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「……朝日奈さんは、放っておいていいのかしら」


 拝啓、未来機関同課所属の諸先輩様方及び朝日奈さん。
 もしも今日僕が帰らぬ人となったら、僕のノートパソコンをけっして開けることなく処分してください。

「あの、霧切さん、僕は」
「…随分綺麗になったわね、彼女。精神的にも大人になったし。相談や愚痴の相手にはもってこいじゃない」
「……」

 私とは違ってね、と、開いた扉のチェーンを外すことなく、隙間から睨みつけてくる霧切さん。

 確実に、不機嫌だ。
 いや、あれだけ怒らせて、話をしてくれるだけでもありがたいとは重々承知しているけれども。
 けれども、これは。

 どうして部屋の内側から吹きつけてくる風が、外気よりも寒々しいのか。
 そして、どうして今まで楽しかった思い出が頭の中を駆け巡っているのか。

 いやいや大袈裟な、そんな、謝りに来ただけで命を落とすことなんて、……

「……何の用?」

 早く帰れと、容赦なく訴えてくるその視線を、正面から見ることすらできない。
 詫びついでに持ってきた背中のプレゼントも、いっそのこと玄関前に置いておいて帰ってしまおうか。
 ああそうだ、日を改めるべきかもしれない、もっとほとぼりが冷めてから。

「…ひ、非礼を詫びに」
「必要ないわ。貴方が謝るようなことなんてなかったんだし」
「……そのことだけじゃないよ。僕の為に、殴ってくれたんでしょ」

 ぴく、と、冷たい色に染まっていた表情が、一瞬動いた。

「…自惚れないで」

 僕を一直線に睨んでいた視線が、ふ、と気まずそうに逸れる。

「…朝日奈さんから聞いたの?」
「うん」
「……別に、貴方のために暴力を振るったわけじゃないわ。私が頭に来たから、私の意思で、私の都合で殴っただけ」

 ああ、うん、少しだけホッとする。
 怒っていても、冷たくても、霧切さんは霧切さんだ。

 自分が暴力を振るったとしても、その理由を他人に押し付けたりはしない。

「貴方なんて全然関係ないわ。ただでさえあの男は、……ちょっと、何を笑っているの」
「あっ、いや…何でも」
「……貴方が、私が誰と結ばれようと関係ない、と言ったように。貴方には関係ない。…用はそれだけ?」

 やはりまだ怒りは薄れていないのだろう、意趣返しでチクチクと責めてくる。
 けれども、ポーカーフェイスが崩れた分だけ、幾分かやりやすい。
 少しだけ拗ねたようにして、唇を尖らせている。

 それがあまりにもいつもの霧切さんだったので、僕は少しだけ安心した。

「…その。手ぶらで謝るっていうのもなんだと思って、お詫びの品を」
「……いらないわ。モノで釣られると思っているなら、」

 言う彼女を止めずに、僕は背に隠していた瓶を表に出した。

「……飲まない? 一緒に。その…大勢が苦手だって言ったから…二人だけで、今から」

 とっておきのアイリッシュ・ウィスキーの酒瓶だ。
 葉隠君が珍しく占いの方で大稼ぎをした時に、気前よく譲ってくれたもの。
 翌日手のひらを返して、やっぱり勿体ないから返せ、なんて言われたけれど。

 これが、精一杯の提案だ。

 彼女の気持ちを考えずに、苦手な男の先輩の好きにさせて、大勢の元に引きずり込もうとして。
 そして、彼女の気持ちを跳ねのけて、自分の気持ちに蓋をした。
 その詫びにしては、きっと安っぽすぎるだろうけれど。
 きっと通じる、と思って。

 霧切さんは、酒瓶と、僕の顔を幾度か見比べて、

「……貴方らしい」
「平凡な考え?」
「いいえ……気の利いた、良い仲直りのきっかけだと思うわ」

 少しだけ頬を緩ませて、扉のチェーンを解いた。
 その首を微かに曲げて、解けたような笑みを見せてくれる。

「…入って。外は寒かったでしょう」


 その、ドアノブを握ろう手を。
 少しだけ、あの時彼女を庇ったように、踏み込んで。

 彼女の右手を、僕は思い切って掴んだ。


「……苗木君?」
「…霧切さん、ゴメン」

 その手を覆うグローブを、するり、と脱がせる。

「あっ…な、」

 彼女のグローブの下は、以前にも見たことがある。
 少し歪に膨れて、変色している、火傷の痕。彼女はそれを、自分の過去の汚点であり戒めというけれど。

 ちょうど中指と薬指が、それとは別に真っ赤になっていた。
 殴る方も痛い、だなんて、よく言うけれど。

「……貴方には関係ないわ」
「…それでも」

 当然だ。
 加減も無しに、顎だなんて尖がった固い部分を、感情のままに殴れば。
 下手したら、指の骨にヒビくらいには入っているかもしれないのだから。

「ちゃんと、救急キットも持って来たんだ。中で、治療させてくれないかな」
「…嫌味なくらいに、用意が良いわね」
「……関係ないって言われるの、結構辛いね」
「あら、今更気付いたの?」

