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「苗木君、ゲームをしましょうか」

そんな提案を霧切さんが切り出してきたのは日曜日――ボクらが遅い昼食を終えて、暫く経ってからのことだった。
今、この寄宿舎にいるのは僕と彼女だけ。
他の皆はそれぞれの理由で皆外に出払っている。多分、それが健康な高校生の健康的なあるべき姿だ。
一方の僕らはどうかというと、昨日――つまり土曜日に果たしてきた仕事の疲れをとることに専念していた。
といっても、ボクの部屋でのんべんだらりと時間を潰しているだけなのだが。

電車に乗る→依頼人のもとへ→捜査→解決→依頼人宅を辞す→電車に乗る→帰宅。
半月に一回程の頻度で霧切さんから誘われるそんな日帰り旅行は、すっかりボクの習慣と化していた。
が、彼女との小旅行は往々にして血生臭かったり、キナ臭かったり、背筋がヒヤリとするものだったりするわけで。
おまけに、日帰りゆえのハードスケジュールまで付いてくる。
それでも彼女との二人旅は楽しい……などと言ったら不謹慎かも知れない。
けれど、探偵としての彼女の言葉や考え方、観察法に触れ、新鮮な驚きや刺激を得られる時間を、ボクはかけがえの無いものと感じている。
とはいえキツいものはキツい。
いくらボクらが若いからといって、モノには限度がある。
そういうわけで、旅行の翌日のボクらは大概の場合何をするでもなく、明日からまた始まる学園生活に備え英気を養うことにしている。

昨日も、寄宿舎に戻ってきたのは日付が変わろうかという頃だった。
ボクは自室に辿り着いた後そのまま倒れるように眠り込み、そして目を覚ましたのはつい数時間前のこと。
そして同じ頃に起きだした霧切さんと二人で朝昼兼用の食事をとった後、ボクの自室に引き上げて二人で過ごしている。
これが定番パターンとなりつつある、ボクらの旅行翌日の過ごし方だ。

綺麗な女の子と部屋で二人きり……なんとも心地良い響きだ。
けれど、残念ながらいわゆる“いい雰囲気”というやつが入り込みそうな気配はこれまでのところほぼ、ない。
昨日の事件を振り返ったり、科学的捜査や探偵作法についての講義を受けたり。
大体が、そんな感じの色気の無い会話に終始する。それだけだ。
だけれど博識で頭の回転の早い霧切さんとの会話は、もっぱらボクが一方的にリードされる形ではあるものの、やはり楽しい。
そして普段口数の少ない彼女が、こうして話している時にはほんの少しだけ饒舌になってくれる。
思い上がりかも知れないが、ボク以外の誰も知らない彼女の姿を覗いているようで、とても嬉しくなる。
いまのところ、それだけでボクは十二分に満足なのだ。

話を戻そう。
こうして二人で過ごしている時、霧切さんはしばしばゲームを持ちかけてくることがある。
ゲームの種類は様々だ。チェス、ポーカー、あるいはちょっとした論理パズル……勿論、勝つのはいつも彼女の方。
もとより思考力がものを言うタイプのゲームでボクが彼女に勝てるはずも無い。
が、以前腕相撲でまで負けてしまった時には、前向きが取り柄のボクも流石にヘコまずにはいられなかったものだ。

「いいけど、今日は何するの?」
「そうね……あれでどうかしら?」

今回霧切さんが指差したのは、つけっぱなしになっていた壁掛けテレビ。
そこには円形の運動場のようなところをゆっくりと周る競走馬の姿が映し出されている。

「競馬……いや僕ら未成年なんだけど」
「別に馬券を買うわけじゃないわ。ただ着順を当てるだけの話よ」

そこで彼女は言葉を切り、しばし思案顔をした後再びボクに視線を向ける。

「でも、何も賭けないギャンブルというのも味気ないわね。負けた方は罰ゲームというのはどう?」
「罰ゲーム?」
「そう、罰ゲームよ。負けた方は勝った方の命令を一つ聞かなければならない……なんてところかしら」

