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「kk15_372-377」(2013/07/11 (木) 01:17:29) の最新版変更点
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「…お帰りなさい、苗木君」
その日も授業を終えた僕は、まっすぐ宿舎に戻ったのだ。
出る時に閉めたはずの扉の鍵は、いつも通りに何故か開いていた。
部屋の主を迎える声は、ベッドの上から。
コートを脱いでシャツ姿になった霧切さんが、そこで思いっきりくつろいでいる。
僕の方をちらとも見ず、視線の先は、図書室から借りて来たらしい本。
「…あの、プライバシーとかさ」
「お帰りなさい」
「……、ただいま」
根負けするのもいつも通りだ。この手の抗議は、聞き入れてもらえた試しが無い。
僕が返事をすると、霧切さんはうっすらと満足そうな表情を浮かべた。
どうも彼女は、僕の部屋を共用リビングか何かと勘違いしている節がある。
…普通に訪ねてくれれば良いものを、こうして不法侵入のような形で訪ねてくるから困るのである。
おもてなしの用意も出来ないし、何より見られたくないものも色々あるのだ。
思春期の健全な男子高校生の懊悩を、理解していないのか、理解している上で知ったことではないというのか。
最初の頃は本当に驚いて、隣部屋の舞園さんにまで助けを求めたりしたのだけれど。
最近は鍵が開いていても、ああ、来ているのか、程度にしか思わなくなってしまった。
慣れとは怖ろしいものだ。
しみじみと思いながら、僕はいつも通りにコーヒーを淹れて、いつも通りに部屋のカーテンを開け、いつも通りに彼女の正面に座る。
特に何を話すわけでもなく、こうして僕の部屋で沈黙の時間を過ごして、彼女は自室に帰っていく。
話せば返事は返ってくるけれど、どうも上の空だし、読書の邪魔をしているような気になってしまうので、僕も黙っているのだ。
どうして僕の部屋が良いのかは分からない。
ただ結局、野良猫に懐かれたような心地が良くて、なんとなく彼女を追い出せずにいるのである。
「…それ、何の本?」
ただ、その日は何かがいつもと違った。
いつもなら気にならないはずのことが、気になってしまっていたのだ。
彼女の読書の邪魔にはならないか、そう思い留まる前に、口が勝手に言葉を発した。
霧切さんが視線をこちらに向ける。身体がギシリと強張る。
「いつも読んでるような、ミステリじゃないよね」
「…何故分かるの?」
「読むスピードが普段より早いから、そうかなって。ミステリなら、推理しながら読むでしょ」
へえ、といった具合に、霧切さんが目を丸くして、それから僅かに微笑む。
感心している時のクセだ。少しだけ誇らしい気持ちになった。
「よくあるSFよ。心と身体が入れ替わってしまった、男女の話」
霧切さんも、いつもならせいぜい本のタイトルと種類を言って、そこで会話を区切るだろう。
その日はいつもより、ほんの少しだけ口が回っていた。
思えば、この時に違和感に気付けていたら、あんな茶番に発展することは無かったのだ。
「非科学的な話よ…頭をぶつけた衝撃で、だなんて」
「その割には、結構読み耽ってたように見えたけど…」
「ええ。昔の私なら、ナンセンスだと切り捨てて、見向きもしなかったでしょうね」
誰の影響かしら、と呟くように続けて、霧切さんはコーヒーに口を付けた。
誰の影響なんだろう。なんにせよ、悪い変化じゃないように思う。
僕は、彼女がそのまま読書に戻っていくものだと思って、自分のカップに手を伸ばした。
けれども霧切さんは、本から顔を上げて、僕のことをじっと見ていた。
伸ばした手が宙で止まる。
霧切さんに見据えられると、なんというか、落ち着かない。
一つ一つの行動を分析されているような気分になる。
「あの、…何?」
たまらず、僕から尋ねる。
「いえ…苗木君なら、どうするのかと思って」
「どうするって?」
「この本のように、他人と精神が入れ替わってしまったら…」
声には出さず、驚く。こういう話題を彼女が振ってくるのは、本当に珍しいことだった。
明日は雹でも降るんじゃないだろうか。
なんて、口に出したら何をされるか分かったモノじゃないので、一応は真面目に考える素振りを見せる。
「そうだなぁ…とは言っても、時と場合によるんじゃないかな」
「そうね、条件の限定が必要ね。それなら…今、私とここで入れ替わったら…どう?」
「え」
―――霧切さんと?
