キャット・アウト

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 日曜の午前……寮の食堂で朝食を終えて自室に戻ったボクは、暇つぶしにネットで動画を漁っていた。  人気ランキングの上位でたまたま見かけたのは『世界のおもしろペット特集』。  きちんとお座りをした体勢でうたた寝をしてこける犬。器用に戸棚を開けてもぐり込む猫。蛇口から水を直接飲もうとして、頭にかぶる猫。  次々画面に現れる動物たちの愉快で可愛い姿に、思わず吹き出してしまう。  比率で言うと、猫の動画が多いかな――なんて思っていると、部屋のチャイムが鳴った。……動画を一時停止して、ドアに向かう。 「おはようございます……は、先程食堂で言いましたわね。苗木君、今ちょっとよろしいですか?」  ドアを開けるなりそう言って、こちらの返答を待たずにずい、と部屋に入ってきたのはクラスメイトのセレスさんだ。  戸惑いながらもボクは頷き、彼女を部屋の奥に通した。 「わたくしがわざわざ訪ねて来たのは、他でもありません。……わたくしのナイトであるあなたに、猫を探して欲しいのです」  開口一番、セレスさんはあっさりとした口調で言った。 「は……? ね、猫って、あの動物の猫?」 「その猫に決まっていますわ。……あなた、得意でしょう。タンスの裏から小銭を見つけてきたりするのが」 「得意って……ボクそんなみみっちいキャラなの……?」  いきなりすぎてちっとも話が読めない。苦笑しながら詳しい説明を求める。 「事の起こりは一昨日です。わたくしの両親の元に遠くの親戚から電話が入って――」  彼女の話によると、一昨日の夜遅く、実家の両親に遠方の親戚のお爺さんが危篤だという連絡があったらしい。  両親は慌てて遠出をしなければならなくなった訳だが、問題が一つあった。それはセレスさんが実家で可愛がっていた一匹の猫だ。 「うちの猫は、グルメですの。普通の猫のようにドライフードと水を用意しておけば2、3日は大丈夫……とはいきません。  毎日調理したご飯を与えなくてはいけないのですが、夜遅くの事でしたので、ペットシッターやホテルにお願いする余裕はありませんでした」 「ああ、それでセレスさんに」 「ええ。親戚の家に向かう道すがら、この学園の寮に立ち寄って、猫と世話用品など一式をわたくしが預かる事になりました。  本来は寮でペットを飼うなんて規則違反でしょうけど、2、3日の事ですし緊急事態です。わかって頂けますわね?」  それはもちろん。ボクは頷いて先を促す。 「夜中に突然連れ出された猫は少々不機嫌そうだったのですが、しばらくは大人しくしていましたわ。  ですが、昨日の夕食後――わたくしが食堂から部屋に戻ってドアを開けるなり、外に飛び出してしまったのです。  わたくしはきちんとキャリーケースのドアを閉めていたつもりだったのですが、少し隙間が開いていたのですね。  ……どうやら、ずっとケースに閉じ込められていたのが気に入らなかったようで、虎視眈々と逃亡の機会を窺っていたのでしょう」 「え……ケースに……閉じ込めて?」 「人聞きの悪い言い方をしないで下さい。食事やトイレの時はリードを繋いで外に出してやりましたわよ。猫というものは可愛くとも、  毛をまき散らしたり、家具で爪を研いで傷つけたりしますからね。わたくしのお部屋を汚さないように手を打ったまでですわ」  先に『人聞きの悪い言い方』をしたのはセレスさんの方なんだけど……話はわかった。 「つまり、昨日の夜に逃げ出したセレスさんの猫を探せばいいんだね」 「そうです。昨夜は、他の方に知られないように静かに歩き回って探したのですが、見つからずに消灯時間になってしまいました。  今朝も早く起きて一通り見て回ったのですけど、まだ怒って隠れているのか、もっと遠くに行ってしまったのか……――  わたくし、心配ですわ。あの子が悪者にさらわれたり、どこかで事故にあったりしたらと思うと……」  セレスさんはそう言って胸に手を当て、沈痛な表情で俯いた。  いつも強気なセレスさんがこんなに心細そうにするなんて……よほど大事なペット、いや、家族なんだろう。ボクの胸もずきりと痛む。  