霧切さんは時折驚くほど子供っぽい言動をすることがある。
これもまた、普段は中々見せてくれない、この時間だけの彼女の姿……だと思う。
そんな彼女がどうにも可愛らしくて、ボクは毎度負けると分かっていながらついつい勝負を受けてしまうのだ。

「……あのさ、それ、本気で言ってる?」
「当然よ。……ああ、一応言っておくけれど、私も流石に競走馬の知識は持ち合わせていないわ。
 それはあなたも同じでしょう? だから今回は純粋な運勝負。これなら、あなたにも勝ち目があるかも知れないわね?」

だけど今回、ボクは霧切さんのゲームにあまり乗り気になれずにいる。
というのも、ゲームの答え――正確には『限りなく答えである可能性の高い選択肢』なのだが――をボクは既に知っている。
数日前、ボクはクラスメートである“超高校級のギャンブラー”セレスさんと少しばかり世間話をした。
その際に、彼女は今テレビに映し出されいるこのレースで何番の馬を買うのかを口にしていたのだ。
ボクら同様未成年のはずのセレスさんがどうやって馬券を買うのかは聞いていない。聞いても教えてくれないだろうし。
とにかく、その時何気なく交わした世間話の内容をボクは運良く記憶していて、思わぬところで役立つ機会が巡ってきたということだ。

しかしながら、ボクだけが有力な情報を握っているこの状況が、極めてアンフェアであることは考えるまでもない。
ボクが勝ちに行くにしろ、あえて外しに行くにしろ、霧切さんを騙すようで申し訳ない気がする。
プラス、ボク自身もなんだか虚しい。
よって、ボクは彼女の提案に異を唱えることにする。

「えっとさ、他のゲームにしない?」

が、ボクの気持ちを知ってか知らずでか、霧切さんはわずかばかり意地の悪さを含んだ笑みでボクを挑発する。

「あら、負けるのが怖いの?」
「え? いや、そういうわけじゃないんだけどさ……」
「そうよね。怖いわよね。
 運勝負でまで私に負けたら、あなたはもう“超高校級の幸運”を名乗れない本当にただの高校生になってしまうんですものね」
「ちょ、ちょっと待ってよ! ……いやまあ、実際ただの高校生なんだけど」
「でも、もしあなたが勝負を降りるというのなら、ただの高校生ですらなくなってしまうわよ?
 女子に挑まれた勝負に尻尾を巻くあなたは……“超高校級の意気地なし”。そう呼べるんじゃないかしら?」

少しだけカチンときた。
霧切さんが幾分子供じみた物言いでボクをからかうのは別段珍しい事でもないし、そんな時には苦笑いで済ますのがボクの常だ。
だから、今日に限って彼女の挑発がボクの気に障った理由は、自分でもよくわからない。
……いや、ボクだって男なんだ。
これだけ好き勝手言われてしまっては、退くわけにいかないのは当然のことだ。
それに、霧切さんに勝てるかもしれないチャンスなんて、今を逃せば早々無いだろう。
いつも振り回されている分をここでちょっとだけ取り返したって、バチは当たらないはずだ。うん、そうに違いない。

「わかったよ。そこまで言うなら勝負しようか」

ボクは霧切さんの鼻を明かしてみせることを決意した。






「……驚いたわ」

さすがの霧切さんも暫し呆然としていた。
三連単で百万馬券。セレスさんの読み……いや勘か?は見事に的中した。
“超高校級のギャンブラー”の面目躍如といったところか。
どこからか彼女の高笑いが聞こえてきそうな気がする。

「私の負けよ。あなたの“幸運”、本物だったのね」
「いやあ、ははは……」
「それと、今更だけど謝っておくわね。ほんの遊びだというのに、さっきは言い過ぎてしまったわ……ごめんなさい」
「そんな……謝るようなことじゃないって」

なんだか、霧切さんがいつになくしおらしい。
余りにしおらしいものだから、今になってイカサマじみた方法で勝ちを収めたことに後ろめたさを感じてしまう。
その一方で、ボクはまた彼女の新たな一面を見られたことにある種の充足感を覚えていたりもするのだが。

