それがFになる

たまには広い湯船にゆっくり浸かろう、そんな風に考えてボクは大浴場へと向かった。
すると大浴場の前の廊下で、珍しい人たちが話し込んでいるのが視界に入り、思わず立ち止まった。

あれは……セレスさんと大神さん?

超高校級のギャンブラーと格闘家……珍しい組み合わせの上に、どこか深刻そうな雰囲気を漂わせている。
不審に思ったボクは二人に近づき、声をかけた。
「やあ、何かあったの?」
セレスさんが驚いたようにびくりと肩を震わせた。
「ああ、苗木君でしたか。驚かさないで下さい」
振り返ったセレスさんは、どうやらお風呂上りだったようだ。まだ少し湿気を含んだ黒髪は艶やかで、上気した頬も色っぽい。
表情は普段は見られないような憂いの色を帯びていて、ボクは場違いにどきりとした。
「苗木君には関係ありませんわ。どうかお気になさらずに」
セレスさんはそう言ってひらひらと手を振った。向こうに行け、ということか。

今日のセレスさんは妙に冷たいな。……でも、女の子同士、聞かれたくない話もあるのかもしれない。

ボクが釈然としないながらも大人しく脱衣所の暖簾をくぐろうとすると、それを大神さんが引きとめた。
「待つのだ、苗木よ」
そしてセレスさんにも声をかける。
「ここは苗木に協力してもらうべきではないか? 少なくとも、我よりは力になれるであろう」
セレスさんは細い顎に手を当て、少し俯いて考え込むような仕草を見せた。数秒の沈黙の後、顔を上げる。
「……そうですわね。……苗木君、相談がありますの。中でお話を聞いて下さい」

ボクはセレスさんに促され、二人で脱衣所に入った。
ボクと二人きりになったセレスさんは、おもむろに口を開く。
「わたくし、先程までこちらのお風呂に入っていたのですが……どうやら、お風呂に入っている間に盗まれたようなのです」
予想外の言葉にボクは驚いて聞き返した。
「盗まれた!? ……何を?」
「……大切な物です。脱いだ服と一緒に脱衣籠の中に入れておいたのですが、お風呂から上がると無くなっていましたの」
盗難事件か。何を盗まれたのかは、はぐらかされたが、よほど大切な物だったのだろう。
いつも微笑を絶やさないセレスさんが辛そうに表情を曇らせている。ボクは犯人に怒りを覚えた。
「苗木君、一緒に犯人を探して頂けませんか。わたくし、悲しくて……」
セレスさんが潤んだ瞳でボクを見つめる。……異論など、ある訳がない。ボクは力強く答えた。
「わかったよ。絶対に盗まれた物を取り返そう!」

犯人を探す前に、まずは事件の流れを知っておく必要がある。

「じゃあ、事件が起きた時のことを、始めから聞かせてくれるかな」
ボクの言葉にセレスさんは頷きを返すと、記憶を辿るように目を伏せた。
「あれは、一時間ほど前だったでしょうか。わたくしが食堂でお茶を飲んでいると朝日奈さんと大神さんが来ましたの。
お風呂がまだなら、これから一緒に大浴場に行かないか、というお誘いでした」
朝日奈さんと大神さんが一緒にいるのはいつものことだ。
きっと朝日奈さんが、セレスさんはいつも一人でいるから、と声をかけたのだろう。
でも、社交的な性格の彼女なら、もっと大勢を誘いそうな気もするな……。
「それで、一緒にお風呂に行ったんだね。他の人は誘わなかったの?」
「たまたま、食堂にはわたくししか居ませんでしたから。ですが、脱衣所に入ると先に腐川さんが居ましたわ」
意外な人物の登場に、ボクは思わず「えっ」と声をあげた。
お風呂嫌いの腐川さんが一人で大浴場に居るなんて……。
戸惑うボクに構わず、セレスさんは説明を続ける。
「腐川さんは、朝日奈さんが話しかけてもいつもの調子でしたが、結局は一緒に浴場に入ることになりました」
「四人で一緒にお風呂に入ったんだ?」
「いいえ。……それが、わたくし達がいざ服を脱ごうとしたところで、葉隠君がやって来たのです。
そのまま何食わぬ顔でお風呂に入ろうとしましたので、当然、すぐに大神さんに叩き出して頂きましたわ」

