kk12_332-338

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 壁ドン、と呼ばれるシチュエーションがあるらしい。  意中の異性を壁に押し付けて、腕で横への退路を塞ぎ、自分と壁とでサンドイッチにするような構図だ。  挟まれる方が、基本的には言い寄られる方。  押し付ける方は、所謂『俺様系』と呼ばれる主人公か、パニックになったヒロインと相場が決まっているらしい。  山田君の言だ。  一歩間違えば脅迫にも見えてしまう、それを。  なぜか今、僕と霧切さんがちょうど実践している。 「……」 「……」  怖いのに見惚れるという経験をしたことがある人は、あまりいないのではないだろうか。  綺麗な女の人の幽霊とか、雪山の頂上から断崖絶壁を覗き見るのに、それは似ていた。  ぞくり、と背筋を這う冷たい感覚。  それでも僕は、霧切さんから目を逸らせない。  壁の隅に追い詰められた僕に、身長差が悲しいかな、覆いかぶさるようにして、彼女は追い詰めてくる。  瞬き一つせず、その両目が僕を見下ろしている。  見上げる此方側からは陰になっているはずなのに、その奥が深く深く、すみれ色に光っているように見える。  じとり。  粘っこさは感じない。むしろ、重苦しさ。  すみれ色の燐光が、すらりとした鼻立ちが、色素の薄い唇が、圧し掛かってくる。  人形のように整った顔立ちが、表情一つ変えず。  お気に入りらしい男物の香水に紛れて、煮詰めた花のような、濃い彼女の匂いを感じる。  どくん、と、心臓が跳ねる。  声を出そうとも掠れる喉に代わって、煩いくらいに跳ねている。 「……、苗木君」  霧切さんは、下着姿だ。 「…心拍数が上がっているわ」  霧切さんの素の腕が、手のひらが、指が、僕の手首を握った。  驚くほど冷たくて、更に心臓が跳ねる。  色気よりも、いや失礼な話だけど、先に来たのは不安だった。  そりゃあ僕も男だし、下着姿の女性に迫られて何も感じないわけが無い。  今までずっと側にいて、今でもよく分からないところはあるけれど、それでも彼女のことを真剣に想っている。  その人の、一糸纏わぬ、とまではいかなくとも。  絹のような素肌、せいぜい暗がりか、共に潜った修羅場でしか見たことのなかった、柔肌を。  それでも、目の当たりにして平常心でいることが出来るのは、彼女といることで幾分か精神的に鍛えられたからだろう。  けれど。  理性を保つことはできても、不安を消すことはできなかった。 「私を見て……何を、考えているの…?」  僕の知っている霧切さんは、こんなことをする人じゃないからだ。  何かの罠か、目の前にいる霧切さんが偽物か、と勘繰って、止める。  目の前にいるのは確かに霧切さんで、どこからどう見ても正気を保っているし、彼女の意思で僕を壁に追い詰めているのだ。  その程度が分からないほど、短い付き合いじゃない。  「そんなことをするような人じゃない」とはいっても、奇行に走るのはこれが初めてじゃない。  だからある意味、これは通常運転と言える。  そして、だからこそ不安なのだ。  こうして僕に迫ってくる霧切さんの行為は、異常ではなく、正常。  つまり、彼女が俺様系になったわけでも、何かしらに混乱しているわけでもない。  それ以外の理由がある、ということだ。 「……ねえ」  僕の手首をつかんだ彼女の指が、それをゆっくりと持ち上げる。  警戒心の割に、自然かつ緩慢な動きに、抵抗する気は不思議と起きないものだった。  視線を微塵も動かさず、僕の腕を空中で固定する。  そしてそのまま、同じ緩慢な動きで、彼女は一歩此方に踏み出した。  ふ、と、指の先に生地が触れる。 「―――…っ」 「私は、尋ねているのよ…苗木君?」  指先に、全神経が集まった。  ぐっ、と、更に彼女は僕との距離を詰める。  唇が額の先にある。生温かい声音と吐息が、溶かすように降ってくる。  