで、ベッドで寝るのは普通の事で、それ以上の意味はない。……はずだ。 それでも……まずい、よな。これは……。 「あ……いや、ボクはそこのソファで寝るから、ベッドはセレスさんが──」 「……いいですから、早くこちらへ」 感情を殺したような静かな声だが、何故か逆らう事が出来ない。 ボクはごくりと唾を飲み込み、おぼつかない足取りでセレスさんの方へと近づく。 そして彼女に指図されるまま、すぐ隣に腰を下ろした。 「……苗木君……大切なお話がありますの」 セレスさんの小さな手が、そっとボクの膝の上に置かれた。 ボクの心臓は、かつてないほど鼓動を速めている。 「わたくし……以前あなたに、わたくしのナイトになる事をおすすめしましたわよね?」 「……うん……」 カラカラに乾いた喉で、何とか声を絞り出した。 「あの時……あなたは、はっきりと引き受けてくれませんでしたが、拒みもしませんでした。  ですから、わたくしは……『イエス』と受け取り、今まであなたをナイトとして扱ってきました。  あなたも、決してそれを否定したりはしなかったはずです。  ですが……今夜は、はっきりと教えて欲しいのです。あの時の答えを……」 セレスさんは今まで見たこともないような真剣な表情で、ボクの目を見つめてきた。 自然とボクとの距離も──元々近い距離がさらに近くなり、薄暗い中でも彼女の潤んだ瞳や、上気した頬が見える。 洗いたての髪から漂ってくる上品なシャンプーの香りが、ふわりと鼻先を撫でた。 「……苗木君。あなたさえ、『はい』と言って下さるのなら、わたくし──」 ……正式にナイトになるって事は……セレスさんの……?        『ガタッ!』 「──わたくしも……もっと…………」 ……ああ……ボクは──             『ガタンッ! バタンッ!』 「ああ、もう! うるさいですわ! ……何ですの、さっきから!」 セレスさんは怒気のこもった声を上げ、辺りを見回した。 ……さっきから聞こえてきた物音は、どうやら隣の部屋からのようだ。 ボクたちの間に漂っていた熱っぽい空気は、あっという間に吹き消されてしまった。 「ちょっと、文句を言わないと気が済みませんわ……! 苗木君、ついて来て下さい」 セレスさんは怒りと恥じらいが入り混じったような赤い顔のままで立ち上がり、さっさと部屋の出口に向かった。 ──もしかすると、彼女もギリギリの所で恥ずかしさを堪えていたのかもしれない。 ボクは無意識に伸ばしかけていた手を引っ込めて、慌てて後を追った。 問題の騒音の元は左隣……廊下の突き当たりの4号室のはずだ。 セレスさんは4号室のドアの前に立ち、ノッカーを鳴らそうとして、すぐにその動きを止めた。 「どうしたの?」 「……いえ。この部屋のドア、隙間が空いていますわ。迷惑な上に無用心な隣人ですわね……」 言われてみると、重厚な木のドアはほんの1センチぐらい内側に開いている。 気を取り直して、一応ノッカーを鳴らすセレスさん。……が、反応はない。 「……ねえ、もしかして、中で何かあったんじゃない? 急病とか──」 ──強盗とか? 不吉な想像が頭を掠めて、ボクは言葉を飲み込んだ。 さっきの音は、豪華客船に似つかわしくない、ひどく乱暴な感じがした。 まず船員を呼ぼうかとも思ったが、セレスさんは止める暇も無くドアを開けてしまう。 すると──隣室は、ボクたちの部屋と似た豪華な内装で……その奥で、誰かが倒れている。 それを見た瞬間、息を飲み……ボクはセレスさんを待たせて恐る恐るそちらに近づいた。 毛足の長いふかふかの絨毯の上に、金髪の男性がうつ伏せになっている。 男性の足元にはごついガラス製の灰皿が転がっていて、辺りにタバコの灰と吸殻が散らばっている。 男性は、外国人のようだ。……何て声をかければいいのかわからない。 無言のままそっと揺すってみると、彼は小さな呻き声を上げて顔をこちらに向けた。 ────この人、昼間サロンで会った人だ! 