――『――苗木君、何処にいるの? 話したい事があるから後で――』……
今日もまた一日、退屈な授業が終わった。
スピーカーから流れる放課後のチャイムを聞き、ボクは耳から抜き取ったイヤホンを上着のポケットにねじ込んだ。
ひとり、またひとりと教室を後にするクラスメイトを尻目に、ボクも遅れて帰り支度に取り掛かった。
「苗木君」
ボクを呼ぶ声に手を止めて、机の前に来た人物へと目を向ける。
声の主は石丸君だった。
それだけを認めると、ボクは再び視線を落として教科書を鞄の中に入れた。
「……担任の先生からの伝言だ。『放課後、学園長室に来るように』との事だ」
「そう」
ボクの態度が勘に触ったのか、石丸君は何か言いたそうな雰囲気を醸し出していた。
怒りをぐっと堪えるように険しい目でボクを睨んでいる。
きっと以前の彼ならば、迷わずボクに説教していただろう。
『人が話している時にその態度は何だ!』とか、如何にも彼が言いそうな台詞が思い浮かんだ。
だけど、今の彼はボクに何も言ってこない。
いや、違った。『今のボクには、彼も何も言ってこない』と言った方が正しいか。
「……以上だ」
「…………」
それだけ言って、石丸君はボクの傍を離れた。
その背中に向かって、ボクは小さく投げ掛けた。
「………………ありがとう」
「なっ……!?」
聞こえない程度に抑えたつもりだけど、どうやら彼の耳に届いてしまったらしい。
驚いた様子で振り返り、さっきとは打って変わって困惑した表情でボクを見た。
面倒だなと思いつつ、ボクは何事も無かったかのように無関心を装った。
「…………何?」
「い、いや……失礼するっ!」
ボクの声に、石丸君は慌ててボクの視線から顔を背けた。
今度こそ彼は自分の席に戻り、少し焦った様子で学級日誌を開き始めた。
追求されなかった事に安心して、心の中で小さく溜め息をついた。
今日の日直は石丸君だったのか、と放課後になってようやくその事に気付いた。
今更気付いたところで、いや、もっと早く気付いたとしてもどうでもいい事だ。
ボクは帰り支度を済ませるとカバンを手に席を立った。
さっき石丸君はボクに『学園長室に来るように』と言っていた。
もしかして――と、あるひとつの期待が胸によぎった。
「な、苗木君っ」
急いで学園長室に向かおうとして、また誰かに呼び止められた。
今度は舞園さんだ。
こうして何度も誰か呼び止められるのは随分久しぶりのような気がする。
前はいつ頃だったかと思い返そうとして、意味がないとすぐに思考を打ち切った。
「どうしたの、舞園さん」
「あ、えっと……い、一緒に帰りませんか?」
伏し目がちにボクを見る彼女の表情は、なんだか普段に比べて少し固い。
それが少し気になったけれど、ボクの中では学園長室に向かいたい気持ちの方が強かった。
「ゴメン、用事あるから……」
「あ、それなら終わるまで待ってますよ」
その顔はいつもとは決定的に違う、無理やり作ったような笑顔だった。
テレビに映る女優の方がまだ良いとさえ思える、舞園さんらしくもない笑顔。
その笑顔が、ボクには気を遣われているように感じて――
それが無性に、ボクを苛立たせた。
「……長引いちゃうかもしれないし、先に帰っててよ」
「大丈夫です! 皆とお話しながら待ってますから!」
いつもならこの辺りで退いてくれるハズなのに、今日の舞園さんはやけに積極的だった。
彼女には悪いけれど、こうしている間にもボクは学園長室に向かう事しか頭になかった。
「……もう、いいよね」
「え……?」
「急いでるから……ボクの事は放っておいてよ」
彼女は目を見開き、次の瞬間には申し訳なさそうに視線を彷徨わせた。
胸の内側が、黒い液体を流し込んだように罪悪感で埋め尽くされていく。
――ボクは今、間違いなく彼女を傷付けた。
もっと違う言い方もあったハズなのに。
けれど、早く切り上げるにはこうするしかないと思った。
落ち込む彼女を振り切るように、その横を通り過ぎて教室を出た。