彼女に“ナイト”に任命されたからじゃない。ボクは一人の人間として、彼女の力になりたくなった。 「わかったよ、セレスさん。ボクが絶対に猫を見つけるから、安心して」  セレスさんの白くて小さな手を取り、勇気づけるように言いきると、彼女の表情がぱっと明るくなる。 「ありがとうございます、苗木君……! やっぱり、チョロ……いえ、頼りになりますわね」  …………今、言いかけた言葉は聞かなかった事にして、頑張って猫を探そう……。 「それで、いなくなったのはどんな猫なの?」  尋ねるとセレスさんはポケットから携帯を取り出してこちらに差し出した。 「口で説明するより、写真を見て頂いた方が早いですわ。……この子です。可愛いでしょう」  画面に映し出されていたのは……何と言うか……ふてぶてしい表情をした猫だ。  毛がふさふさしているのか、太っているのかわからないが、横幅が並みの猫の倍近くありそうに見える。  一般的な感覚で言うと可愛い、よりブサカワ……という分類をされるんじゃないだろうか。  思わずセレスさんの顔を見返したが、真顔なので(失礼だが)本気か冗談かわからない。ここは流しておく。 「……この猫。名前は何て言うの?」 「グランボアシェリ」 「え?」 「グラン、ボア、シェリですわ。わたくしのセンスが光る、素晴らしい名前ですわね」  得意げに胸を張るセレスさんを尻目に、グランボ……グランボアシェリ……と何度か頭の中で繰り返して刻み込んだ。  意味がよくわからないし、これで覚えたか自信がない。……が、とにかく、捜索を始める事にする。  出来れば、クラスの皆に呼びかけて、あわよくば手を借りたい所だけど―― 「却下ですわ。事情はあるにせよ、寮へのペットの持ち込みは原則禁止。先生方の耳に入ったら面倒な事になりかねません。 もし、あなたが猫を見つけられなければ、その時は処罰覚悟で他の皆さんにも協力をお願いしますが、それは避けたいものですわね」  セレスさんが昨夜と今朝、猫を見つけられなかったのは他の人になるべく気づかれないようにしたせいかもしれない。  ……彼女と二人だけで猫を見つけるのは簡単ではないだろうが、一番にボクを頼ってくれた事が嬉しくもある。  他の生徒や先生にバレないように――という事を念頭に置いておこう。 「さあ……苗木君。どこを調べにいきますの?」  昨夜から今朝にかけて一通りの場所を探したというセレスさんは、今度はボクに捜索に方針を委ねるつもりのようだ。  ボクは少し考え……寮内と言っても広く、まだ寮内に留まっているかも曖昧だ。まずはそこを確かめた方がいいだろう。 「とりあえず寮と校舎棟を繋ぐドア……あそこを猫が通れたか調べようかな。寮の外に出るかどうかで、範囲が全然違ってくるからね」 「寮と外界との唯一の接点を、真っ先に潰しておこうというのですね。いいでしょう」  頷くセレスさんと話しながら自室を出る。彼女の言葉通り、ボクら寮生が普通に外に出るには、一旦校舎棟に行くのが唯一の方法だ。  不便で不自然な構造だが、この寮が元々は旧校舎で、今の校舎棟を増築した経緯があってこうなっているらしい。  廊下の窓や非常口は普段は締め切っているので、調べるのは後にしよう。  ――……その途中の廊下で、クラスメイトの一人と出会った。石丸クンだ。 「やあ、苗木くんにセレスくん! 二人してどこに行こうというのかね。休日だからといって、遊んでばかりいては、健全な――」  いつもの調子で熱く話しかけられた。……さすがは“超高校級の風紀委員”。休日なのに彼は今日もカッチリ制服を着こんでいる。  ……まさか、私服を持ってない訳じゃないよな……? ……そんな疑問はさておき、ここで彼と会ったのはラッキーだ。  話を聞けば、大幅に捜索の手間が省けるかもしれない。 「あの、石丸クン! ちょっと聞きたいんだけど、昨日の夜も見回りはした? 何か変わった事はなかったかな……?」  猫の件は話せないので、遠回しに尋ねてみた。石丸クンは風紀委員として、寮でも自主的に夜回りをしている。  夜遊びを注意された一部の生徒から不興を買う事もあるようだが、不審者や落し物を発見した実績も少なくない。 「就寝前の見回りなら、もちろんしたぞ。