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 雪が解け始めた、二月の中旬。
 日課の筋トレにひと段落を入れて時計に目をやると、時計の針は既に零時を越えていた。

「もうすぐバレンタイン…か」
 某傭兵部隊にいた頃は、そんな甘ったるい乙女記念日など、気にも留めていなかった。
 日付など、時間の単位の一つに過ぎず、そこに付随するイベントや祭事は、生きていくことに無関係、不必要だったから。

「なにさ、お姉ちゃん」
 盾子がキョトンとした目で私を見た。
「年がら年中筋トレとか殺し合いとかやってた残姉ちゃんに、渡す宛てなんかあるの?」
 馬鹿にするでもなく、心底疑問そうな口ぶりで、彼女は尋ねる。
 早くもチョコ作りに飽きたのか、興味なさそうに振りかえり、ケータイで作り方を確認しながら、片手間で器用にチョコの生地を作っていく。

 どうも今日から作りはじめなければいけないほどに、渡す相手を作ってしまったらしい。
 ギョーカイとは、つくづくめんどくさい。さながらゲリラ戦のような繁雑さだ。
 それでも全部手作りにするあたり、彼女の律義さを感じるけれど。


 『渡す宛てはあるのか』…彼女の言葉を、オウム返しに自問する。

 ないわけじゃ、ない。
 呟くように口だけ動かして、私は腹筋を続けた。



―――回想。

 あれは放課後、一月も前のことだったろうか。
 この町では珍しいくらいの豪雪で、休校になった日のこと。
 確か盾子も、窓の外を見ながら、『めんどくさいから、今日は休むわ』と言っていた。
 連絡網が回ったのは、私が家を出てからしばらくしてのことだったらしい。

 確かに吹雪いてはいたが、戦場で感覚が麻痺している(盾子談)私にとっては、それほどの脅威にも思えず、
 膝ほどの高さまで積もった雪をかきわけ、一限の始まる時間前には学校に着いていた。
 当然クラスにも、誰一人いるはずはない。そう、いるはずはなかった。

 その馬鹿を除いて。


「…戦刃君?」
「…石丸、か」

 机の上で問題集を開き、ひたすらに勉強に励む「馬鹿」。
 成績は私なんかより格段上だが、あえて馬鹿と呼ばせてもらおうじゃないか。

「なにをしているんだ?今日は休校のはずだろう」
「そう、なのか。知らなかった…」
 というか、休校ならば、なんでお前はこの教室にいるのか。

「ああ、僕は朝五時に登校しているからな。その頃にはまだ雪もまばらだったし、休校になるとは思っていなかった」
 私の表情から思索を察したのか、石丸は尋ねられる前に答える。
「さっき、巡回している事務員の方に教えてもらって初めて知ったのだが…この雪では帰れそうにない。
 道路の除雪が始まるまで、大人しくしていようと思ってね…入らないのかい?」

 そこで彼はやっと、私に注意を向けた。私は教室の扉を開けたところで、たたずんでいた。
 教室に入って腰を据える理由もない。学校が休みなら、今来た道を引き返すだけ。

 と、そこで石丸は、ハタ、と何かに気付いたようで、

 椅子を引いて私のもとによると、グイ、と急に手を引いた。
「ちょ、ちょっと…」
 思わず身構えそうになる。

「…入りたまえ」
 石丸の声には、やや凄味があった。
 当然その程度で怯むほど、やわな度胸はしていないが、思わず何事かと尋ねてしまう。

「戦刃君…衣服がずぶ濡れじゃないか」
 あの吹雪の中を制服で歩いてきたのだから、当然と言えば当然だ。
「まあ、ずぶ濡れだけど」
「帰るにしても、せめて衣服を乾かしていくべきだ」
 彼は私を暖炉の前まで導いた。
「…今乾かしても、帰る時には、また濡れる」
「そういう問題じゃない。女性は体を冷やしてはいけないのだ、知っているだろう?」

