「あの、だから…謝らないといけないとは、思っていたんだけど」
それは、違う。
あなたが謝るようなことじゃないんだ。
怒っていたんじゃない。
私が勝手に、機嫌を悪くしていただけ。
「ま、待って…」
と、言いつつも、そこから先に繋げる言葉が見つからない。
違う、あなたにそんな的外れな謝罪をさせるために、約束を持ちだしたわけじゃないのに。
「でも、理由もわからずにただ謝るのも、霧切さんに失礼かな、って思って…」
理由なんて、わかる方がおかしい。
私が彼にあたっていた理由なんて、的外れもいいところなんだから。
あなたが他の女の子と楽しそうにしていたから、嫉妬しただなんて。
口が裂けても言えるもんか。
「……ごめん、なさい」
だから、それよりも先に。
私は自分の非を詫びた。
「えっ、な、なんで、霧切さんが」
「違うのよ、苗木君…あなたの罪悪感を煽るためにあんなこと言ったわけじゃないの」
自分が悪いのに先に謝られる辛さは、もう身に染みている。
素直になることには、相変わらず抵抗がある。
それは、素のままの自分を晒すということだ。
それは、とても恥ずかしくて、とても向こう見ずで。
それこそ苗木君とまだ、出会う前。
馬鹿みたいに裏切られて、安易な信頼への代償を払ったことも忘れてはいない。
だから、怖い。
人を信用して、自分の素直な気持ちを晒すということは。
私にとっては、敵に自分の弱点を教えるが如く、最も愚かな行為に等しかった。
けれど、苗木君は違う。
彼は敵なんかじゃない。
彼は私に、素直な気持ちでもって接してくれているのに。
いつまでも私が意地を張っているのは、それこそ彼に対して失礼だ。
「…謝るべきは、私の方なのに」
「だ、だから霧切さんが謝ることなんて、」
「…ずっと」
「え?」
「怯えていたでしょう、私に」
カチ、と、時計が次の針音を刻むと同時に、彼が凍りついた。
ビク、と、その体が強張ったのがおかしいくらいにわかる。
目はあちこちに泳ぎ出し、息を詰まらせたように口を開きっぱなし。
まるで小動物みたいだ。
ホント、嘘が下手なんだから、と、思わず頬が緩みそうになってしまう。
けれど、と、私は気を引き締める。
彼が体を強張らせたのは、つまり、
「怯えてなんか、ないよ」
「言い方が悪いかしら。ずっと私が不機嫌だったから、気を使わせて…」
「そ、そんなこと…そもそも僕が霧切さんを怒らせて、」
バチ、と、目が合う。
泳いでいた苗木君の瞳が、いきなり私を捉えた。
追い詰められたような、切迫した表情で。
いつも見せる、優しい光をたたえた瞳ではない。
時折見せる、射抜くような強い意志を宿らせた瞳でもない。
その瞳は、
「…ずっと、聞きたかったことがあるんだ…けど、怖くて聞けなかった」
奇遇なことだ。
私もずっと、あなたに怖くて聞けなかったことがある。
彼の瞳の奥に、私が映し出されている。
まるで水の底を見ているかのように、透き通って揺れる。
瞳の奥の私が、はたして苗木君と同じ表情をしている。
「僕は……、ずっと霧切さんに迷惑をかけてる…」
私は、ずっとあなたに理不尽を強いている。
「背も低いし、意気地無しで…自分でもわかってるけど、全然男らしくなんてない」
無愛想で、意地っ張りで…自分でもわかっている、全然女らしくなんてない。
「時々不安になるんだ…僕は、君の隣にいちゃいけないんじゃないか、って」
時々不安になるのよ、私なんかがあなたの隣にいていいのか、って。
「…ねえ、霧切さん」
次に紡がれるであろう言葉は。
寸分違わず、私の口が紡ぐ言葉と、同じなんだろう。
「どうして、一緒にいてくれるの…?」
―――――
バチ、と、目が合う。
伏せられていた霧切さんの瞳が、いきなり僕を捉えた。
自分の罪を告白するような、思いつめた表情で。
いつも見せる、凛とした鋭い光のある瞳ではない。
時折見せる、慈愛に溢れた穏やかな瞳でもない。
ずっと、聞きたかったことがあるんだ。
けど、怖くて聞けなかった。
「奇遇なことね。私もあなたに、ずっと聞きたかったことがあるのよ」
彼女の瞳の奥に、僕が映し出されている。
まるで灯を見ているかのように、輝いて揺れる。
瞳の奥の僕は、はたして彼女と全く同じ表情をしている。