「それで、どうするの?」
「へ?」
「罰ゲームよ。約束したでしょう?」
「あ、ああ……そういえば」

勝負を受けるべきか否かという問題の方に気を取られていたボクは、今の今まですっかり忘れていた。
罰ゲーム……正直なところ、ボクとしてはもうどうでもいいことだったりする。
曲がりなりにも霧切さんに一矢を報いて、ついでに彼女のちょっと可愛らしい姿も見られて、それで大いに満足しているんだから。

「いや、もういいよ。それよりさ――」
「よくないわ。あなたがよくても、私の気が済まないもの」

言い終わる前に、霧切さんが言葉を被せてくる。

「だってそうでしょう? 勝負に負けて、しかも情けまでかけられたんじゃ私が私自身を許せないわ」
「情けっていうかさ……ボクは」
「いいから言ってみなさい。さあ、どうするの?」

また言葉を被せられてしまった。
口調も表情も、既に“しおらしい霧切さん”ではなく“いつもの霧切さん”のそれだ。
真っ直ぐに射抜くような瞳に見つめられて、ボクは何だか詰問されているかのような気分になる。
霧切さんは意志の強い人だ。だから、一度こうと決めたことは絶対に曲げず、貫き通す。
それは彼女の美点だし、ボクはそんな彼女をとても素敵だと思うのだけれど、こういう場面で意志の強さを発揮されても少々困る。
多分、今回も何がしかの罰ゲームを提示するまで絶対折れないだろう。
やれやれ、とボクは胸の内で呟く。

それにしても『負けた方は勝った方の命令を一つ聞く』……さっきは軽く流していたけれど、何気に凄いことを言っているような。
霧切さんはどうも変なところでズレているというか、天然の気があるんじゃないかとボクは時々思う。
年頃の女子が男子に対してこんな約束してしまうのは、迂闊に過ぎやしないだろうか。
例えばそう、もしボクがここであんなことやらこんなことやら、ほんのり桃色がかった要求をしたら……。
いや駄目だ駄目だ。
目先の欲望に囚われて今の彼女との関係を壊してしまうことになったら悔やんでも悔やみきれない。
それ以前に、ズルい手で勝ったうえ約束を盾にしてセクハラ紛いの要求をするなんて、人として最低過ぎる。

ボクは首をもたげかけた邪な考えを振り払うべく、心中で深呼吸する。
ああそうだ、ここは何もごちゃごちゃと考えるところじゃない。
当たり障りのないお願いでもして済ませておくことにしよう。
例えば……明日の昼食を奢って貰うとか。
そう心の中で決めて、口を開こうとした時。

「先に断っておくけど……明日の昼食を奢れだとか、そういうのは無しよ」

一手早く、霧切さんが釘を刺す。

「な、なんで!?」
「罰として軽過ぎるわ。それじゃあ結局手心を加えられているみたいじゃない」
「……あのさ、罰ゲームの決定権はボクにあるんじゃないの?」
「そうよ。だから私の負けと、あなたへの暴言に見合う相応の罰をお願いしているの」
「相応って言われてもな……。えぇと、じゃあ晩御飯で」
「食事から離れなさい。却下よ」

却下されてしまった。
段々本格的に詰問されている気分になってくる。
もうどっちが勝者でどっちが敗者なのだかよく分からない。

「そうだな……なら、今度の寄宿舎の清掃当番を代わってくれる?」
「食事と大差ないじゃない。他に何かあるでしょう?」
「うぅん……それじゃあ、日直」
「あなた、もう少し発想の幅を広げられないの?」
「………………」






十分後。ボクが提出した思いつく限りの罰ゲーム案は霧切さんによりことごとく却下されてしまった。
もはや残弾は無い。
そして延々と続く、目的地すら見失いつつあるこの問答にボクもいい加減うんざりしかけている。
とりあえず、霧切さんがごねているのが彼女なりの誠実さゆえだということは理解できる。
しかしここまでくると、言っちゃ悪いけど流石にちょっと面倒くさい。
何もそんなに拘らなくていいだろうに、とつい口に出してしまいそうになる。
もうこの際なんでもいい。
膠着状態を打破しうる何かを探さなければと、ボクは部屋を見回す。