振り返ると、舞園さんはまだ同じ場所に立ったままだった。
その背中に向けて、ボクは小さく呟いた。
「…………ゴメン」
今度は誰にも届く事の無いように。
廊下に出て数歩、さっきまで静かだった教室が少しだけ騒がしくなった気がした。
……
…
この部屋の扉には、近寄りがたい雰囲気を常々感じていた。
見上げた先には『学園長室』と書かれたプレートが貼り付けられている。
この扉を前にすると、どうしても緊張感と後ろめたさが拭えない。
ボクは心を落ち着かせようと一度深呼吸して、決心したようにその扉を叩いた。
「苗木です」
「入ってくれたまえ」
「失礼します」
ドアノブを掴み、威圧感を感じる分厚い扉を開く。
室内に入ると、まず最初に上着を脱いだ学園長の姿が目に入った。
いつもの整ったスーツ姿とは違うラフな格好に、ボクは思わず面食らった。
「やあ。今お茶を入れるから適当に掛けてくれ」
「あ、いえ、お構いなく……」
何なんだ――と、そう思わずにはいられなかった。
ボクは此処に遊びに来た訳じゃないのに、まるで友人を持て成すような対応に戸惑いを隠せない。
学園長の考えが読めず、とりあえずボクは勧められたようにソファに腰掛けるようにした。
「最近、学園はどうだい?」
「どう、とは……?」
「楽しいか、って事だよ」
そう言って学園長は、コーヒーが注がれた紙コップをボクに差し出した。
淹れ立てのコーヒーは立ちのぼる湯気と共に香ばしい匂いを放っていた。
ボクはそれを受け取ったものの、飲む気にもなれず、そのままテーブルの上に置いた。
「……ええ。楽しいですよ」
「そうか。それはよかった」
単なる社交辞令。
今のボクにとって、この学園での生活はあまり楽しいと呼べるものじゃない。
それは学園長だってよく分かっているハズだ。
だと言うのに、何か納得したように頷く学園長の姿にボクは不安を覚えずにはいられなかった。
その不安を打ち払いたくて、ボクは早速本題に入ろうと思った。
「それで、今日はどういった件で……?」
「ん、そうだな……」
ボクの言葉に、学園長はさっきまでの柔和な表情を引き締める。
そして、何かを考え込むように顎に手を当てて唸った。
――不意に、その仕草が《彼女》のそれと重なったように見えた。
「君を呼んだのは他でもない、例の件について知らせたい事があったからだ」
例の件、という言葉にボクの心臓が跳ね上がった。
ボクの中に灯った微かな期待が大きくなる。
だけどその勢いは、蝋燭の灯火のように呆気なく吹き消された。
「初めに言っておくが、《彼女》の居場所はまだ分かっていないんだ」
「そう、ですか……」
落胆はしたが、ボクにはその言葉が当たり前のように受け入れられた。
それも当然だ。
ボクはもう何度も、《彼女》の行方について学園長と話し合っている。
だというのに、今になっても目撃情報ひとつ無く、手掛かりも殆ど掴めていなかった。
ボクは、その現状に危機感を覚えるどころか、少しずつ慣れてきてしまっていた。
「ただ、進展はあった。……君にとって悪い方向に、だが」
「え……?」
ボクは耳を疑った。
今、学園長は『進展があった』と言ったのか。
だけど、『ボクにとって悪い方向に』とはどういう意味なのか。
次の瞬間、ボクはその疑問の答えを、学園長の口から発せられた言葉によって知った。
確かにそれは、ボクにとって最悪と言っても過言では無かった。
「――――《彼女》はもう、日本にいないのかもしれない」
ガツン、と衝撃が走った。
「なんですか、それ……」
ボクの頭が、その意味を理解する事を拒んだ。
「だったら、何処へ行ったんですか……?」
ボクの言葉に、学園長は眉ひとつ動かさずに答えた。
「……それは分からない」
ボクは息を呑んだ。
日本にいないという事は、日本中を探しても見つからなかったという事なのか。
だったら、今まで探し続けた時間は何だったんだ。
これから先、あとどれだけの時間を費やせば《彼女》を見つけられるんだ。
――もしかして、ボクはもう《彼女》に会えないのか……?
