大人ナエギリ 夏の風物詩編【晩夏は残炎、朝夕涼味に、恋を歌う虫の声】

「……意外な特技もあったものね」

 相変わらず正面から褒めてはくれない彼女の、それでも目線が称賛してくれているのを感じた。
 頬が赤くなりそうなのを、暗みが隠してくれているように願いながら、篠笛に沿える指を止める。

「特技っていうか…日本なら音楽の授業で、こういうの習うからさ」
「それにしても、よ。初見の楽器でしょう?」
「要領は同じだよ」

 指を孔に添えて、歌口から息を吹き込めば、相応の音が響く。
 強く吹けば掠れて響くし、弱く吹けば優しく鳴る。そういうものだ。
 音階は一通り覚えたので、うろ覚えに楽譜を弾いてみる。

 この篠笛も、例によって霧切さんの遊び買いだ。
 商店街のちっぽけな縁日で、露店に並んでいたらしい。
 本格的なものではなく、イメージとしては百均のオカリナなんかと同じようなものだろう。

 漆塗りの竹に、水の中を跳ねるように泳ぐ、一対の金魚が彫られている。
 彼女の遊び買うものは、こういうちょっと粋な趣向が凝らされていることが多い。

「それにしても、ちょっと悔しいわ」

 カラン、と、ロックアイスの入った氷を傾けて、虚ろ目で月を見上げる。
 お気に入りの芋焼酎のお供には、冷ややっこに酒盗を乗せただけのシンプルなもの。
 完全に親爺趣味だね、と突っ込むと、問答無用でローキックが入った。酔っていた分加減がないので、ちょっとまだ足首が痺れている。

「私が吹いた時には、かすりとも音は鳴らなかったのに」
「…霧切さん、この笛吹いたの?」
「…私から仕掛けるのは、セクハラとは言わないのよ」

 ニヤニヤと僕を見返している、酔って赤くなった蕩け顔。
 月を背にしているのは僕の方なので、向かい合う彼女の銀髪が燐光を反射して、まるで幽霊みたいに綺麗な微笑で。

「今更そういうのを意識する仲じゃないでしょう? 何度箸を重ねたと思ってるの」
「う、や、そうだけど…改めて言われると意識しちゃうっていうか…」
「ああ、それにしても良い夜ね。笛の音が合うわ」

 と、いじめっ子の笑みで、もっと吹くように言外に催促してくる。
 手遅れだと分かっているけど、あえて気付かないフリで、僕はまた篠笛の歌口に唇を落とした。

 でも、確かに良い夜だ。
 月影が雲を淡い黄金色に透かして、音もない夜風が、昼間の暑さをゆっくりと冷ましていく。
 夜陰から響く虫の音も、いっそうの涼味。

「夜笛は蛇を呼ぶ、っていうんだけど」
「あら、無粋な言葉を考えた人もいるものね」

 歌うように言った彼女の顔に、ふ、と陰が掛かる。
 振り返れば、月の輪郭がまるっと雲に隠れていた。朧、というやつだろう。

 自然と、指弾く音符も決まってくる。

「……なのはーなばたけーに、いーりーひうすれー」

 と、口ずさむ、鈴の音のような澄んだ声。
 驚いて、途端に指を止める。
 彼女が僕の弾いた曲に合わせて、歌を乗せたのだ。
 蕩けたままの目が、怪訝そうに僕を見る。

「……霧切さん、」
「…何よ。私が日本の歌を知ってるのが、そんなに可笑しいのかしら?」
「いや、……すごく、上手いんだね」

 カンマ置いて、再び月明かりが差す。
 ぽ、と、酒で酔うのとは別の紅が、彼女の頬を染めていた。

「初めて聞いたよ、霧切さんが歌ってるの」
「そ、んなこと、ないでしょう…というか、どうでもいいじゃない」

 僕は例えば、掃除や料理の片手間に、聞き馴染んだポップを口ずさむことはあるけれど。
 考えてみれば、そういうクセのない人だった。
 学園では音楽の授業は別クラスだったし、コレは絶対彼女には言えないけど、僕は別の人の歌を聞いていたから。

