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 苗木君と、喧嘩した。

 喧嘩と呼べるものじゃなかったかもしれない。
 一方的に、私が怒鳴り散らしていただけだった。
 声を荒げ、机を殴り、睨みつける。
 そんな私に対して、始終と苗木君は困ったように黙っていて、それが癪に障って。

 手近にあった、イン・ビトロ・ローズ。
 インテリアに、と彼がくれた『ガラスの中の薔薇』。


 私はそれを掴むと、威嚇するかのように、壁に叩きつけた。


「っ…」

 苗木君は抗議の声もあげず、ただ悲しそうに、粉々になったガラスを見つめていた。


 出ていけ、と私が言うと、逆らわずに席を立ち、

「…さよなら」

 謝罪でも激昂でもなく、別れの言葉を口にした。


 彼が去った部屋で、私はひとり、取り残されている。
 怒鳴る相手を失って、私は静寂に、取り残されている。

 一瞬だけ大きな音を立てたガラスの薔薇は、今はもう死んでしまったかのように、無音。
 一言も抗議の声をあげなかった彼のように、無音。

「…馬鹿」

 言い返して欲しかった。
 今回のことは私に非がある。それはわかっている。

 怒鳴り散らしてくれた方が、幾分か気が楽だった。
 ああやって黙っていられる方が、罪悪感を掻きたてられる。

 部屋に取り残されて、一人。
 静寂に次いで私を襲ってきたのは、どうしようもない後悔の念だった。

「馬鹿、なんで、」

 なんで、よりにもよって、彼が最初にくれたプレゼントを手にかけてしまったんだ。

 失ってから気付くこともある。
 私はこの小さなインテリアを気に入っていた。
 霧切響子という無趣味な人間の部屋は、とんでもなく殺風景で、
 彼がくれたその花だけが、唯一色を放っていた。

 今となっては永遠に失われた、撫子色の一輪。

 膝を曲げて屈み、床に散らばったガラスの破片を拾う。
 チャリ、チャリ、と音を立てて、手の中で、思い出の残骸が山になる。

 薔薇を失った部屋は、再び元の殺風景に戻っていた。

 その、色も音も失った空間は、とても居心地が悪くて、


 代わりの花を買ってこなければ、と、


 そんな、馬鹿みたいな事を考えていた。

「代わりの、花を――」

 ぼたた、と、大粒の滴が音を立てて、薔薇の花弁を弾く。


 代わりなんて、あるものか。

 あの小さな花と同じものなんて、世界中の生花店を巡っても見つかるはずない。
 例え全く同じイン・ビトロ・ローズがあったとしても、

 彼がくれたから意味があったんだ。

 一時の激昂で、これほどまでに大切なものを壁に叩きつけて、

 私は、何を失ってしまったんだろう。



「っ、ぐ――」

 掌を押し当てて、嗚咽を押し殺した。
 涙は止められなかった。
 だからせめて、声だけは堪えなければ。

 泣いていいはずがない。
 勝手に怒鳴り散らし、自分でプレゼントを壊した私の方が泣いちゃいけない。

「ふ、ぅ――っ」

 手に当てている方と逆の手で、ガラスの山を力の限り握り締めた。
 ギ、と音がして、手袋越しに指が切れて、血が垂れる。

 外気に触れた薔薇は、またたく間に萎れ始めていた。

 長い間、私はそうしていた。
 手のひらに収まったガラスの破片を、もう元には戻らないそれを、ひたすらに握り締めて、
 肺に押し出され、唇から洩れる雑音を、ひたすらに飲み込んでいた。

 薔薇とともに涙腺が枯れて、虚無感は少しも変わらないのに、涙だけが止まってしまった。

 干上がった薔薇を、未練がましく拾い上げようとして手を開く。
 鋭い痛みが、掌を突いた。

 まあ、そりゃ全力でガラスの破片なんか握り締めていたらそうなるわけで。
 ズタズタになった右手から垂れる血は、薔薇の代わりだと言わんばかりに、無色の部屋を染めていく。