変わった事……と言われても、特になかったが。どうした、何か困り事かね、苗木くんッ!?」  目を血走らせて詰め寄る石丸クン。熱意は嬉しいけど暑苦しい……。つい返答に詰まると、代わりにセレスさんが口を開いた。 「いえ、近頃は物騒でしょう。マンション荒らしがニュースになったり……学園の寮とはいえ、わたくし、不安で……。  それで、今も苗木君と防犯について話していたのですわ。……石丸君、昨夜の夕食後あたりからの戸締りはどうでした?  寮と学園を結ぶドアや、廊下の窓は? 非常口は? “猫の子一匹通れない”よう、きっちり締めてありましたの?」  ――さすがセレスさん。上手い……! 感心しているうちに石丸クンが答える。 「うむ、それなら安心したまえ。門限の6時半以降は僕が責任を持って施錠を確認したからな。カギを持っている寮生なら別だが、  それ以外の者は事務室の許可を得なければ寮には出入りできなかったはずだ。  廊下の窓と非常口も問題はないぞ。ロックを毎日朝晩確認しているし、まだ寒い時期だ。閉め忘れがあればすぐに誰かが気づく」 「……それは良かったですわ。ありがとうございます、石丸君。……安心しましたわね。では、行きましょうか」  セレスさんがそっとこちらに目配せする。ボクは頷き、石丸クンと別れてその場を離れた。 「ドアに鍵がかかっていたなら、猫が抜け出すような隙間はなかったって事だね」  石丸クンから距離を取りながら、ボクは声をひそめて行った。 「そうですわね。鍵がかかっていない木のドアなら閉まっていても、あの子が一人で出てしまう事も考えられましたが、  校舎棟へのドアは鉄製ですので、隙間さえなければ脱出は出来ませんわ」 「うん? ……木のドアなら、って」 「猫というのはとても器用で賢い動物ですの。人間の動きを観察して、軽い木のドアくらいなら簡単に開けてしまいます。  ドアノブに手を引っ掛けてぶらさがり、体重をかけるのですわ。  さすがに重い鉄のドアを開けたり、鍵のツマミを回したりはしませんが。……それに、開けても閉めてくれないのが困った所で……」  そういえば……さっき見てた動画でも猫が引き出しを開けたりしてたっけ。ドアまで開けちゃうなんて驚きだ。 「ただ、人間がドアの外に連れて行ったり、昨夜のようにドアが開いた瞬間に飛び出す事も不可能ではないでしょうが……  ――グランボアシェリは、わたくしに似て高貴な性格ですの。見ず知らずの人間に、容易に心を許したりはしませんわ。  基本的には他人と距離を取ろうとするので、そうした可能性は低いと思います」  ……高貴かどうかはさておき、要するに人見知りをする性格って事かな。  今後の捜索の参考になるかもしれないので、この点も覚えておこう。  さて、一応捜索の範囲をこの寄宿舎内に限定できた。問題は猫が今、寮のどこにいるかだが―― 「個人のお部屋は、先程お話しした理由で除外していいと思います。  寮生は皆さん良く知るクラスメイト……猫を密かに捕えて無理やり自分の部屋に連れ込むような変態はいらっしゃいませんわ」 「へ……変態って」  言い方はともかく、その見立てには賛成だ。動物好きの人といっても大和田クンは犬派だし……  猫を見つけて黙っているような人にも心当たりはない。それは同時に、猫がまだ誰にも目撃されていないという証でもある。  騒ぎになる前に、早く猫を見つけないと。とりあえず、寮の見取り図を思い浮かべて共有スペースを挙げてみよう。 「倉庫……食堂……大浴場。ランドリーにトラッシュルーム」 「トイレや廊下の全ても共有スペースと言えますわね。ですが、猫が身を隠せるような場所はあったでしょうか……?」  セレスさんに言われ、廊下の風景をグルリと思い浮かべる。 「うーん……廊下に物はほとんど置いてないし……誰の目にもつかない場所なんて無いと思うな。……あ、二階への階段は」  寄宿舎の二階は、職員用のフロアになる予定だが、まだ改装前で立ち入り禁止だ。  ずっと鉄の檻みたいなシャッターで階段が封鎖されていて、その先がどうなってるかはボクら寮生にもわからない。  あのシャッター……。隙間はあるけど、さっきの画像で見た猫の体型で通れるのだろうか。