「私は、ずっとあなたに理不尽を強いているでしょう」
僕は、ずっと霧切さんに迷惑をかけている。
「無愛想で、意地っ張りで…自分でもわかってる、全然女らしくなんてない」
背も低いし、意気地無しで…自分でもわかっているけど、全然男らしくなんてない。
「時々不安になるのよ。私は、苗木君の隣にいてはいけないんじゃないか、って」
時々不安になるんだ、僕なんかが君の隣にいていいのか、って。
「…ねえ、苗木君」
次に紡がれるであろう言葉は。
寸分違わず、僕の口が紡ぐ言葉と、同じなんだろう。
「どうして、一緒にいてくれるの…?」
――――――――――
「「どうして、一緒にいてくれるの…?」」
二人分の声が重なって、二人だけの図書館に響いた。
二人が互いに、ずっとため込んでいた疑問だった。
そして、それは本来なら。
二人が互いに、決して尋ねることの出来ない質問だった。
聞きたかった。
けれど、聞けなかった。
自分の存在意義を、相手に問う質問だった。
苗木誠が、苗木誠でなかったのなら。
霧切響子が、霧切響子でなかったのなら。
どちらか片方でも違ったのなら、その疑問は生まれることはなかっただろう。
ただ、事この二人に関しては。
互いが互いに、複雑に関係を絡みあわせていたから。
霧切響子は、後悔していた。
苗木誠に、あまりにも辛く当たってきたこと。
理不尽に殴ったり、心ない言葉を浴びせかけてきたことを。
自分には、彼の隣にいる価値はないと思っていた。
それでも苗木誠は、変わらず自分と接してくれる。
苗木誠も、後悔していた。
霧切響子を、あまりにも蔑ろにしてしまったこと。
幾度も自分を助けてくれた彼女に、何一つ恩を返せていなかったことを。
自分には、彼女の隣にいる価値はないと思っていた。
それでも霧切響子は、見捨てず側にいてくれる。
だから、二人は。
相手に認めてもらえなければ、自分を許すことは出来なかった。
自分から歩み寄る資格なんてないと、そう思わずにはいられなかった。
あまりにも、近すぎた二人だった。
机で隣り合う、二人の距離はたった7cm。
手を伸ばせば、触れる距離なのに。
一歩踏み込めば、届く距離なのに。
たったそれだけの差を気にして、二人は自分を遠ざけた。
「……僕は」
その、どうしようもなく歪で、永遠とも思われた均衡を。
先に破ったのは、『超高校級の希望』となるべき少年だった。
―――――
時を止めたような長い沈黙を、震えた声が破る。
「僕は、霧切さんが…」
ドクン、と、心臓が嫌な跳ね方をした。
思いつめたような、苗木君の顔。
聞こえた鼓動は、もしかしたら彼のものだったのかもしれない。
その続きを聞きたい自分と、聞きたくない自分がいる。
霧切さんが、何?
私のことを、どう思っているの?
わかっていた、はずなのに。
自分自身で、何度も言い聞かせていたはずなのに。
桑田君や葉隠君にまで、言われたことなのに。
怖い。
他の誰よりも、彼の口から言われるのが一番怖い。
心臓の跳ねる激しさに、痛みさえ覚える。
手を握り締めていなければ、震えだしてしまいそう。
視線なんて、到底合わせられない。
瞳を閉じてしまわない様に、こらえるのが精いっぱいだ。
矛盾。
先程までは、彼の正直な本音を聞ければ、とまで思っていたのに。
その彼の本音が、ここまで怖いだなんて。
ああ、本当に、なんて面倒くさい人間なんだ、私は。
こんなだから苗木君も、
その口がゆっくり開く、
待って、
まだ、
心の準備が、
止めて、
言わないで、
「僕は、霧切さんが…無愛想とか、理不尽とか、思ったことは一度もないよ」
恐る恐る、伏せていた顔を上げる。
苗木君はまだ、当惑した様子だったけれど。
それでも真っ直ぐな眼差しで、私を覗き込んでいた。
「嘘よ…」
思わず、口から零れおちる。
彼が嘘をつくときの特徴は、経験上よく知っていた。
目を泳がせて、決してこちらを見ようとしない。
その彼の目が、
依然として優しい光をたたえて、私を覗き込んでいる。
「不満に思ったこと…一度や二度じゃないでしょう」
「確かにぶたれたりしたら、そんなぁ、って思うことはあるけどさ」
少し照れくさそうに、鼻頭を掻いて。
それでも彼は、まだ私に笑いかけてくれている。
嘘じゃ、ないの…?