 思わず、ポカンと口を開けてしまった。
 何を言っているんだ、こいつは。
 目はいつにもまして眼光鋭く、冗談を言っているわけではないようだけど。

「そんなずぶ濡れで外に出ては、身体に悪いどころじゃない、風邪をひくぞ。暖を取っていくべきだ」

 あいにく、この程度の寒さで風邪を引くような、やわな鍛え方はしていない。

 あまりにも石丸の目つきが真剣なので、渋々私は彼の言葉に付き合うことにした。
 納得したわけじゃないが、従わない方が面倒が多そうだし。

「…服が乾けば、帰っていい?」
「急ぎの用事があるわけでもないのだろう?…本当は雪が止むまで引き留めたいが」
 妥協点、ということだろう。

 さっさと帰りたい。

 私は上着を脱ぎ、ストーブの前にかざした。


「ぶっ!!!!? ちょっ、はっ…な、なあ…」
 気づくや否や、石丸が壊れたように口をパクパクさせた。

「何?」
「なぜ、服を脱ぐのだっ…!」
 手を前にかざしながら、彼が尋ねた。
 顔は見る見るうちに、だるまのように赤くなっていった。

「こうした方が、早く乾く」
「そう言う意味じゃない!僕が目の前にいるんだぞ!」
「?…だから、何」
「僕は男だっ!男の前でそのように、みだりに肌をさらすべきじゃない!」
「なんで」
「な、なんでって…もし僕が変態や暴漢で、襲いかかってきたらどうするんだ!」
「石丸は変態で暴漢なのか?」
 くすり、と、皮肉をこめて尋ねる。
「断じて違う!違う、が…そういうことではなく…」
「…襲いかかってくれば、ねじ伏せる。これでも「超高校級」のついた軍人、自分の身の安全くらい守れる」
「あ、そうか…い、いや、そう言うことじゃなくてだな…」

 まどろっこしい。
 無視してスカートにも手をかけようとすると、彼は更に大騒ぎでわめきたてた。

「服を乾かせと言ったのは、石丸だ」
 私は不機嫌を隠さずに言い放つ。
「僕は『脱げ』なんて言っていないぞ!」
「どうして脱いではいけない?」
「君は女性だろう!」



 顔を真っ赤にさせたまま、石丸がそう言い放って、私は唐突に理解した。


 ああ、この馬鹿は、私を「女」だとおもっているのか。

 それは苛立たしくもあり、しかし満更でもないというか、どこかくすぐったい感覚。
 性別としての「女」ではなく、社会的な「女」として扱われること。

 戦場では、苦痛以外のなにものでもなかった。
 なぜならそれは、差別であり蔑視だからだ。

 でも、石丸のこれは、そのどちらでもない。

 月並みな文句だが、社会的な「女」としての自分など、とっくに捨て去っている。
 多くの命を奪ってきたという経歴。女性らしさを少しも兼ね備えない、ごつい身体に生々しい銃創。
 それらを悔いているわけではないが、「女」を語る権利は、自分には毛頭ないと思っていた。


 しかし目の前の馬鹿は、私の下着姿を見て、顔を赤くし、私を女性だという。
 なんとも…滑稽で、哀れで、微笑ましい。



 などと思索を巡らせている間に、石丸はいそいそと自分の上着を脱いで、私に押し付けた。

「どうしても上着をそうやって乾かしたいのなら…これを着るといい」
「私としては、着なくても構わないのだけど」
「僕が構うんだ!そもそも身体を冷やした女性を見過ごしたとあっては…」
「『超高校級の風紀委員:石丸清多夏』の名に傷が付く、か?」

 私がそうやって茶化すと、彼はますます顔を赤くした。
 今度は羞恥ではなく、たぶん、憤慨で。


「君の眼には、僕は自分の名誉のために女性を道具にするような、大莫迦者に映っていたというのか。心外だ」
「…茶化して悪かった、前言撤回する」

 私は大人しく、石丸の手から上着を受け取り、反省の意としてそれを羽織る。

 私が肌を隠して満足したのか、石丸は自分の座席に戻り、問題集を解く作業を再開した。



 女性。
 実の親にさえ、そんな風に扱われたことはなかった。

 私は女で、石丸は男。
 戦場では、そんな情報に価値などない。引き金に指をかけるという行為に、性差などない。

 お前の眼には、私は女性に映ったのか?石丸―――

 上着を羽織って暖房に向かい、石丸がペンを進める様子なんか観察しているうちに、やがて窓の外は晴れてきていた。
「この分だと、交通機関の復旧ももうすぐだな」
 安心したように、石丸は言った。

「バス通学?」
「いや、寮生活だ。だが、今日は実家に寄ろうと思っていたところだからな」
 普通に会話を交わすことで、もう彼が憤っていないことを確認できた。

 ――確認できた、ってなんだ。まるで、私がこの馬鹿の顔色をうかがっているみたいじゃないか。

「…もう、服は乾いたかい?」
 布地に手を伸ばす。まだほんのり湿ってはいたものの、ずぶ濡れよりはいくらかマシだ。
「それはよかった」
 石丸は笑った。


 よかった、のか。わからない。
 私は別に、ずぶ濡れのまま帰ってもよかったんだ。なんの支障もない。

 でも、石丸は笑っているから、それなら間違いなく「よかった」のだろう。


「僕は帰るけれど、戦刃君は?」
 元々さっさと帰るつもりなのを、お前が引きとめたんだろうに。

「…じゃ、服返すけど…着替える間は後ろを向いている方がいいのか、石丸は」
「い、いや、教室の外で待たせてもらうよ」

「いい、ここで。面倒。見たかったら、見てもいいよ」
「ふ、不謹慎だろうっ!」


 「見てもいいよ」。
 どうしてそんな言葉が自分の口から出たのかは分からないし、特に気にもならなかった。


 ただ、私が服に手をかけ、彼が慌てて後ろを向いた瞬間に、本当にその瞬間だけ、
 得も言われぬ羞恥心が、身体を駆け巡ったことだけは覚えている。

 なぜだろうか。
 男がいる場所で、着替えをしたから?そんなの、これが初めてじゃない。
 石丸が私を、女だと言ったから?それならその時に、恥ずかしさを感じるべきだろう。