は、葉隠クン……。
いつもの天然ボケなのか、前回の「男のロマン」で味をしめたのかわからないが、ボクは呆れて物も言えなかった。

「また同じように男子がやってきたのでは、のんびりお風呂に浸かるような気分にはなれません。
そこで、わたくしと腐川さんが先に入浴して、朝日奈さんと大神さんが脱衣所の前の廊下で見張りをすることになりましたの」
「なるほど。二人ずつ、交代でお風呂に入ることにしたんだね」
「ええ。それから、わたくしが体を洗って、ゆっくり湯船に浸かっていると先に腐川さんが浴場を出て行きました。
十分ほど遅れて、わたくしもお風呂を出たのですが、体を拭いて服を着ようとした所で盗難に気がついたのです……」
セレスさんが悔しそうに唇を噛む。
ボクは同情に痛む胸を押さえながら、疑問に思った事を口にした。
「さっき、盗まれた物は脱衣籠に入れてたって言ったよね。ロッカーに鍵はかけなかったの?」
「鍵を持ってお風呂に入るのは面倒でしたし、脱衣所の入り口は朝日奈さんと大神さんが見張ってくれていましたから。
わたくしも腐川さんも、ロッカーの中の籠に服を入れただけで、扉も開けっ放しでしたわ」

荷物そのものは無防備状態だったわけか。
それにしても……脱衣所の入り口は朝日奈さんたちが見張っていて、浴場にはセレスさん自身がいた。
犯人は一体、どうやって脱衣所に侵入してセレスさんの荷物に近づいたんだ……?

「……苗木君、説明を続けてもよろしいですか?」
ボクの思考は、セレスさんによって中断させられた。
推理の前に、とりあえず一通りの話を聞いた方がいいだろう。ボクは頷きを返す。
「盗難に気づいたわたくしは、すぐに周囲を探しましたが見つかりませんでした。
そこで、帰ろうとしていた腐川さんに声をかけ、朝日奈さん、大神さんもお呼びして事情を説明したのです」
さっき、脱衣所の前で大神さんと話していたのは、そういう事だったのか。
ボクが納得していると、脱衣所の入り口に掛けられた暖簾が揺れ、ぬっ、と大神さんが顔を出した。
「苗木よ、何かわかったか?」
「いや、まだ説明を聞いていたところだよ」
折角だからセレスさんだけじゃなく、大神さんからも話を聞いてみようか。
セレスさん一人の説明では記憶違いや思い込みもあるかもしれない。

ボクはセレスさんの説明の続きを、大神さんから聞き取ることにした。
「……我と朝日奈が見張りをしていた間、猫の子一匹たりとも脱衣所には近づいておらぬ。
ゆえに、セレスから盗難の知らせを受けた我らは脱衣所の中を詳しく調べる事にした。
我らが風呂に向かう前から、脱衣所に曲者が潜んでいたのやもしれぬからな」
「でも、誰も隠れてなかったんだね?」
「うむ。脱衣所の中には、そもそも人が身を隠せるような場所は無い。
セレス自身も、盗まれたという品がどこかに移動しておらぬか調べたが、見つからなかったようだ」
ここで再び、セレスさんが説明に加わる。
「それで、大変申し訳ないとは思ったのですが……皆さんの荷物を調べさせていただきましたの。
もっとも、お風呂セットは元々この大浴場に備え付けてありましたから、皆さん手ぶらでした。
ですから、服のポケットの中身を見せて頂くことしか出来なかったのですが」
「一人ずつポケットの中身を出して全員に見せたのだが、朝日奈のポケットには飴玉しか入っておらぬし、
我と腐川の制服の胸ポケットは空だった。いよいよ、お手上げというわけだ」
そう言って大神さんは本当に両手を上げて見せた。

確かに彼女の言う通り、このままではお手上げだ。
ボクは別の人の証言に活路を求めたくなった。
「……朝日奈さんと腐川さんは今、どうしてるの?」
「また何か聞きたいことが出るかもしれませんからと、そのまま食堂で待機して頂いていますわ。
一応は容疑者でもありますし。お二人にも話を聞いてみますか?」

是非もない。ボクたちは朝日奈さんたちに話を聞きに、食堂に向かうことにした。

ボクたちが食堂に入るなり、椅子に腰掛けていた朝日奈さんが声をあげた。
「あれ、苗木じゃん! どうしたの?」
「あまり事を大きくしたくはなかったのですが、わたくし達だけでは真相がわかりそうもありませんから、
苗木君に捜査をお願いしましたの。彼、こう見えて結構頼りになりますもの」
セレスさんがボクに目配せをする。
ボクは彼女から期待を寄せられている事に、身が引き締まる思いがした。
「そうだね。苗木なら何とかしてくれそうな気がするよ。苗木、頼んだよ!」
朝日奈さんはそう言って、元気よく立ち上がった。
一方、少し離れた椅子に座った腐川さんはというと、ボクの方をちらりと見ただけで不機嫌そうに爪を噛んだ。
どこか陰気で落ち着かない彼女の態度には慣れているので、今更何とも思わない。

