『違、うよ』
考えずに、反射で喋る。
助けを求めるような彼女の声に圧されて、勝手に口が動いてしまった。
それでも、ならば何故、と、縋るような瞳がさらに問うてくる。
本当に、差し出そうだなんて考えていたわけじゃない。
出来ることなら僕だって、あの人に霧切さんを近づけたくはない。
でも、あの先輩に頼まれたのも本当だ。どうにかして霧切さんを連れて来い、と。
苗木、お前は霧切ちゃんの何なんだ。
守るとか考えてんなら、お門違いだぞ。
恋人でもなんでもねえんだろ、たかだか数年俺らより付き合い長いだけで、彼氏面すんなって。
お邪魔だよ、俺らにとっても、彼女にとっても。
誰を選ぶかなんて、霧切ちゃんが決めることで、お前が指図する権利なんてないだろ。
分かったな、絶対連れてこいよ。
どこかで否定したかった、僕が彼女を縛ってしまっているという事実。
僕が隣にいるせいで、僕が壁になってしまっているから、霧切さんは他の人と関わり合えないんだ、と。
それを真正面から言われて、断ることが出来なくなってしまった。
『……よくそれを、『頼まれた』なんて言えるわね』
『……』
冷やかな彼女の瞳が、責めるような色を帯びて、僕を睨む。
『お人好しなのも、それで貴方が割を食うのも結構だけど…それに私を巻き込まないで』
その時。
ごめん、と、いつものように素直に、反射的に謝れれば良かったんだ。
フォローしようだなんて、どうして考えてしまったんだろう。
『で、でも、その……霧切さん、ほら、仕事も出来るし、頭も良いし、大人っぽいし、それに』
『……』
『……美人だから。ウチの課で、結構人気あるんだよ。自分のことだから、気付かないかもしれないけど…だから』
そんな人に、僕が金魚のフンのようにいつまでもくっついていては、迷惑なんだ。
あの先輩に差し出そうとは絶対に思えないけれど、それも選択肢の一つとしてあってしかるべきだ。
忘年会に参加して、それが何かのきっかけになればいい。
『……いいのね、苗木君は』
『いい、って…?』
ぞわり、と寒気に震える。
彼女の表情は、モノクマが親の仇だと知った時のそれに、限りなく近かった。
殺気、敵意、その類のものを僕に向けて放っている。
『…酔いどれた私が、誰とも知らない男に介抱されて、そのまま持ち帰られて、……抱かれても。構わないのね』
『き、霧切さんは、そんな、酔ってるからって…油断するような人じゃな』
『苗木君』
『っ…』
殴られる、と思った。
彼女が僕の襟首をつかむ力が、いっそう強くなったのだ。
すみれ色の瞳が、据わっている。
力に訴えるような人じゃないけれど、それでも、そんな彼女のこんな表情は初めて見た。
『質問に、答えて』
それが嘆願だと、その時気付くことは出来なかった。
いつもなら、そこで怯えて、『そんなことない』と否定出来たのだろう。
彼女がどういう言葉を望んでいるかなんて、落ちついて考えれば分かったはずだ。
けれど、その時の僕の心には、先輩に言われた言葉がつっかえていた。
だから、
『…僕には、関係ないことだろ』
そんな、突き放すような冷たい言葉しか、選べなかったのだ。
『……霧切さんが、誰を選んでも、誰に選ばれても。僕がそれに干渉する権利なんて、ないでしょ…』
だって、僕たちは、恋人でも何でもない。
友人という括りですら、怪しいかもしれないのだ。
あの学園で共に過ごして来ただけの、ただのクラスメイト。
『霧切さんが嫌なら、拒めばいいし……そうじゃなかったとしたら、……好きにすればいい、と思う』
殴ってくれ、と思った。
いっそ、思いっきり、鋲のついたそのグローブで、痕が残るくらいに殴って欲しかった。
そんなことしか言えない自分を、他でもない自分が嫌悪した。
きっと霧切さんだって。
けれど。
『……そうね』
襟首を握っていた彼女の手は、ずるり、と力なく離れた。
す、と一瞬名残を惜しむかのように、僕の胸を伝って、そのままだらん、と地面に落ちる。
霧切さんが俯くと、膨れ上がっていたように感じた彼女の銀髪が、それに倣って肩から流れ落ちる。
前髪に隠されて、表情は見えない。
ただ、僕の胸を伝った腕が、指が、微かに震えていた。
『……関係のない、ことよね。私がおかしかったわ。変な事を言ってごめんなさい』
『…どの道、参加はしないわ』
『…わかった』
『苦手だから。大勢で騒ぐのも、男の人に口説かれるのも…』
そのまま僕に表情を見せずに、彼女は床に散らばった書類を拾い始めた。
手伝おうと身をかがめて、彼女がそれを拒んでいるのが分かった。
顔を背けるために、かがんだのだ。
ワイシャツ姿、意外と細い素の肩が、ただ黙々と書類を拾い続ける。
そうすることでしか自分を保てないのだ、と言われているようだった。