 それとも、その和だろうか。
 「私を女だといった石丸の前で、服を脱いでいるから」?

 だとしたら、それこそ馬鹿馬鹿しい。ホントに。全く。

「本当に、その薄着で来たのか」
 玄関を出て、今さらという感じだが、石丸は驚きの声をあげた。

「…私の肌、ヒートテックだから」
「ヒートテックは、主に衣服に使われている技術だぞ。肌がヒートテックなんてありえないだろう」

 珍しくも冗談を言ってみたのに。聞いてはいたが、本当にこの石頭には通じないのか。
 これで割と、一部の真面目な女子生徒には人気があるというのだから、世の中分からないものだ。
 いわく、何事にも本気で真摯な所が素敵、らしい。


 まあ、石丸がどれほど異性に人気でも、私には関係ないけど。断じて。真に。
 というか、女捨てたし、私。


 なんて、くだらないことに思いを馳せていると、

 ふ、と、目の前を布が横切った。
 石丸がその布を、私の首に巻いている。マフラーだった。

「…何だ、これ」
「女性は身体を冷やしてはいけないと、さっきも言っただろう。そのマフラーは、君に譲るから」


 彼はそれだけ言うと、腕時計に目をやり、バス停の方へと歩き出していった。
 私は少しの間だけ呆然とし、


「あ、洗って返すから!」
 やはりそんな月並みな言葉しか返せなかった。

 盾子あたりならもっと、気の利いた返しも思い浮かんだだろう。「残姉ちゃん」の汚名返上は、しばらく先になりそうだ。



―――長ったらしい回想、終了。


 そんなわけで、石丸には恩がある。
 望まずに受けた施しだろうが、恩は恩だ。

 彼に借りた…というより押しつけられたマフラーだが、何度返すと言っても聞かないし、
 私が一度使ったのがダメだというなら、新しいのを買って渡そうとしたのだけれど、それを言うとまた怒られてしまった。
 あの馬鹿の考えていることは、やっぱりよくわからない。

 いい機会だと、その時は思っていた。
 バレンタイン。彼に恩を返すのも、自分の中にある感情を確かめるのも。

 好意では、あると思う。
 あれから幾度か彼と話す機会はあったが、そのたびに心弾む自分がいた。
 彼が他の友人と話していると、どことなく寂しさを感じる自分がいた。
 戦場では感じたことのない、別のベクトルの高揚感。
 その好意が、友人やクラスメイトに対する親愛の情か、それとも年頃の「女性」らしい恋愛感情かはわからない。


 …個人的には、前者であって欲しいけれど。



 そんなわけで、盾子に見つからないようにカカオマスを取り寄せ、Wikipedia(とかいう便利なサイトだ)から得た情報を元に、作ってみたのだ、が…





『…うぇえええ、苦っ!まずっ!絶望的!何これ…』


 所詮は「残姉ちゃん」。その程度のクオリティしか、私なんかには作れなかった。



 突如として、現実を思い知った。いや、現実に引き戻された、というべきか。

 あるはずのない希望にもたれかかっていた私の眼の前に、降り落ちた現実。


 馬鹿か、私は。
 調子に乗るからこうなるんだ。慢心やプラス思考が、己を滅ぼす種。そう戦場で、あれほど痛感したのに。
 「女」を捨てたなんて言っておきながら、少しほだされただけでその気になって。

 馬鹿だ、私は。
 何を泣いているんだ。この程度で嗚咽を噛み殺さなければならないなんて、たるんでいる。
 軍人になった時から、どんな辛い訓練や実戦にも、弱音を吐かなかった。それこそが、私の誇りだったのに。


 他でもない石丸本人に、気づかされてしまった。
 どれほど強がろうと、軍人である前に、私は所詮一人の女子高生にすぎないのだと。

 何が「恩を返す」だ。これじゃあ、彼に余計に気を使わせただけだ。
 不味いチョコを食わされ、逃げるように立ち去られ、きっと今頃、石丸は当惑しているだろう。


 恩を返す方法なら、他にいくらでもあっただろうに。
 バレンタインに乗じるなんて、それこそ私が自分自身女性でありたいと望んでいたみたいじゃないか。
 馬鹿馬鹿しい。石丸がそう言ってくれただけで、その気になって。


