超高校級の夫婦【前編】

「誠君、こんなとき、夫婦だったらどうするのかしら?」
 静かな宵闇に響いた霧切さんの声はどこか緊張した声色だった。
 硬い床に敷かれたシーツの上で、一枚の毛布に年頃の男女が同衾しているという状況。健全な男子であるボクも彼女と同じくらい緊張していて。
「そんな、結婚なんてしたことないから分からないよ、き、響子さん」
 そう言ってからすぐに、自分の答えが大きく的を外しているのだということは分かっていた。それでも上手い言い訳など思いつかない。
 また呆れらてからかわれるかと思ったけれど、どうやら彼女もそれどころではないようで。
「私だって、したことないわ……」
 暗闇に慣れた目で見えたのは、向かい合うように横になる霧切さんの不安げな表情と着崩れた男物の白いワイシャツ。
 細かい思惑まで伺うことはできなかったけれど、それはいつもボクをからかっているときのものとは明らかに違う。
 ただただ純粋に彼女は知りたいのだろう。
 もしもボクらが夫婦だったら、こんなときにどうすれば良いのか。
 ボクらはまだ高校生だ。結婚するどころか、結婚を考えるのだって些か早い気がする。
 きっと正解はボクらには分からない。
 そもそも正解なんてないのかもしれない。
 それでも何か喋らなければと思ったのは、霧切さんにこれ以上不安を抱いて欲しくなかったから。

「もしもボクらが、夫婦だったら――」

 まるで熱に浮かされるような場の空気。
 それに当てられたかのように、ボクの口から零れ落ちた言葉は――。

 ことの始まりは数時間前に遡る。
「霧切さん!」
 息を切らせながら名前を呼ぶと、霧切響子さんは微かに驚いた表情を浮かべて振り返った。
 彼女の歩みが止まったのを確認し、急いで走り寄る。静かな寄宿舎の廊下に乾いた足音が反響していく。
「苗木、君?」
 傍らに着くと訝しげに霧切さんはボク――苗木誠の名前を呼んだ。顔には明らかな困惑の色が浮かんでいる。
 だけど、その声に答えることができない。久々の全力疾走に身体の方がついていかず、完全に息が上がっていた。こんなに急いで走ったのはいつかの体育の時間以来だろう。
 肩で息をするボクを見つめる彼女の視線が、困惑したものからだんだん呆れたものに変わっていく。最後には軽く溜息まで吐いていた。
「霧切さんって、歩くの速いんだね……」
「別に、これぐらい普通よ」
 苗木君とは鍛え方が違うからと霧切さんは呟く。それはいつも通り、ボクにちょっとだけ意地悪なことを言う彼女の姿だった。
 あんなことがあったのでもしかしたら凹んでいるかもしれないと思っていたけれど、話してみるといつも通り見える。
「凹んだ私も見てみたかった?」
「ええっ! そんなことないよ!」
「あら、そう顔に書いてあるわよ」
 そう言って、霧切さんはくすりと微笑む。いつの間にか完全にからかわれてしまっていた。
「そ、そんなことより、部屋の鍵はどうするのさ? 今ならまだ、十神くんも返してくれると思うけど……」
 十神くんやみんなに疑われ、霧切さんは部屋の鍵を失った。
 彼女の正体――超高校級の???について、彼女は記憶喪失だから答えられないと言う。
 そのことを疑う十神くんに自ら部屋の鍵を差し出し、彼女は食堂を飛び出した。
 十神くんも頑固だけど、霧切さんも同じくらい頑固だ。きっとどちらも自分から折れることがないのは傍目から見て明らかだ。
 気が付けば、ボクは弾かれるように霧切さんを追い掛けていた。
 彼女を説得できる気はしなかったが、それでも追い掛けずにはいられなかったのだ。
 ボクが霧切さんに追い付いたのは寄宿舎の隅で、あまり人目に付かない場所だった。彼女が何をしようとしていたのかは分からないが、すぐに追いかけていなければきっと見失っていたような気がする。
「……別に、必要ないわ」
 まるで他人ごとだとでも言わんばかりに、霧切さんは澄ました顔で言い放つ。まさに取り付く島もないその様子に、早々と説得は諦めた。
 彼女の自信は一体どこからくるんだろうか。
 例え彼女がボクの知らないリソースを持っているのだとしても、それがどの程度安全なものかは分からない。少なくとも今まで通りに自分の部屋を使うよりは危険なはずだ。
「もうすぐ夜時間だよ? 寝るときはどうするのさ……?」
「あなた達には迷惑をかけないようにするから大丈夫よ」
 ボクの心配をよそに、霧切さんはあくまで秘密主義を貫くようだ。いつもの彼女を知っているのでそれも予想の範囲内である。
 それでもここは引けない。男として、彼女をこのまま放っておくなんてできない。
「……霧切さん」
「何?」
 何故ならあのとき、入り口の近くに立っていたボクだけは、キミの見せた寂しそうな表情に気付いてしまったのだから。