ボクはまず、事件について朝日奈さんから聞くことにした。
「朝日奈さんは、大神さんと二人で見張りをしていたんだね?」
「うん、そうだよ。また葉隠のやつが戻ってきたらダメだからね」

葉隠クンか……。そういえば、彼には犯行のチャンスは無かったのだろうか。

「葉隠クンは、最初に脱衣所に入ってきたんだってね?」
「葉隠を疑ってるの? うーん……さすがに無理だと思うよ。本当に脱衣所に入って来るなり追い出したから」
朝日奈さんは腕を組み、一人で納得するように頷いた。
セレスさんからも、葉隠クンは「服を脱ごうとした」時に現れたと聞いている。
「脱いだ服と一緒に入れた」品物を盗めたわけがなさそうだ。
さらに朝日奈さんからも順を追って話を聞いたが、新しい事実は出てこない。

ボクは一旦、質問を切り上げて腐川さんに話しかけた。
「腐川さんが、大浴場に来るなんて珍しいね」
腐川さんはびくりと体を震わせて、立ち上がった。
「な、な、何よ! あ、あんたも私を疑ってるわけ!?」
その表情は、恐怖と狼狽に満ちている。だから怪しいという事はない。……いつものことだから。
「い、いや、落ち着いて。事件について聞きたいだけだから」
何とか腐川さんをなだめると、ボクはさっきと同じ質問を繰り返した。
腐川さんはまだ落ち着かない様子だったが、ボソボソと小さな声で答えた。
「びゃ、白夜様に、臭うから、お風呂に入ってこいって言われたのよ……。
わ、私、部屋にお風呂の道具を置いてないし、それで大浴場に来たの……」
腐川さんが珍しくお風呂に入ったのは、十神クンが絡んでいたから。
熱烈に十神クンを信奉する腐川さんらしい理由だ。
一つ疑問が解消してすっきりしたボクを尻目に、腐川さんは一人で話し続ける。
「う、うふふ、白夜様ったら、綺麗になった私をどうするつもりなのかしら。
あんな事や、こんな事も!?うふ、うふふふふ!」
腐川さんは自分の体を抱きしめながら、恍惚とした表情で笑い始めた。
……いつものように自分の世界に入ってしまったようだ。
恐らく、十神クンは自分について回る腐川さんを遠ざけようとしただけだろう。
まあ、そんな事は今、どうでもいいな……。
ボクは幸せそうな腐川さんを放っておくことにした。

証言を聞き終えて、ボクは頭の中で、事件の関係者たちの情報を整理する。

セレスさんは被害者。入浴中に「大切な物」を盗まれた。
朝日奈さんと大神さんは一瞬たりとも一人になっていない。
腐川さんはセレスさんより先に浴場を出たが、ポケットの中身は空。
葉隠クンは脱衣所に入るなり全員の目の前で追い出された。以降は目撃されず。

わからない。……誰にも、犯行は不可能なのか……?

ボクが頭を抱えると、セレスさんが心配そうに覗き込んできた。
「苗木君……。苗木君でも、無理ですの……?」
ボクは思わず、この場にいない女の子を頼りたくなった。ボクなんかより、ずっと頭が切れて行動力がある、あの人を。
だが、頭を振って弱気を追い払う。

セレスさんがボクを信じて頼ってくれたのに、ボク自身の力で解決しなくてどうするんだ。
何か……何か突破口はないだろうか。

ボクは必死で思考を巡らせ、一つ、まだ解決していない疑問に突き当たった。
「……セレスさん、盗まれた『大切な物』って……何?」
「えっ? ……そ、それは……」
ボクの真剣な表情に圧倒されてか、セレスさんは口ごもった。
大神さんも追い討ちをかける。
「確かに、セレスは何を盗まれたのか教えてくれなかったな。それは一体何なのだ?」
全員が口をつぐんでセレスさんの答えを待った。
重苦しい沈黙の後、やがてセレスさんが諦めたように口を開いた。
「……下着ですわ」

し、下着!? 盗まれた物は、セレスさんの下着……。

ボクは驚きのあまり声を出せなかった。
皆の視線が集中し、セレスさんは恥ずかしそうに俯いてしまう。

……ちょっと待てよ。下着を盗まれたって事は! 今、セレスさんは……!

