テーブルに差し出されたソーサーカップから、ほのかに湯気が立ちのぼっている。白磁のカップの中で静かに揺れる黒い液体を前にして、柄にもないと理解しながらも、私は胸の高鳴りを抑えきれずにいた。今すぐその予感を確信に変えたい。そんな欲求に衝き動かされるが、それを悟られぬようにゆっくりとテーブルの上に手を伸ばした。手に取った瞬間の、カチャリ、と食器の鳴る音がやけに大きく聞こえて、思わず緊張が走った。しかし、それも束の間。慎重に取り上げたカップが口元に近付くに連れて、柔らかな香ばしさが私の鼻腔をくすぐった。何処か懐かしさを感じさせる優しい香りが頭の内側を刺激する度に、身構えていた私の緊張が緩やかに解きほぐされていく。深呼吸をするように芳香を楽しんだ後は、スミレ模様が小さく彩られたカップの端にそっと口付ける。上唇を撫でる心地よい熱気を感じながら、ゆっくりと傾げて、その中にある黒褐色の液体をほんの少しだけ口に含んだ。まず最初に感じたのは爽やかな苦味だった。雑味を感じさせない、ただひとつの苦味を追求するような透き通った味わいが口の中に広がる。次に感じたのは甘く痺れるような舌触り。先程の苦味が嘘のように溶けていく優しい感触に思わず脳が酔いしれる瞬間を実感する。そうこうしている間に咽喉を通り抜けた甘美に、後味に残された微かな酸味が囁くように名残惜しむ舌先を誘惑する。もう一口、と行きたくなる衝動を理性で抗い、両手の磁器をゆっくりとテーブルの上に戻した。「……どうかな?」緊張した面持ちで訊ねてくる少年の姿に、くすりと笑みが零れる。そんなに緊張されてしまっては、身構えていた自分の方が馬鹿みたいに思えてくる。まだ抜け切らない夢心地のまま、カップの縁に描かれた銀線を慈しむように指先で何度もなぞった。どうかな、だって?どうもこうも、ない。こんなにも温かくて、こんなにも優しくて、こんなにも美味しいコーヒーを飲んだのは生まれて初めてだった。だから私は、こんなコーヒーを淹れてくれた少年に、盛大な賛辞と甘い期待を込めて、こう答えるのだ。――65点ね、と。「……やっぱり霧切さんは厳しいね」「そうかしら? もう少し手を伸ばせば満点の三分の二に届くじゃない」「……やっぱり厳しいよ、霧切さん」トレイを抱えたまま恨めしそうな目でしていた少年――苗木君は諦めたように肩を落とした。私はそれを眺めながらも、内心では彼の期待通りの反応に嬉々としていた。込み上げてくる笑いを隠すように、まだ温かさを放つコーヒーを口元へ運んだ。――美味しい。さっきの感動が錯覚ではなかった事に喜びと安心感を覚える。
放課後の探偵同好会では、こうして時折、二人だけのコーヒー品評会を開いていた。苗木君がバリスタ役で、私がジャッジを下す審査員である。とはいえ、コーヒー豆に優劣を付ける訳ではないので《品評会》という言葉自体に語弊がある。要は苗木君がコーヒーを淹れて、私がそれを美味しいかどうか採点するだけの、言ってしまえば単なるお遊びだ。「でも最初に比べたらかなり進歩しているわ。それこそお店に出しても文句は言われないくらいね」「……いや、いきなり0点付けられたらもう下げようがないしね」そう。そもそも、この小さな品評会は苗木君のとある蛮行が発端だった。それは、私たちが探偵同好会を立ち上げて間もない頃の出来事だ。彼にコーヒーを淹れてほしいと頼んだところ、なんと彼は、私に何の断りもなく砂糖とミルクを入れて持ってきたのだ。ブラックを好む私としては彼の奇妙な配慮を指摘せずにはいられなくなり、それは次第に議論へと発展していった。そしてヒートアップした議論は、最終的に『苗木君が美味しいコーヒーを淹れられるように練習する』という、やや着地点のズレた所で決着がついた。その練習の成果を確かめる為に設けられたのがこの二人だけの品評会、簡単に言えばテストである。「付けられて当然よ。勝手に砂糖やミルクを入れてくるなんて、どう考えたって有り得ないわ」「あ、あれはっ! 