セレスさんに尋ねる。 「……無理ですわね。頭だけなら入るかもしれませんが、胴体はとても」  だ、そうだ。飼い主が言うなら間違いない。やっぱり、さっき挙げた5つの部屋のどこかに―― 「――っくし。ゴメン」  ふいにクシャミが出て、思わずボクは身震いした。長々と話し込んでしまったが、やっぱり廊下は寒い。  とりあえず、近くの部屋――ここから一番近いのは食堂だ。そこに逃げ込む事にする。  ボクらは暖かい食堂に入って一息ついた。……朝食の時間を終えたばかりのせいか、今は誰もいない。  他人に聞かれたくない話をするには好都合だ。 「そういえば……猫だって寒いよね。昨日の夜から……一晩明かした訳だし」  その言葉に、セレスさんは小さく手を擦り合わせて答える。 「そうですわね。猫は暖かい場所が好きですもの。もちろんグランボアシェリも。ほら、“猫はコタツで”なんて歌があるでしょう。  居心地のいい場所でじっとしているからこそ、まだ誰にも見つかっていないのかも……」  そうなると、廊下の他にも、寒い場所は除外できそうだ。 「トイレと倉庫にはいそうもないですわね。あそこに暖房はありませんわ。  猫は狭い場所も好きで、雑然としていて入り込む隙間の多い倉庫は都合がいいですが、今の季節は寒すぎます」 「じゃあ、後はここ……食堂と、大浴場とランドリーとトラッシュルームの4か所だね」 「こちらは確かに暖かいですが、人の出入りが多すぎますわね。ここにいれば、どなたかに目撃されそうなものです。  ……一応は、調べてみましょうか」  ――……二人であちこち猫が身を隠しそうな場所を覗いてみたが、異常はない。食堂と繋がる厨房にも。  何となく冷蔵庫を開けてみると、すかさずセレスさんに注意された。 「ちょっと。いくらなんでもそこに猫が入る訳がないでしょう」 「あ、そうだね。つい……。食料が猫に食べられてたりって事もなさそうかな」 「グランボアシェリは、そんなお行儀の悪い事はしませんわよ……」  そう言って悲しげに胸元を押さえるセレスさん。傷つけてしまったかと思い、慌てて謝ろうとするが、 「あの子……きっと今頃、お腹を空かせていますわ。今日は朝ゴハンを食べていませんもの」 「そうか。……食料が減ってないって事は何も食べてないんだね」 「ですが――これはチャンスでもありますわ」  今度はボクの目をまっすぐに見て、妖しく微笑むセレスさん。表情の変化にどきりとする。 「チャ、チャンスって?」 「発見した時に、ゴハンで釣れるという事です。わたくしに怒られると思っているのなら、  わたくしの姿を見ても逃げようとするかもしれません。素早い猫を追いかけるより、好物で誘い出す方が簡単ですわ」 「ああ……なるほど。じゃあ鰹節か何かを用意しないとダメだね」  セレスさんは首を横に振り、ボクの背後の冷蔵庫を指さした。 「そこに入っていますわ。冷凍の手作り餃子が」  テヅクリ……ギョウザ? 予想外の単語にボクは一瞬自分の耳を疑った。 「安心して下さい、ニラやニンニクは入ってませんわ。猫の健康に悪いですものね」  いや……気になるのはそこじゃない。何で猫に餃子?? という言葉を飲み込む。 「あの子はグルメだと言いましたわよね。特製の餃子ゴハンが大好物で、ドライフードには見向きもしません。  お母様が数日分の猫用餃子を作りおきして預けてくれたのです。それを、わたくしはそこの冷凍庫にしまっておきましたわ」 「そ、そうなんだ。じゃあ目標を絞り込んだら、解凍して持っていこう」  もうツッコミを諦めてボクは言った。セレスさんは自然に微笑んで頷く。 「トラッシュルームも、候補から外して良さそうですわね。あちらも、暖房などなかいのでしょう?」  セレスさんが残る捜索場所に話題を戻した。トラッシュルーム……要はゴミ捨て場だ。  寮内で集めたゴミを焼却炉で燃やす施設でもある。焼却炉に火が入っていれば暖かいかもしれないけど……  ――ボクの頭に嫌な想像が浮かび、すぐにそれを振り払う。 「そうだね。焼却炉は週2回のゴミの日しか使ってないし、いつもはシャッターが閉まってるから。  開けられるのはその週のゴミ当番だけだよ」 「ああ、当番になると渡されるあのカギ。