年齢は30代ぐらい。白人の男性は、ボクの顔を見てもぐもぐと口を動かした後、すぐに目を閉じてしまった。 その額は、べったりと赤い血で濡れている。 「セレスさん、フロントに電話を!」 振り返って声をかけると、セレスさんはすぐに部屋の隅にある固定電話の方に駆け寄った。 だが、その瞬間、今度は部屋の入り口の方で誰かが叫ぶ。 「──ダメよ! 現場の物に手を触れないで!」 見れば声の主は、黒いスーツを着た若い女の子だ。背中まで届くロングヘアに……理知的な光を放つ瞳── ──ボクは、いや、ボクたちはこの人にも見覚えがあった。 「き、霧切さん! ……どうしてここに!?」 突然、現れたのは紛れもない、ボクたちのクラスメイトで“超高校級の探偵”──霧切響子さんだった。 こういう特殊な状況にも慣れているのか、霧切さんはてきぱきと指示を出し…… 5分と待たず、ケガをしていた男性は船員によって医務室に運ばれていった。 そして今──ボクらはエレベーターホールに集められ、船の責任者らしい人達に事情を聞かれている。 もっとも、ボクには彼らの言葉がわからないので、専らセレスさんが話していたのだが……。 「厄介な事になりましたわ、苗木君」 ようやく船員との話を終えたセレスさんがボクの所に戻ってきて、暗い声で言った。 「あのケガをしていた方……命に別状はないそうですが、まだ意識が混濁しているようです。  それで、本人から話を聞くこともできず……わたくし達を“容疑者”として扱わざるを得ない、と……」 「よ、容疑者って……?」 「被害者は、部屋に備え付けの灰皿で頭を殴られていたそうです。ですから、傷害事件の容疑者ですわね……」 「そんな! ボクたちは──」 「もちろん、即逮捕という事にはなりません。ただ、船がジャバウォック島に着くまでは船員の監視下に置かれますわ。  そして向こうに着いたら、正式に警察の取調べを受けて欲しいと。……そうなれば、確実に数日は拘留されますわね」 ──外国で拘留? もし逮捕されたら? 家族に連絡は? 冬休みも終わって? 学園の授業はどうなる……? 「……困りましたわね。せっかく、わたくしが考えた、この先の旅行プランが狂ってしまいますわ」 ああ……困るって、そこなんだ……。強いな、セレスさんは……。 妙な所で感心していると、今まで黙って聞いていた霧切さんが口を開いた。 「いくら何でも、第一発見者だから容疑者というのは乱暴だわ。  ……他の乗客じゃなく、何故あなた達なのか……その辺りの理由は聞いていないの?」 セレスさんの細い眉が、いかにも不快そうにぴくりと動く。 「霧切さん、あなた──当たり前のようにここにいますが、それこそ何故ですの? ……まさか、わたくし達を尾行してきたのではないでしょうね?」 び、尾行って……! “超高校級の探偵”なら、素人のボクらを尾行するくらい簡単だろうけど……何の為にそんな──? 霧切さんの方を見ると、彼女はぷいと横を向いてボクの視線を避けた。 「……今は、私の事なんてどうだっていいじゃない。それより私の質問に答えて、セレスさん」 セレスさんは一瞬、顔をしかめたが、諦めたように小さく首を横に振った。 「事件のあった特等船室が並んだエリアには、わたくし達が今いる、このエレベーターホールを通らなくては行けません。  そこで、防犯上の目的から……あちらに……監視カメラが設置されているのです」 セレスさんの指差す先で──天井からぶら下がった監視カメラがこちらを睨んでいる。 「その記録を調べた所、ここ数時間の間にホールを抜けて特等船室エリアに行った人も、戻った人も全くいないそうです。  ですから、犯人は元々ホールを抜けた先にいた、特等船室のお客の中にいる……そういう事らしいですわ」 特等船室は、一つの廊下の左右に分かれて全部で4部屋ある。ボクとセレスさんが3号室の、被害者が4号室の客だ。 じゃあ、残る2部屋のお客はどこに……? と、見渡して、ホールの隅に明らかに船員でない外国人が2人いる事に気がついた。 