ボクの中で言いようの無い不安が暗雲のように立ち込めた。
急速に膨らみ出した苦い感覚に、ボクは頭を抱えたくなってしまった。
だけど学園長は、そんなボクを励ますように肩を軽く叩いた。
「心配するな。私が必ず、君を《彼女》に会わせると約束しよう」
「これは私の我が侭でもあり、父親としての責務でもあるのだからな」
「……ありがとう、ございます」
そう言った学園長は少しだけ寂しそうな表情を見せた。
学園長の言葉は、今のボクには何よりも心強かった。
「……私が至らないばかりに、君に辛い思いをさせてしまったな」
「いえ。学園長の所為なんかじゃありません」
「これはボクと《彼女》の問題ですから……」
こんな事で、本当に《彼女》を見つけられるのか。
ボクは、いつになったら《約束》を果たせるんだ。
先の見えない不安だけが、何処までも広がっていた。
「……ところで苗木君。君は進路について何か考えているかい?」
「え? 進路ですか……?」
「そうだ。君もこの学園を代表する生徒で、未来の希望を担う一員でもあるんだぞ?」
そう言って笑い掛ける学園長を、ボクはいったいどんな目で見ていただろう。
いったい、ボクの何処が希望だと言うのだろうか。
《超高校級の幸運》として偶然紛れ込んだ平凡な高校生。
何の取り柄もなくて、何の才能も持たない――この学園の異端者。
それが、ボクだ。
「今はまだ、分かりません……」
「ならば悩む事だ。自分の道は、自分自身でしか決められないからね」
――だったら、これが《彼女》の選んだ道なのか。
こんな終わり方が、《彼女》の選んだ道だって言うのか。
そんなハズないよね――そう思っても、ボクにはそれを問い掛ける事すら出来ない。
信じたくても疑ってしまう自分が嫌だった。
「じゃあ、何かやりたい事は無いのか?」
「やりたい事……」
やりたい事は、沢山ある。
いろいろあったハズなのに、どうしてか思い出せない。
無理に思い浮かべても、どれも違うように思えてしまう。
結局、ボクが望むのはひとつだけだった。
ボクがやりたい事。
それは――
「――――《彼女》と、もう一度話がしたいです……」
学園長室を後にしてから思い出した。
結局、最後まで手渡されたコーヒーに口を付けなかった事を。
……
…
重い足を引きずって向かった先は旧校舎の空き教室だった。
まだショックが抜け切っておらず、とても何かをする気分にはなれなかった。
だけど、此処にだけは、どうしても足を運ばなければならない。
教室に辿り着くなり、ボクは一番近くにあった席に倒れ込むようにして座った。
日陰で冷やされた机に頬を当てながら、ぼんやりと辺りを見回した。
埃の積もった黒板、文庫本の詰まった小さな本棚、中途半端に垂れ下がったカーテン……
特に目新しい物の無い教室を、窓から差すオレンジの光だけが照らしていた。
――此処は『探偵同好会』の部室だ。
副会長はボク。会長は空席のまま。他に会員はいないし、受け付けてもいない。
『探偵同好会』と言っても依頼がある訳ではなく、もし仮にあったとしてもボクは断ろうと思っている。
そんな存在意義さえも不明瞭な同好会にだって、ちゃんと活動内容くらいはある。
ただコーヒーを飲みながら推理小説を開く、という大事な活動が。
そう考えて、ボクは今頃になって学園長室に残してきたコーヒーを惜しいと思ってしまった。
幾分か回復した気力を奮わせて立ち上げると、ボクは備品の電気ケトルでお湯を沸かす準備をした。
戸棚の中からマグカップを取り出して――ある時まで、その隣にあったカップの事を思い出した。