「そういうところも霧切さんの魅力だって…僕は思うよ」
照れくさそうな笑顔のまま『魅力』だなんて言われて、思わず頬が熱くなる。
きっと、そんなつもりで言ったわけじゃないんだろうけど。
こういう天然ジゴロなところが、江ノ島さんも言っていた、女子に人気のある理由なんだろう。
「クールに見えて、本当はすごく優しいところとか…論理的に見えて、気持ちが先に出ちゃうところとか」
指を折って、彼は私の長所と思しきものを数える。
恥ずかしい、顔から火が出そうだ。
ずるい。
卑怯だ、そんなことを言うのは。
こんな面と向かって人を褒めちぎっても、たちが悪いことに、彼には打算や邪気がない。
本心から、こんなことを言っているんだ。
そう思うと、余計に恥ずかしくなる。
と、今度は別の理由で顔を伏せかけた時、
彼の顔が少しだけ陰ったのを、私は見逃さなかった。
「あと…僕みたいな情けない奴も、見捨てないでいてくれるところとか」
諦めたように笑って、そんな自虐を混ぜてきた。
それは、それだけは聞き捨てならない。
「それは違うわ」
―――――
「それは違うわ」
居心地悪そうに目を伏せていた霧切さんが、その言葉とともにいつもの調子を取り戻した。
あまりにも唐突で。
今度は、僕が面食らう番だった。
「え、あの」
「誰が、情けない奴ですって?」
そんなの、僕以外にいないだろう。
『超高校級の幸運』なんて、偶然でこの学園にやってきた。
才能なんてまるでなくて、『超高校級の平凡』とまで言われるほどだ。
彼女の気持ちを察する聡明さも、彼女を支える腕力も、迷惑をかけない男らしさも。
何一つ、ない。
「私だって一度も、あなたが情けない人だなんて思ったことはないわ」
だから、彼女がどれほど真剣な目でそう言ってくれても。
僕は自分を信じることはできない。
「それこそ嘘だよ…自分でもわかってる、霧切さんが嫌になるほど、」
「私が、いつ、」
僕の言葉を遮って、彼女がずい、と踏み込んでくる。
上体を乗り出して、僕に詰め寄る。
ドキ、と、
それまで止まっていたんじゃないかと思うくらいに、急に心臓が跳ねた。
「私がいつ、そんなことを言ったというの? あなたのことが嫌になると」
「言っ…て、ないけど」
ちょっ、近、
「そうね、言ってないわ。私はあなたのことを情けないだなんて、思ったことはない」
「や、でも、」
「それとも苗木君は、私が嘘をついていると思っているのかしら?」
さらにぐいぐいと、霧切さんが押し迫ってくる。
人差し指を僕の額に押し付けて。
「おっ、思ってない…です」
「……よろしい」
目の前数センチで、彼女がほほ笑む。
うわ、こんな近距離で、
そんな可愛い顔、反則だ。
……なんか、押し切られる形になってしまった。
こういうところが、僕は自分で男らしくないと思っている次第なんですが。
でも。
こんなに彼女が熱弁してくれるなんてこと、滅多になくて。
「でも…ホントに僕は男らしくなくて、霧切さんにあれだけ迷惑かけてきたのに…」
「私だって、全然女の子っぽくないでしょう。あなたは優しいから、文句も言わずに側にいてくれるけれど」
「それは違うよ!文句だなんて…僕は、僕自身が霧切さんの側にいたいから…」
「…私だって、同じよ。恩返しがほしくて助けたわけじゃない。私が、あなたの側にいたかったから…」
「……」
「……」
――――――――――
「あ゛ぁあああ~~!! 焦れったい、焦れったいぃいい~~!!」
「ちょ、江ノ島さん! 気持ちはわかりますけど、静かにしないとダメですよ…」
「見つめ合ってないでキスの一つでもかませっての、草食動物どもめぇえ…」
「……なぁ、やっぱりやめた方がいいんじゃないか」
「あぁ?何言ってんだ兄弟、おめぇが言いだしたんだろうが」
「いや、しかし…趣味が悪いんじゃないか、級友のプライベートを覗き見るだなんて」
「ちょっと石丸君、今更そういうのは言いっこなしですよ」
「覗き見るんじゃねえ、心配だから見守ってるだけだろうが」
「いや、しかし…後で苗木君と霧切君に謝りに行かなければ…」
「はぁ?どんだけ真面目なのよ、言わなくていいんだってばそういうの」
「しかし、君たちは罪悪感は感じないのか!?」