自分でも分かるほど不自然に、固まってしまった。
忘れられがちだけれど、僕だって思春期の青少年だ。暇つぶしの質問としては少々酷じゃないだろうか。
女の子、それも目の前に居て、その姿を視覚でリアルに再現出来てしまう存在。
つまりは、彼女の身体に、僕の精神だけが乗り移ってしまったら。
あまりにも不純な答えばかり、湧きだすように出てくるので、思わず口ごもってしまう。
僕の懊悩を見透かしたかのように、霧切さんは意地の悪い笑みを浮かべた。
「…口には出せないような事をするつもりなの?」
「そっ、そんなこと、しないってば! ……その、たぶん」
「ふふ、苗木君も男の子なのね」
にやにやと、僕をからかう時の愉快そうな笑い方だ。
本当に人が悪い。
いや、軽蔑されないだけでもありがたいのだけれど。
「じゃ、じゃあ…逆に、霧切さんならどうするの? 僕と、」
「元に戻る方法を第一に探すわ」
言葉をつづける前に、模範解答に斬って捨てられた。情け容赦のない一刀両断だった。
「…何よ、その目は。何か文句があるっていうの?」
「文句っていうか…せっかくのフィクションなのに、夢も希望もないなあ、と」
霧切さん自身も、模範解答のつもりで応じたのだろう。
確かに彼女らしい、合理的というか無駄のない答えではあったけれど。
僕が異論を唱えると、傷付いたように目を見開いて、それからそっぽを向いて拗ねる。
「……」
「い、いや、ホラ…霧切さんらしい現実的な答えではあったけどさ」
「……、…」
じとり、と睨まれてしまう。上手いフォローではなかったらしい。
期せずして、先程からかわれた仕返しになってしまった。ともいうのに、この罪悪感はなんだろう。
「そ、それじゃあ…もしすぐには戻れなかったら、どうする?」
フォローの方向を変えたつもりだった。
口にしてから、話題が変な方向に暴走していることに気付く。
「……そうね。他の人に言っても信じてもらえないでしょうし」
あ、乗ってくるんだ。
「しばらくは、苗木君として生きていくしかないわね…」
「…何でそんな、しぶしぶ妥協して、みたいな」
「あなただってそうでしょう。言っておくけれど、あまり便利な身体じゃないわよ」
返答に困って、曖昧に頷いて返す。
そりゃあ、男子の身体よりも女子の身体の方が色々と問題があるのは知っている。
思春期の想像に使われる部分は、その極々一部でしかない。何の話だ。
「……『希望は、前に進むのよ』」
唐突に霧切さんが呟いた。
脈絡がないどころか、台詞の中身もなんというかアレすぎて、よく分からない。
「……、どうしたの?」
「いえ、あなたが普段言いそうな言葉を選んでみたのだけれど」
どうかしら、と大真面目に尋ね返された。
「…僕、そんなゲームの主人公みたいな台詞、言わないよ」
「…自覚が無いの?」
「何が?」
「……いえ、なんでもないわ」
腑に落ちなさそうな表情で、はぐらかされてしまった。
そんな素面で言ったらちょっと恥ずかしいであろう台詞、余程じゃないと口に出さないと思うのだけれど。
「…苗木君、あなたも。私が言いそうな台詞を探しておかないと、いざという時に困るわよ」
まあ、困るとしたら、今まさにちょっと反応に困っている。
こういう時の霧切さんは、少しだけズレているというか、天然というか。
どこまでが本気か分からないので、僕としては合わせて付き合うしかないのだ。
霧切さんらしい台詞、すなわち、彼女が僕に向けてよく言うような言葉を選んでみる。