「今夜、ボクの部屋に来ない?」
 ボクは自分でも驚くことを口走っていた。

「ど、どうぞ」
「お邪魔するわ」
 ボクがドアを開けて促すと、霧切さんはまるで自分の部屋に帰ってきたかのようにボクの部屋へと踏み込んだ。その様子があまりにも普通だったので、ここは本当にボクの部屋なのかと不安にすらなる。
 でも、ここは間違いなくボクの部屋だ。
 廊下で誰かに見られていないことを確認して、どこか緊張しながら彼女の後に続く。
 できるだけ静かにドアを閉めて鍵を掛けたのは、確実に霧切さんのことを意識してだ。あまり二人きりの密室ということを意識させたくはなかったけれど、彼女の鋭さからしたらそれも無駄なことだろう。
 軽く部屋の中を一瞥し、相変わらずねと彼女は言った。そう言えば最初の事件のときに散々調べられたんだっけ。
「買い物に行く機会もないからね」
「それもそうね」
 ひとまず霧切さんにはベッドに腰を下ろして貰い、ボクはベッド脇の引き出しから毛布やシーツを取り出す。各部屋に換えの寝具一式が用意されていることを、ちょっとだけモノクマに感謝した。
「あ、そうだ」
 ついでに引き出しの中に預かったナイフを置く。ずしりとした重量感には頼もしさよりも恐ろしさの方が大きく感じる。
 正直な話、ボクには過ぎた物だ。
 ボクみたいな普通の人間にこれを預かる責任は重い。背中を嫌な汗が伝う。

「……大丈夫よ」
 ボクの顔色を見かねたのか、霧切さんの掛けてくれた声は優しかった。
 それはまるで不安な子供を寝かしつける母親のようで。
「……うん」
 短いやり取りだったけれどボクの心を安心させるには十分だった。

 ゆっくりと慎重に引き出しをしまう。こんな物が二度と使われることがないように祈りながら。
「――さて、と」
 一拍置いて霧切さんの方に向き直る。ベッドに座っている彼女はいつもと変わらぬ落ち着いた様子だ。
 ボクの部屋に泊まらないかと提案したときもそうだった。
 ボクにとっては地獄のような間は少しだけあったものの、霧切さんは短く、そうねと言っただけ。
 いつも通りのポーカーフェイス。その裏に何を思っているのか分からずに、ボクの方がただただ焦ってしまう。
「そろそろ寝る、よね?」
「ええ」
 時計を見ると既に夜の10時を30分程過ぎている。
 今日はいつにも増して色々なことがあった。大神さんが亡くなり、学級裁判が開かれ、アルターエゴが壊されて……。
 どれも碌な出来事じゃない。早く眠ってしまいたい気分だったのは、きっとボクも霧切さんも一緒だろう。
「苗木君、図々しいお願いなのだけど……」
 ボクが溜め息混じりに上着を脱いでいると、彼女は少し困ったように言う。
 声の方に向き直ると、ジャケットとブーツを脱いだ霧切さんがベッドの上にちょこんと座っていた。普段は見ることができない綺麗な白い足に思わず心臓が高鳴る。
 それでもなるべくその動揺を押し殺して言葉を返す。こんなことで一々どきどきしていたら、ボクの理性は今夜一晩持たないだろうから。
「う、うん? どうかした?」
「申し訳ないのだけれど、寝間着を貸してもらえないかしら?」
 ――ああ、そりゃそうか。
 霧切さんは不測の事態で部屋に入れなくなってしまった。当然、外で泊まる準備なんてしているはずもない。
 彼女が普段着ている服もボクと同じく前の高校の制服だ。それを普段着にしてる以上、流石に制服で眠るのは避けたいところだろう。
 そうは言っても、この部屋に霧切さんの服があるはずもなく。霧切さんによれば、今ランドリーで洗濯している服もないらしい。
「えっと、何かあったかな……」
 ごそごそと服を探してみるが、特に寝間着になりそうな服はない。
 ボクが寝間着にしているティーシャツと短パンも一つずつしかないので、残念ながら貸す訳にもいかない。部屋の隅にうず高く積まれた洗濯物を見て、自分の不精っぷりを嘆く。

「……一番下の右奥」
「え?」
「一番下の右奥にワイシャツがあったでしょ?」
 霧切さんに言われて見てみると、確かにそこにはワイシャツがあった。なるほど、これはモノクマが用意したであろう希望ヶ峰学園の制服一式だ。広げてみると新品ではないようだったが特に汚れてはいない。
 どうして知っているのか訊いてみると、どうやらこれも捜査のときに見つけたらしい。最早ボクよりも霧切さんの方がボクの部屋に詳しそうだ。
「でも、これワイシャツだよ?」
 ワイシャツを着て寝るなんてあんまり聞いたことがない。そりゃ、他に選択肢もないのだけれど。
 それに実を言えば、そういうシチュエーションは嫌いじゃない。
「背に腹は代えられないわ。それとも、苗木君は嫌かしら? その……」
 霧切さんは少し恥ずかしそうに視線を伏せると――。

