大人ナエギリ 夏の風物詩編【梅雨は長雨、空川青く澄み、若鮎も踊る】

 ぽちょ、と間の抜けた音を立てて、水面が跳ねる。

 竿の先が微かに曲がって、咄嗟に手首を引くけれども、重みは無い。
 水滴を滴らせて帰って来た釣り針からは、綺麗に餌が抜き取られていた。

「ああ、もう、惜しい…」
 背からのんきな声が響く。
 釣竿を携えていない彼女との距離は、三間半ほどもある。

 蒸しに蒸した事務所に籠る毎日に、どうにかなってしまいそうな梅雨の浅夏。
 避暑を兼ねて、と、渓流のデートを提案したのは彼女の方からだった。
 「デート」という見事な言葉の撒き餌に誘われて、必死に車を飛ばして三時間半。

 砂利道を転がして、山麓に入る少し手前に、その大自然は佇んでいる。

 岩間に流れる水の瀬、澄んだ沢の音、加えて木陰は、そよぐ風のなんと涼やかな。
 肌に触れる水気も、梅雨のジトやかな湿気とは大違いだ。

 早速散策にでも繰り出そうとしていた僕に、そんな間もなく霧切さんが差し出したのは、

『……何これ』
『この辺り、絶好の鮎釣りのポイントらしいのよ』
 いつの間に詰み込んだのか、トランクにはクーラーボックスや、愛用の野外用調理セット、着火剤。
 呆然とする僕に、長竿を腕に押し付けて、

『虫が苦手な貴方のために、ちゃんと練り餌も用意したわ』
 感謝していいのよ、とでも言わんばかりにドヤ顔。
 ああ、そう、そういう彼女だった。
 色気よりも食い気、花より団子。涼やかな渓流より、旬の若鮎なのである。


 はあ、と溜息一つ零して、新たに餌を針につけ、振る竿も心なしか投げやりになる。
 別に、釣りが詰まらないとは言わないけれど。
 彼女は僕の背で、お気に入りのブックカバーに推理小説を挟んで、時々此方に声を掛けるくらいだ。

 こんなの、一人で来るのと変わらないじゃないか。
 デートだなんて言葉に見事に釣られたのは僕の方で、要は取れたての旬の食材が食べたかったんだろう。

 と、ぽちゃ、と、また水面が跳ねた。
 さっきよりも微かに軽い音、ほぼ反射で手首を引く。
 今度は上手くかかったようで、ぱしゃぱしゃと水面を跳ねるそれを、ゆっくり手繰り寄せる。

「…ふぃーっしゅ」
「何それ」
「釣れた時に言う掛け声…だそうよ」

 誰から吹きこまれたんだ。

 針を外して、川の水を汲んだバケツの中に放つ。
 ひょい、と、中を覗き込む霧切さん。

「……鮎かしら」
「ヤマメだね」

 やや大きめの体に、黒渕の背、尖った嘴。一見すると、小さめの鮭だ。
 この季節でも、まだ泳いでいるのか。
 ひょっとすると、若鮎が泳ぎに来る時期じゃなかったのかもしれない。

「…鮎じゃないのね」

 心なしか気落ちしたように見える彼女を背に、再び竿を振る。

「ヤマメも美味しいよ? なんたって、『渓流の女王』だからね」
「…まあ、貴方が作るんだから、私はどちらでもいいんだけど」

 もう一時間ほど粘って、釣れたのは十匹前後。鮎釣りの名所という割には、全部ヤマメだ。
 それでも釣り堀というワケでもないのに、天然の川でこれは、大漁と言っていいだろう。

 早速七輪に火を起こして、内臓を処理したヤマメに串を打つ。
 食塩をまんべんなくまぶし、ヒレには飾り塩。
 新鮮なヤマメなら刺し身もありかもしれないけれど、定番はやっぱり塩焼きだろう。
 パタパタと団扇で煽ぐと、香ばしい匂いが煙とともに立ち昇る。

