「舞園さん…」
「だ、大丈夫です…ちょっと、疲れてて…すみません」
ぐしぐし、と、袖で瞳を擦る。
肌が傷つくから止めろといつもマネージャーに怒られるけど、今は。
今は、アイドルじゃない。
一人の女だ。
一人の女として、苗木君の前にいる。
関わっちゃいけない、という表現はオーバーだ。
跡が残るくらいに力強く涙を擦ると、少しだけ目の奥がさっぱりした。
明日からも彼に笑いかけるし、
明日からも彼をからかうし、
明日からも彼のことは、きっと大好きだ。
けれど。
この報われない恋愛を、私は諦める。
きっと、そういう運命なんだ。
私と苗木君は結ばれない。
今日という日までアピールを続けてきて、一向に報われなかったのがそもそも兆候だったのかもしれない。
「あーあ…なんか、疲れちゃった」
諦めの言葉と共に、ふ、と息を吐くと、一気に体中の力が抜けた。
力が抜けて、いつもよりも深く笑うことが出来た。
エスパーだから、だなんて、本気で言っているわけじゃない。
人よりちょっと直勘が鋭いのと、ちょっと感情の機微に敏いくらいだ。
だから、念力なんてないし、明日の天気もわからないし、相手が何を考えているかなんてわからない。
エスパーごっこは、もうお終いだ。
苗木君は、じっと私の顔を見ていた。
射抜くような、包み込むような目つきだった。
く、と苗木君の頬が歪む。
この表情は、――
いつもの癖で分析でもしそうになって、目を反らした。
瞳の中に苗木君を入れてしまうことすら、罪深いものに思えた。
瞳の端で、苗木君は立ち上がって、
「嫌だったら、逃げてね」
「え、」
私が言葉を返す前に、薄い布が頭から被せられた。
「ちょ、なえ、」
ぐい、と、優しくも力強い何かが、私の頭を引っ張る。
薄い布は、苗木君の着ていたパーカーだった。
何をされているんだろう。
不思議と、抵抗する気力は起きない。
「ゴメン…今だけは、考えてること読まれたくないんだ」
グサ、と、世界で一番好きな声が、胸に突き刺さった。
自分でわかっていたことなのに、彼の声で改めて聞くと、罪の意識が掻きたてられる。
痛みで思わず喘いでしまいそうになって、
その声が、自分の真上から響いたことに気が付いた。
ド、ド、温かくて硬い壁の奥から、リズムよく鼓動が響く。
えっと、これって、
苗木君の顔が私の頭の上にあって、目の前にあるのは多分苗木君の胸で、
じゃあ、私の肩をパーカー越しに包んでいるのはきっと苗木君の腕で、
私は、苗木君に抱かれているんだ。
ボボボ、と、再燃する心臓。
何度もスイッチのオン/オフを繰り返して疲れきっているはずなのに、今日一番の高鳴りだった。
「あ、の、なえぎ…くん…?」
口から出た声は、なんとも力なく震えていた。
私と彼の心臓の音の方が、まだ大きい。
いつもは私が彼をからかう、いじめる立場なので、彼の方からアクションを起こされた時は弱い。
苗木君以上に、私の方が焦ってしまうんだ。
「えっと…その、まずは…勝手にこんなことして、ごめん」
彼の声も、どことなく上ずっていて。
「い、いえ…私は、あの…嫌じゃないです…けど」
苗木君こそ、嫌じゃないのか。
私はあなたの考えを何でも見透かしてしまう、怖い魔女、嫌な女。
「あの、それと…その、体調悪かったのに、振り回してゴメン」
「そんな、私が言い出したのに…それに、私は楽しかったし…」
「…それでも、謝らないと気が済まなくて」
ど、ど、どど、ど、ど、
私の鼓動、苗木君の鼓動。
どちらが速くてどちらが大きいのか、全然わからない。
緊張してるんだ、お互いに。
だって、布一枚越しに、苗木君が私を抱きしめているんだから。
「あと、あの…怖いって言ったの、舞園さん気にしてるよね…ゴメン」
「な、」
エスパー?