 私は逃げるように、階段を駆け上がった。
 行く宛てはないが、とにかく石丸から距離を置かなきゃいけないような気がした。

 最上階まで上り、途方に暮れる。
 この後授業だってあるのに、どうするつもりだ、私は。
 教室には戻りたくない。


 手に持った包み紙から、一個チョコを取り出して、口に放り込んでみた。

「…まずっ」
 劇物のような味がした。まずは口の中に広がる苦み…というより渋み。
 次いで、薬品的な甘さが口腔を支配する。
 とにかく、身体に悪い食べ物として分類されるだろう。レーションが御馳走に思えるほど。

「…はは、ははは」

 途端に自分が今一度滑稽に思えて、涙を流したまま、私は笑った。
 周囲の生徒は、気味悪がって私から遠ざかったけれど、そんなこと気にも留めなかった。



「…戦刃、さん?」
 聞き覚えのある、凛とした声。一瞬、女子だと思うくらい中性的な響き。
「苗木…」
 振り向くと、背の低い気の弱そうな男子が、そこにたたずんでいた。
 クラスメイトの、苗木誠。
 私が泣き腫らしているのを見ると、ぎょっとしたようにたじろぐ。
「どうしたの?大丈夫?」
「っ、大丈夫、だから…」

 困った奴に見つかったものだ。よりによってクラスメイトに。
 私が泣いていたことが、彼の口から石丸の耳に届けば、また石丸を困らせてしまう。

「誰にも、言わないで…私が泣いていたと」
「えっ…うん…でも、ホントに大丈夫?」

 彼はそこで、私が手に持っている小包に気が付いたようだった。
 バレンタイン、小包、泣いている女子。
 あらかたの事情を察した彼がオロオロと戸惑っているのを見て、思わず和んでしまう。
 うちのクラスでも、幾人か彼にプレゼントしようとしていたみたいだが、なるほど、その理由もうなずける。

「あ、あの…植物園、行かない?」
「…植物園?」
 苗木は、唐突に切り出した。

「あそこ、ほとんど人来ないから。そこで落ち着くまで…さ。僕でよければ、話とか聞くよ」
「…うん」

 普段の私なら、そのせっかくの善意を一蹴し、独りで校内をうろついて気を紛らわすだけだったろう。
 女性を意識させられたからか、単に傷心だったからか、幾分か今の私は素直である。

 昼休みの終わりを告げるベルが鳴り、五限目が始まった。
 彼は、おそらく私のようにサボり慣れていないのだろう、ベルが鳴ると少しだけ身をすくませたが、
 ちら、と私の方を見て、優しくほほ笑んだ。「僕もサボるよ」、という意思表示だろう。


「…誰に渡したのか、とかは…聞いてもいいのかな」
「石丸。さっきの昼休みに」
 隠す必要も感じられなかったので、私は素直に答えた。

「石丸君?…でも、石丸君だったら普通に、そういう贈り物は受け取ってくれそうだけど…」
 彼は真に意外だ、というように目を見開いた。
「受け取ってはくれた。食べて、美味しいとも言ってくれた」
「じゃあ、なんで…」
「…食べてみる?」
 軽いいたずら心とともに、私は苗木に一粒、チョコを手渡した。
 何の警戒も無しに、それを口の中に放り込む。
 途端に、苗木の顔がすっと青くなる。

「…前衛的な、味だね」
「苗木は、ウソはつけないな」
 可笑しくて、思わず私は吹き出した。
「実は私も、さっきまでこれほど不味いとは知らなかった。馬鹿な事に、味見を忘れてて…そのまま渡したんだ。
 でも石丸は、ウソでも美味いと言ってくれた。それがウソだと、私はすぐには気が付けなかった」

「大馬鹿だろ、私は」
 自嘲気味に笑うと、苗木は必死に首を振った。
「そんなことないよ。チョコ作るの失敗しちゃう、だなんて、誰にでもある普通の失敗じゃないか」


 ああ、そうか、こいつも。
 私を普通の女性と捕えてくれているのか。

 まったくこの学園には、馬鹿ばかり集まっている。

 そして、私がその馬鹿の、最たる例だ。
 自分で女を捨てたなんて言っておいて、このざまなんだから。

「別に、石丸に特別な感情があったわけじゃ…ない…と思う、たぶん。
 ただ、これを機に普通の女の子みたいなことも、出来るようになればいいな、と思ったんだ。
 知っているだろ、私が…軍人だったこと。多くの戦争に足を運び、多くの命を奪った。