その、鼻先三寸にある彼女の柔らかそうな唇よりも。  僕の意識は、自分の指の先に向かっていた。 「きり、霧切さん、胸…当たっ……」  どうにか掠れながらも出した、どうしようもない、ただの状況説明の言葉。  息を吸おうとして、ひぃ、と、情けない音が鳴った。  顔が熱い。きっと、真っ赤で、真っ青だ。  余程滑稽だったのか、ようやく霧切さんが表情を崩した。  時折見せる笑みの、それをほんの少しだけ、妖艶にして、また僕を覗き込む。 「当てているのよ…って、言ったらどうする…?」  どうするも、こうするも。 「あの……そろそろ、その…状況というか、意図を説明して、欲しいんだけど…」 「…悪い男ね、苗木君」  月並みな言葉を零した僕に、また霧切さんが笑った。  今日の彼女は、よく笑う。  きっと機嫌が悪いのだろう。  目の前にあった柔らかそうな唇が、ずるりと動く。  顔を舐めるような距離で、それはそのまま、僕の左耳に。  はぁ、と、生温かい風が、耳穴の中で木霊。 「女の口から、そういうことを言わせたいのかしら…?」  ぶるり、と、生理的に震えた。  わざと吐息を多くした囁き。  乗り出した分、彼女の身体はいっそう近くに這い寄ってくる。  ぐ、と、両足の間に、力強く膝を挟んでくる。 「……こうして妄りに、男の人の前で服をはだけて…迫ってきている女が」  這い寄ってきた分、その肢体が。 「何を意図しているか、だなんて……言わなくても、分かっているのでしょう?」  柔らかな、  生地との隙間の、  触れる寸前、  彼女の体温、 「ねえ、苗木君…?」  少しだけ強く、胸に押し込まれる指。  ふわり、と、マシュマロに這わせているような心地。  反発は全くない。  これを思うままに揉みしだくことが出来れば、どれほど快感だろうか。  大きくはない、けれどけっして小さくもない、彼女が女性であるということをこれ以上無しに伝えてくる、その膨らみ。  掴まれていない方の手が、勝手に持ちあがった。 「霧切さん、」  その、細すぎる肩に、少し曲げた指を添える。 「……ホントに僕が襲いかかったらどうするつもりなの?」  言って、その肩を軽く押して、僕との距離を開かせた。 「…合格ね」  彼女の笑みの中から、妖艶なものが消える。  いつもの笑みだ。  僕を小馬鹿にするような、少しだけ口端を上げるだけの。 「……まあ、どうせそういう類のことだろうと思ってたけど」 「前もって教えてしまっては、テストにならないでしょう」  なんのてらいもなく、下着姿のまま腕を組む。いつもの所作の霧切さんだ。  とりあえず手近なタオルケットをひっつかんで、僕はその肩に掛けた。 「…紳士ね、相変わらず」  彼女流の御礼の言葉、らしい。 「…根性無し、って言われてる気がする」 「あら、それは邪推よ」 「紳士って言うか…女の子は身体冷やしちゃダメでしょ。それにもう冬だし」 「それもあるけど、それだけじゃなくて」  タオルケットを羽織りながら、それでも見えるものは見えるのに、少しも恥ずかしそうな素振りを見せない。  いっそすがすがしい、こっちの方が気恥ずかしくなってしまうほどだ。 「……それとも、私じゃやっぱり役者不足だったかしら」  少しだけ目を伏せた彼女の表情は読み取れず、どんな言葉を待っているのかも分からない。 「…何の役だか知らないけど、これ以上ない名演技だったと思うよ」 「あら、そう? なら、単純に貴方が、据え膳に手を付けないような人ってことね」 「武士の恥ってことですか」 「そこまでいくと、時代錯誤よ」 「…否定はしてくれないんだ」  ハニートラップ。  彼女の言葉を借りるとするなら、僕がそれにかかるかどうかのテスト、ということなのだろう。  情報が根幹を為す職業で、そういう弱みを持っているということは致命的だ。 「ただでさえ貴方、普段から女の子相手には弱いでしょう。