「ちょ、声でか、」
「あれ、二人…近くね?」
「えっ」
「おい、あの距離…」
「霧切さん、大胆…!」
「ふ、『不純異性交遊』だ!」
「まだ言うかお前は!」
「っておい、狭い…」
「江ノ島さん、しゃがんで、見えないです…」
「ちょっと、コラ、押すなって…!」
――――――――――
僕たちは、しばらくそのままお互いに見つめあっていた。
互いの瞳に映った、自分自身を見ていたのかもしれない。
まるで鏡のように、同じように笑い、同じように悩んだ、瞳の中。
つまるところ、僕と彼女は。
似た者同士なんだ。
鏡映しのように。
相手から見ればどうでもいいような、ちっぽけな悩み。
それを、
決して届くことのない、遠い距離だと。
決して超えることのできない、高い壁だと。
勝手に、思い込んでいたのかもしれない。
僕からすれば、霧切さんが無愛想だなんて、本当に瑣末な問題で。
―――――
私からすれば、苗木君が意気地無しなんて、本当に瑣末な問題なんだから。
そんな小さな欠点を遥かに超える魅力を、私はいくつも知っている。
あなたが一つの理由で以て、自分を蔑むのなら。
私は二つの理由で以て、あなたを称賛しよう。
「霧切さん、もしかして僕たち…」
「ええ。お互いに、悩みすぎていたみたいね」
ぷっ、と、苗木君が噴き出した。
くすり、と、思わず私も笑いを洩らしてしまう。
ゆるり、と、凝り固まっていた空気が緩んでいく。
それもそのはずだ。
お互いに感じていた引け目は、もう解消されたんだから。
何よりも信頼できる、お互いの言葉で。
「でも、良かった…僕、絶対霧切さんに愛想を尽かされているって、ずっと思ってたから」
誤解だけどセクハラもしちゃったし、と、おどけたように苗木君が鼻の頭を掻く。
困ったときや照れ隠しに、よく彼が見せる仕草だ。
「それを言うなら私だって…絶対あなたに嫌われていると思っていたわ」
「あ、でも…パンチとかはさすがに今後は勘弁してほしかったり」
「さあ、どうしようかしら? 苗木君、別に嫌ではないみたいだし」
「いや、さすがに痛いのはちょっと…」
「ふふ…じゃあ、今後のあなたの言動次第ね」
そう冗談めいて、笑いあって、ふと彼が重心をずらした時、
ふと、長椅子におかれた私の腕に、彼の手が触れた。
そうだ、さっき。
あまりにも彼が卑屈なことを言うから、勢いで身を乗り出してしまったんだっけ。
その距離、約7cm。
遠くにいると思っていた彼が、驚くほど近くにいた。
文字通り、目と鼻の先に、彼の顔があった。
一歩踏み込めば、届く距離。
手を伸ばせば、触れる距離。
体を乗り出せば、唇が――
「あ、ゴメン…」
そのことに苗木君も気付いたのか、恥ずかしそうに触れ合っていた手を引っ込めようとする。
その腕を、
気付いた時には、私の指が捉えていた。
「ふぇっ!?」
突然のことに驚いたのか、苗木君が突拍子もない声を上げた。
その怯えたような姿が、とても愛らしく思えて、
「苗木、君…」
「え? あ…」
私は、
「あの、霧切さん…?」
「……嫌なら、拒みなさい」
してほしい、なんて言えるわけない。
嫌われていないと、わかっただけだ。
言ってしまえば、マイナスだと思っていたのがゼロに戻っただけ。
スタート地点に立っただけだ。
そこまで踏み込んでしまうのは、やりすぎだとわかっているのに。
雰囲気に流されているのかも。
もう、止まれない。
言葉にするのは、まだ恥ずかしいから。
代わりに私は、目を細めて顔を近づけた。
無音の図書館に、心臓の律動が響いている。
「霧切、さん…」
苗木君は、拒まない。
気づいてはいるのだろう、顔を真っ赤に染めている。
彼の瞳の奥の私と、きっと同じくらい真っ赤に。
それでも、
拒まないなら――
上体を近づける。
触れ合った指先を絡める。
無音の図書館で、二人分の心音が近くなる。
遠かった7cmが、少しずつ近くなる。
鼻先が触れ合う寸前。
彼はまだ、目を閉じない。
吐息がかかる。
瞳の向こうに映る私が、少しずつ近くなる。
無音の図書館を、
「ちょっと、コラ、押すなって…!」
ぶち壊すかの如く、聞き覚えのある級友の声が響き渡った。
最終更新:2011年08月20日 10:53