 やっぱりそんな人間が、「普通」になるなんて…許されないんだ」


「…普通じゃなくても、別にいいんじゃないかな」


 心地よく絶望に浸っていた私の言葉を、唐突に苗木が遮った。

「…は?」

「普通なんてつまんないよ。この学園一普通な人間の僕が断言するんだから、間違いない。
 そもそも、普通なんてどこにもないんだよ。10人いれば10通りの「普通」があるんだから。
 それに、ここは希望ヶ峰学園だよ?「超高校級の高校生」が集まるこの学園で、普通である方が変だよ」


 その言葉は一般論で、けれどだからこそ、苗木が言うと妙な説得力があった。

「…って、ちょっと偉そうだった、よね。ゴメン」
「…いや」

 別に苗木の言葉が、心に響いたわけじゃない。
 それはあくまでこいつの見解。
 残念ながら私や石丸には、それこそ「普通」なこいつにはわからないような、もっと複雑な事情がある。

 でも。

「励ましてくれて、ありがとう。苗木がそう言ってくれるだけで、幾分か心が楽になったよ」

 苗木にはもう少しだけ、話に付き合ってもらった。
 私がどうして石丸にチョコを渡そうとしたか、とか、苗木はチョコを幾つ受け取ったのか、とか。
 彼はいたずらっぽくほほ笑んで、「戦刃さんのを味見したのも、カウントしていいのかな」なんて言って、
 私も笑いながら、苗木の頭を小突いた。

 本当に他愛ない話で、それこそ自分が「普通」の女子高生になったみたいだ。


「…っと、そろそろ、五限が終わるね」
「苗木はもう教室に戻った方がいい。付き合わせて、悪かった」
「ううん、僕が好きで話を聞かせてもらってたんだから」

 苗木は、お人好しだ。
 その人の良さは、どこぞの馬鹿を彷彿とさせる。

 苗木には、特別な感情はなかったと言ったけれど、今思えば、やはりこれは特別な感情だ。
 特別で、大切で、もう終わった感情。
 石丸には、今会うとまた泣いてしまいそうだから、後日改めて謝りに行こう。

 それで、この初恋は終わり。


「戦刃さんは、戻らないの?」
「私は、いい。今日はこのままサボる。もともとそんな真面目に学生してたわけじゃないし」
「…吹雪の中学校に行くのは、真面目に学生してる証拠だと思うけどな」
「サボる理由がなければ、サボらない。ただ…今はちょっと、教室に戻りにくいから」


 苗木はやや沈黙して、意味ありげな含み笑い。
 いたずらを考えている時の盾子にそっくりな笑い方だ。

「…どうかした?」
「え?何が?…戦刃さん、まだしばらくここにいるでしょ?」
「…まあ、廊下を出歩いていたら教師に見つかるから。下校時刻に、こっそり帰ろうと思う」


「…そう、わかった」
 彼はそれだけ言うと、別れの挨拶もほどほどに、そそくさと植物園を出て行ってしまった。
 何だったんだ、いったい。

 小屋の壁に頭を持たせかけながら、ふう、と息を吐く。
 冬だけど、この植物園は一定の気温と湿度を保っていて、生ぬるい。
 苗木と「普通」の女子高校生のように会話をしたことが、よほど嬉しかったのだろう。
 私の肌は、汗をかいたように湿ってきた。

 湿った土の匂い。塹壕を思い出す。
「ほんの一年前は…日本にすらいなかったんだ、私は」
 こんな人並の恋愛をすることなんて、思ってもみなかった。

 血と硝煙。けむる土埃の向こう側に照準を合わせ、常に死と隣合わせだった、私の戦場。

「…」
 嫌な記憶が、匂いから呼び起こされる。
 向こうでも、私くらいの兵は珍しかったのか、あからさまな嫌がらせを受けたこともあった。
 顔を見れば陰口、出歩けば足をかけられ、まだ血の気の多かった私は、そこから殴り合いに発展させてしまうことだってあった。

 そんなのはまだいい。
 思いだしたのは、もう一歩モラルを踏み越えた先の嫌がらせ。

 確かあれは、4~5人で組んだ編隊で、同じテントで寝泊まりしていた時。
 眼をギラギラさせた、恰幅の良い男たちが詰め寄る。
 『女にならねえまま死んじまうのは、かわいそうじゃねえか』
 銃口を向けられた時ですら、ただの一度だって感じたこともない、生理的な恐怖。嫌悪感。