霧切さんも女の子だから甘い方が好きだって思ったんだって!」「だとしても、普通はスティックシュガーなりミルクポーションなりを添えて出すでしょう?」「わ、悪かったってばもう! あの時だってちゃんと謝ったよね?」「……まあ、それもそうね。お陰で、こうして美味しいコーヒーが飲めるようになった訳だし」――『女の子だから』。彼にとっては何気ない一言に、思わず反応してしまう。無意識なのか、わざとやっているのか、こうやって彼は度々、私の調子を狂わせようとしてくる。話を蒸し返すような形で誤魔化したが、言い方がキツかったかもしれない、と少しだけ後悔した。――苗木君のクセに生意気ね。心の中で小さく悪態をついた。気持ちを落ち着けようと、またコーヒーに口を付ける。ふわりと広がる香ばしさに緊張を解かれ、安堵の溜め息が零れ落ちるのを押さえられない。ふと気が付けば、彼が私の顔をちらちらと窺っていた。心なしかその顔は少しだけ赤く見えた。どうやらリラックスしすぎる余り、普段は周囲の視線に敏感な私も彼の視線に気付けなかったようだ。「どうかしたの、苗木君?」「え? ああ、ゴ、ゴメン。ジロジロ見ちゃって……」「別に謝らなくてもいいわ」「いや、さ……65点って言った割には美味しそうに飲んでくれるなあ、と思って……」――だって、美味しいもの。そう思っても口には出さない。でも確かに彼の言う通り、少し無防備を晒しすぎたのかもしれない。本当は、90点を付けてもいいと思った。今日この日に彼が淹れてくれたこのコーヒーは、今まで喫茶店で味わったどんなコーヒーよりも美味しかった。以前、彼から贈られたルアックコーヒーも美味しかったが、今日のコーヒーは比べ物にならないとさえ断言できる。まるで私の好みを知り尽くしたかのような味わいは、喜びを通り越して恐ろしさすら感じるほどに。だけど、そうやって安易に高得点を与えてはいけない、と私の中のプライドが囁くのだ。そのまま素直な感想を口にすれば、きっと彼は照れながらも満面の笑みで喜びを表現してくれるだろう。それはそれで見てみたいと思う。その瞬間を共有したいとも思う。――その笑顔を独占したいとさえ思ってしまう。
ただ、そうしたら、私はこの品評会の審査員としてのイニシアチブを奪われるような気がしてならなかった。正当な評価を与えないのは卑怯だとは思うけれど、彼を調子付かせてしまうのは、私にとって面白くない展開だ。――それに、このまま品評会が目的を果たして終わってしまうのは、もう少しの間だけ避けたかった。「苗木君も、ブラックが飲めるようになったら分かるんじゃないかしら?」「……どうせ、ボクはお子様ですよ」「フフ、そうやってすぐ拗ねるトコロとか。本当にお子様ね、苗木君は」「うぅ……」言い返せなくて悔しいのか、苗木君は自分のマグカップに視線を落としてしまった。優越感と充実感。小さな自己満足を満たした瞬間、ようやく気付いた。しまった、と思った時にはもう手遅れだった。『子供っぽい』とか『背が低い』とか、そういった冗談は彼のコンプレックスを刺激してしまうと。そんな事はずっと前から分かっていたのに、拗ねたような彼の口調につい軽い調子で乗ってしまった。まるで叱られた子供のように恐る恐る彼の様子を窺うと、手を添えたマグカップに鬱屈そうな溜め息を吐く姿が見えた。カラカラ、とティースプーンをかき回す音だけが室内に木霊して、彼の哀愁をより一層際立たせる。すっかり落ち込んでしまった彼の姿は余りにも不憫に思えた。その原因は、主に私にあるのだけれど。折角、私好みのコーヒーを入れてくれたのだから、礼の一つや二つは言わなければ。純粋な評価はしてあげられないけれど、少しばかりのフォローは問題ないだろう。そう自分自身に言い訳をする。「でも、悪くない味だわ。この調子なら次はもっと高得点を狙えるハズよ」「…………次は、か」口から出たのは素直じゃない台詞。もっと気の利いた台詞はないかと考えたが、結局は月並みな言葉しか思い浮かばなかった。