ナエギリ晴耕雨読 第二話『日曜の晩に書いています。』

「何を読んでるの」
「うわあッ!?」

 えらい近くに顔があった。

「ちょっと。あんまり大きな声を出さないで頂戴な」
「あ、霧切さん? や、えっとその、ごめん。……でもその、なんで」
「?」
「………なんでもない」

 雨は止みそうになかった。
 例年より少し早めに始まったらしい今年の梅雨は、それなら例年より早く終わるのかと問いかけた所で答える人はいない。
 答えに限りなく近い位置にいそうな気象予報士は、今日も傘を忘れないようにと誰でもわかっていることを繰り返すばかりで、わかっているといえば今日の日付は未だ夏が来るにはまだまだ遠い六月の四週目で。週間予報は雨雨曇り所により雨以下繰り返し。

 つまるところ、雨は降るべくして降っているのである。

「ラジオも少し、飽きてきたわね」と霧切さんが言えば、「なら、本でも読もうか?」とボクが返し。「全部読んだわ。それもつい最近」と諦め混じりに嘆いた言葉に、ボクは肩を竦め溜息をひとつ。
 雨の中静かに読書と言うのも悪くないと思ったのだけれど、どうもタイミングが悪い。本当にやることがない、といった様子で立ち上がった霧切さんは、大して飲む気も無いだろうに、本日二回目となるコーヒーメーカーのスイッチを入れた。

――ぱらり。
「あ、ちょっと待って。あと、二行」
「う、うん」

 二杯、三杯と作業のように珈琲を流し込んでいた(ボクが断ったので量が多い)かと思うと、不意に立ち上がり傘を掴んで出掛けて行ったのが、確か十五分ほど前の出来事。買い物にでも行ったのだろうかとぼんやり考えて、もしそうなら一緒に行けば良かったと、ほんの少しの羨望を霧切さんに感じた。雨に流されてすぐに消えた。

 それに、霧切さんと違って、ボクは積んだままになっている本が沢山ある。
 ミステリの蔵書数とマニアックさにかけては学園の図書室にも引けをとらないこの本棚をぞろりと眺めて、ボクは栞を挟みっぱなしの一冊を見つけ手に取った。
 ほどよい薄さの翻訳小説。思いっきりボクの読みかけである。
 霧切さんがポットに残していったコーヒーをありがたく頂戴して、ラジオの音量はごくごく小さく。適当にツマミを回していると、天気予報から音楽番組に切り替わった。
 さあ、ボクはボクなりに、雨の日を精一杯満喫してやるぞ――と、そう思ったのが確か十五分前の出来事だった。

「それで、何を読んでるの。――あ、待って。当ててみせましょうか。……オルツィね」
「うん、左上にタイトル書いてあるよね」
 意地悪な言い方、と呟く。息が耳に当たって心臓がどきりと鳴った。
 椅子がぎい、と小さな音を立てる。どうやら背もたれのところを掴んでいるらしい。
「どこに行ってたの?」
「ええ、ちょっとね。紫陽花を見に」声は上機嫌。先ほどの憂鬱はどこへやってしまったのだろう。
「ふうん、そう……」ぱらり「ちょっと待って。苗木君、貴方本を読むのが速いのね」
「そうかな、普通だよ」
 嘘だ。それは違うよと心の中でボクが叫ぶ。ちょっと黙っていてほしい。そうでなくとも余裕がないのに。

「………全部読んだんじゃなかったの?」
「どうしてこう、人の後ろから読む本ってこんなに面白いのかしらね。何か、こう、新鮮な………最後の一文、親指で見えないわ」
 ボクより読むの速いんじゃないか。
 というか耳の傍でブツブツ言うのをやめてほしい。
「やっぱり文字が見えにくいわね……ん、っと」
「~~~~~!?」

 ぎい、と椅子が再び軋む。身を乗り出すようにして顔を近づけた霧切さんは目を細めて本をというか顔を近づけてボクの肩のところに顔が近い近いよ近いってば。
「………? 苗木君、次のページを、はや、」
 本の世界にどっぷり浸かっていたと、ボクらはこの状況に対してそう言い訳すれば良いのだろうか。
 それは違うよと胸の奥でボクが叫ぶ。ボクが夢中になっていたのは本じゃなくてってああもううるさい! 

「…………………やあ」
「………………………………」
 ぱちり、ぱちり。霧切さんの眼が二度ほど瞬いた。音まで聴こえてきそうだ、というのは流石に誇張だけど、睫毛の数ぐらいなら十分数えられる。
 大きく見開かれた瞳は動揺で細かく揺れて、白い肌にはうっすらと朱が浮かんで、おそらく多分いやきっと、ボクもおんなじ風に――

 ――冷静に解説してる場合じゃない。

「ご、ごめ……」
「何を、してるの」
「………………え?」
 顔を背けられた。距離はほとんど変わらずに、視線だけが件の翻訳小説へ。
 貶されるか引っぱたかれるか覚悟していたのに、実際はそのどちらでもなく。
「そろそろ、つ、次のページを捲ってほしいのだけど」
「う、うん」
 何事も無かったかのようにページを捲る。本が少し、しっとりしているのは、きっとこの梅雨のせいだ。
 ぱらり、ぱらりとページがテンポよく捲られる。ボクらの読み進める速さは今ほとんど同じになっている。薄い本だ、今にも読み終わるだろう。

 ちらりと本棚を見る。ボクが抜いたスペースに、隣の本が倒れかかっているのが見えた。日本人作家の手によるミステリで、少なく見積もってもこの本の二倍以上はある。ついでに言えばあれもボクの読みかけだ。

「………苗木、君?」
「あ、うん……」
 ぱらり。
 また1ページ、物語の終わりが近づいている。巻末の解説と宣伝を除けば、数えるほどしか残っていないかもしれない。

 ぐちゃぐちゃにこんがらがった紐のような頭の中で、あっちの分厚いのにしておけばよかったなとボクは思った。

 雨はまだ、止みそうにない。

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