「戦刃君?」

 バッ、と、私は反射のようにして振り向いた。
 体中が嫌な汗をかいていた。虚を衝かれる、とは、このことだろう。

 勢いよく振り向くと、声をかけた石丸の方が怯んだ。
「すまない…驚かせるつもりはなかったんだ」

「あ、いや…私こそ、」


 そこまで言って、急に言葉が詰まった。
 余りに突然で、余りの衝撃で、忘れていた。自分が、やらかしてしまったこと。

 あんな劇物を食わせ、挙句メソメソと逃げ去った私が、今更どんな顔をすればいい。
 というか、なぜ石丸がココに…

「苗木君に、君がここにいると聞いたんだ。二人とも五限を休んだから心配していたんだが…」


 苗木の奴…あの意味深な笑みは、こういうことか。


「…怒って、いるか?」
 私の表情と沈黙から何を間違えて読み取ったのか、唐突に石丸が尋ねた。
「は?」
「いや、すまない…聞くのも愚かだったな」

「…私が何を怒っているって?」
「ウソをついただろう、僕は」


 思索の間。


「君は純粋に、チョコを僕に送ってくれた。それなのに、僕はそのチョコが、その…
 味について、君を傷つけたくない一心で、ごまかしてしまった。結果それが、君を傷つけてしまった」
「そんなの――」

 お前のせいじゃない。
 そう口まで出かかったところで、言いなおした。

「そんなの、私が歩をわきまえなかったのが悪い」
「歩を…何?」
「調子に乗って、こういう女の子イベントに精を出した私の自己責任。分不相応だった」
「そ、そんなこと――」


「あるんだ、石丸。私は自分で女を捨てたんだ。その私が、もう一度普通の女に戻ろうだなんて、おこがましかったんだよ」

 石丸は何か言いたそうだったが、私の次の言葉を待った。
 苗木から何を聞かされたのかは分からないけれど、私がそれを話さない限り、この馬鹿は許してくれないのだろう。
 いつかの冬の日のように。


「マフラーを貸してくれた日のこと、覚えてるか?あの日、お前が『暴漢や変態に私が襲われたら』と、そういう話をしたな」
「…」
「――あるんだよ、何度も。死と隣り合わせの戦場じゃあ、極限まで精神を擦り減らして、頭のおかしくなった人間は大勢いる。
 あいつらは…海外ボランティアやNGO、現地住民や捕虜でも、女なら見境なく手を出していた。そうしないと欲望のはけ口がないから。
 だから、私みたいな残念な女でも、欲情する馬鹿は大勢いたんだ、石丸」

「自分を残念だなんて卑下する――」

「聞いて。そんな大勢の馬鹿から、超とつけども所詮は高校生の私が、
 生き残るために、自分を守るために出来ることは一つ……女を、捨てること」


 私はおもむろに、上着を脱いだ。
 石丸は困惑して、以前のように耳を赤くして目をそらしたが、私の意思を汲み取ったのか、制止はしなかった。


 この馬鹿は、私を女だと思ってくれた。
 そんな石丸だから、私は一瞬でも、彼の前で着替えることを、あの時恥ずかしく思ったのだろう。


 私の裸体には、
 私が女を捨てた証が、刻まれていたから。


「…っ!!」
 石丸が息をのんだ。たぶん、当然の反応。


「あの時は、お前は見ようとはしなかったからな…気味悪いだろ。
 大抵の男は、どれだけサカっていても、これを見るとやる気をなくすから」


 一文字の切り傷、それを覆う火傷、そして化膿。

 女の象徴である…といっても、申し訳程度の盛りだが…胸の間を縫うように、深々と刻まれた傷跡。

「この高校に入ってからは、もう自分で刺すのを止めたから…直に、傷も消えていくと思う。
 前はもっと酷かったんだけど、最近になって痕が薄くなっているから。卒業するころには、分からないレベルになる」

「自分で…切って、焼いたのか」
「死なない程度に。その辺は、心得てるし」

 苦し紛れにいたずらっぽくほほ笑んだけど、石丸は笑い返してはくれなかった。
 本当に、冗談の通じない男だ。

 女を捨てた証は、今でもはっきり、私の体に刻まれている。
 この傷がある限り、「普通」には戻りたくても戻れない。
 だからこそ、石丸が私を女として扱うことに、どうしようもない抵抗があった。

「…変なもの見せて、悪かった」

 私はいそいそと上着を拾う。
 やはり、こいつの前でこの傷を見せるのは恥ずかしい。
 たぶん、普通の女子が、男子に下着を見られて恥ずかしい、とか、そういうレベルじゃない。
 さらし首のような。自分の罪を、聖者に見咎められているような、そんな気分だ。

「まあ、私自身、もうこの傷について深い感慨があるわけじゃない。別にここだけじゃなくて、私の体中に傷跡はあるよ」
 自分でつけた傷か、そうじゃないかの違いだ。

「確かめてみるか?」
 と、スカートをすっと上にあげて茶化す。

 ようやく石丸は、そこで反応を取り戻した。耳を真っ赤にして、
「や、やめるんだ!わかったから!」
 と、スカートを掴む私の腕を振り払った。


「まあ、こういうわけだ。私は女を捨てた。後悔してないと言えばウソになるけど…
 ふっきれた、今回のことで。私には、似合わない…もう、「普通」の女子高生になるのは、諦める」