 保健室に行って、ガラスを抜いて。
 そんな機能的な自己修復を果たすために、私の体はフラフラと立ち上がった。
 頭の中は彼が部屋を出た時から止まっているけれど、体はそれでも動いてくれる。

 手当は適当でいい。
 傷はむしろ、残ればいい。

 そうすることでしか、もう彼の思い出を、初めてもらったプレゼントの証を、残せない。
 壊したのは、他の誰でもない私。


 そうして、怪我をしていない方の手で扉を開けると、

「…っ」
「あ…」

 気まずそうな顔をした彼と、ばったり出くわした。


 苗木君は、目の周りが赤くて腫れぼったい。泣いていたんだろう。
 たぶん私も同じ、みっともない顔をしている。
 目を合わせられずに、私はちらちらと、盗み見るように彼の顔色をうかがった。
 苗木君は赤い目で、私の右手をじっと見ている。

 少しして、そこから滴る赤い液体が何か分かったようで、
 途端に、苗木君は、

「…」

 何も言わずに私の左手を掴んで、少し強引に、わき目もふらずに歩き出した。

「…」

 私は逆らわなかった。逆らう権利もないし、逆らう気力もない。
 辿りついた先は、保健室。

 ピンセットと脱脂綿、消毒液を手際よく取り出して、彼は私を椅子に座らせ、自分は私の正面に膝をついた。
 適当でいいのに、と思ったけれど、彼の手当ては驚くほど丁寧なものだった。

 どうしたの、と、彼は右手だけを見て尋ねる。
 自分で切ったことを、私は伝える。

「――」

 一度だけ、彼は私の目を真っすぐに見て、

「馬鹿っ!」


 そう、怒鳴った。





 ああ、そうだ。
 馬鹿だ、私は。

 彼は、自分のためには絶対に怒らない。
 彼が怒るのは、他の誰かが傷ついた時だけだ。

 いっそ怒鳴ってほしい、だなんて、
 怒りに身を任せて、そんな簡単な事も忘れてしまっていたなんて。


「…ごめん、なさい」


 許してもらうためではなく、自分が楽になりたいから。
 そんな、誠意の欠片もない謝罪が、ぽつりと口からこぼれた。

「…気にしてないよ」


 私を怒鳴るために、険しい顔をしていたはずの彼の顔は、
 もう、いつも通りの、頼りないけど気の和らぐ、優しげな笑みに変わっていた。




 おかしいわね、と、私は独りごちた。



 涙はさっき、枯れたと思っていたんだけど。




 あの薔薇は、今はお気に入りの探偵小説に挟まれている。

 花弁だけを取ってドライフラワーにして、透明なフィルムで挟み、オリジナルの栞にしたのだ。


「薔薇のイメージがあったから、あれを贈ったんだけど…本の栞の方が、霧切さんには合ってたね」
「あら、私には鮮やかな生花よりも、しなびた古本の方がお似合いということかしら」
「そんなこと言ってないってば。でも、そうだね…あのプレゼントに込めた気持ちには、似たようなものがあるかも」
「どういうこと?」


「生花はすぐに枯れちゃうから、さ。だから、ガラスに入れて贈ったんだ。
 この学校を卒業したら、僕達はきっと離れ離れになるでしょ。僕はともかく、霧切さんはきっと、遠くに行くから。
 だから、時々でも僕を思い出してくれるように、形に残るものを贈りたかったんだ」


 この先もずっと、残る思い出。

 それはあの綺麗な一輪でも、手に刻みつけたガラスの傷跡でもなく、
 そんな即物的なものなんかじゃなくって、
 こうしてあなたが隣にいてくれたという記憶なんだ、と。


 そんな恥ずかしい事なんか言えるはずもない私は、



「…もう、馬鹿」

 薔薇の花のように顔を染めて、そう照れ隠してみせるしかできないのだった。



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