どうやらそれも、彼を奮い立たせる言葉としては力不足だったみたいだ。どうしたものかと頭を悩ませながら少し冷め始めたコーヒーを口元に運ぶ。この時、私は油断していた。自分が撒いた失言にも気付けないほどに。もし数分後、数時間後の私が傍にいたのなら間違いなく今の私を糾弾するだろう。どうしてそんな事を言ったんだ、と。その言葉をキッカケに、彼との大切な時間が壊れるだなんて、この夢のようなひと時から冷たい現実へ引き戻されるだなんて、思いもしなかったのだから。それほどまでに、私は、「……ねえ、霧切さん。訊いてもいいかな……?」「何かしら?」私は、油断し切っていた。「――――学園辞めるって……、本当なの……?」ぞわり、と。爪先から頭頂部まで悪寒が走り抜けた。
無防備すぎた。今の動揺は、間違いなく苗木君にも伝わっただろう。彼の顔に浮かんでいた不安は、次第に確信へと変わった。咄嗟に嘘を吐こうとして――もう誤魔化しは利かないことを悟った。――知られてしまった。彼だけは、苗木君にだけは、絶対に知られたくなかったのに。「…………誰から聞いたの?」いや、聞くまでもない。この事を話した人物は一人しか居ないのだから。「……学園長から」「あの人は、守秘義務という言葉を知らないのかしら?」《学園長》――。私の父『だった』人。私の過去の『残骸』。その名を聞いた途端、黒ずんだ感情が胸の内側をチリチリと焦がした。きっと今の私は膨れ上がる悪意を隠し切れていないのだろう。それを感じ取った苗木君は慌てて言葉を付け加えた。「あ、違うんだ! 学園長が話してるのをたまたま聞いただけで……それで……」たまたま、と彼は言うが、一介の学生に盗み聞きされていい内容ではない。どういう状況で耳にしたのかは知らないが、恐らく故意の――あの人なりの、私への当て付けだろう。――本当に、何処までも、卑怯な人……「……教えて、ほしいんだ。……霧切さんは、どうして学園を辞めようなんて思ったの……?」そう言った彼は苦しそうに私から視線を逸らした。どうやら彼もそれ以上の内容は知らないようだもっとも、退学の件がバレてしまった以上、その理由を隠す意味も必要もないのだから。「……お爺様に呼び戻されたのよ」《お爺様》――。私の祖父。代々受け継がれてきた霧切家一族の現当主。幼い私に探偵の何たるかを、一族が築き上げてきた誇りを教えてくれた人。先日、そのお爺様が私に手紙を寄越したのだ。その内容は、酷く簡潔なものだった。「『目的を果たしたのなら戻れ。お前がまだ霧切であるのならば』とだけ、ね……」《目的》――。私が霧切家の誇りを曲げてまで希望ヶ峰学園に入学した目的。それは、学園長である私の父に絶縁の言葉を告げる事。私は、その目的を果たした。これは、お爺様からの最後通告だ。今、霧切の家に戻れば一族の誇りを貶めた件についても、挽回の機会が与えられるだろう。だがそれは、裏を返せば、この機会を逃したら私は霧切の家から破門を言い渡されるという事。――それは即ち、あの人と同じ道を歩むという事に他ならない。
彼はずっと、私と父との関係を気に掛けていた。その言葉の意味を理解した瞬間、どんな顔をしていただろうか?今の私には、それを確認するだけの勇気を持ち合わせていなかった。「私は霧切の誇りを守り抜く。その為にも、私はお爺様の意向に従うと決めたわ」その選択に迷いは無かった。ただひとつ、たったひとつの心残りを除いては。「霧切さんは……本当に、それで良かったの……?」彼の言う『それ』とは一体、どれを指すのだろう。――父の事。――家の事。――学園の事。――私自身の事。――それとも、苗木君の事?曖昧な問いかけとはいえ、最後のそれは都合の良すぎる解釈だろう。いずれにしたって、それらの回答は全部同じだ。「あなたが気に病む事じゃないわ。私自身、もう決めた事だから」彼が目を見開いた。『あなたには関係ない』と言外に仄めかされたと思っているのだろう。私自身はそう思ってはいないけれど、彼に誤解を与えるように言った節も否定できない。