シャッターのカギだったのですね。知りませんでしたわ」  基本的に寮生は持ち回りでゴミ当番になる。セレスさんだって何度かやってるはずなのに……知らないって?  ボクの顔に疑問が出ていたのを察知してか、セレスさんが当然のように口を開く。 「わたくしに相応しくない役は、いつも山田君やギャンブルのカモ……葉隠君などにやらせていますので」 「そ、そう……」  まあ、そうか……。セレスさんが素直にゴミ当番なんてやる訳がない。納得するボクも随分慣れてしまっている。  あとは大浴場と隣接するランドリー……2ヶ所くらいもう調べに行っても構わないが、ついでにもう少し考えてみよう。 「どっちも暖房が入っていて、隠れる場所には困らないね」  大浴場なら男女の浴室に脱衣所と、面積が広い。ランドリーには何台も洗濯機があるし、いつも誰かの洗濯物が干してある。 「ランドリーは……昨日の夕食後から今朝にかけて、利用する方も多そうですわね。隠れるとすれば未使用の洗濯機の中でしょうか」  設置されている洗濯機は全てドラム式なので、猫の出入りは簡単だ。ただ…… 「未使用ならドアが全開になってるはずだから、誰かが近づいたらすぐに見つかっちゃうかな」 「ええ、たまたま気づかれないという事もなくはないでしょうが……それに、実は洗濯機は昨夜わたくしが覗いて回ったのです。  以前、あの子が実家で洗濯機に入って遊んでいた事がありましたので。捜索の優先度は、一段落ちますわね」  ボクにも異論はない。――じゃあ、最後に残るのは大浴場……!  個人の部屋にシャワーが設置されている為、大浴場の毎日の利用者はさほど多くない。  男女で空間が分けられている事も、どちらかに隠れた猫が見つかる可能性をさらに減らす理由になる。 「昨夜……わたくしが探しに行った時も、女湯の方には入れましたが、男湯の方は軽く覗いて呼びかける事しか出来ませんでしたわ」 「うん。そうなると男湯が一番怪しいね。じゃあ、早速冷凍の餃子を――」  言いかけた時に、食堂に人が入ってくる気配がして、ボクはとっさに口を噤んだ。  現れたのは“超高校級のスイマー”、朝日奈さんだ。 「あ……苗木。セレスちゃん……」  いつも快活な朝日奈さんだが、それだけ言って口を閉じてしまった。表情は硬く、どこか暗い。……何だ、この感じ……? 「朝日奈さん。どうかしましたの? あなた、いつも以上に変ですわよ」 「い、いつも以上に……って。いつもも今も、別に変じゃないよ……」  セレスさんの冗談に返す言葉もやっぱり元気がない。  ボクは朝日奈さんの気持ちが落ち着くように、なるべく穏やかな口調で問いかける。 「どうしたの、朝日奈さん。何かあった?」  彼女はしばらく逡巡するように視線をさ迷わせ…………やがてぽつりと言った。 「私……朝御飯の後に走り込みしてきて、汗かいたからさっき大浴場に行ったんだけど。……ついに見ちゃったかも」 「見たって……何を?」 「幽霊だよ! 誰もいないはずの隣の男湯の方から、『ンアー』とか『マー』とかいう人間とは思えないうめき声がして……!」  …………朝日奈さんは怯えた表情で断言したが、ボクとセレスさんは無言で顔を見合わせる。――もう間違いない! 「見たというか、聞いたんだね。幽霊の声を」 「馬鹿馬鹿しい。幽霊なんている訳がないでしょう。あなたの聞き違いに決まっていますわ」  予想以上の冷めたリアクションがカチンときたのか、朝日奈さんは眉を吊り上げて抗弁する。 「本当だって! あれは間違いなく、寮の大きなお風呂が気持ち良すぎて死んじゃった合唱部の先輩の霊だよ!」  変な想像が膨らんでる……。ボクは苦笑して、 「わ、わかったよ。じゃあボクとセレスさんで確認してくるから。ここで待ってて」 「そうですわね。その幽霊とやらに会いに行きましょう、苗木君。餃子ゴハンを持って、ね……」 「餃子……ゴハン? 何で?」  きょとんとした表情の朝日奈さんに、ボクは少し考えて言った。 「えっと……餃子に入ってるニンニクには魔除けの効果があるっていうから。念の為だよ」  まあ、そのニンニクは抜いてあるんだけど……。  冷凍餃子を解凍して盛り付けた“餃子ゴハン”を手に、ボクらは大浴場へと向かった。  