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「kk12_332-338」(2013/01/03 (木) 22:12:32) の最新版変更点
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壁ドン、と呼ばれるシチュエーションがあるらしい。
意中の異性を壁に押し付けて、腕で横への退路を塞ぎ、自分と壁とでサンドイッチにするような構図だ。
挟まれる方が、基本的には言い寄られる方。
押し付ける方は、所謂『俺様系』と呼ばれる主人公か、パニックになったヒロインと相場が決まっているらしい。
山田君の言だ。
一歩間違えば脅迫にも見えてしまう、それを。
なぜか今、僕と霧切さんがちょうど実践している。
「……」
「……」
怖いのに見惚れるという経験をしたことがある人は、あまりいないのではないだろうか。
綺麗な女の人の幽霊とか、雪山の頂上から断崖絶壁を覗き見るのに、それは似ていた。
ぞくり、と背筋を這う冷たい感覚。
それでも僕は、霧切さんから目を逸らせない。
壁の隅に追い詰められた僕に、身長差が悲しいかな、覆いかぶさるようにして、彼女は追い詰めてくる。
瞬き一つせず、その両目が僕を見下ろしている。
見上げる此方側からは陰になっているはずなのに、その奥が深く深く、すみれ色に光っているように見える。
じとり。
粘っこさは感じない。むしろ、重苦しさ。
すみれ色の燐光が、すらりとした鼻立ちが、色素の薄い唇が、圧し掛かってくる。
人形のように整った顔立ちが、表情一つ変えず。
お気に入りらしい男物の香水に紛れて、煮詰めた花のような、濃い彼女の匂いを感じる。
どくん、と、心臓が跳ねる。
声を出そうとも掠れる喉に代わって、煩いくらいに跳ねている。
「……、苗木君」
霧切さんは、下着姿だ。
「…心拍数が上がっているわ」
霧切さんの素の腕が、手のひらが、指が、僕の手首を握った。
驚くほど冷たくて、更に心臓が跳ねる。
色気よりも、いや失礼な話だけど、先に来たのは不安だった。
そりゃあ僕も男だし、下着姿の女性に迫られて何も感じないわけが無い。
今までずっと側にいて、今でもよく分からないところはあるけれど、それでも彼女のことを真剣に想っている。
その人の、一糸纏わぬ、とまではいかなくとも。
絹のような素肌、せいぜい暗がりか、共に潜った修羅場でしか見たことのなかった、柔肌を。
それでも、目の当たりにして平常心でいることが出来るのは、彼女といることで幾分か精神的に鍛えられたからだろう。
けれど。
理性を保つことはできても、不安を消すことはできなかった。
「私を見て……何を、考えているの…?」
僕の知っている霧切さんは、こんなことをする人じゃないからだ。
何かの罠か、目の前にいる霧切さんが偽物か、と勘繰って、止める。
目の前にいるのは確かに霧切さんで、どこからどう見ても正気を保っているし、彼女の意思で僕を壁に追い詰めているのだ。
その程度が分からないほど、短い付き合いじゃない。
「そんなことをするような人じゃない」とはいっても、奇行に走るのはこれが初めてじゃない。
だからある意味、これは通常運転と言える。
そして、だからこそ不安なのだ。
こうして僕に迫ってくる霧切さんの行為は、異常ではなく、正常。
つまり、彼女が俺様系になったわけでも、何かしらに混乱しているわけでもない。
それ以外の理由がある、ということだ。
「……ねえ」
僕の手首をつかんだ彼女の指が、それをゆっくりと持ち上げる。
警戒心の割に、自然かつ緩慢な動きに、抵抗する気は不思議と起きないものだった。
視線を微塵も動かさず、僕の腕を空中で固定する。
そしてそのまま、同じ緩慢な動きで、彼女は一歩此方に踏み出した。
ふ、と、指の先に生地が触れる。
「―――…っ」
「私は、尋ねているのよ…苗木君?」
指先に、全神経が集まった。
