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 壁ドン、と呼ばれるシチュエーションがあるらしい。

 意中の異性を壁に押し付けて、腕で横への退路を塞ぎ、自分と壁とでサンドイッチにするような構図だ。
 挟まれる方が、基本的には言い寄られる方。
 押し付ける方は、所謂『俺様系』と呼ばれる主人公か、パニックになったヒロインと相場が決まっているらしい。
 山田君の言だ。

 一歩間違えば脅迫にも見えてしまう、それを。
 なぜか今、僕と霧切さんがちょうど実践している。

「……」
「……」

 怖いのに見惚れるという経験をしたことがある人は、あまりいないのではないだろうか。
 綺麗な女の人の幽霊とか、雪山の頂上から断崖絶壁を覗き見るのに、それは似ていた。
 ぞくり、と背筋を這う冷たい感覚。
 それでも僕は、霧切さんから目を逸らせない。

 壁の隅に追い詰められた僕に、身長差が悲しいかな、覆いかぶさるようにして、彼女は追い詰めてくる。

 瞬き一つせず、その両目が僕を見下ろしている。
 見上げる此方側からは陰になっているはずなのに、その奥が深く深く、すみれ色に光っているように見える。

 じとり。

 粘っこさは感じない。むしろ、重苦しさ。
 すみれ色の燐光が、すらりとした鼻立ちが、色素の薄い唇が、圧し掛かってくる。
 人形のように整った顔立ちが、表情一つ変えず。

 お気に入りらしい男物の香水に紛れて、煮詰めた花のような、濃い彼女の匂いを感じる。

 どくん、と、心臓が跳ねる。
 声を出そうとも掠れる喉に代わって、煩いくらいに跳ねている。


「……、苗木君」

 霧切さんは、下着姿だ。

「…心拍数が上がっているわ」

 霧切さんの素の腕が、手のひらが、指が、僕の手首を握った。
 驚くほど冷たくて、更に心臓が跳ねる。

 色気よりも、いや失礼な話だけど、先に来たのは不安だった。
 そりゃあ僕も男だし、下着姿の女性に迫られて何も感じないわけが無い。
 今までずっと側にいて、今でもよく分からないところはあるけれど、それでも彼女のことを真剣に想っている。

 その人の、一糸纏わぬ、とまではいかなくとも。
 絹のような素肌、せいぜい暗がりか、共に潜った修羅場でしか見たことのなかった、柔肌を。
 それでも、目の当たりにして平常心でいることが出来るのは、彼女といることで幾分か精神的に鍛えられたからだろう。

 けれど。
 理性を保つことはできても、不安を消すことはできなかった。


「私を見て……何を、考えているの…?」

 僕の知っている霧切さんは、こんなことをする人じゃないからだ。


 何かの罠か、目の前にいる霧切さんが偽物か、と勘繰って、止める。
 目の前にいるのは確かに霧切さんで、どこからどう見ても正気を保っているし、彼女の意思で僕を壁に追い詰めているのだ。
 その程度が分からないほど、短い付き合いじゃない。

 「そんなことをするような人じゃない」とはいっても、奇行に走るのはこれが初めてじゃない。
 だからある意味、これは通常運転と言える。

 そして、だからこそ不安なのだ。
 こうして僕に迫ってくる霧切さんの行為は、異常ではなく、正常。
 つまり、彼女が俺様系になったわけでも、何かしらに混乱しているわけでもない。

 それ以外の理由がある、ということだ。

「……ねえ」

 僕の手首をつかんだ彼女の指が、それをゆっくりと持ち上げる。
 警戒心の割に、自然かつ緩慢な動きに、抵抗する気は不思議と起きないものだった。

 視線を微塵も動かさず、僕の腕を空中で固定する。
 そしてそのまま、同じ緩慢な動きで、彼女は一歩此方に踏み出した。

 ふ、と、指の先に生地が触れる。

「―――…っ」
「私は、尋ねているのよ…苗木君?」

 指先に、全神経が集まった。

 ぐっ、と、更に彼女は僕との距離を詰める。
 唇が額の先にある。生温かい声音と吐息が、溶かすように降ってくる。

 その、鼻先三寸にある彼女の柔らかそうな唇よりも。
 僕の意識は、自分の指の先に向かっていた。

「きり、霧切さん、胸…当たっ……」

 どうにか掠れながらも出した、どうしようもない、ただの状況説明の言葉。
 息を吸おうとして、ひぃ、と、情けない音が鳴った。
 顔が熱い。きっと、真っ赤で、真っ青だ。