 皮が少し焦げて、箸で押すとパリ、と崩れるほどになれば、ちょうどいい加減だ。
 皿に乗せて、切ったレモンを添える。柚子や酢橘なんてあれば最高だったけど、風味を味わうには十分。

「…もう、いいの?」
 既に捕食モードと化した霧切さんが、焦らされた猫のような目で串を取る。
 どうぞ、と手で促して、僕は他のヤマメの処理に取りかかった。

 これだけ釣れたなら、全部同じ食べ方をするのは、ちょっと勿体ない。
 数匹は家に持って帰って、甘露煮にしよう。小ぶりのモノは、炙ってから熱燗に入れて、骨酒にするのもいいかもしれない。
 霧切さんも、きっと気に入ってくれると思う。

 と、ふと、霧切さんが此方をじっと見ているのに気づく。

「な、何? …なんか変だった?」
「いえ、美味しいわ。……また料理のこと考えてるな、って」
「な、何でわかるの…?」
「貴方、笑ってたもの」

 ふふ、と笑む霧切さん。ハッとして、頬に手をやる。

「釣りをしている間、ずっと小難しそうな顔してたから……ようやく笑った、と思ったの」
「そ、そんな、別に…」

 そりゃ確かに、デートってこんなものか、と不貞腐れてはいたけれど。

「…一応デートなんだから、もう少し…上辺だけでも楽しそうにして欲しいのだけど」

 声が少しだけ丸くなって、唇が尖る。
 ちょっと拗ねている時の、彼女の仕草だ。

「……ゴメン」
「謝るってことは、楽しくなかったって認めるってことよ」
「や、えと、そういうワケじゃないんだ」

「つまらなそうに見えていたならゴメン、って意味。釣れたての魚を調理するのは、僕も楽しいよ」
「……」

 そうでしょう、とでも言いたげに、満足げに笑んで、彼女はまたヤマメにかぶりつく。
 もしかして彼女なりに、料理趣味の僕が楽しめそうなプランを考えてくれていたのだろうか。

 ……幸せそうに焼き立ての魚を頬張る表情からは、何も読み取れない。

 まあ、そうだよな、と独りごちる。
 彼女にとっては、こういう形のがデートらしいデートなんだろう。
 僕がちょっと色気に浅ましく期待しすぎていたんだ。 

 と、つと、彼女が食べさしのヤマメを、僕の口元にさし出す。

「……何?」
「釣れるかな、と思って」

 ふりふりと、目の前で魚を揺らす。
 まだ湯気の立つ白身は、そりゃあ美味しそうだけど。

「えーと…」
「…ああ、じゃあ、もっと色気のある言い方をしましょうか」

 沢の石を踏みならして、隣に寄り添う。
 肩と肩を押し比べるようにして、

「あーん」

 してやったり、と笑む。
 食べなさい、と。こういうことでしょう、と。

 何が悔しいかって、僕がそういう甘甘しい雰囲気を望んでいたことを、彼女が分かってしまっているということだ。
 承知した上で、僕をからかうために、あえて彼女はそれに乗ったのだろう。

「あら…こういうのはお気に召さないかしら?」
 にやにや、にやにや。底意地の悪い笑みだ、本当に。

「……いただき、ます」
 はく、と食むと、ほんのわずかな苦みとともに、魚の風味が口の中でほろほろと解ける。
 釣れ立てたその場で作ったからこその美味しさだろう、これは。

「分かりやすい男の子で助かるわ」

 曰く、『好きな事を考えている時の僕』は、相当分かりやすいそうだ。
 どうも今日は、彼女に主導権を握られてばかりで悔しい。
 ので、ちょっとだけ反撃。

「……分かりやすくて悪かったね」
「いいのよ、それも貴方の、」
「考えてたのは、料理じゃなくて霧切さんのことだけど」

 さりげに言いつつ、彼女の手から串を奪い取る。
 数瞬して、耳を赤く染めた彼女に、今度は僕がしたり顔で微笑む番だった。


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