「『…霧切さんのクセにナマイキだよ。』 ……あい゛っ、いたた…」
眉をひそめた霧切さんに、思いっきり頬を捻りあげられた。
「……なんていうか、苗木君に言われると、すごく傷付くわ」
「いったいいたい痛いって! だ、だって霧切さんが言えって…!」
「言えとは言っていないわ。考えておくように忠告をしただけよ」
どういう抓り方をしているのか、本当に頬を持っていかれそうに痛い。
涙まで出てきたところで、ようやく霧切さんは指を離してくれた。
「…というか、私らしい台詞と聞いて、最初に浮かぶのがそれ? あなたは、私を何だと思っているのかしら?」
「だ、だって、いつも僕に言うじゃないか…」
「苗木君相手にしか言わないわよ、そんなこと…」
言ってから、霧切さんはハッとしたように、頬を赤くして口ごもった。
それから気まずそうにコーヒーカップに手を伸ばし、ぎこちない仕草でそれを飲み干す。
なんだというのだろう。
普段の自分の僕に対する発言の酷さにようやくに気付いて、少しは改めてくれるのだろうか。
「……そうね。じゃあ、私も遠慮しないわ」
「な、何が?」
「あなたがいつも無意識で口にしている、歯の浮くような台詞を選んであげるって言ったのよ。…そうね……」
不敵に笑うと、霧切さんは口元に指を当て、ゆっくりと思索の時間に入った。
こうして考えている時の表情は、本当に人形のような、魅入ってしまうような魅力さえあるのに。
一度口を開けば、ミステリアスというには些か以上に度が過ぎているという本性だ。
いや、それすらも彼女らしさだ、と感じてしまっている辺り、僕も僕で末期なのかもしれない。
やや俯かせた顔、聞こえないほどの小声で何かを呟きながら、霧切さんは台詞を探している。
背を壁に預け、唇をもぞつかせるその仕草は、不思議な色っぽさがあった。
たわんだ銀色の髪が、曲線を描いて肩に乗っている。
時折、食むように唇を指に這わせる。
どきり、とした。
こんな些細な仕草に反応してしまうのだから、彼女にからかわれるのも仕方ない。
見惚れている自分に気がついて、我に返る。
と、同時に、霧切さんが思いついたように顔を上げた。
こちらを見る。
それから、今まで見たことのないような柔らかい笑顔を浮かべた。
演技だ、と咄嗟に脳で判断するも、視線は逸らせない。
「―――『苗木君の笑った顔って、すごく可愛いのよ…?』」
耳が、燃えあがった。
「き、霧切さん…」
演技だと分かっている、分かっていたのに。
普段の涼しげな表情とのギャップもあり、その穏やかな笑顔は破壊的な魅力があった。
いや、そりゃあ、確かに僕が実際に口にした台詞だったけれど。
からかわれてばかりの彼女に、なんとか一泡吹かせようとして、見事にカウンターを食らった手痛い記憶。
…よもや時を越えて、ここで再びカウンターを貰うことになるだなんて。
「…やっぱり男の子ね、苗木君」
霧切さんは、勝ち誇ったような表情を浮かべて、ベッドの上で誇らしげに笑う。
ドヤ顔、というやつだ。
「さっきの仕返しよ。恥ずかしいでしょう?」
「は、恥ずかしいっていうか…」
おそらく彼女の期待しているであろう羞恥とは少しずれたもので、けれども確かに僕の頬は熱を持っている。
正面から見つめられているのが恥ずかしくなり、目を逸らす理由を探して、僕はぬるくなってしまった自分のコーヒーにようやく口を付けた。
間もなく、パタン、と本を閉じる音がする。
「…一つ言えることは」
「うん?」
