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――あれから三年が経った。希望ヶ峰学園を退学した後、数日と置かずに日本を離れ、イギリスにいるお爺様の許へと向かった。お爺様の許で探偵業に励みながら学校へ通い、昨年はようやく大学を卒業した。大学の卒業を機に独立し、今はロンドンの街の片隅で個人事務所を営んでいる。……かつてのクラスメイトとは一度も連絡を取り合っていない。そんな事をしてしまえば、彼の様子が嫌でも耳に入ってしまうから。彼も希望ヶ峰学園を卒業し、今では大学に入って新しい仲間たちに囲まれていることだろう。……もしかしたら恋人の一人や二人、出来ているのかもしれない。きっと多くの女性が魅力的な彼の事を放ってはおかないだろう。彼の人柄を考えれば無理もない。そうでなければ、それは周囲の見る目が無いということだ。ふと、彼が見知らぬ女性と歩く姿を想像してしまう。彼が彼女の手を取り、肩を寄せ合い、見つめ合い、そして――私は、その誰とも知らぬ相手に嫉妬していた。……なんて身勝手な女だろう。自分から振っておきながら、未だに彼の事を想っている。身勝手な嫉妬を、もう何年も飽きずに繰り返している。――彼という存在を、自分という存在に縛り付けておきたいと願っている。それほどまでに私は彼への恋心を引きずり続けていた。近頃では、そんな自分に嫌悪感さえ覚え始めていた。きっと疲れがそうさせるのだ、と根拠の無い結論を付けて思考を打ち切る。最近はいろいろと立て込んでいたが、昨日ようやく受け持っていた依頼を完遂できた。よって今日は久しぶりの完全フリーだ。と言っても、特別何かをする予定も、特別何かをするつもりも全くない訳だが。軽い自虐が入ったところで、テーブルの上に投げ出された新聞に目を落とし、淹れ立てのコーヒーに口を付けた。次の瞬間、下らない思考も新聞記事の内容も吹っ飛ぶほどの未体験な味に噴き出しそうになった。目を白黒させる、とは正にこういう事を指すのだろう。「……不味い」――ここだけの話、私の数少ない趣味のひとつにコーヒーの飲み比べがある。これは、私が個人の探偵事務所を開業してから始めたものだ。といっても、各名産地から取り寄せた選りすぐりのコーヒー豆をあの手この手で味わい尽くす等といった高尚なものではない。ただ単にスーパーに並んでいる物を適当に見繕って好みの味に当たるのを待つ、という全くやる気のないものだ。だが、今日のそれはビックリするほど大当たりだったようだ。当然悪い意味で。飲む前から奇妙な違和感はあったけれど、口にしてすぐその原因が分かった。とにかく酸味が強烈なのだ。香りから後味まで、何から何までがとにかく酸っぱい。苦さも甘さも関係なしに、だ。腐ってるんじゃないかと思い、開けたばかりのパッケージをひっくり返して賞味期限を探した。……どうやら腐ってる訳ではないらしい。かと言ってこれ以上飲む気にもなれず、台所に流してしまおうとしたその時だった。
ピンポーンノイズ混じりの軽快な電子音がインターホンが来客を告げた。折角の休日に依頼客だったら嫌だな、と一瞬だけ思った。別に仕事が嫌いな訳じゃない。ただ、私は仕事とプレイベートにはメリハリを付けたいタイプだ。久しぶりの休日に羽を伸ばそうと考えたばかりだというのに。……有意義なプレイベートを過ごす自信が無いという点は、また別の話だ。適当な場所にマグカップを置くと、慎重に玄関ドアの前まで近付いた。何か危険を察知した訳ではない。探偵をやっているうちに、来客に警戒をする癖が身に付いてしまったのだ。音を立てないようにドアスコープの蓋をずらし、そっとレンズの中を覗き込んだ。「――――えっ!?」息を呑む。