ぐっ、と、更に彼女は僕との距離を詰める。
唇が額の先にある。生温かい声音と吐息が、溶かすように降ってくる。
その、鼻先三寸にある彼女の柔らかそうな唇よりも。
僕の意識は、自分の指の先に向かっていた。
「きり、霧切さん、胸…当たっ……」
どうにか掠れながらも出した、どうしようもない、ただの状況説明の言葉。
息を吸おうとして、ひぃ、と、情けない音が鳴った。
顔が熱い。きっと、真っ赤で、真っ青だ。
余程滑稽だったのか、ようやく霧切さんが表情を崩した。
時折見せる笑みの、それをほんの少しだけ、妖艶にして、また僕を覗き込む。
「当てているのよ…って、言ったらどうする…?」
どうするも、こうするも。
「あの……そろそろ、その…状況というか、意図を説明して、欲しいんだけど…」
「…悪い男ね、苗木君」
月並みな言葉を零した僕に、また霧切さんが笑った。
今日の彼女は、よく笑う。
きっと機嫌が悪いのだろう。
目の前にあった柔らかそうな唇が、ずるりと動く。
顔を舐めるような距離で、それはそのまま、僕の左耳に。
はぁ、と、生温かい風が、耳穴の中で木霊。
「女の口から、そういうことを言わせたいのかしら…?」
ぶるり、と、生理的に震えた。
わざと吐息を多くした囁き。
乗り出した分、彼女の身体はいっそう近くに這い寄ってくる。
ぐ、と、両足の間に、力強く膝を挟んでくる。
「……こうして妄りに、男の人の前で服をはだけて…迫ってきている女が」
這い寄ってきた分、その肢体が。
「何を意図しているか、だなんて……言わなくても、分かっているのでしょう?」
柔らかな、
生地との隙間の、
触れる寸前、
彼女の体温、
「ねえ、苗木君…?」
少しだけ強く、胸に押し込まれる指。
ふわり、と、マシュマロに這わせているような心地。
反発は全くない。
これを思うままに揉みしだくことが出来れば、どれほど快感だろうか。
大きくはない、けれどけっして小さくもない、彼女が女性であるということをこれ以上無しに伝えてくる、その膨らみ。
掴まれていない方の手が、勝手に持ちあがった。
「霧切さん、」
その、細すぎる肩に、少し曲げた指を添える。
「……ホントに僕が襲いかかったらどうするつもりなの?」
言って、その肩を軽く押して、僕との距離を開かせた。
「…合格ね」
彼女の笑みの中から、妖艶なものが消える。
いつもの笑みだ。
僕を小馬鹿にするような、少しだけ口端を上げるだけの。
「……まあ、どうせそういう類のことだろうと思ってたけど」
「前もって教えてしまっては、テストにならないでしょう」
なんのてらいもなく、下着姿のまま腕を組む。いつもの所作の霧切さんだ。
とりあえず手近なタオルケットをひっつかんで、僕はその肩に掛けた。
「…紳士ね、相変わらず」
彼女流の御礼の言葉、らしい。
「…根性無し、って言われてる気がする」
「あら、それは邪推よ」
「紳士って言うか…女の子は身体冷やしちゃダメでしょ。それにもう冬だし」
「それもあるけど、それだけじゃなくて」
タオルケットを羽織りながら、それでも見えるものは見えるのに、少しも恥ずかしそうな素振りを見せない。
いっそすがすがしい、こっちの方が気恥ずかしくなってしまうほどだ。
「……それとも、私じゃやっぱり役者不足だったかしら」
少しだけ目を伏せた彼女の表情は読み取れず、どんな言葉を待っているのかも分からない。
「…何の役だか知らないけど、これ以上ない名演技だったと思うよ」
「あら、そう? なら、単純に貴方が、据え膳に手を付けないような人ってことね」
「武士の恥ってことですか」
「そこまでいくと、時代錯誤よ」
「…否定はしてくれないんだ」
ハニートラップ。
彼女の言葉を借りるとするなら、僕がそれにかかるかどうかのテスト、ということなのだろう。
情報が根幹を為す職業で、そういう弱みを持っているということは致命的だ。