「…他人と入れ替わってしまうだなんて、碌な事じゃないってことよ」
僕が部屋に帰って来た時は、まだ半分ほど残っていたはずだ。いつの間に読み進めていたのか。
読了ということらしい、霧切さんは立ち上がって、両手を組んでぐっと伸びをした。
ああ、部屋に帰ってしまうのか。
ふと感じてしまった名残惜しさを堪えて、コートを手渡した。
言われる前に身体が動いてしまう辺り、どれだけ僕が普段から彼女に振り回されているかが改めて分かる。
と、いつもなら、礼とともにコートを羽織り、彼女はここで颯爽と僕の部屋から去っていくはずなのだ。
霧切さんはコートを受け取らずに、じっと僕を見ていた。
そう、いつも通りの一日の終わりのはずなのに、その日はどこかがいつもと違ったのだ。
「…それでも、あなたとなら…」
「え?」
「入れ替わってみるのも、悪くはない……かも」
いつもの凛とした声と表情よりも、おそらくは本当に無意識の言葉だったのだろう、どこか虚ろに感じた。
僕がその意図を尋ね返す前に、霧切さんは自分が何を言ったのかを理解して、はっと口元に手を当てる。
それからコートをひったくると、僕が見送る暇もなく、部屋の扉に手をかけた。
「あの、霧切さん?」
「…いつもと違う本を読んだから…いつもと調子が違っただけよ。他意は無いから」
一度だけ振り返り、念を押すように、僕の方をじろりと睨む。
その顔は、ほんのり赤く染まっていた。
「……今日は失言が多かったわ。忘れて」
「あの、僕も」
彼女の言葉を遮る。
普段見ることはない笑顔や、今も目の前の拗ねるように恥ずかしがる顔が、きっと僕をおかしくしたんだ。
たぶん後で盛大に公開することになるだろう。
そう分かっていても、僕の口は止まらなかった。
「…僕も、もし入れ換わるなら、霧切さんが良い、かな…」
言っている最中から、顔中が火照っていくのを感じた。
霧切さんは少しだけ意外そうに眼を見開いて、それからじと目で僕を見る。
「…あの、イヤらしい意味じゃなくて!」
「…当たり前でしょう」
軽く溜息を吐くと、意地悪そうな笑みを浮かべた。
けれどもいつも僕をからかう時とは、様子がまるで違う。
顔は火照ったままだし、笑顔も取り繕ったような、どこか余裕の無さを感じる。
「もしイヤらしい意味なら、私なんかよりも…朝日奈さんや、江ノ島さん相手の方が良いんじゃないかしら? …あなたにとっては」
「そ、そんなことないよ!」
「……」
「……」
僕をからかうことで調子を戻そうとしたらしい彼女は、それもあえなく失敗したのか、頬を染めたまま俯く。
かくいう僕も、ほとんど同じ状態なワケで、それを笑う余裕はない。
「……、物好きね、苗木君は…」
「き、霧切さんこそ…」
少しだけ気まずい沈黙が続いて、思い出したかのように霧切さんが背を向けた。
背を向けても、耳まで赤いのは変わらない。
「じゃあ、その……また来ても、いいかしら」
これまで幾度となく無断で侵入してきた彼女が、ようやく僕に許可を求めた。
そんなことを尋ねられるのは初めてだ。
けれど、僕の答えは最初から決まっている。
「うん、もちろん。…前以て教えてくれると、嬉しいけど」
「……善処するわ」
バタン、と力強く、扉が閉められた。
「……恥ずかしいこと言うのは、霧切さんも一緒じゃないか…」
部屋に残った熱気。
きっと僕は今、さっきの霧切さん以上に顔が真っ赤だ。
扉の向こうの彼女に向けて呟いた言葉は、分厚い壁に吸い込まれ、寂しく消えていった。