 この傷がある限り…いや、自分で傷をつけたという、その事実がある限り、
 「超高校級の軍人」も、「普通の女子高生」も、どちらの肩書も、私には重すぎるんだ。


「…諦めるのは、まだ早い」
「…なんだ、それ。また、お得意の精神論か?」

 くすり、と、何が可笑しいのか、私は吹き出す。
 重すぎる肩書をぶら下げていた今までと違って、本当に、肩の荷が下りた感じだ。
 つっかえが取れたような、解放感。

「チョコを貸してくれ」


 不意に石丸がそんなことを言い出すまでの、短い解放だったけど。

「まさか、捨ててしまってはいないだろう」

 石丸が、私を教室に引き入れた時のような、厳しい口調で語り出した。
 一瞬、石丸の髪が白く脱色してしまったような、そんな幻覚が見えた。

 渡すべきかどうか迷っていると、彼は私の右手からチョコをひったくり、


「もがっ!!」


 封を開けて、ぼりぼりとチョコを貪りはじめた。


「げほッ!」
 すぐにえづいた。

「な、何してるんだお前!馬鹿か!」

 私は急いで、彼からチョコを奪い返した。
「そのチョコの酷さは、もう私だって認めているから!今更無理して…」
「無理なんかじゃないっ!!」
 再び彼が、私からチョコを奪い取る。

「んん!美味いっ!!…ごほっ!!…カカオの、風味が…んぐっ…」

 なんだ、とうとう頭がおかしくなったか。
 真面目な奴ほどキレると怖い、とはよく聞くが、まさかこういうベクトルでの怖さだとは…


 石丸は時々むせながらも、驚くべきスピードでチョコを口の中に放り込み、
 一分としないうちに、柄にもないピンクの包みの中から、私の殺人チョコは姿を消した。

「よくもあのチョコをあんな…勇者か…」


「…戦刃君」

 顔も真っ青のまま、私の言葉をさえぎって、石丸は切り出した。

「…僕は、戦争を知らない」

「命を奪うことの怖さも、命を失うことの怖さも、引き金の重さも…君自身の傷の重さも、何も知らない」

「…うん」

「だから…君から語られたエピソードで、何が正しくて、何が間違ったのか…僕には判断ができない。
 君を襲おうとした男たちを、その…確かに最低な行為だが…暴漢、の一言で片づけてしまっていいのか。
 君が自分を守るために、自分の「女」の部分を傷つけたのは、本当に最良の選択だったのか。

 僕には、君の過去を背負っていける器は…残念ながら、ない」


 わかっている。
 私が石丸に、そこまでの期待をするのは、いささか自分勝手が過ぎる。
 別に自分の傷の理由や、女を捨てたことを、正当化したいわけじゃない。


「でも」
「…」


「過去が、なんだというんだっ!!」




「…は?」


 石丸は、まるで政治家が講演をするのかといった具合で、大きく胸を張り、主張する。


「過去に縛られてはどうしようもない!問題は、君が今、どうありたいかじゃないのか!?
 超高校級の軍人でも、普通の女子高生でも、好きな方を君が選びとればいいじゃないか!
 女を捨てた?それがどうした!捨てたなら、もう一度拾えばいい!」



 私は石丸の言葉に、それはもう本当に、




 どっと疲れた。

 さっきまでの解放感は何だったのか。
 私の話の、何を聞いていたんだ、こいつは。私にとっては、そういう簡単な問題じゃないんだ。

 というか、

「――だから、何を以て女性とするかなんて、それこそ千差万別であるわけで、
 確かに女性の象徴である胸を傷つけることは、女性を捨てるというスタンスの体現ではあるが――」


 長い。話が。繰り返される超正論。これじゃ、苗木の方がマシだ。


 けれど、そんな長ったらしい彼の説教も、自分のためにしてくれているのか、と思って、どこか嬉しくなってしまうあたり、
 私はもう、取り返しのつかないところまで来てしまっているのだろう。


「落ち付け、石丸」
「そもそも――ん?」
 蕩けた頭に喝を入れて、私は石丸を現実世界に呼び戻した。

「私は、お前の説教が聞きたいわけじゃない。私が、自分で「女」を捨てたと決めたんだ。
 お前の言うとおり、取り戻せないものじゃないけど…その如何については、お前の指図を受ける気はない」
「…そう、か」

 残念そうな口ぶりで、石丸が応える。


「そ、それでもだな…」
「まだ、何かあるのか」


「…君の」
「うん?」

「君の過去を背負う器も、君の過去を語る権利も、僕にはないと…わかっている。
 ただ、その…

 き、君の現在と未来とを…ぼ、ぼく、僕が、共に歩んで行くわけには、いかないだろう、か…」


 上ずった声に、思わず吹き出しそうになって、
 『君の現在と未来とを 僕が共に歩んで行くわけにはいかないだろうか』
 言葉の意味を理解し、私は唖然とした。

「へ、変な意味じゃないぞ!君が女を捨てている、それを前提に話しているんだ。友人、恋人、同級生…呼び方はなんでもいい。
 君の過去を知る、その数少ない相棒の一人として…君を支えていきたいんだ」

