大人ナエギリ 夏の風物詩編【盛夏は酷暑、蝉の声茂り、一雨を乞う】

 み゛ぃいいん、と、頭痛さえ覚えるほどの蝉時雨が、暑さをいっそう追い立てる。
 部屋の窓を全て開け、余計な家電のコンセントを抜いて、気休めに風鈴を吊るしても、半刻もすればシャツの色は汗で変わってしまった。

 冷蔵庫から水出しの麦茶を取り出し、冷やしておいたグラスになみなみと注ぐ。
 氷がカランカランと涼しげに鳴って、すぐに露がグラスの表面に並ぶ。
 目立たないけれど、これも立派な夏の風物詩。

 二人分をトレーに載せて、彼女の待つベランダへ。

「……どうしてこの家にはエアコンどころか、扇風機すらないのよ…」

 チェアに体を丸ごと投げ出して、顔をうつむけたまま。
 三十分ほど前に訪れてから同じポーズで、霧切さんは不機嫌そうな声をぶつけてくる。
 露出の激しい黒のタンクトップとブルーのホットパンツ姿は、汗で蒸れて、下手をすると下着姿よりも下着姿だ。

「僕が嫌いだから。夏は暑い方がいいじゃない」
「…今日の天気予報、見た? 猛暑日よ、湿度80%よ。貴方、熱中症を甘く見ているんじゃない?」

 いつも不機嫌な時はだんまりで、目線や無言で訴えてくる霧切さん。
 それを隠さず、むしろ饒舌になるというのは、かなり新鮮だ。
 恐るべし、真夏日。

 とりあえず、汗で多少よれたハーフパンツの、その露出された部分に、キンキンに冷えたグラスを押し付けてみる。

「…っひ、!?」

 ビクン、と、それまでの緩慢な調子からは大きく外れて、活ける魚みたいに、ビクビク、と大きく跳ねた。
 跳ねたは跳ねたけど、相変わらずチェアに投げ出された肢体は動かず。
 せいぜい顔を挙げ、視線で僕に不満を訴えるくらいだ。

「……セクハラ」
「男の家でそういう格好でくつろぐのはセクハラって言わないの?」
「私からするのはいいのよ。貴方からするのはセクハラ」
「理不尽…」

 彼女の手の届くところにテーブルを寄せ、そこにグラスを置く。
 のどが渇けば、自分から手を伸ばして取るだろう。……ペットじゃないんだから。

「暑いのが嫌なら、なんで僕の家に来るのさ」
「……貴方がいるからよ」
「…別に呼んでくれれば、こっちから行くのに」
「分かってないわね…私が行くのと貴方が来るのも、大きく違うの」

 彼女の感覚は未だに測りかねる。
 ちょっとズレているというか、少なくとも僕には分からない基準を、幾つも持っているのだ。

 それにしても、確かに今日の暑さはちょっと参る。
 気温はどれほど高くても我慢できるけれど、問題はこの肌にまとわりつくような湿気。
 昨日から降り通していた雨のせいだ。

 暑さに強い、と自覚はあるけれど、そんな僕でも「少し」キツイのだ。
 チェアで伸びている彼女は、その数倍だろう。

 ふと、その背に散らばっている銀の髪に目が行った。
 ただでさえ長いのに、そのうえ湿気を吸って、なんとなく重そうな印象を受ける。
 それが肩から腰に掛けてだらりと広がっているのだから、そりゃあ暑さも三割増しだろう。

 ふと思い至り、その長髪に手を伸ばしてみた。
 指で梳くと、それでも絹のように滑らかに通る。

 と、今度は驚いたように、それまでの緩慢な所作とは打って変わって彼女が飛び起きる。

「な、…何?」
「ううん、別に」
「……そう」

 と言いつつも、部屋に戻り、棚の小箱から取り出すのはヘアピンと、髪留のゴム。
 怪訝そうに首を傾げる彼女の背に回り、広がる銀髪を指で束ねた。

「ちょっと、苗木君……やだ…」

 首を傾げて逃れようとする肩を、それでも力がないのは暑さのせいか、軽く引くと大人しく椅子の中に納まった。
 ヘアピンで長さを整えてから、ゴムを二重にして縛る。
 首筋にも風が通るように角度を調節して、余った横側の髪は前に垂らす。

「…霧切さん、うなじ綺麗だね」
「あの、苗木君…髪は、ホントに……汗臭いし、」
「でも、涼しいでしょ?」
「それは、……マシにはなったけれど、それでも、」
「あ、ゴムとヘアピン僕のだけど、我慢してね」
「……」

 ぴたりと文句の止んだ背中越しに、既に氷の解けきった麦茶を渡す。

「ほら、熱中症防止には水分補給、でしょ」

 渡すと、膝を抱えたまま、両手でグラスを持って、くぴくぴと控えめに飲む。
 大吟醸を一気飲みするあの霧切さんが、まるで借りて来た猫だ。


 切ればいいのに、とは言わない。
 彼女の綺麗な、本当に絹のような銀髪は、あの学園にいた頃から変わらない、彼女のトレードマークだ。
 だからせめて、そんな借り猫霧切さんが涼しい夕げを過ごせるように。
 今晩は手軽に、うどんでも茹でようか。

 暑くて食欲のない日は、下手に手の加えない、シンプルなモノの方が美味しいのだ。
 たっぷりの湯で茹でて、氷水で一気に冷やして麺を洗いしめる。
 麺つゆは市販のもので十分。水じゃなくて、氷をそのまま入れて、冷やしながら希釈する。
 薬味は豪華に、おろし生姜にミョウガに長ネギ、変わり種にとろろや大根おろしなんて添えても美味しそうだ。

 冷蔵庫を探る間も、霧切さんはベランダで変わらず膝を抱えていた。
 ずっと手を添えていたところを見ると、男物のヘアピンだけど、気に入ってくれたのだろうか。


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