ボクは非常にイケナイ想像をしてしまった。
と、突然、右耳に鋭い痛みが走り、ボクは悲鳴をあげた。
「い、痛い!」
セレスさんがボクの耳をぐいっと引っ張ったのだ。
「あなた今、不埒な事を考えませんでしたか?」
「そ、そんな事ないよ! 絶対!」
ボクは頭をぶんぶん振って、全力で否定した。するしかなかった。
「あなたが来る前に、わたくしは一度、一人で部屋に戻りましたから。余計なことを考えませんように」
セレスさんは頬を染めながら、不機嫌そうにため息をついた。
ボクは少し安心して、思考を推理に傾ける。
セレスさんが何を盗まれたのか、どうしてそれを言いたがらなかったのは、よく分かった。
何としてもこの情報を元にして、犯人を特定しなくては。
……そして、ボクは思いあたった。犯人たりうる唯一の人物に……。

ボクは食堂に集まった皆の顔を見渡して、自分の推理を話し始めた。

「まず、現場になった脱衣所には葉隠クンがやってきたけど、セレスさんが服を脱ぐ前だったから関係ない」
セレスさんが黙って頷く。
「朝日奈さんと大神さんには、ずっと一人になるチャンスがなかった。そうだね?」
朝日奈さんと大神さんも、揃って頷いた。
「そうなると、犯行が可能だったのは一人しかいない。セレスさんより先にお風呂を出て、
一人で脱衣所にいる時間があった……腐川さんだけだよ」
今度は、全員の視線が腐川さんに集中する。

当の腐川さんは激しく狼狽し、すくみ上がった。
「な、な、な、何で、そうなるのよ!わ、私は知らないわ!」
「さっき言った通りだよ。腐川さん以外には誰も下着を盗めなかった」
「う、うう……。そ、そうだわ、あれはどう説明するのよ? わ、私のポケットには下着なんて入ってないし、
脱衣所のどこにも、盗まれた下着は無かったんでしょ? い、いい加減なこと、言わないでよ……!」
腐川さんの反論に、朝日奈さんが同意する。
「そうだね。私達、下着が盗まれてからはずっと一緒にいるし、どこかに隠したりはできなかったはずだよ」
腐川さんは勝ち誇るような笑みを浮かべたが、ボクはすかさず言い返した。
「隠したりする必要なんてないよ。下着なんだから、身に着ければいい。
腐川さんとセレスさんは体型も近いし、そんなに難しくないよね?」
「う、うぐっ!!」
息を詰まらせるような声と共に、腐川さんは言葉を失った。
大神さんが、ゆっくりとした口調で腐川さんに語りかける。
「腐川よ、潔白だと言うのならセレスに調べてもらうがいい。それではっきりしよう」
「腐川さん、お調べしてもよろしいですか? 抵抗なさるのなら苗木君にも手伝って頂きますが」
セレスさんが静かな……それでいて凍りつくような冷たい声で、腐川さんを追い詰めた。
腐川さんはがっくりと首を折り、ぽつりと言った。
「……ご、ごめんなさい……」

「腐川さん、どうして……?」
ボクの言葉に、腐川さんはうなだれたまま答える。
「わ、私、お風呂を出て、白夜様に会いに行こうと思ったの。そ、そしたら、脱衣籠から色っぽい下着が見えて……。
私、地味な下着しか持ってないし、白夜様に見てもらったら、どんな風になるんだろうって、思って。
い、いけないのはわかってたんだけど、試しに着けてみたのよ……」
「……わたくしがお風呂を出た時には、もう服を着ていましたわね?」
セレスさんが抑揚の欠けた声で問いかけた。
「え、ええ。上から服を着て、鏡の前で、スカートをひらひらさせてみたりして。
しばらく眺めていたら、あんたがお風呂から上がってきちゃって、大騒ぎになって、言い出せなかったの……」
ボクはふと思ったことを口にする。
「えっと……それじゃ、今、腐川さんの下着は……」
「だ、脱衣所よ。わ、私が使ったロッカーの中に置いてあった……はずだけど……」
今までの証言の中で、セレスさんが二度も脱衣所で自分の下着を探した事がわかっている。
その時、残されたままの腐川さんの下着に気がつかなかったのだろうか。
ボクがセレスさんの方を見ると、彼女は思い出したように呟いた。
「……ああ、そう言えばロッカーの中に汚い布きれが落ちていましたわ。
わたくしは自分の下着を探していたので気にも留めませんでしたが、あれが腐川さんの下着だったのですね」
ボクはつい苦笑したが、そういうものかもしれない。
セレスさんの下着と腐川さんの下着は、かなりデザインが違う物のようだし、
突然、自分の下着が盗まれたら男のボクだって余計な物は目に入らなくなりそうだ。