「んで、分かっ…じゃなくて、全然気にしてな…あ、でも、ちょっとへこんだだけで…」
「分かるよ。舞園さんが笑った顔、いつもよりすごく…悲しそうだったから」
心臓がひと際、高く跳ねた。
「いつもの舞園さんの笑顔は、なんていうか…花が咲いているみたいな、綺麗で明るい感じだけど」
いつもの、私の。
苗木君、その言葉は。
『いつもの私の笑顔』をよく知っていないと言えない言葉だって、あなたは気づいていますか。
「さっきのは全然違うっていうか…何かをあきらめて、しょうがないか、って笑う感じで…上手く説明できないんだけど」
苗木君、その言葉が。
私の心臓をどんどん速めてしまっていること、あなたは気づいていますか。
「だから、なんか励ましたいというか…抱きしめたくなっちゃって。あ、でも、その、変な意味とかじゃなくって、えっと…」
あれ、嫌じゃない。
いつも、私が苗木君にしていることと同じなのに。
感情の機微に、表情や仕草に敏く目を光らせていること。
考えを読まれたのに、なぜだろう、すごく嬉しい…
「怖いのはホントだけど…嫌じゃないんだ、僕。舞園さんが僕の心を読むの」
「…は、はい」
「あ、でも…今みたいな時は、心読まれたら困る…かも。すっごく、ドキドキしてるから」
残念ながら、顔だけ隠しても緊張しているのは丸わかりだ。
あ、そっか。
彼の『怖い』という言葉を、
私は『嫌い』と混ぜてしまったんだ。
嫌じゃない、と苗木君は言った。
怖いけど、嫌じゃない。
ついさっき諦めたはずの、恋心。
まさか数分後に再び芽吹くなんて、思いもよらなかっただろう。
「…大丈夫ですよ、苗木君」
パーカーから、苗木君の匂いがする。
私を支えてくれた暖かい背中を、思い出した。
「私も、苗木君がエッチな目で私のことを見るの…怖いけど、嫌じゃないですから」
「ぶッ…そ、そういうのは、言わないで…」
硬い壁、彼の胸。その奥で、鼓動がいっそう速くなった。
ああ、暖かい。
女の幸せは、愛するよりも愛されること。
先輩が教えてくれた言葉を、今は理解できる。
これは、認めざるを得ない。
彼をからかったり、笑顔にさせたり、今日一日で色んな事を苗木君にしてきた。
色んな表情を見ることが出来たし、それはすごく幸せだったけれど。
腕に抱かれている、この暖かさは。
他の何物にも劣らない、至上の幸せだった。
パーカーを取り払って、生身で彼に抱きつきたかったけれど、止めておいた。
やっぱり、こんなに緩みきった顔は、苗木君には見せられない。
「…私のエスパーが、移っちゃったのかな」
「え?」
「どうして、いつもの笑顔と違うって気づいたんですか?」
「あ、そういうことか。…うーん、なんでだろ」
きっと、気が弱くても真っ直ぐな、優しい彼だから。
人一倍、誰かの不幸に敏感な彼だから。
諦めかけていた私を、助けてくれたんだ。
「…あーあ。苗木君、こうやってこれからも、私を甘やかしていくんですね」
「えっと…慰めただけ、だと思うんだけど…」
「もう遅いですよ。ただ慰めるだけなら、言葉だけでもよかったはずです」
「う、それは…」
「明日からは私、もっともっと苗木君に甘えて、からかって、」
ずっと、あなたのこと、好きであり続けるから。
「――覚悟してくださいね、苗木君」
―――――
「舞園さん、あの」
「ルーズリーフは、私も忘れてしまって…ごめんなさい」
もうそろそろ慣れてもいい頃なのに、苗木君は初めての時と同じ反応。
目を丸くして、それから少しして、困ったように笑うのだ。
「…今更なんだけどさ。実は超高校級のアイドルじゃなくて、超高校級の超能力者だったりしない?」
「残念ながら、苗木君限定なので」
言いながら、ノート代わりになりそうなモノはないかと、鞄を開く。
「あ、大丈夫だよ。無かったらなんとか工夫するから」
「そんなわけにはいきません。また他の女の人のところに行かれたら、たまったもんじゃないですから」
「うぐ…そ、それはホントにゴメンって…」
あの日から、月日は過ぎて。
苗木君の背が私を越して、私の肩幅が苗木君よりも小さくなった頃。
私たち二人の関係は、一つの転機を迎えた。
その関係がどういう枠組みなのかは、一言では語り表せないというか。
言葉にしてしまうと、途端に嘘っぽくなってしまうというか。
正直なところ、私としても書き記すのは恥ずかしいというか。
ただ、思い切ってバッサリと切った私の髪を見てもらえば、なんとなく想像はついてしまうのだろう。
別に願を掛けていたわけでもないけれど、鋭いクラスメイトのうちの何人かは言葉をくれた。
「舞園さん、今日は、」
「ストップ。二人っきりの時は名前で呼んで、って…言いましたよね?」
「…舞園さんだって、さっき『苗木君』って言ってたよ」
「じゃ、今からお互いに名前で呼びましょう。ね、誠君」
躊躇いも見せずに微笑みかければ、いつものように苗木君は赤くなる。
幾度も繰り返したやり取りだけれど、飽きる気がしない。
いつまでだって私はあなたをからかうし、私はあなたに笑いかけるし、私はあなたを愛し続ける。
「さ、さや…」
「んー?」
「う、ぐ……さやか、さん」
「はい、よくできました。あと、私はいじめっ子体質じゃないですよ」
「……」
「そうですね。私が相手だと、気軽に浮気も出来ないですね」
「…まあ、する予定もないんだけどね」
エスパーごっこは、まだ続いている。
最終更新:2011年11月21日 23:15