――ふと、机の上に転がっているタンポポの綿毛を模したおもちゃが目に入る。
なんでこんなものがボクの部屋にあるんだろう。
しばし記憶を遡り、思い出す。クラスメートの一人“超高校級のプログラマー”の彼に以前貰ったものだ。
小動物のような彼なら、こんな他愛のないおもちゃで遊んでいる姿もさぞかし愛くるしい絵になることだろうと思う。
けど、ボクのような普通の男子の持ち物として、これはどうなんだろうか。
半ば現実逃避気味に、そんなどうでもいい事柄へと意識が向かってしまう。

ああそうだ。
いっそ、「あのおもちゃで足をくすぐらせてくれ」なんて言ってしまおうか。

……いやいや。
何を考えているんだボクは。
なんというか、普通の高校生を自認する人間に相応しい台詞じゃない。
ある意味、直接的なわかりやすいセクハラ発言よりも数段マズい気さえする。
そんなことを口にした日には――


「それじゃあさ、あれで足の裏をくすぐらせてよ」


口にしていた。
……いやいやいや。
何を言ってしまっているんだボクは。
舌までもが投げ遣りになっているんだろうか。
先刻霧切さんの挑発に腹を立てたことといい、今日は少しどうかしているのかもしれない。
ボクは慌ててとり繕おうとする。

「や、えっと、今のは……」

が、言葉に詰まる。
どう繕えばいいんだこれ。

「……わかった。それでいいわ」
「へ!?」

予想外の反応に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
対する霧切さんはいつものポーカーフェイス。
どころか、既にブーツのサイドファスナーに手を掛けている。
待ってよ。ちょっと待ってよ霧切さん。
なんでそんなに平然と受け入れているんだ。
そりゃあ昼食や掃除当番よりはハードルの高い罰ゲームではあるだろうけど、こんな要求呑んじゃっていいのか。
狼狽するボクのことを意に介した風もなく、彼女はブーツを脱ぎ去ると床に放り出す。

「なんていうか……いいって、その、いいの? 本当に?」
「あなたが言い出したんでしょう? まだ他に代案があるの?」
「いや、それは……」
「なら、今更撤回されても困るわ」

白いハイソックスがするすると、躊躇なく引き下ろされていく。
思わず「白磁のような」などという月並みな比喩が頭に浮かぶ、透き通るような肌に包まれた長くしなやかな脚。
露になったそれが、ボクの前にすっと差し出される。

「さあ。どうぞ」

ベッドに腰掛けたまま、霧切さんはこちらに向けて片足だけを上げた姿勢になっている。
それがどうにも色っぽく見えてしまい、ボクの混乱と当惑は一層深まっていく。
確かに言い出したのはボクだ。そして霧切さんはそれを了承した。
だけど、本当にいいのか?
このまま一歩踏み出したら、いろいろと大切なものを失ってしまいやしないか?

「何を逡巡しているの? 男子なら、一度言ったことはやり通しなさい」

霧切さんの口調に淀みはなく、それどころか尻込みするボクへの呆れすら混じっている。
むしろ呆れたいのはこっちの方だよ、と言いたくなるのをどうにか押しとどめる。
一体どうしてこうなった。
少し前までの、和やかに会話していた時間がなんだかとても懐かしい。

しかし、ここまで来てしまってはもう後には退けないのも事実だ。
というか、霧切さんが退かせてれそうにもない。
もうどうにでもなれ――意を決し、ボクはおもちゃを手にする。
そうだ、これで何かがどうかなったとして、それはボクのせいじゃない。
全部霧切さんの強情さが悪いんだ。
半ばやけくそ気味に、ただし手を震わせながら、さわりと彼女の足裏を撫でる。