「あ、相棒って…お前、何を…」


 展開が、急すぎる。頭が付いて行かない。
 この馬鹿は、何を言っているんだ。


「君がチョコをくれた時…僕は、その、本当に嬉しかったんだ。女性である戦刃君から貰えた、と思っていたのもあるが…
 君が僕を、チョコを渡すに値する相手だと、認めてくれていたのだと思うと…嬉しかった。だから、
 君の過去も、女を捨てたことも、僕には指図できないけれど…それでも、君のためにできることは、あると思う」
「ちょっ、待っ…」


 女は捨てたって、言っただろう。
 なんで、こんな他愛もない発言で、これほどまで嬉しくなってしまっているんだ、私は。
 中途半端な決意。だから、「残姉ちゃん」なんて呼ばれるんだ。
「断言しよう…正直に言えば、女性としての君に惹かれていたという事実もある」
「あ、な、な…」
「けれど、今はまだ、それは抜きにして考えてほしい!どんな形でもかまわない!
 ともに歩むパートナーとして、背中を預ける相棒として、僕をそばに置かせてはくれないか!」


 石丸の顔は赤いままだったが、おそらく私も、彼を笑えないくらいに顔を赤くしていることだろう。


「僕では役不足か?君のそばに…」
「わ、私なんかで…」


 妥協するな。
 その一言が言いだせない。

 認める。認めてやろうじゃないか、チクショウ。
 私はこの大馬鹿が、大好きだ。
 異性として、「女」として、大好きだ。

 「女」を捨てたなんてのは、自分に言い聞かせるための言い訳でしかなく、結局私も、所詮は「普通」の女子高生だったわけだ。

 そして、だからこそ、言いだせない。
 石丸の幸せを願うなら、もっといい女を見つけるべきだと、そう言えばいいはずなのに。
 彼が側にいたいと言ってくれている。その事実を拒む度胸は、私は持ち合わせていない。


「いいんだな、私なんかで…あとになって後悔しても知らない…」
 忠告は、したからな。
「そ、それでは…」


「私も。石丸に、側にいてほしい」

~~後日談


戦「ほ、ホントに私でいいのか…そ、その、パートナーとやらは…」
石「何を今更。あの時、互いに誓ったではないか」
戦「いや、あれは正直勢いもあったっていうか…私は知っての通り残念な女だし」

石「何を言うんだ戦刃君!君は魅力的な女性だ!僕は女性としての君に惹かれていると、言っただろう!」
戦「わわっ、馬鹿!は、恥ずかしいことを大声で叫ぶな!」

石「それにだな…」
戦「な、何…」
石「君の、あの、肌だが…君は、自分の肌が傷だらけだと言ったが…」
戦「!?」

石「植物園で見た素肌は、その…引き締まっていて、綺麗だったと思う」
戦「~~~っ!!!」

石「い、戦刃君?」
戦「恥ずかしいことを、言うな!!石丸…お前やっぱり変態だ!」
石「なっ…ぼ、僕は変態でも暴漢でもない!戦刃君こそ、男の前で脱ぎ出す痴女じゃないか!」
戦「ち…! 日本男児が女に向かって、そんなこと言っていいのか!」
石「女は捨てたと、言っていたではないか!」



朝「(・∀・)ニヤニヤ」


~~後日談・2


「んで、今日もデートに行くわけ?」
 パジャマ姿の盾子が、寝ぼけ眼をこすりながら、玄関まで私を見送りに来る。

「デートじゃない。一緒に筋トレをしてくるだけだ」
「カップルで筋トレとか、聞いたことないし…よくもまあ、飽きずに続いてるね」
「カップルでもない!…そういうんじゃ、ないから」

 女ではない、と、私は日和って言い訳して逃げた。
 でも石丸は、それなら男女の交際じゃなくてもいい、そう言ってくれた。

「ま、いいや。いってらっさい」
「うん、行ってきます」

 正直、そういう関係になりたい気持ちはある。
 日々募る、石丸への愛しさは、もうそろそろ限界に達しそうでもある。
 いつまで私は、自分の中の「女」をごまかしきれるだろうか。

 でも、あいつは、カップルじゃなくてもいい、そう言ってくれた。
 だから、この関係を甘んじて受けていようと思う。それが、あいつの誠意に応じることにもなるだろう。
 今はまだ、互いに側にいるだけの関係でいい。

 今は、まだ。


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