迷う事なく男湯ののれんをくぐって脱衣所を覗き込む。上り口に履物がないので中に人間がいない事は明白だ。  ボクは無言のまま、食欲を誘う匂いを放つ餃子ゴハンをそっと脱衣所の床に置いてみた。  ……………………そのままセレスさんと二人、30秒ほど待っただろうか。  壁際に据え付けられた、脱いだ服を入れる未使用のロッカー……その一つの扉が静かに、ゆっくりと動いた。  ……そこにいる!! セレスさんと視線を交わし、足音を立てないように素早くそちらへ近づく。そして―― 「フゥゥゥゥニャァァァァ!!」  ロッカーから顔を出した立派な体型の猫は、ボクと鉢合わせの恰好になって相当驚いたようだ。  大きな唸り声を上げた次の瞬間、こちらに飛び出してくる。鋭い爪を立てた右手を振り上げながら――!  ボクは頬に焼けるような痛みを感じながらも、何とかその体を受け止める。  腕の中から逃れようと身をよじって抵抗する猫を何とか抑え込み、捕まえる事に成功した。 「――っ、大丈夫、大丈夫だよ。グラン……グランボアシェリ。よし……よし……」  話しかけながら背中を撫でてやると、猫も落ち着いてきたのか、それとも観念したのか、少しずつ抵抗が弱くなる。  完全に大人しくなる頃には、ボクは猫の体を抱いたまま……膝を折って座り込んでしまった。  セレスさんの部屋に――無事、猫とその主人が戻り、ボクもお邪魔する事になった。  グランボアシェリは餃子ゴハンを食べ終えて満足したのか、キャリーケースの中で寝息を立てている。  その姿は可愛いというより……やっぱりふてぶてしい。 「――さあ、これでいいでしょう。明日、念の為に保健室に行って下さい。野良猫に引っ掻かれたとか言って」 「……いたた。ありがとう、セレスさん」  ボクの頬の引っ掻き傷はそれほど深くなさそうだが、血が流れていたのでセレスさんが簡単に手当てをしてくれた。  朝日奈さんにはセレスさんから『幽霊の声は忘れ物の携帯電話の着信音』――  そう説明して納得してもらったようだ。やれやれ……。 「ありがとうはこちらのセリフですわよ。やはり、あなたを選んで正解でしたわ」  セレスさんはそう言ってにっこり笑った。うん……セレスさんが喜んでくれて、猫は無事で、ボクも苦労が報われて良かった。 「全く……わたくしを煩わせた上に、あなたにケガまでさせるなんて……この子にはお仕置きが必要ですわね」  セレスさんに合わせて猫の方を見ると、寝姿が一瞬ピクリと動いた気がした。  あれ……本当は寝たフリ? いや、まさかな……。 「い、いや、大したケガじゃないし、せっかく帰ってきたんだから。……大目に見てあげようよ」 「ふぅん……まあ、あなたがそう言うなら。次にやったら許しませんが」  冷たい表情で頷くセレスさん。そして彼女は再びいつもの微笑を浮かべ、こちらに向き直る。 「ところで……先程グランボアシェリを捕えた手際ですが、お見事でしたわ。  この子が初対面の人間に身を任せるなんて、滅多にない事です。どうやら、あなたには“適正”がありそうですわね」 「え……適正って?」 「グランボアシェリの毎日のお世話を担当する適正ですわよ。あなたになら、この子も嫌がらずに懐いてくれそうです。  食事、トイレ、ブラッシング、シャンプー。うふふ……いずれ、お願いしますわ」  この猫の世話を……毎日? そ、それはちょっと考えさせて欲しい。そう言おうとしたのだが―― 「わたくしが希望ヶ峰を卒業したら、この子も一緒にお城で暮らしますの。ですから、あなたもナイトとして……ね?」  セレスさんが薄く頬を染め、意味ありげにボクの瞳を覗き込む。セレスさんと猫と一緒に暮らす――それって。 「あ……そろそろ、お母様が帰りの予定を電話して下さる約束でしたわ。  すみません、苗木君。一度ご自分のお部屋に帰って頂けますか。……ありがとうございました」  半ば追い出されるような形で、セレスさんの部屋を出る。そっと手で触れると、頬が熱い。……ケガをしてない方も。  ボクは熱を冷ますように、肌寒い廊下をゆっくりと歩き出した。 -----

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