彼との別れが近付いているというのに、この期に及んで、まだ私は彼との距離感を決めあぐねていた。「目的は果たしたから、私はあるべき場所へ帰る。それだけの事よ」「そうじゃないよ……そういう事じゃないんだよ……」だったら、どういう事なのか。それは彼自身にも分かっていないのか、頭を抱えながらブツブツと何か呟いている。何度もかぶりを振る様は、何かを伝えようと必死に言葉を探しているように見えた。一分か二分か、もしかしたら十分以上そうしていたのかもしれない。やがて彼はおもむろに立ち上がり、つかつかと私の許へと歩いてくる。「……苗木君?」彼は私の声に応えず、そのまま後ろに回り込み、私の前にそっと両腕を回した。緩やかな圧迫感と温かな重み。そして、彼の息遣いが小さく、それでいてはっきりと聞こえる。抱きしめられた、と気付くのに数瞬。「……ボクは」彼の熱と鼓動を背中に感じる。今にも泣き出しそうに震わせた声が耳元で囁いている。「ボクは、霧切さんの事が好きだよ……」
彼の言葉に、不意に胸の内が熱くなる。いけない。そう思った瞬間にはもう歯止めは利かなくなっていた。――私も、あなたの事が、苗木君の事が、好き……認めてしまった。いや、もっと前から分かっていた。私は、一人の女性として苗木君に恋をしている。いつも傍で優しい笑顔を魅せてくれる彼に、私はどうしようもなく惹かれていた。「クラスの皆と違って、ボクには特別な物なんて無かったけれど……」「この気持ちだけは、誰にも負けない。負けたくないんだ……」「だって、この気持ちは、霧切さんがくれた《特別なもの》だから……」「だからさ、――――ボクは」ほんの一瞬だけ、彼は躊躇うような素振りを見せた。だけど、彼は決心したように、その言葉を口にした。「霧切さんとお別れなんて、できないんだ」――私だって、苗木君とお別れなんて、したくない……彼の両腕に力がこもる。鼓動の音は大きくなり、いつしかそれは私の鼓動と重なって聞こえた。大好きな人が、同じ気持ちでいてくれる。それだけで、今まで感じた何よりも温かい気持ちになれた。いつまでも、いつまでも、こうしていたい。
だから私は、彼の手に自分の手を重ね、「……え?」静かに、明確に、彼の抱擁を解いた。――拒絶した。それを境に、肌に感じていた温もりが緩やかに私の傍から離れていく。隙間を埋め尽くすように流れ込んだ空気がとても冷たかった。――傷付けてしまった。苗木君を、傷付けてしまった。彼はこんな私の事を好きだと言ってくれたのに……「……霧切さん」「……ごめんなさい」――ごめんなさい。だけど、私は霧切の、一族の誇りを守り抜く、と決心したのだから。どんなに辛くても、彼と別れなければならない。私は、彼の想いを、彼への想いを、振り切らねばならない。まだ、後ろを振り返る勇気が出ない。結局、私の覚悟とはその程度のものなんだと実感させられる。だから、自然とテーブルの上のソーサーカップに目が行った。カップの底に残ったコーヒーは、薄暗くなった室内も相まって漆黒に染まっていた。冷めてしまった最後の一口を味わうも、渋さを強めた液体は淹れ立ての感動とは程遠い物と化していた。「……苗木君。もし将来、私たちが再び会えたら」それは名残惜しさからなのか、私はひとつの《約束》を口にしていた。「……その時はまた、コーヒーを淹れてくれるかしら?」私にとって甘く、彼にとって苦い、そんな《約束》を――「……うん。……っ、《約束》するよ……っ」――ありがとう、苗木君。この時、涙を堪えるように答えてくれた苗木君の声を、私は一生忘れないだろう。それから、私が学園を離れるまでの数日間……彼との会話や行動は日に日に失われ、遂に私と彼との品評会が開かれる事は無かった。そして私は、クラスメイトにも、彼にも別れを告げる事無く、ただ静かに希望ヶ峰学園を去った。
続く
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