 余程滑稽だったのか、ようやく霧切さんが表情を崩した。
 時折見せる笑みの、それをほんの少しだけ、妖艶にして、また僕を覗き込む。

「当てているのよ…って、言ったらどうする…?」

 どうするも、こうするも。

「あの……そろそろ、その…状況というか、意図を説明して、欲しいんだけど…」
「…悪い男ね、苗木君」

 月並みな言葉を零した僕に、また霧切さんが笑った。
 今日の彼女は、よく笑う。
 きっと機嫌が悪いのだろう。

 目の前にあった柔らかそうな唇が、ずるりと動く。
 顔を舐めるような距離で、それはそのまま、僕の左耳に。

 はぁ、と、生温かい風が、耳穴の中で木霊。

「女の口から、そういうことを言わせたいのかしら…?」

 ぶるり、と、生理的に震えた。
 わざと吐息を多くした囁き。
 乗り出した分、彼女の身体はいっそう近くに這い寄ってくる。

 ぐ、と、両足の間に、力強く膝を挟んでくる。

「……こうして妄りに、男の人の前で服をはだけて…迫ってきている女が」

 這い寄ってきた分、その肢体が。

「何を意図しているか、だなんて……言わなくても、分かっているのでしょう?」

 柔らかな、
 生地との隙間の、
 触れる寸前、
 彼女の体温、


「ねえ、苗木君…?」


 少しだけ強く、胸に押し込まれる指。
 ふわり、と、マシュマロに這わせているような心地。
 反発は全くない。
 これを思うままに揉みしだくことが出来れば、どれほど快感だろうか。
 大きくはない、けれどけっして小さくもない、彼女が女性であるということをこれ以上無しに伝えてくる、その膨らみ。


 掴まれていない方の手が、勝手に持ちあがった。

「霧切さん、」

 その、細すぎる肩に、少し曲げた指を添える。





「……ホントに僕が襲いかかったらどうするつもりなの?」

 言って、その肩を軽く押して、僕との距離を開かせた。



「…合格ね」

 彼女の笑みの中から、妖艶なものが消える。
 いつもの笑みだ。
 僕を小馬鹿にするような、少しだけ口端を上げるだけの。

「……まあ、どうせそういう類のことだろうと思ってたけど」
「前もって教えてしまっては、テストにならないでしょう」

 なんのてらいもなく、下着姿のまま腕を組む。いつもの所作の霧切さんだ。
 とりあえず手近なタオルケットをひっつかんで、僕はその肩に掛けた。

「…紳士ね、相変わらず」

 彼女流の御礼の言葉、らしい。

「…根性無し、って言われてる気がする」
「あら、それは邪推よ」
「紳士って言うか…女の子は身体冷やしちゃダメでしょ。それにもう冬だし」
「それもあるけど、それだけじゃなくて」

 タオルケットを羽織りながら、それでも見えるものは見えるのに、少しも恥ずかしそうな素振りを見せない。
 いっそすがすがしい、こっちの方が気恥ずかしくなってしまうほどだ。


「……それとも、私じゃやっぱり役者不足だったかしら」

 少しだけ目を伏せた彼女の表情は読み取れず、どんな言葉を待っているのかも分からない。


「…何の役だか知らないけど、これ以上ない名演技だったと思うよ」
「あら、そう? なら、単純に貴方が、据え膳に手を付けないような人ってことね」
「武士の恥ってことですか」
「そこまでいくと、時代錯誤よ」
「…否定はしてくれないんだ」

 ハニートラップ。

 彼女の言葉を借りるとするなら、僕がそれにかかるかどうかのテスト、ということなのだろう。
 情報が根幹を為す職業で、そういう弱みを持っているということは致命的だ。

「ただでさえ貴方、普段から女の子相手には弱いでしょう。舞園さん然り、セレスさん然り、江ノ島さん、朝日奈さん、」
「ベ、別に弱いってことはないと思うけど」
「頼み事をされたら二つ返事で返しているじゃない、いつも」

