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「…待っていたわ、苗木君」

 歯磨きをしようと洗面台へ向かったら、僕の歯ブラシを持った霧切さんが仁王立ちしていた。
 何を言っているのかわからないと思うけど、僕もわからない。

「えっと…それ、僕の歯ブラシだよね?」
 当たり障りのないジャブから入る。
 そんなこと見ればわかるだろう、とでも言いたげに、不服そうに霧切さんが眉をしかめた。
 いやいや、わかるんだけど、全然わからない。

「あの…歯磨きたいから、返してくれないかな、それ」
「…何故私が貴方の歯ブラシを持っているかについては、疑問じゃないのかしら?」
 残念ながら、自分から地雷を踏み抜く趣味はない。

「一応、誤解のないように言っておくけれど」
 霧切さんは僕の歯ブラシを握り締めたまま、ビシッと此方に指を突きつける。
「貴方の歯ブラシをどうこうしようとかいう変態趣味が私にあるワケじゃないわ。勘違いしないように」
「ああ、うん…そう」
「…その気のない返事は何?」

 鏡に映る僕自身の顔に目をやる。酷い表情だ。疲れている。
 なんていうか、どうしてこう、この学園は変な人が多いんだろうか。
 同じクラスの中では、彼女が一番まともな人だと思ってたんだけど。
 時間を重ねて、今はもう彼女が普通とは少しずれた感覚を持っていることに気づいている。

「今日は、私が貴方の歯を磨くわ」
 何を言っているのかわから(ry

「…うん、とりあえず、理由を聞いていいかな」
「先刻見ていた番組で、『他人に歯を磨かれる』という内容の罰ゲームがあったのよ」
「ああ、あのアニメ?」
 経緯はわかった。そのアニメなら、僕も見ていた。
 なんでも、他人に歯を磨かれるというのは想像以上にキツイらしい。
 ただでさえ普段は他人に触らせないような場所。
 そこを、細く尖ったプラスチックの束が縦横無尽に駆け回る。
 その感覚はえも言われぬ、と、その変態…もとい、天才アニメでは語られていたんだけど。

「それで、僕を使ってその真偽を確かめようっていうこと?」
「…ご明察よ。歯を磨かれて気持ち良くなってしまうなんて、到底信じられないもの」
 確かめる必要があるわ、と、至極真面目な顔で歯ブラシを突きつけてくる霧切さん。
 とりあえず僕はその手から、自分の歯ブラシを奪い返した。


 謎を見つけると突っ走ってしまうのは、探偵の性らしい。
 それがどんなにどうでもいい噂だとしても、世間を揺るがす大事件でも、彼女にとっては等しく謎。
 …要は、今はちょっと退屈だったのだろう。

 歯ブラシを奪い返された霧切さんは、お預けを食らった猫のようにしょんぼりと落ち込む。
 目に見えて変わっている様子はないけれど、雰囲気がそうなのだ。
 付き合いが長くなると、その程度は感じ取れるようになる。

「で、なんで僕?」
「…助手ならつべこべ言わず、探偵の指示に従いなさい」
 確かに幾度か彼女の推理を手伝ったことはあるけれど、自ら助手を名乗り出た憶えはない。

「いや、そうじゃなくて…僕が霧切さんに歯を磨いてもらって気持ち良くなったとしてもさ、」
 自分の歯ブラシに磨き粉を練りだして、口に咥える。
「それで霧切さんは、どうやってこの謎の真相を突き止めたって言えるの?」
「…貴方の証言は、十分信憑性があるものでしょう」
「信用して貰えるのは嬉しいけど、それより霧切さんが自分で確かめた方が早いんじゃないかな」