 おじゃまします、と、靴を揃えて、ブーツを脱いで少し背の縮んだ彼女を追う。

 考えてみれば、部屋に入るのは初めてだった。
 靴を脱ぎ、コートを掛けて、暖房が働き始める間の手持無沙汰、それを意識せずにはいられない。

 小綺麗な部屋だ。

 全体としてはさっぱりと片付いて、掃除も行き届いている。
 かといって殺風景なわけではなく、インテリアや小物が所々に置かれている。
 壁紙に控えめな花柄がプリントされているところに、思わず彼女の女性らしさを見たりして。

 ちょっと、ドキドキしてきた。

「……女性の独り暮らしの部屋が、そんなに珍しい?」
「あ、の…えっと…コーヒー淹れる、ね」
「どうも。コーヒーメーカーは、上の棚よ」

 呆れ半分、からかい半分の声音。
 視線の動きで気付かれてしまったのだろう。
 慌ててキッチンに逃げ込んだ。

 事務所に置きっぱなしの、彼女にプレゼントしたコーヒー豆を、実は持ちこんできている。

 ポットのお湯を沸かす間、珍しく霧切さんは、何をするでもなく僕の後ろでぶらぶらとしている。
 いつもなら僕にコーヒーを任せる間に、用事の一つや二つは済ませてしまうのに。
 こうして待ってもらっているというのは、少しだけむず痒いというか、気恥ずかしい。

「…朝日奈さんの部屋なんかには、入ったことあるんじゃないかしら」
「な、なんでそういう話に…」
「……」
「…ないよ、ないです。一度も」

 背中からぞわぞわと立ち上ってくる気配に、思わず条件反射で答える。

「……本当に?」
「う、うん…」
「……そう」

 嘘だ。
 何度か、彼女の部屋に入ったことはある。
 酔いつぶれた朝日奈さんを運んだ時とか、彼女の部屋に大きい虫が現れた時とか。
 同じ階の部屋で、かつ男でということで、何かと頼りにされることはあるけど。

 でも、間違ってもやましいことには発展していないし。
 あと、彼女の部屋は散らかっていて、筋トレ用品なんかもあって散らかっており、正直あんまり女の子の部屋らしくない。

「…ま、どちらにせよ。私には関係ないことだけれど」

 言葉尻がすぼむ。どうやら、まだご機嫌は斜めらしい。

 と、そこでヤカンが狙ったかのように、しゅんしゅんと音を立てる。

 コーヒーメーカーにあらかじめセットしていたフィルター、挽いておいた豆を入れて、上からお湯を注ぐ。
 ゆっくりと流し込めば、香ばしい匂いがキッチン中に立ち上った。

 と、ふと、聞きたくて聞けなかった疑問が、頭の中でフラッシュする。
 聞いても、いいだろうか。

「……あー」
「……何?」

 霧切さんの機嫌は、斜めと言えば斜めだが、それでも思っていたほど悪くはない。
 蒸し返すわけじゃないし、変な意味に捉えられることはないだろう。

 意を決して、気付かれないように深呼吸。

「…コーヒー、さ。このブレンド、その…感想というか」
「? 前にも言った通りよ。平凡な味だと思うわ」

 そうじゃなくて。

 ずっと前から気になっていたけれど、聞けなかったこと。
 大したことじゃ、ないんだけれど。

「別に、その…この味が特別好きってワケじゃないんでしょ?」
「…まあ、そうね」
「じゃあ、どうして飲むのかな…って、いや、意味なんてないのかな、とも思ったんだけど」

 顔を見るのが怖くて、背を向けたまま話し続けていた。

 はずなのに、ぐいっ、と、霧切さんが僕を押しのけて、上半身をキッチンに乗り出す。
 コーヒーメーカーの具合を見て、その匂いを、まるで化学薬品のように手で煽いで嗅いでいる。