薄いドア一枚挟んだ向こうに居た人物に見覚えがあった。忘れるハズもない。そこに居たのは、かつての級友にして今尚恋心を抱き続ける相手――苗木誠その人だった。………「……久しぶりね、苗木君」「う、うん。霧切さんも、久しぶり」三年ぶりの再会というのは、それだけで感慨深いものがあると実感した。その相手が好きな人となれば尚更、喜びもひとしおである。「…………」「…………」だというのに、私は何を話したらいいのか困り果てていた。私が何も話さないからか、向かいに座った彼までそわそわしながらもずっと黙っている。――気まずい。だが、それも当然の報いである。私は一度、彼の告白を断った身であり、その上、学園を去る時だって別れの挨拶ひとつ残さなかった女だ。それなのに『あれからどうだった?』だなんて無神経な質問ができるハズもなく。彼だって自分を振った相手にいろいろと詮索されるのは良い気分ではないだろう。
だけど、それとは別に幾つか疑問点がある。彼は『何の為』に、そもそも『どうやって』私に会いに来たのだろうか。『来訪の目的』は後で彼に確認するとして、まずは『どうやって此処が分かったのか』を整理してみよう。まず、玄関のドアを開けた時の彼の反応を思い返してみる。ドアを開けた瞬間、多少驚きはしていたものの、私が出迎えると分かっていたような印象だった。最初の驚きは、此処に私が居るという情報が半信半疑だったか。或いは単純に再会した私の姿を見て驚いたかのどちらかと見て間違いない。少なくとも偶然訪ねた場所で思いがけない再会をした、という古典的恋愛映画のようなご都合主義ではないハズだ。……それはそれで、憧れなくもないけれど。だとすれば、今考えるべきは彼がどういった方法でこの場所の情報を掴んだのか。この場所を推測できるような情報は何も残してないし、学園を退学した後、日本を離れる事さえも彼に伝えていなかった。そもそも、このアパートの一室で事務所を構えると決めたのは昨年の事だ。私が此処で事務所を構えていると知る人物の中に、苗木君と交友関係にある人物が居るとも思えない。だったらどうやって――「あ、あの……」「…………」……何が『だったらどうやって』だ。どんな方法であるにせよ、目の前の客を放って推理に没頭していいハズがない。いつまでも現実逃避していないで、今は遠路はるばる訪ねてくれた彼をもてなすのが先決だろう。そこまで考えて、私はお茶ひとつ出していない事に気付いた。「……ごめんなさい。今、お茶を淹れるわ」「あっ! それだったらさ!」私がソファを立ち上がろうとした瞬間、今まで黙っていた彼が急に明るい声を上げた。ソファの脇に置かれていたリュックサックを漁って、取り出したそれを私に見せ付けるように突き出した。「ボクに淹れさせてよ、ねっ?」三年ぶりの、懐かしい満面の笑顔。彼の手に握られていたのは、あの探偵同好会の部室にあったコーヒー缶と同じ物だった。『……苗木君。もし将来、私たちが再び会えたら』――彼は、覚えていてくれた。『……その時はまた、コーヒーを淹れてくれるかしら?』――あの一方的で、身勝手な"約束"を。『……うん。……っ、《約束》するよ……っ』――この日の為に、ずっと……全てを理解した瞬間、私の胸は大きく高鳴った。それはあの日、彼が告白してくれた瞬間と同じ種類の高鳴り。要するに、私は今、彼に『惚れ直した』んだ――。