 はい、論破終了。
 霧切さんに歯を磨いてもらうなんてご褒美…じゃないや、そんな奇行に走る必要性はないのだ。
 そう結論付けて自分の部屋に向かおうとしたところで、

「…それも、そうね」
 彼女は、僕の予想の斜め上に結論を置いた。
「なら、貴方が磨いてちょうだい」

「……えっとね、霧切さん」
「何かしら、苗木君」
 ああ、どうしよう。なんて説明すればいいんだろう。
 嫁入り前の女の子が、なんて一般論、きっと彼女には通用しないんだろうなぁ。
「そういうのは、ホラ、仲の良い女友達同士で…」
「舞園さんや朝日奈さんは、この時間はもう寝ているわ」
「他の女の子は…」
「良く考えてみて、苗木君。貴方が私の立場だとして、他の女の子に歯磨きを任せたいと思う?」
 そもそも他人に歯磨きを任せたいとは思わない。

 まあ、でも、彼女の言わんとしていることはわからないでもない。
 大神さんや腐川さんが相手だと、ちょっと物理的に危ない。
 何かの拍子で、歯の一本ぐらい取れてしまいそうな気がする。
 かといって江ノ島さんやセレスさんは、もっと別の意味で信用できない。
 歯磨き以上の何かに発展してしまいそうだ。


「……」

 ちょっと想像してみる。
 口を開いたまま固定され、椅子に縛り付けられた霧切さん。
 何かに目覚めた江ノ島さんが、その霧切さんの口の中に歯ブラシを突っ込んでいる図。

「……、明日にでも、改めて舞園さんとかに頼めばいいじゃない」
 危険だかどうなのかよくわからないけど、とりあえずドキドキしてしまった。
 自分の思考を逸らすために、話題を戻してみる。

「明日やろうは馬鹿野郎、という先人の訓戒もあるわ」
 どうしても今日やりたいらしい。
 今度からは好奇心猫をも殺す、という訓戒も覚えておいてほしいものだ。
「僕、もう寝ようと思ってたところなんだけど…」
「付き合ってくれてもいいでしょう。ほんの数分で終わるわ」
「…ホント、なんで僕なのさ」

 また『僕が霧切さんの助手だから』なんて理由を突きつけられた日には、流石に帰って寝ようと思ったんだけど。

「…貴方が一番信頼出来るからよ」
 本当に何でもないことのように、さらりと霧切さんは呟いて返す。
 こういうところが、やはり探偵として駆け引きに生きてくるんだろう。
 そんな単純な言葉で揺らいでしまうほどに、果たして僕もまた単純なのであった。

「……わかったよ、もう」
「引き受けてくれるかしら」
「まあ、僕もあのネタの真偽は気になっていた所だし」
「それじゃ、私の部屋に向かいましょう」



 部屋に通されると、霧切さんが後ろ手に扉の鍵を閉めた。
 驚いて振り返る僕に、霧切さんは苦笑する。

「別に、変なことはしないわ」
「ああ、うん…」
 それ、普通は男が女に保証するものだと思うんだけど。
 そして、間違いなく今から変なことをすると思うんだけど。

 けど、やっぱり、なんていうか、すごい、ドキドキする。
 これからやることを思ってだろう。
 あのアニメを見ている分には、また馬鹿なことをやってるな、と、笑って済ませていたのに。
 これから自分たちで同じことを実践するのだと思うと、どうしてもあの描写が蘇ってしまうのだ。
 落ち着いて、と、深呼吸。
 部屋の匂い。甘い。
 少しだけ殺風景な、霧切さんの部屋だ。



 変に意識しちゃダメだ。
 なにもいかがわしいことをするワケじゃない。
 そう、ただ歯磨きをするだけ。

「…落ち着きがないようだけど、大丈夫?」
 むしろ、どうして霧切さんはそこまで落ち着いていられるんだろう。

 ベッドに腰をおろし、僕を待つ霧切さん。
 此方の片手には歯ブラシ、もう片手には歯磨き粉。
 始める準備は出来ている。
 あとは、僕が覚悟を決めるだけ、ということだろう。