「…良い匂いね」
「あ、うん…」
「…別に、そのブレンドにこだわっているわけじゃないわ。他の豆でも、私は飲めれば構わないの」

 がす、と、胸の中に抱いていた薄っぺらい希望に、簡単に穴が開いた。
 他の豆でも、私は構わないの。

 まるで、豆が僕自身のことを言われているように感じてしまって。

 ああ、うん、まあ、そうですよね。
 少女マンガの世界じゃないんだから、そんなぽんぽんと希望通りに展開が進むわけじゃない。
 自分を慰めつつ、心の中で溜息を吐く。

 と、コーヒーの匂いを嗅いでいた霧切さんが、上半身を乗り出したままこちらを振り返った。

「…どんな豆でも良いのよ。貴方が淹れてくれさえすれば」

 そうして、少しだけ肩を寄せて、悪戯っぽく微笑んだ。
 そう言ってほしかったのでしょう、と。
 こちらの下ごころを全て見透かされているようで、顔が熱くなる。

「……あ、その」

 目を逸らしても、霧切さんは追求するように迫ってくる。
 壁の方にぐいぐいと追いやられれば、細身ながら彼女の方が体が大きいので、逃れることはできない。


「苗木君、顔が赤いわ」
「…霧切さん、分かってて言ってるでしょ」
「何のことかしら?」
「……仕返しのつもり?」
「根に持つタイプなのよ、こう見えて」

 肩に顎を乗せられて、もどかしさに顔をよじると、ふわり、とアルコールの香りが鼻に届いた。
 アイリッシュ・ウィスキーの瓶は、まだ空けていない。

「…霧切さん、ひょっとしてもう飲んでた?」

 そう言えば、いつもよりも少し饒舌というか、喋り方が滑らかだ。
 顔色がまだ変わってないから、それほどの量ではないと思うけど。

「…飲まずにいられなかったのよ、心労が多くて」
「…あの、ゴメン」
「だから、貴方には関係ないって言っているでしょう?」

 今度は冗談めかして責めるように、首筋の辺りを顎でぐりぐりされる。

 ああ、これは酔っている。
 こういう接触を自分からする人じゃない。
 事実、あの先輩からのボディタッチには酷く嫌な顔をしていた。

 手早く準備を済ませてしまおう、変な気分になってきた。

 二人分のグラスに沸騰させたお湯を注いで温める。
 お湯を捨て、アイリッシュ・ウィスキーを半ばまで注ぎ、マッチでそっと火を灯す。
 ぽ、と、アルコールが燃えて、ゆらゆらと立ち上る、淡い青色の炎。

 ふ、と、霧切さんの体が離れた。

 彼女の温もりに少しばかりの名残惜しさを覚えていると、つ、と彼女の手が伸びて、キッチンの明かりを消す。
 居間から伸びる光だけが足元を照らす、薄暗い空間。
 グラスの中の炎は灯となって、グラスの形と色をそのまま照明に仕立てる。

「…危ないよ、霧切さん」
「いいじゃない、綺麗なのだから」
「意外と、こういうロマンチックなの、好きなんだ?」
「……意外、ね」

 あ、しまった。

「…そう。私がロマンチックが好きだと、意外なのね」
「いや、あの、…ぐぇ」

 ぐい、と、腕を首元に絡められて、危うく体制を崩しそうになる。
 彼女を背負うような姿勢、けれども身長が違うので、ひどくちぐはぐな構図だ。
 控えめな柔らかい何かが、布越しに押し付けられて、慌てて拘束を解く。

「…貴方が普段私をどう思っているか、よく分かったわ」

 霧切さんはどこ吹く風、相も変わらずのポーカーフェイス…なんだけど、少しだけほぐれているというか、なんというか。
 これは、無理矢理にでも忘年会に呼ばなくてよかった。

「…霧切さんって、もしかして絡み酒…?」
「……」

 けれど。
 一度だけ、新人歓迎会で一緒に飲む機会があったはずだ。
 あの時の霧切さんは、こんなに乱れていただろうか?