背の高い、痩せた初老の紳士と、40代ぐらいの髭面の男性。2人はそれぞれ離れた場所にいて、連れはいない。 ボクたちと同じく事情を聞かれているらしい、彼らが1号室と2号室のお客に違いない。 「なるほど。それで容疑者は苗木君とセレスさん、それにあっちの2人のうちの誰かに絞られたのね……」 「全く、心外ですわ。わたくしと苗木君にはアリバイがありますのに。  事件が起こったと思われる時、二人一緒にベッドの上にいたというアリバイが……」 さらりと、とんでもない事を言い放つセレスさん。ボクは一瞬にして頭に血が昇り、固まってしまった。 一方の霧切さんは……常にクールな彼女にしては珍しく、血の気が引いたような表情だ……! 「いや、話を! ベッドに座って、話をしてたんだよね!」 慌てて訂正すると、彼女はそれで納得してくれたのか、小さく咳払いをして元の調子に戻った。 「……まあ、近しい人間の証言では、信用されなくても仕方がないわね。  私も、こうなった以上は見過ごせないわ。あなた達の容疑が晴れるように、協力しましょう。  私達で犯人を見つけて、一刻も早く、平和な旅行に戻れるようにするのよ……!」 “超高校級の探偵”の言う事とはいえ、少し強引な気もしたが……ボクらに異論があるはずもなかった。 「ただ、問題なのは捜査の方法ね。日本で起こった事件なら、多少は警察に顔が利くのだけれど……」 霧切さんが思案するように細い顎に手を当てる。 そういえば……霧切家は有能な探偵一族として、警察にも太いパイプを持っていると、ちらりと聞いた事があった。 “超高校級”のギャンブラーに探偵──やっぱり只者じゃない人ばかりだ……。 「また現場に入るのは無理としても、せめてあっちの二人から話を聞ければ……」 「……話を、聞ければいいのですか? それでしたら、何とかなるかもしれませんわ。  わたくし……あの方たちに見覚えがありますの……」 セレスさんの意外な言葉に、ボクと霧切さんが同時に小さく「えっ」と聞き返した。 「被害者の方がそうなのですが、あちらのお二人も、以前カジノでお会いしたような気がするのです。  もしかすると、こちらの特等船室4部屋のチケットをそのカジノが押さえていて、常連客に配ったのかも……」 「……顔見知りなら、話は早いわね。じゃあセレスさん、何とかあの二人から証言を引き出してくれないかしら。  重要な質問は一つ────『あなたはタバコを吸いますか?』、よ……」 セレスさんが容疑者の外国人二人と話してすぐ、事件は急展開を見せた。 ……というか、解決したも同然だ。何故なら、犯人が自首したから……。 犯人は、髭面の男性──セレスさんが本人に聞いた話によれば、ドイツ人作曲家らしい──だった。 「元々、被害者と口論の末にカッとして殴ってしまい、怖くなって逃げただけの事件だったのね。  警察が動けば……何より被害者が意識を取り戻せば、すぐに犯人は明らかになっていた。  自分でも逃げ切れると思っていなかったから、あんなに早く観念したんでしょう」 “超高校級の探偵”には簡単すぎる事件だったようで……霧切さんは些か拍子抜けしたような表情だ。 「でも、どうして犯人はタバコぐらいであんなに動揺しましたの? タバコなら、あちらの方も吸っていらっしゃるようでしたし……」 セレスさんの視線の先には、もう一人の容疑者だった初老の紳士──あちらはイギリスの数学教授だとか──がいる。 彼女が話している所をボクも離れて見ていたが、彼は英国紳士らしく?木製のパイプを持っていたようだ。 「現場には被害者が殴られた時、凶器の灰皿からこぼれたらしい、タバコの吸殻が散らばっていたわ。  被害者の部屋にあった物だから、一見被害者の吸ったタバコのようだけど、それは違う……」 ──そうか、禁煙席……! 被害者はサロンにいた時、確かに禁煙席に座っていた。 ……霧切さんがそれを知ってるのは……やっぱりあの時、すでにボクらを尾行していたからか……。 「サロンで禁煙席に座っていた被害者は、タバコを吸わない。  従って、タバコを吸っていたのは、直前に被害者の部屋を訪れていた犯人の方である……という訳ですか」 「慌てていた犯人でも、凶器や現場の部屋のドアノブを拭いて逃げる程度の機転は利いたかもしれない。  でも、セレスさんにタバコの事を聞かれて、犯人は致命的な痕跡を現場に残した事に気づいたのね。  まあ、あの様子では、警察が調べれば他にも色々出てきた事でしょう。さっさと降参して、正解ね」 ──これは、後で知った事なのだが──被害者と加害者は、元々カジノで知り合ったギャンブル仲間だったらしい。 ところが女性関係で揉めてしまい、旅行先で密かに話し合うつもりが、ますますこじれて事件に発展してしまったのだという。 ……全く、無関係なボクらや、もう一人の容疑者にとってはとんでもない迷惑だ。 ──ともあれ、早々にボクらの容疑が晴れて良かった。これなら、すぐに解放される事だろう……。 「さて、事件も解決したようですし……わたくし達の部屋に戻りましょうか、苗木君」 何故かセレスさんはすかさずボクの手首を掴み、急いで部屋に戻ろうとする。 まだ霧切さんにお礼も言ってないのに……。ボクが口を開く前に、その霧切さんから声が上がった。 「待って、セレスさん。……一つ、提案があるわ」 その言葉にセレスさんは振り返り、怪訝な表情を浮かべる。 「私……前から一度、あなたとゆっくりお話をしてみたかったの。いい機会だし……今夜は私の部屋に泊まりに来ない?」 霧切さんは愛用の手袋をはめた手で、下──2階を指差した。確か、2階には一等船室、二等船室が並んでいるはずだ。 「わたくしは、別にあなたとは──」 「だから、提案よ。……いいでしょう?」 不思議と、空気がぴりぴりしてくる。……二人の女子の間で、目に見えない火花が散っているようだ……。 そのまま、10秒ほどの沈黙が続き……根負けしたようにセレスさんが薄く笑った。 「……仕方ありませんわね。霧切さんにはお世話になった事ですし……お邪魔する事にしましょう」 ──まさかの展開。ボクは驚いて声を上げた。 「え……じゃあ、ボクは……?」 「ごめんなさい、苗木君。そういう事ですから、今夜は留守番をお願いしますわ」 『そういう事』って言われても、わけがわからない! いや、セレスさんと一緒に寝たいってこの場で主張はしないけど……。 困惑するボクのそばに来て、セレスさんが小声で言った。 「思い余ってこんな場所まで来てしまう、行動力……それに、自分の長所を活かす場面を引き寄せる勝負運。  霧切さんは、まさに手ごわい“好敵手”ですわ。そんな彼女に、勝負の世界に身を置く者として、敬意を表したくなりましたの」 「好敵手……? 勝負って、何の……?」 ボクが聞き返すと、セレスさんは微かに拗ねたような声で呟く。 「……やっぱり、あなたは鈍い人ですわね」 一瞬、怒らせてしまったのと思ってびくりとしたが──セレスさんは、いつもの優美な微笑を浮かべていた。 「……それでも、絶対に負けませんわ。わたくしは“超高校級のギャンブラー”、セレスティア・ルーデンベルクですもの……」 自信たっぷりに言い切るセレスさんは、ホールの照明の下で──何故だかとても、輝いて見えた。 その事に戸惑っている間に、セレスさんはまたいつもの調子で「おやすみなさい」とだけ言って、 霧切さんと足早に階下へのエレベーターに乗り込んで、姿を消してしまう。 ……何だか、また無性にドキドキしてきたぞ。 ボクは顔を洗って火照った顔を冷やしたくなり、部屋の方向に足を速めた。 少し気持ちが落ち着いたら、今夜はさっさと寝てしまおう。 まだ、セレスさんの気配が残っているであろうベッドの上で……一人、寂しく……。 -----

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