「…行くよ、霧切さん」
 歯ブラシに歯磨き粉を乗せて、それを示す。
「……ん、ぁ」
 霧切さんは、無言で口を開いて此方に向けた。

 口腔に、そっとブラシを挿し入れる。
 口の中はデリケートだ、乱暴にして傷つけたくはない。
 そっと添えるように、左の奥歯にブラシをあてがった。
 カチ、と、硬い歯にプラスチックが触れる手触り。
 前後に動かすと、それに合わせて彼女の頬肉が膨らむ。

「…ど、どう?」
「ん…懐かしい、感じ…少し…くひゅぐった、…くすぐったい、かも」
 話す間も歯ブラシを動かすので、呂律が回っていない感がある。

 でも、懐かしい感じ、というのは、わからないでもない。
 昔はみんな誰だって、自分の親にこうして歯を磨いてもらったはずなのだ。

 霧切さんだって、きっとそうだろう。
 お父さん、もとい学園長とは仲が悪いみたいだし、お母さんは亡くなっているって聞いたけれど。
 彼女にもきっと、そういう淡く輝く思い出はあったはずなんだ。
 例え彼女が、今をどれほど暗いものとして見ていたとしても。
 過去の温かな思い出は、きっと色褪せない。

 心地よさそうに、霧切さんは少しだけ目を伏せる。
 さっきまでの緊張が嘘のように、僕は落ち着いてしまっていた。
 相手の歯を磨く、という行為が、とても尊い行いのようにさえ思えた。
 そういえば僕も、昔は妹の歯磨きを、こうして手伝ってやっていたっけ。


 そうやって感慨に耽っていられたも、時間にしてほんの僅かだった。


 反対側の歯を磨こうと、口の中で歯ブラシを捻った、その拍子。

「ん、えぁ…っ…!」

 ビクン、と、霧切さんが震えた。

「え、…?」
 一瞬、ほんの一瞬だけ、毛先が舌を掠めただけのはずだったのに。
 霧切さんも、自分で自分の反応に驚いている。
 薄く閉じかけていた目を見開き、その視線が僕を捕らえた。

 …酷く嗜虐的な感覚が、むくりと胸の底で起き上がる。

「ふ、むっ…ん、ぅ!?」
 さっきよりも少しだけ乱暴に、彼女の歯肉を擦る。
 やわらかい毛先に、細かな振動。
 変化は目に見えて表れた。
 歯ブラシの動きに合わせて、それから逃げるように、霧切さんが首を動かすのだ。

 あのアニメで言っていたことも頷ける。
 口の中は粘膜、酷く敏感な部位なのだ、と。
 大人のキスをするだけで足腰が立たなくなる、なんて人もいるらしい。

「…気持ち、いいの?」
 尋ねながらも、歯ブラシを動かす手は止めない。
「ふぁ、む、…えぅ、っ…! …あ、ふ」
 僕の問いに答えたくないのか、それとも答えられないのか。
 閉じた口の端から洩れる息が、心なしか甘い響きを帯びている。

 舌が一番敏感なのかと思ったが、彼女の反応は口蓋を擽った時に、より顕著なものになった。

「は、ひゅっ……!!」
 大袈裟なまでに、霧切さんが身を縮込ませた。
 口腔の天井、そこが一番敏感らしい。
 おそらくは反射だろう、歯ブラシを咥えこんだまま、霧切さんはその柄を噛みしめた。
 歯ブラシが動かせなくなる。
 ので、上下に揺らして、そのまま口蓋をつつく。

「…っ、~~~~!!」
 僕の目を見ながら、ブルブルと顔を震わせる霧切さん。
 うっすらと瞳が潤んでいる。
 手はスカートの裾を力強く握りしめている。

 胸の底で首をもたげた嗜虐心が、いっそういきり立った。



 逃げようとする霧切さんの腕を握り、壁に押し付ける。
 壁を背に、逃げ場を失った霧切さんが、いよいよ口を開く。

「にゃえ、ぎ、くゅ、……らめ、止め……へ、ひぅっ!」
 口を開いたので自由になった歯ブラシで、舌の裏側を擦る。
 歯ブラシの刺激から逃れようと、狭い口腔内で舌が暴れ、その都度そこに毛先を押し付ける。
「ごめんね、なんて言ってるか聞き取れなかった」
「えぅ、へぅう」