「そういうジャンルの本も、それなりに持っているみたいだから……」
 結構大きな地雷を踏んでくれた。

 先程の嫌いじゃないを訂正させて頂く。実はそういうシチュエーションは大好きだ。
 それこそ、そういう大人の本を持っている程に。
「え? ちょ、ええっ!」
 迂闊だった。彼女の観察眼にしてみればボクの隠蔽工作など隠していないと同義だ。
 つまり、あそこに隠してあるボクの本は――。
「見た……の?」
 霧切さんがこくりと頷くのを見て、ボクは膝から崩れ落ちた。
 特にアブノーマルな趣味を持っている訳ではないけれど、同い年の女の子に見られたと思うと辛い。
 ワイシャツを着た女の子が好きだとか、髪は長いほうが好きだとか、ツリ目がちな女の子が好きだとか、胸よりお尻派だとか。引かれる程ものはないと思いたい。濡れたワイシャツが好きなのはギリギリセーフであって欲しい。
「健全な男の子なら当然よ。でも、その……エロスは程々にしておいた方が良いと思うわ」
 霧切さんの言葉がボクの心に突き刺さる。彼女にしてみたら慰めているつもりなのかもしれないけれど、逆効果だと言わざるを得ない。
 それでも引かれてはいないようなので、前向きに安堵することにした。
 明日になったら隠し場所を変えることを心に誓って。
「そうするよ……。はい、これ」
 なるべく平静を保ちながら霧切さんにワイシャツを渡し、自分も着替えることにする。
 できるだけ彼女を見ないように、背を向けていそいそと着替えを済ませた。流石に下着を変える勇気はなかったので、不本意ながら下着はそのままだ。
 ボクがひと通り着替えを済ませると、くいっとティーシャツの裾が引っ張られた。
「どうかした? 霧切さ――」
 振り返ると、そこには恥ずかしそうに頬を染めるあられもない格好の霧切さんがいた。
 先程と違い、彼女はスカートと自分のワイシャツを脱いでボクのワイシャツを着ている。問題はそのワイシャツのボタンが一つも留まっていないことだ。

 黒い上下セットの下着と彼女のほんのりと上気した肌、そして白いワイシャツのコントラストはまるで天使のように見えた。
 いや、完全に天使だった。

「どどどどうかした?」
 ボクは激しく狼狽える。
 頭では視線を逸らそうとしているが、身体がそれを拒否していた。その結果、完全にガン見していた訳だけど。
 そして、霧切さんは次なる銃弾をボクに撃ち込む。

「悪いのだけれど、……ぼ、ボタンを留めてもらえるかしら?」

「へぁっ!」
 驚きのあまり、ボクは変な声を出していた。
 とても言葉にできる状態ではなかったので、震える指でワイシャツのボタンを差してから自分を指差す。
 ――それはボクに言っているのですか?
 すると霧切さんは目を閉じ、真っ赤になって頷いた。
 ――はい、そうです。
「その、手袋をしているから細かい作業は苦手で……。それに、男物のワイシャツって女物と逆だから……」
 霧切さんの言い訳じみた言葉はきっと本当なのだろう。上の方のボタンがぐしゃっと皺になっている。
 だからといって、彼女がその手袋に並々ならぬ決意を込めていることも知っているので外せとも言えない。
 後から思えば、着替えが終わるまで部屋の外にいれば良かっただけのことだったけれど、羞恥と緊張で何処かおかしくなっていたボクらにはそれに気付くことなどできなくて。
「う、うん」
 ボクはベッドに座る霧切さんの目の前で中腰になり、なるべくボタンだけを見るようにして手を伸ばす。
 手がワイシャツ越しに彼女に触れと、ボクは思わず喉を鳴らした。洗剤の匂いと女の子のいい匂いにくらくらする。
 上から三番目ボタンをそっと摘み、どうにか留めようと手を動かす。
 ボクにも中々留めることができなかったのは、そもそも男物のワイシャツを誰かに着せたことなんてなかった所為と、霧切さんの吐息がボクの手に掛かってこそばゆかった所為だ。
 少し手を動かすと、彼女は深く溜息を吐く。それがどうにも色っぽく感じて、ボクは冷静になれなかった。
「あ、焦らなくて良いわ。ゆっくり、ね?」
 霧切さんはそう言うけれど、客観的に見ればこれはまるで――。

「……まるで事前に脱がしてるみたいだね」

 頭で思ったことをそのまま言葉にしてからまずいと思った。
 ゆっくりと顔を上げて彼女の表情を確認すると、驚いた表情のまま固まっている霧切さんが見える。きっとボクも同じような表情をしていただろう。
 見つめ合ったまま、どちらも言葉を発さなかった。正しく言えば何も発せなかった。
 もし何か言ったら、二人の中の羞恥心が何かの限度を超えてしまいそうで。
 ボクはゆっくり視線を下ろし、ボタンとの格闘を再開する。霧切さんはまだ固まっていたけれど、それを気遣う余裕はない。

 結局、全てのボタンを留め終わったのは五分後だった。
 それはまさに永遠に続くかのような五分間だったけれど、それでもまだこの日の夜は始まったばかりで。
 些細なことで一々どきどきしてしまうボクの理性は、とても今夜一晩持たないような気がしたのだった。



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最終更新:2011年07月15日 16:18
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