「じゃ、じゃあ、お願い、できるかしら……?」冷静に振舞おうとして、思いっきり噛んでしまった。声もなんだか上ずっている。というよりも、舞い上がっている。もしかしたら顔に感じる熱も隠し通せていないのかもしれない。だが、彼はそれに気付いた様子もなく、任せて、と笑顔だけ残して台所へ向かっていった。……相変わらずの鈍感さだが、今日ほどそれに救われた日はない。「あれ? 霧切さーん、これはー?」「何かしらー?」台所から呼ぶ彼の方を見ると、その手にはマグカップが握られていた。今朝淹れた、とにかく酸っぱい大当たりコーヒーだった。――すっかり忘れてたわ。それは要らない、と首を左右に振ってジェスチャーを送る。しかし、彼に上手く伝わらなかったのか小首を傾げて中を覗いていた。そして、そのまま一口。『あ、間接キス……』等と子供じみた事を考えていたら。彼の顔色がみるみる変化していき、強烈な酸味に渋い顔をしていた。「…………なにこれぇ」その顔が余りにも可笑しくて、「……ぷっ! うふ、うふふっ!」いつの間にか、私は声を出して笑っていた。急に笑い出した私を見て、きょとんとしていた彼も、「……あはっ! あは、あははっ!」次第に釣られるように笑い出した。気が付けば、私たちは顔を見合わせて笑い合っていた。――何を緊張していたのかしら……まるであの頃のように、離れていた時間が嘘のように、私たちは笑い合っていた。ちゃんと、笑い合えていた。………
「はい、お待たせ」「ありがとう」三年ぶりの彼のコーヒーに、私は期待で胸を膨らませていた。受け取ったソーサーカップから懐かしい香りが漂う。「まだ持っててくれたんだね、それ」「ええ。私の、大事な宝物だから……」「……宝物、か。はは、ちょっと恥ずかしいな」――白磁に銀線とスミレが描かれた一組のソーサーカップ。初めて二人だけの品評会を開いた日に、彼が私にプレゼントしてくれた物だ。「ふふ、今考えてもキザなプレゼントよね」「からかわないでよ。お店で見た時、これしかない!って思ったからさ」「苗木君にしては、なかなか良いセンスだと思うわ」「ちょっと引っかかる言い方だけど……でも、気に入って貰えて良かったよ」「てっきり『砂糖とミルク混入事件』のご機嫌取りかと思ったのだけれど」「げっ!? まだ引っ張るの、それ!?」彼との思い出を語り合いながら、無意識のうちにコーヒーを口元に運んでいた。柔らかな香ばしさが立ち上り、身構えていた私の緊張を解かす。溶かしていく。「そうそう。ボクもね、ブラック飲めるようになったんだよ」「へぇ、凄いじゃない。苗木君もようやく大人の仲間入りって訳ね」「身長も2cm伸びたんだよ。でも結局、霧切さんには届かなかったけどね」「あら、奇遇ね。私もあの頃から2cm伸びたの」「嘘っ!? え、ズルイよ!? やっと差が縮まったと思ったのに!」「ズルくないわよ。おめでとう、これで苗木君も立派な大人よ」「うわー。ぜんぜん嬉しくない……」温かな液体を口に含めば、爽やかな苦味と優しい甘みが広がる。あの頃と変わらない彼の姿と、他では飲めない懐かしい味がどうしようもなく嬉しかった。「あの頃はさ、本当にボクって何の取り柄もない、冴えない平凡な高校生だと思ってたんだ」「まだそんな事言ってるの? あなたはもっと自分に自信を持つべきよ」「……そうだね。ボクは自分が空っぽな人間だって思い込んでたけど、『それは違うよ』って皆が教えてくれたんだ」「……皆が?」「うん。お陰でボクは、知らず知らずのうちに皆から、抱え切れないほど《特別なもの》を貰っていたんだ、ってようやく気付いたよ」「そう、だったのね」「……霧切さんが居なくなってから気付くなんてね……、ボクはそれが――どうしようもなく情けなかった」「それは……」「…………ゴメン。そんなつもりじゃ、なかったんだ……」面白い話じゃないよね、と自嘲気味に呟いて、彼は私から視線を逸らした。唐突に、彼との距離が開いた気がした。ついさっきまで感じていた、手が触れ合えそうな距離感が霧散していく。過ぎ去った時間が、共有できない三年間が、目の前にいる彼との間に見えない壁となって立ち塞がった。