「……んっ……!」


瞬間、微かな呻き声と共に、霧切さんの身体が震える。
びくん、と、大袈裟なくらいに激しく。

何が起きたか解らないままボクは弾かれように顔を上げ、霧切さんを見やる。
そこにあるのは相変わらずのクールな表情……のようでいて、少しだけどこかが違う。
ついさっきまでボクを強く見据えていた瞳は下に逸らされ、口元は小さく唇を噛んでいる。
漏れ出そうになる声を必死に抑えようしているのだと、ボクはようやく理解する。
そしてもう一つ、霧切さんの反応は尋常ではなかった。
意外な弱点というべきか――もしかしたら、彼女はくすぐられることに殊の外弱いんじゃないだろうか。

「どうしたの……これで終わりということはないでしょう?」

固まったままのボクに問い掛ける声からも、わずかに呼吸が乱れていることが見て取れる。
ごくりと唾を飲む込む音が、ボクの体の内に響く。

さわり。

「くっ……ん……」

先刻開き直りで固めたばかりの決心が、何か別のものへと摩り替わっていくのを感じる。
それは既知のようでいて未知な、不思議な感情。
得体の知れない何かが急激に押し寄せて、ボクの意志を塗り潰していく。

さわり。さわり。

「っ…………ぅ……ぅん……」

沈着冷静。何物にも媚びない鉄の意志。クールビューティーの見本のような彼女。
そんな彼女の内側に秘められた、ただひたむきに真実を求める熱さをボクは知っている。
彼女が時折垣間見せる、子供っぽい一面もボクは知っている。
だけど、まだだ。
まだボクは彼女の全てを見てはいない。

さわりさわりさわり。

「…………んっ……ぁ……」

今なら見られるかもしれない。
彼女が、ポーカーフェイスの裏側に押し込めているものを。
ボクは、それを、見たい。

いつの間にか、ボクの片手は霧切さんのほっそりとした足首を強く掴んでいた。
そしてもう一方の手に握ったタンポポの綿毛で、白い足裏の上を縦横に撫で回す。
時には一点に集中し、時には全体をなぞるように。
時には触れるか触れないかの軽さで、時には舐るように執拗に。
それに合わせて、霧切さんの身体がくねり、そしてびくびくと小刻みに震える。
込み上げるものを押し殺そうとする彼女の声が、何故だかひどく艶かしく聞こえてしまう。

さわさわさわり。

「ふっ……んんぅ……っぅ……」

手の動きを止めぬまま、ボクは食い入るように彼女を見つめる。
表情はまだ平静を保ってはいるものの、額にはうっすらと汗が滲み、頬は桜色に染まっている。
普段はその中に強い意志と深い知性を湛えている瞳が今は潤み、どこか熱っぽい。
ベッドについた両の手は、何かを踏み止まろうとするかのように、ぎゅっとシーツを握り締めている。

見たい。
この先にあるものを見たい。

――ああ、本当に今日はどうかしている。
そんな自分の心の声をどこか遠くで聞きながら、ボクはただひたすら彼女の仮面をこそぎ落とす作業に没頭していく。



涙も、痛みも、怒りも、奥深くへと隠し、仕舞い込む。
何物にも左右されない、己の立ち位置を堅持するための私の戒律。
善でも悪でもない、ただ一つの真実を手にするための私の武器。
私が自らの生きる道を定めたその時から貫いてきた、私の小さな誇り。

それが――それがこんな――
こんな形で崩されかかる時が来るなどとは、私は想像だにしていなかった。

この罰ゲームが始まってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
時間感覚の正確さには自信があるつもりだったが、今はそれがまるで役に立たない。
苗木君の手の中にある幼稚な玩具一つに、私は全てを握られている。
羽毛で撫でられるような、ほんのささやかな刺激。
たったそれだけのものに私は翻弄され、掻き乱され、ただ無様に全身をひくつかせることしかできない。
思えば他人に体をくすぐられるなどということ自体、私にはほとんど経験の無かったことだ。
甘いような痛いような奇妙な感覚は私にとって未知と言っていいもので、ゆえに私はそれを受け流す術を備えていない。