「……グラスの火、消えてるわよ」

 あからさまに話題を逸らされる。
 けれどもまあ言葉通り、茶番の間に、もう準備は整っていたようだ。

 二つのグラスに、砂糖を溶かしたコーヒーを均等に注ぐ。
 ティースプーンで軽くステアし、その上にゆっくりと生クリームを注いで層を作らせる。

 アイリッシュ・コーヒー。
 彼女と飲むということを考えた時に、一番僕たち二人に合うお酒は、と巡らせて、思い至ったものだ。
 酒瓶を見せた時に、彼女にもその意図は伝わっていたようで。

「…『意外と』オシャレなのね、苗木君」
「それも意趣返しのつもり?」
「さあ、どうかしら…さて、お酒だけ、というのも口寂しいわ」

 というか、こちらの意図なんて最初から全部お見通しらしく。
 僕の鞄の中から迷いなく漁ってきたホールトマトの缶詰を、したり顔でこちらに押し付けてくる。

「パスタは、そこにあるのを好きなだけ使っていいわ。調味料は下の戸棚」
「……どうも」
「別に、償ってほしいとは思ってないけれど…そのつもりなら、美味しく作ってね?」

 ふわりとした声音と、見惚れてしまうような悪戯っぽい笑みを残して、霧切さんはキッチンを後にした。
 いや、そりゃ、そのつもりで持って来たんだけどさ。

「苗木君、救急キット借りるわよ?」

 居間の方から声が響く。

「いいけど…自分でやるとやりにくくない? 後でよければ僕が…」
「嫌よ。貴方、急に脱がせるんだもの」

 お酒が入っているからだろうか、何とも色っぽい響きに聞こえて、思わずパスタの入った袋を取り落としそうになった。
 手袋のことに決まっているじゃないか、馬鹿。

 ヤカンに残ったお湯を鍋に移して、再び火にかける。
 沸騰するまでの間に作るのは、出来合いのトマトソース。
 コンビニで買った割高のニンニクとベーコンをスライスして、オリーブオイルで炒めていく。

「…あれから貴方には、何度かこの手袋の下を見せることがあったけれど…」

 しゅるり、と、衣擦れの音が、何とも背徳的に聞こえてしまって、思わずコンロの火を強くした。
 ぱちぱち、とニンニクの弾ける音が、ちょうどよく居間の音を消してくれる。
 落ち付け、僕。手袋を脱いでいるだけだ、イヤらしいことなんて一つもない。

「…勘違いは、しないで。何度も見せたからって、この傷を見せるのに慣れてきたわけじゃないわ」
「それは、その…ゴメン」

 あの時はただ、必死で、勢いに任せて脱がせてしまったけれど。
 確かに少し、霧切さんは身じろいでいた。
 その手の下の傷は、彼女にとって戒めで、そして気軽に人の目に触れさせていいものではない。

 軽率だった、と、恥じる。
 深く考えずに行動してしまうことを、反省したばかりのはずなのに。

「……例え相手が貴方でも。…いえ、貴方だからこそ、見られたくないのかも…」

 ちくり。
 棘のようなものが、肺の奥に刺さる。

「…貴方は私が胸を怪我したら、そこで裸に剥くのかしら?」
「そ、それとこれとは…」
「同じ事よ、私にとっては…裸よりも、見られたくないものなの」

 声が笑っていなかった。
 僕を責めるような色は無かったけれど、それでもじんじんと、傷口のように痛みが胸に染みてくる。
 彼女の過去に干渉出来るほど、僕は彼女を知らないし、彼女も僕を知らないだろう。

 僕の方が彼女の領域に踏み入る覚悟が出来たとして。
 だからと言って、それが踏み言っていい理由にはならないのだ。

「その、ゴメン…本当に」
「…謝ってばかりね、苗木君。そんな暗い雰囲気で居座られても、困るのだけれど」
「でも、」
「せっかく仲直りして、これから二人で飲むって時に…いえ、それを言うなら、話を振った私もね」

 少しだけ、呂律が回っていない。
 もう酔っているのだろうか。
 先程は暗がりで、よく表情は見えなかったけれど、もしかしたらほんのり赤かったのかもしれない。


 茹であがったパスタのお湯を切って、出来合いのトマトソースに絡めていく。
 二人分を皿に盛り付けて、粉チーズを散らし、アイリッシュ・コーヒーと一緒にトレーに乗せる。

「…と、お待たせ」
「…貴方、いつもこういうことをやっているの? やけに手慣れているわね」
「まあ、自炊してるし。あ、いいよ、座ってて」
「そういうワケにも、」

 いかないでしょう、と、続けたかったのかもしれない。

 トレーを持とうとしてくれたのか、身をかがめた霧切さんの体が、そのままくらりと前へ倒れる。
 危ない、と、反射的に腕を、彼女の体の下に潜らせた。

「あ、」

 とす。

 あまりに、軽い音。
 僕より背が高いはずの彼女の体は、差し出した右腕一つで支えられるほど、細くて、軽かった。
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