『……長々と手伝わせて、ごめんなさい。…明日早いのよね。もう帰って良いから』
『…でも』
『コーヒーは、自分で淹れるから…帰りなさい』
僕の淹れたコーヒーを、彼女が褒めてくれたことがある。
彼女の好みなんて知らないまま、勢いでコーヒー豆を買いに行って。
素人なりに味を試行錯誤して、ブレンドの比率を考えて、手ずから淹れた一杯だった。
それまで自分のお気に入りのコーヒーメーカーを絶対に他人に触らせなかった霧切さんが。
それ以降は必ず僕にコーヒーを作らせるようになった。
こちらの都合なんてお構いなしで、何かと残業や用事を作っては付き合わせ、その度にコーヒーを淹れさせる。
逆に僕の仕事が溜まっていると、手伝いもせず、隣の机でただじっとそれを見て待っている。
美味しかったの、と尋ねると、普通じゃないかしら、と返された。
貴方らしい平凡な味ね、と、いつものからかうような笑みで。
ならばなぜ、僕が淹れたコーヒーばかり飲むのか。
どうして君は、僕にばかり構うのか。
他の人には聞かせないような笑い声や、無茶振りや、怒声や、
他の人には見せないような不敵な笑みや、呆れ顔や、無防備な姿を、
勘違いしたくなかった。
みんなに、霧切さんにさえ、僕は「普通」だと評価され続けてきて。
誰かにとっての「特別」になんて、なったことなんて無くて。
それを言い訳にして、傷つくことを恐れて、霧切さんから遠ざかって、
そして、彼女を傷つけたのか。
『霧切さん、僕は…』
『……帰って』
怒鳴ったわけでも、泣いていたわけでもない。
ただ、ほんのわずかに濡れていた。
普段他人に感情をさらけ出すことを厭っている彼女が、それでも抑えることの出来なかった感情。
それが、何よりもキツい。
一度だけ、扉の前で振り返った。
霧切さんはまだ、地面に散らばった書類を拾っていた。
ぺらり、ぺらり、と、緩慢な所作で、わざわざ一枚ずつ、時間をかけて、まるで僕が出ていくまでの時間を稼ぐように。
見ていられず、僕は逃げるようにしてその部屋を後にした。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
「……」
「……苗木さぁ」
深く溜息を吐いて、朝日奈さんが肩を落とす。
廊下の電灯は落ちて、非常灯と自販機の明かりだけが僕らを照らしている。
腕時計に目をやれば、就業時間はとっくに過ぎていた。
事務所から玄関まで直通の道で話しこんでいたにもかかわらず、話している間に誰一人ここを通らなかった。
きっとみんなが気を使って裏口から出たか、霧切さんのように残業をしているのだろう。
僕も朝日奈さんを促して、彼女が持ってきてくれたコートを受け取った。用が無いのなら、早々に出ないといけない。
寮へと戻る道程、雪こそ降らないけれど、染みいるような寒さ。
「あのね…そりゃ霧切ちゃんも怒るよ」
「…うん」
当然だ。
彼女の言葉を借りるなら、僕は霧切さんを、あの先輩に『差し出そうと』したのだから。
「ちっがうっての!」
「…いてっ」
と、空のペットボトルで、頭をぺこんと殴られる。
それをそのまま道端のゴミ箱に投げ入れると、いつものお説教顔で、僕をベンチに座らせた。
霧切さんといい、腐川さんといい、僕の周りの女の子はおっかない人ばっかりだ。
「…あのね、苗木。自分のことだから気付かないってのは、アンタにも言える台詞なんだからね」
「え、と…何の話?」
「アンタが、霧切ちゃんにとってどれほど大切で、特別な存在かって話」
ビシ、と此方に指を突きつけるポーズは、彼女を意識したものだろう。
いや、そりゃあ僕と霧切さんに限らず、あの高校を出た仲間たちは、みんな気のおけない仲ではあるとは思うけれど。
それでも彼女は高嶺の花で、僕はどこにでもいる一般人。
逆だったら、それは分かる。
けれど、高嶺の花が路傍の草を大事に想うだなんて、なんともおかしな構図じゃないか。
僕は「普通」。彼女は「特別」。希望ヶ峰学園を出てからも、それは変わらない。
「…苗木って、いっつも前向きなクセに、変なところでネガティブだよね」
「そうかな…普通の感性だと思うよ。一般的な」
「む。その『一般的』って単語、なんか棘を感じるんだけど」
「気のせいです」
「…って、はぐらかさないで。実は苗木も、心のどこかで気づいてるんじゃないの?」
僕にとっては、確かに大切な人だ。
あの窮地で、まあ、そりゃあ理不尽なことを言われたのは一度や二度や、うん、幾度か、いや、うん、止めておこう。
それでもあの窮地で、僕が僕のままでいることが出来たのは、彼女のお陰だ。
単に学級裁判での討論や推理においてだけではない。
仲間を失っていく辛さを、その引きずる思い出の重さを、いつも支えてくれたのは。
最終更新:2013年01月22日 09:09