「まったく、早く言っておればよかったものを……」
大神さんが呆れたように言った。腐川さんは身を大きく縮ませる。
「な、何度も言おうと、思ったのよ。で、でも、結局言い出せなくて……。
あ、あの、本当にごめんなさい。……し、下着は返すわ」
セレスさんは憐れむような目で腐川さんを見ると、ふぅっと、大きなため息をついた。
「もう結構ですわ。事情はわかりましたから。その下着は差し上げます。
……一度他人が身に着けた物なんて、気持ち悪いですもの」
最後の言葉は、腐川さんの耳には入らなかったようだ。彼女は飛び上がって喜んだ。
「ほ、本当!? あ、あんたって、結構いい人なのね! み、見直したわ。
う、うふふ、この下着があれば、白夜様もメロメロだわ! うふ、うふふ、ありがとう!」
セレスさんへのお礼もそこそこに、そのままの勢いで腐川さんは食堂を飛び出して行った。
早速、十神クンの所に向かったのだろう。多分、彼女の思うようにはならないだろうけど……。


セレスさんは朝日奈さんと大神さんに頭を下げると、今回の件を口外しないように頼んでから二人を帰した。
そして食堂を出て行く二人の背中を見送ってから、ボクの手を取って言った。
「苗木君、あなたのおかげで助かりましたわ。あなたを頼って良かったです。どうもありがとう」
改まって言われると何だか照れ臭い。ボクは頬を指で掻いて答えた。
「セレスさんの役に立てて良かったよ」
「あ、あの……。それで一つ言っておきたいことがあるのですが」
セレスさんが上品な仕草で胸に両手を当て、頬を染めながら俯く。
「腐川さんが言っていた下着ですが、いつもそのような下着を身に着けているわけではありませんの。
『大切な物』、というのは嘘ではなくて、あれは特別な物だったのです」

ボクは腐川さんの告白を思い出した。
彼女によれば、「色っぽい下着」……。だいぶ希望的観測が入っているにしても、十神クンがメロメロになるような下着……。
ひょっとすると、いわゆる「勝負下着」というやつだったのだろうか。
ボクはおぼろげに色っぽい下着姿のセレスさんを想像して、顔が熱くなるのを感じた。

「ですから、誤解なさらないで下さいね。……ああ、わたくし、何を言っているのでしょう。……忘れて下さい」
セレスさんは珍しく動揺したそぶりを見せ、ゆるゆると首を横に振る。
そんな彼女の様子を見ていると、胸が高鳴った。ボクは場の空気を変えようと、軽口を叩く。
「うん、忘れるように努力するよ。……前向きに善処します」
セレスさんは一瞬、呆気に取られたように固まったが、すぐに表情を和らげた。
「……なんですか、その言い方は。ナイトのくせに、ご主人様をからかうと許しませんわよ?」
彼女は冗談と本心が混ざったようなことを言って、クスリと笑った。

……良かった。少しは、機嫌が治ったかな? いつも微笑んでいるほうが、セレスさんらしくていい。

ボクがほっとしていると、セレスさんは少し真剣な表情になって囁くように言った。
「……でも、そうですわね……。あるいは、忘れる必要なんてないのかも……。
あなたには、いずれ見せて差し上げる可能性も……ありますものね」
「ええっ!?」
ボクはどきりとして思わず聞き返した。
セレスさんは白い頬をほのかに赤く染め、にっこりと微笑んだ。
「うふふ、驚きましたか? 冗談。冗談ですわ」

これは嘘なのか、本当なのか……。ボクは激しく心を揺さぶられた。
ボクの動揺をよそに、セレスさんはいつものポーカーフェイスに戻ってしまう。
「それでは、湯冷めするといけませんから、そろそろお部屋に戻りますわ。……ご機嫌よう、苗木君」
うやうやしくお辞儀をすると、彼女は優雅な足取りで食堂を出て行った。
一人残されたボクは、しばらく放心して動けなかったが、やがて我に返った。

……ボクも部屋に帰ろう。

本当に、しばらくは忘れられそうにない。下着のことも、彼女の言葉も。
ボクは自分の頬を軽く叩いて、いけない想像を追い払うと、食堂を後にして自室へと戻った。


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