 少しだけ、声が張る。ご機嫌斜めの合図だ。
 別にそれで彼女に迷惑をかけたことなんて、…ないはずだ、あまり。

「さすがに…仕事と私事の区別はするよ、いくらなんでも」
「…どうかしら」
「……信じてくれないんだ」
「探偵の仕事は『疑う』ことよ」
「…さっき僕が尋ねたことには、答えてくれないの?」
「……なんのこと?」
「本当に僕が、霧切さんに手を出したら。どうするつもりだったの、って」
「……、…」

 言葉を厭うようにして、彼女はそのまま僕に背を向けた。
 相手を言葉で追い詰めるのはお手の物。
 けれど、自分が責められるのはビックリするほど苦手。
 両刃の刃だ。
 とても危うくて、そんな彼女を放っておくことが出来なかったから、そういえば。
 あの学園を出た後も、こうして彼女の隣にいる決断をしたんだっけ。

 不器用な人だ、本当に。

 これが彼女の平常運転なのだ。
 ハニートラップだなんて、きっと建前に過ぎないのだろう。
 鈍いと言われている僕でも、流石にずっと隣にいる人の考えていることは分かる。

「頭良いのに、この手のことは僕よりも下手なんだもんなぁ」
「…何のことかしら」
「攻めに見せかけた守りなんでしょ、っていう話」
「貴方が何のことを言っているのか、分からないわ」

 きゅ、と、羽織っているタオルケットの裾を掴む。
 やはり布一枚では寒いのか。

 とりあえず、部屋の隅から身体を脱出させる。
 それから僕の着ていたパーカーを、そのままタオルケットの上に被せた。

「……苗木君、」

 とん、と。
 視線を逸らしながら何かを言いかけた彼女の、その肩をおもむろに押す。
 不意を突かれたのか、それほど力を込めたわけじゃないのに、簡単に壁に背をつけた。

 彼女にされたように、両腕で退路を塞ぐと、珍しくうろたえる。
 あの、霧切さんが。

 胸の奥の辺りがくすぐったくなる。
 好きな女の子を虐めたい心理が、まさかこの年齢になってようやく理解できるとは。

「…こんなことして繋ぎとめなくても、霧切さんの側を離れたりしないよ」
「あの、」
「他の女の人にたなびいたりしない。僕には霧切さんがいるからね」
「待って、分かったわ…だから、その、近、」

 わざと吐息を多くして、耳元で囁く。
 ふるり、と震えた肩は、たぶん寒さのせいじゃない。

 犬が飼い主に似るという話は、聞いたことがある。
 長い時間を共に過ごすと、趣味思考がどんどん似通ってくるという。
 例に漏れず、僕と霧切さんも。

 どちらもやられっぱなしは嫌で、そして、責められると弱い。

「…ねえ、苗木君…勝手にテストしたことを」
「怒ってないよ」
「だったら、その……なぜ、私を追い詰めるのかしら」
「怒ってないけど、悲しいんだ。テストが必要なくらい、僕は信用されてないってことでしょ」

 言いながらも歯が浮く心地がする。
 普段の僕ならけっして言えない、思いつきもしない、気障ったらしい台詞だけど。
 それでも彼女の顔色を見る限り、効果は抜群のようだ。

「……謝るわ、誤解させてしまったこと…貴方を信用していないわけじゃなくて、でも、」
「ううん、いいよ。謝って欲しいわけじゃないし」
「それなら、」
「僕はただ、分かって欲しいだけだから。僕がどれだけ、霧切さんを、大切に思っているかを」

 ぐ、と、両足の間に膝を滑り込ませる。
 強い言葉で拒まれたら、きっと踏みとどまれたのだろうけれど。
 彼女はただ、恥ずかしそうに目を伏せるだけだった。

 下着姿で迫られて、そろそろ理性の方も限界だったんだ。
 建前はこのくらいにして、今夜くらいは草食動物を止めても、罰は当たらないはず。


「―――ねえ、霧切さん…壁ドンって、知ってる?」


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