肺が引き攣り、息が乱れる。
溢れ出ようとするものを必死に堰き止めるが、それでも抑え切れなかったものが情けない呻き声となって口が漏れる。
思わず「もう止めて」などと叫び出したくなるが、もとより私にそんな資格などない。
この状況の責任は一から十まで全て私にあるのだから。
苗木君を酷い言葉で挑発してゲームに誘ったのも私で、彼に負けたのも私。
半ば強要するようにペナルティの執行を促したのも私自身なのだ。
だから彼の下す罰を拒むことなど私には許されない。

ふと顔をあげると、苗木君がじっと私を見つめている。
眩しいくらいに真っ直ぐな、混ざり気のない強さと優しさを秘めたとても綺麗な瞳。
言葉にして伝えたことは一度もないけれど、私はそんな彼の瞳が大好きだ。
だけれど今、まじろぎもせずに私の狂態に見入る瞳には、見たことのない形容し難い色が宿っている。
怖い。
堪え切れず視線を逸らしてしまったのは、外の殻だけでなく私の内までも崩されかかっているからか。
果たして、彼の目に私のこの姿はどう映っているのだろう――そんなことががふと頭をよぎり、また怖くなる。

ああ、駄目だ。
思考が散り散りで、取り留めがつかない。
もはや自分のちっぽけな意地を守り通すことに精一杯で、まともに頭を働かせる余裕すら残されていないようだ。
もう余計なことは考えない方がいい。
理性の残滓を掻き集め、どうにか繋ぎ合せることにのみ注力する。
私に出来るのは、彼の気が済むまでただ耐え続けることだけだ。





不意に、先刻まで足裏から送り込まれていた綿帽子の感触が消え去る。
前触れもなく訪れた突然の凪に、私は軽く混乱する。
崖っぷちから解放されたものの心はなおも波立ったままで、鎮めきることができない。

――これで、終わったの?

訝しみつつ伏せていた顔を上げようとした、その刹那。

さわり。

足首の内側から太股へ、上へ向かって一息に撫で上げられる。
虚を突いて送り込まれた、抗いようのない致命的な一撃。
たちまちのうちに全身を駆け巡るこれまでとは異質な刺激が、緊張の糸を緩ませていた私を容易く突き崩した。
身体が大きく跳ね上がるのを、意志の力ではもはや抑えられない。

「ひぁ――――!?」

そして、私はとうとう間抜けな叫び声を漏らしていた。



彼女の声。
静かな中に凛としたものを包んだ普段のそれとは違う、初めて耳にする響きを伴った声。
それがボクを我に返らせた。
次いで血の気が引き、ボクを支配していた正体不明の狂熱はたちまちに雲散霧消していく。


一体何をやっていたんだボクは……!?
つまらないことで彼女との関係を壊したくない、そう思っていたのは誰だ。
にも関わらず、彼女が拒まないのをいいことに一時の衝動に身を任せて、挙句調子に乗ってこんな真似をして……。
“どうかしていた”で済ませていいことじゃない。最低だ。
この期に及んで、自責と後悔が頭の中をぐるぐると回転する。

……いや、そんなものは今はいい。
とにかく、謝らないと。まずはそれからだ。

「あ、あの……」

半ば以上硬直したままの頭と体を無理矢理に奮い立たせ、どうにか声を絞り出す。
霧切さんは小さく肩で息をしながら俯いたままで、その表情は見えない。
怒らせてしまった――のだろう。
それでも、伝えるべきことだけは伝えなければ。
ボクが言葉を継ごうとした、その時。

「……苗木君」

霧切さんがぽつりと呟き、ボクは再び固まってしまう。
同時に、未だボクの手の中にあった白い脚がするりと引き抜かれる。
そして高く上げられたその脚は、間を置かず垂直に振り下ろされ――


がつん、という派手な音と共にボクの脳天を撃ち抜いた。

頭を抱え、ボクは蹲ってしまう。
案の定、怒っている。当然のことだ。
頭も痛むけれど、それ以上に胸が締め付けられる。
だけど、せめて、せめて一言。
それで許してもらえるとは思わないけれど。