「ただでさえ貴方、普段から女の子相手には弱いでしょう。舞園さん然り、セレスさん然り、江ノ島さん、朝日奈さん、」
「ベ、別に弱いってことはないと思うけど」
「頼み事をされたら二つ返事で返しているじゃない、いつも」
少しだけ、声が張る。ご機嫌斜めの合図だ。
別にそれで彼女に迷惑をかけたことなんて、…ないはずだ、あまり。
「さすがに…仕事と私事の区別はするよ、いくらなんでも」
「…どうかしら」
「……信じてくれないんだ」
「探偵の仕事は『疑う』ことよ」
「…さっき僕が尋ねたことには、答えてくれないの?」
「……なんのこと?」
「本当に僕が、霧切さんに手を出したら。どうするつもりだったの、って」
「……、…」
言葉を厭うようにして、彼女はそのまま僕に背を向けた。
相手を言葉で追い詰めるのはお手の物。
けれど、自分が責められるのはビックリするほど苦手。
両刃の刃だ。
とても危うくて、そんな彼女を放っておくことが出来なかったから、そういえば。
あの学園を出た後も、こうして彼女の隣にいる決断をしたんだっけ。
不器用な人だ、本当に。
これが彼女の平常運転なのだ。
ハニートラップだなんて、きっと建前に過ぎないのだろう。
鈍いと言われている僕でも、流石にずっと隣にいる人の考えていることは分かる。
「頭良いのに、この手のことは僕よりも下手なんだもんなぁ」
「…何のことかしら」
「攻めに見せかけた守りなんでしょ、っていう話」
「貴方が何のことを言っているのか、分からないわ」
きゅ、と、羽織っているタオルケットの裾を掴む。
やはり布一枚では寒いのか。
とりあえず、部屋の隅から身体を脱出させる。
それから僕の着ていたパーカーを、そのままタオルケットの上に被せた。
「……苗木君、」
とん、と。
視線を逸らしながら何かを言いかけた彼女の、その肩をおもむろに押す。
不意を突かれたのか、それほど力を込めたわけじゃないのに、簡単に壁に背をつけた。
彼女にされたように、両腕で退路を塞ぐと、珍しくうろたえる。
あの、霧切さんが。
胸の奥の辺りがくすぐったくなる。
好きな女の子を虐めたい心理が、まさかこの年齢になってようやく理解できるとは。
「…こんなことして繋ぎとめなくても、霧切さんの側を離れたりしないよ」
「あの、」
「他の女の人にたなびいたりしない。僕には霧切さんがいるからね」
「待って、分かったわ…だから、その、近、」
わざと吐息を多くして、耳元で囁く。
ふるり、と震えた肩は、たぶん寒さのせいじゃない。
犬が飼い主に似るという話は、聞いたことがある。
長い時間を共に過ごすと、趣味思考がどんどん似通ってくるという。
例に漏れず、僕と霧切さんも。
どちらもやられっぱなしは嫌で、そして、責められると弱い。
「…ねえ、苗木君…勝手にテストしたことを」
「怒ってないよ」
「だったら、その……なぜ、私を追い詰めるのかしら」
「怒ってないけど、悲しいんだ。テストが必要なくらい、僕は信用されてないってことでしょ」
言いながらも歯が浮く心地がする。
普段の僕ならけっして言えない、思いつきもしない、気障ったらしい台詞だけど。
それでも彼女の顔色を見る限り、効果は抜群のようだ。
「……謝るわ、誤解させてしまったこと…貴方を信用していないわけじゃなくて、でも、」
「ううん、いいよ。謝って欲しいわけじゃないし」
「それなら、」
「僕はただ、分かって欲しいだけだから。僕がどれだけ、霧切さんを、大切に思っているかを」
ぐ、と、両足の間に膝を滑り込ませる。
強い言葉で拒まれたら、きっと踏みとどまれたのだろうけれど。
彼女はただ、恥ずかしそうに目を伏せるだけだった。
下着姿で迫られて、そろそろ理性の方も限界だったんだ。
建前はこのくらいにして、今夜くらいは草食動物を止めても、罰は当たらないはず。
「―――ねえ、霧切さん…壁ドンって、知ってる?」
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