 次第に抵抗が無駄なのだと理解したのか、舌が逃げるのを止めた。
「はぁ、あ…」
 歯を擦る音と共に、甘い吐息が口から洩れる。
 僕も、だいぶ浮かされている。
 歯を磨くはずなのに、隙を見ては舌を掠り、口蓋を突き。
 その度に鋭敏な反応を示している霧切さんが可愛くて、色っぽくて、我を忘れた。
 まるで熱に浮かされているかのように夢中になり、


 気づけば、十分ほども経過していた。


「……」
「……」
 もう霧切さんは反応を示さなくなっていた。
 抵抗すらもせず、涙を浮かべた目で僕を見ているだけ。

 ゆっくり、口の中から歯ブラシを引きぬいた。
 銀糸が唇から伝う。
 熱で蕩けたような目で、霧切さんはしばらく虚空を見つめていた。

「…霧切さん、終わったよ」
「ん…」
 僕の声に、気だるそうに身体を起こす。
 少しの間肩を上下させて、それからおもむろに立ち上がる。
 つん、と、自分の頬を突いてみせた。うがいをしてくる、という合図だろう。
 パタパタと部屋用のサンダルを鳴らして、彼女は扉の向こうに消える。

 部屋に残されたのは、僕と静寂。そして罪悪感。

 思わず顔を覆った。
 なんてことを。
 ケダモノじゃないんだから。


『貴方が一番信頼できるからよ』
 霧切さんの声がリフレインする。
 あの汚れを知らない声を、僕が怪我してしまったのかと思うと、


「…三つ、わかったことがあるわ」

 ガバ、と、顔を起こす。
 いつの間にか霧切さんが戻ってきていた。

 口をゆすいできたのだろう、表情はどこかすっきりしている。
 さっきまでの蕩けた様な顔ではなく、どこか冷たさを感じさせる、いつもの霧切さんの無表情。
 けれども、これでも一応付き合いは長い方だ。
 無表情の中に宿る彼女の感情に気づける程度には、僕は霧切さんを知ってしまっている。

「一つ、他人に歯磨きをされるというのがどういうことなのか」
「あの、待って霧切さん、ゴメン」
 怒っていないというのは、その表情でわかった。
 いやむしろ、怒っていた方が幾分かマシだ。

「二つ、苗木君もやはり男の子だということ」
「なんでもするから、ねえ、先ずその手を降ろしてくれないかな」
 ビシ、と、此方に突き付けられた彼女の右手。
 そこに握られている物を見て、思わず絶句する。

「そして、三つ…そういう私も、やはり年頃の女の子だったということよ」

 無表情、けれどいつになく饒舌な霧切さん。
 聞かずともわかる、少しだけ彼女は興奮しているのだ。
 謎を見つけた、無邪気な子供のように。

 しかし無邪気さは時として、残酷さを併せ持つ。
 つまり、まあ、どういうことかというと、

 彼女の手には、僕の歯ブラシが握られていたのだ。

「…謎の解明は終わったわ。此処からは完全に私の趣味の領域だから、無理に付き合わなくてもいいわよ」
「え、あ、それじゃ…」
「さっき私にしてくれたことに、貴方が何にも感じ入る所がないというなら、の話だけど」

 言外に逃げ道を塞いで、霧切さんが詰め寄ってくる。
 自業自得だ、因果応報だ、わかっていても。
 変わり者の彼女に、今日も僕は振り回されるのである。

 個人的には、仕返しとばかりに二度目の歯磨きをされてしまったことよりも、
『男の子のくせに、可愛い声をあげるわね』
 したり顔の霧切さんが最後に言い捨てた言葉の方が、僕にとっての良い戒めとなったのだった。
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