――私は今、《皆》に嫉妬していた。彼の魅力は、私が誰よりも知っている――つもりだった。だけど私は、彼自身の魅力に気付かせてあげられなかった。だけど《皆》は、彼自身に気付かせた。その瞬間を、苦悩を、喜びを、祝福を、思い出を――共有した。かつては、私も《皆》のひとりだったハズなのに。《皆》の中で誰よりも貪欲に、彼との思い出を求めていたハズなのに。彼が言う《皆》の中に、《霧切響子》が存在しない。――その事実が、私に嫉妬させた。「ね、霧切さん。今日のコーヒーはどうだった?」「――え?」沈みかかった思考を彼の言葉が遮った。重苦しい空気を払拭するように、わざと明るい口調で感想を求めてくる。「100点満点だとしたら何点くらいかな、って」「採点するの? そうね……」その言葉の意味はすぐに分かった。コーヒーカップを睨み付け、真剣に考え込む仕草をする。もっとも、点数はもう既に決まっている。期待に満ちた視線を向ける彼に小さく微笑み返した。「――65点ね」「……ぷっ、ははっ! やっぱり霧切さんは厳しいね」「そうかしら? もう少し手を伸ばせば満点の三分の二に届くじゃない」「……うん。やっぱり厳しいよ、霧切さん」あの日と同じやり取り――最後の《品評会》で彼と交わした言葉。あの時と同じ、90点を付けてもいいくらいに美味しいコーヒー。……あの時が最後だと分かっていれば、ちゃんと評価していたのかもしれない。最後まで素直になれなかった事。それは三年が経った今でも後悔していた。だけど、彼はその事を覚えていて、こうして私に会いに来てくれた。だから私は、信じてみたいと思った。――今日だって、これが最後じゃない、と。………
どれだけの時間を過ごしただろうか。私たちは時間も忘れて、懐かしい思い出話に花を咲かせていた。「あ、お代わり淹れてくるよ」「私が淹れてくるわ。苗木君は座ってて」「え、でも」「い・い・か・ら。お客さんは座ってなさい」「……はーい」おどけた口調の彼からカップを受け取って台所に向かう。自分の事ながら、その足取りはとても軽やかだった。三年ぶりの彼と過ごす、満ち足りた時間に酔っていたのかもしれない。だから、いつの間にか後ろにいた彼にも気付かなかった。――彼の両腕に、私の身体が包み込まれた。――抱擁。「な、苗木君?」「……霧切さん」あの日と同じ温もりと甘い圧迫感。蘇る、胸の炎。早すぎる鼓動と、震えるような彼の息遣いが私の聴覚を支配した。十秒、二十秒、三十秒――彼はただじっと私を抱いたまま何も言わなかった。時間の感覚が捻じ曲がって、どれだけそうしていたか分からない。ただひとつだけ――『ずっとこうしていたい』という、あの日の想いが胸に蘇っていた。「……ずっと」おもむろに、彼が口を開いた。
「ずっと、会いたかったんだ……」――私も、ずっと会いたかった……「忘れた事なんて一日も無いんだ……」――私も、忘れた事なんて無い……「ボクは、霧切さんの事が好きだよ……」――私も、苗木君の事が好き……「本当に、誰よりも愛してるんだ……」――本当に、誰よりも愛してる……「だからこそ……」――だからこそ……「――――だからこそ、ボクは霧切さんの事を許せないんだ」――――だからこそ、彼の言葉は私を深い絶望へと突き落とした。鼓動が止まる。息が出来ない。声が出ない。がちり。胸の奥で、何かが壊れ始める音がした。「霧切さん。ボクが今日、ここに来た理由は二つあるんだ」がちり。「ひとつは、大事な《約束》を果たす為――」がちり。「もうひとつはね、霧切さん――」がちり。――カシャン。「――――君にお別れを言いに来たんだ」心が割れる音がした。
続く
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