舞園さん然り、セレスさん然り、江ノ島さん、朝日奈さん、」 「ベ、別に弱いってことはないと思うけど」 「頼み事をされたら二つ返事で返しているじゃない、いつも」  少しだけ、声が張る。ご機嫌斜めの合図だ。  別にそれで彼女に迷惑をかけたことなんて、…ないはずだ、あまり。 「さすがに…仕事と私事の区別はするよ、いくらなんでも」 「…どうかしら」 「……信じてくれないんだ」 「探偵の仕事は『疑う』ことよ」 「…さっき僕が尋ねたことには、答えてくれないの?」 「……なんのこと?」 「本当に僕が、霧切さんに手を出したら。どうするつもりだったの、って」 「……、…」  言葉を厭うようにして、彼女はそのまま僕に背を向けた。  相手を言葉で追い詰めるのはお手の物。  けれど、自分が責められるのはビックリするほど苦手。  両刃の刃だ。  とても危うくて、そんな彼女を放っておくことが出来なかったから、そういえば。  あの学園を出た後も、こうして彼女の隣にいる決断をしたんだっけ。  不器用な人だ、本当に。  これが彼女の平常運転なのだ。  ハニートラップだなんて、きっと建前に過ぎないのだろう。  鈍いと言われている僕でも、流石にずっと隣にいる人の考えていることは分かる。 「頭良いのに、この手のことは僕よりも下手なんだもんなぁ」 「…何のことかしら」 「攻めに見せかけた守りなんでしょ、っていう話」 「貴方が何のことを言っているのか、分からないわ」  きゅ、と、羽織っているタオルケットの裾を掴む。  やはり布一枚では寒いのか。  とりあえず、部屋の隅から身体を脱出させる。  それから僕の着ていたパーカーを、そのままタオルケットの上に被せた。 「……苗木君、」  とん、と。  視線を逸らしながら何かを言いかけた彼女の、その肩をおもむろに押す。  不意を突かれたのか、それほど力を込めたわけじゃないのに、簡単に壁に背をつけた。  彼女にされたように、両腕で退路を塞ぐと、珍しくうろたえる。  あの、霧切さんが。  胸の奥の辺りがくすぐったくなる。  好きな女の子を虐めたい心理が、まさかこの年齢になってようやく理解できるとは。 「…こんなことして繋ぎとめなくても、霧切さんの側を離れたりしないよ」 「あの、」 「他の女の人にたなびいたりしない。僕には霧切さんがいるからね」 「待って、分かったわ…だから、その、近、」  わざと吐息を多くして、耳元で囁く。  ふるり、と震えた肩は、たぶん寒さのせいじゃない。  犬が飼い主に似るという話は、聞いたことがある。  長い時間を共に過ごすと、趣味思考がどんどん似通ってくるという。  例に漏れず、僕と霧切さんも。  どちらもやられっぱなしは嫌で、そして、責められると弱い。 「…ねえ、苗木君…勝手にテストしたことを」 「怒ってないよ」 「だったら、その……なぜ、私を追い詰めるのかしら」 「怒ってないけど、悲しいんだ。テストが必要なくらい、僕は信用されてないってことでしょ」  言いながらも歯が浮く心地がする。  普段の僕ならけっして言えない、思いつきもしない、気障ったらしい台詞だけど。  それでも彼女の顔色を見る限り、効果は抜群のようだ。 「……謝るわ、誤解させてしまったこと…貴方を信用していないわけじゃなくて、でも、」 「ううん、いいよ。謝って欲しいわけじゃないし」 「それなら、」 「僕はただ、分かって欲しいだけだから。僕がどれだけ、霧切さんを、大切に思っているかを」  ぐ、と、両足の間に膝を滑り込ませる。  強い言葉で拒まれたら、きっと踏みとどまれたのだろうけれど。  彼女はただ、恥ずかしそうに目を伏せるだけだった。  下着姿で迫られて、そろそろ理性の方も限界だったんだ。  建前はこのくらいにして、今夜くらいは草食動物を止めても、罰は当たらないはず。 「―――ねえ、霧切さん…壁ドンって、知ってる?」 ----

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