「き、霧切さん、ボク……!」

「『足の裏』という約束だったわよね……? 逸脱行為よ」

返ってきたのは、聞き馴染んだトーンの彼女の声。
顔を上げると、そこにあるのは、やはりいつも通りのクールな表情の彼女の顔だった。

「まあ、いいわ……今の踵で貸し借り無し。それでいい?」

小さく溜息を吐きながら、霧切さんはボクを見据える。
その瞳には若干冷ややかな色が混ざってはいるが、刺々しいものは感じられない。

「あの、怒って……ないの?」
「怒る理由がないわ。正統な罰ゲームだもの……最後の“あれ”以外はね」
「……ごめん」
「まったく……甘く見ていたとでもいうべきなのかしら。あなたも男の子だってこと、失念していたのかもね」

地味にショックなことを言われた気がするけれど、今はそんなことは置いておく。
許してもらえたことに、ボクは心の底から安堵した。
一気に身体から力が抜ける。
良かった――本当に。

「それにしても、あなたがあんなサディストだとは思わなかったわ」
「サ、サディスト……!?」
「あら、私が苦しむ様を見て随分と楽しそうにしていたじゃない。違う?」
「うっ……それは……」

慌てるボクの様子を見て、霧切さんは満足気に口の端を上げてみせる。
やっぱり怒っているんじゃないだろうかコレ。
それとも意趣返しか?
……いや、何でもいいか。こうして彼女と、今までと同じ調子で話すことができるのなら。
そんなことを考えていたその時、

「それから……一応、聞いておこうかしら。なんであんなことをしたの?」

ブーツを履き直している最中の霧切さんが発した質問に、ボクはまたドキリとさせられてしまう。

「それは……その……霧切さんの……」
「私の、何?」
「ボク、まだまだ霧切さんのこと知らないから……霧切さんのいろんな顔が見たくて。
 それで、くすぐられたら霧切さんはどんな顔で笑うのかなって思ってるうちに……つい……」

いざ冷静になって、こうして言葉にしてみると、どうしようもなく気恥ずかしい。
本当に、どうかしていたとしか言い様がない。

「私を知りたい……? それが理由?」

すみれ色の瞳に怪訝な色が浮かぶ。

「うん……。でもそのうち自分でもよく分からないうちにあんなことまでしちゃって……」

霧切さんは片手を軽く額に当て、心底呆れた様子でボクを見る。
まあ、こんなリアクションをとられても仕方無いということは、自分でもよく分かる。
分かるんだけれど、なんだか悲しい。
これがきっと“穴があったら入りたい”というやつなのだろう。

「まったく……バカ正直なだけじゃなくて、本当にバカなのね、あなた。私のことを知りたいなら、方法も機会も他に幾らでもあるでしょうに」
「その通りだと思う……ごめん」
「謝る必要はないわ。貸し借り無しと言ったでしょう?」

そこで言葉を切ると、霧切さんは少しだけ眼を伏せる。

「……でも、あなたにそんな風に思われてるということについては、悪い気はしないわ」
「え?」

さらりと言い流すような口調。
だけど、今のって――どういう意味なんだ?
ボクの頭の中を疑問符が飛び交う。

「少し疲れたし……部屋で休むわ。お邪魔したわね」

困惑するボクには目もくれず、霧切さんはベッドから立ち上がる。
そして床に落ちたままのタンポポのおもちゃに目をやると、おもむろにそれを拾い上げた。

「ああ、それと……これは預かっておくわ。次のゲームの時まで」
「な、何で……?」

またも間の抜けた疑問の声を発してしまうボクに視線を返すと、霧切さんは子供っぽさを少しだけ覗かせた表情で微笑する。

「今度は私が勝つから。その時は……分かっているわね、苗木君」
「は、ははは……」

彼女を苦笑いで見送りながら、ボクは思う。
……やっぱりボクはとんでもないことをしてしまったのかも知れない。
でも、ボクにはなんとなく分かっている。
彼女に今のような顔でゲームに誘われたら、きっとまたボクは断れないのだ。
もっともっと彼女のことを知る、そのためにも。


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最終更新:2011年07月15日 19:38
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