 カラン、と、彼女の持っていたグラスの氷が揺れる。
 うっすらと琥珀に澄んだ液体が、月明かりを映して、ステンドグラスのようなものを机に描く。

「……ねえ、さっきの『無粋な言葉を~』って、どういう意味だったの?」
「……言わない」
「ねえ」
「…忘れて。酔っていると、柄にもない恥ずかしいことが口をついて出るのよ」
「恥ずかしくなんかないってば。言ってみて」
「……笑わない?」
「笑わないから」

 グラスを持った手を額に当てて、目を伏せる。
 どれだけ恥ずかしそうなそぶりを見せても、飲んでいる時の霧切さんは、いつもよりも心のガードがゆるいので、本音を見せてくれるのだ。
 数瞬待つついでに、その手のグラスをそっと貰う。

 笑わないよ、と、念を押す。

 口をつけて飲めば、アルコールの辛さと独特な風味の中に、うっすらと涼しい甘み。
 僕の飲む様をじっと見つめながら、夢に浮かされたような霧切さん。

「……鈴虫なんかは、夜に歌うでしょう」
「…うん?」

 そんな詩的な言葉が、まさか彼女の口から返ってくるとは思えなくて、数瞬頭の中で反芻する。
 意味を解して目線を戻せば、じっと疑う視線を向けていた。
 人里に降りて来た猫みたいな仕草だったので、可愛くて、吹きそうになるのを必死にこらえる。笑いません。

「昔の人たちだって、夜に集って楽器を弾いたり、歌を歌ったりしたでしょう」
「……そうだね」
「歌は、夜の方が映えるのよ」

 ロマンチックでしょう、と、自嘲気味に唇を尖らせたまま、グラスを奪い返された。

「虫も人も、夜中に集って、愛しい人への思いを歌うんだね」
「……」

 恥ずかしい言葉には、同じく恥ずかしい言葉で返す。
 こういう良い夜には、むしろちょっと歯が浮くほどがちょうどいい。
 ぶっきらぼうに突き出された照れ隠しのグラスに、黙って芋焼酎を注ぐ。

 ロマンチックだね、と、返すと、鼻を鳴らして拗ねてしまった。
 机の下で、彼女の足が僕の足を踏む。ちょっと痛い。

「…ねえ、夜に歌うのが恋の歌ならさ。さっきの歌も、」
「それは…分からないわ」

 流石に、こじつけだろうか。

 歌詞それ自体は、とても単純で、そして深い情景を歌ったものだ。
 夕月夜に風薫る風景。
 たった数節で、その美しさを歌った歌。

「例えば、歌自体にその意味がなくても…」

 けれど。
 そうであってほしい、と思うのは、こんな夜だからか。

「演奏する人が、そういう思いを込めて吹いたなら…それを聞く人が、そういう思いを乗せて聞いたなら」
「苗木君…」
「それはもう、恋を歌っているってことには、ならないかな」

 りぃん、りぃん、と、羽が鳴っている。

 どうも、僕も酔ってしまったみたいだ。
 いつもよりも恥ずかしい言葉が、どうにもぽろぽろと零れてしまう。
 ああ、また顔が熱くなる。もう夏も過ぎるというのに。朧月夜で、本当に良かった。

「……もう一度、弾いてくれないかしら」

 再三、月明かりが雲で陰る。
 互いの顔が見えない暗みで、鈴の音のような声が響いた。

「……霧切さんが歌ってくれるなら、いいよ」

 篠笛に添えた指が、心なしか震える。
 りぃん、と、急かすように、草藪の隙間で歌う鈴虫。
 負けないように、と、息を吸う。

 良い夜だ。
 とても澄んだ夜だ。
 鈴虫の声も、篠笛の音も、月明かりも、それを映すグラスの焼酎も、歌う声も。

「さながーらーかすめーる、おーぼーろづき…よ……、…」


 少し緊張で張った鈴の音に耳を傾け、その日は晩酌を終えた。


ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。