――銀線とスミレが描かれたソーサーカップ。
ボクが以前、ある人に贈ったプレゼント。
その人はコーヒーには少しうるさい人で、ボクに上手く淹れられるように練習しろと言ってきた。
ボクはその人のご機嫌取りに、という名目でコーヒーカップを贈ろうと思った。
理由は、単純に喜んでくれると思ったから。それだけだ。
本当にそれだけだったのに……結局それだけじゃなくなってしまった。
その時はボク自身、そういうお店に行くのも初めてで、最初はずっと戸惑っていた。
たまたま通りかかった店員に『贈り物ですか?』と聞かれ、話している内に――それを見つけた。
シンプルだけど綺麗なデザインが目に映り、何よりも描かれたスミレの花がその人に似合うとボクは思った。
スミレの花言葉は『小さな愛』『小さな幸せ』だと、その店員が教えてくれた。
ただ喜んでもらいたい。それだけだったのに、いつしかそれはボクのささやかなアプローチに変わっていた。
『彼女、喜んでくれるといいですね』と言った店員に、ボクはよく理解せず『はい』とだけ答えたのを覚えている。
……そのカップが無くなった事に気付いたのは、その人がいなくなった翌日だった。
その人は今、そのカップを持っているのだろうか。それとも捨ててしまったのだろうか。
今のボクには、そのどちらかを知る術も無ければ、そのどちらかを考える勇気も無かった。
ピー、という電子音に、はっと顔を上げた。ケトルのお湯が沸いた合図だ。
いそいそとマグカップの上にドリッパーをセットし、フィルターの中にコーヒーの粉末を入れていく。
あとはケトルのお湯を注いで、慎重にドリップしていくだけ。
コポコポ、と黒い液体がマグカップに落ちる音を聞きながら、ボクは砂糖とミルクを取り出そうと戸棚を開けた。
「……あれ?」
戸棚の中には砂糖が無かった。
そういえば、昨日切らしてしまったまま、買いに行くのを忘れていた。
幸い、ミルクの方はまだ残っていたので小さなカップをひとつ取り出す。
ミルクを入れた程度じゃ苦味は抑えられないけれど、無い物は無いと割り切るしかなかった。
カップの先端をめくり上げようとして――ボクはその手を止めた。
――そういえば、《彼女》はいつもブラックを飲んでいた。
ボクが《彼女》に、初めてコーヒーを淹れた時も、ブラックでない事に怒っていた。
《彼女》に言わせれば、ブラックは苦味以外にも沢山の味わいがあるらしい。
ボクには今まで、それが何なのかさっぱり分からなかった。
――ブラックを飲んでみたら、少しは《彼女》を理解できるかもしれない。
そんな根拠の欠片もない妄想が、ボクの頭の中に小さく芽生えた。
その芽は早送りされた映像のようにぶくぶくと膨れ上がり、瞬く間にボクの頭を支配した。
ボクの視線の先にはドリップされたばかりのブラックコーヒー。
手に持ったポーションミルクを戸棚の中へと無造作に投げ込んだ。
ゆらゆらと湯気を放つ液体が、底の見えない暗闇のように揺れている。
ボクはマグカップを両手で掴むと、まだ熱いその液体を口に含んだ。
「…………苦いね」
口いっぱいに広がる苦味。それだけだった。
それ以外の味わいも、その先に感じるものも、何ひとつ無かった。
……
…
「うぷぷぷぷー、うぷぷぷぷー」
旧校舎を出て寄宿舎へ帰る途中、ボクの耳に奇妙な笑い声が聞こえた。
こんなに変わった笑い方をする人物を、ボクはひとりしか知らない。
いろいろと不安が積み重なった今のボクにはその声が酷く不快に思えた。
「相変わらず辛気臭い顔してんね苗木ぃ」
「……江ノ島さん」
江ノ島さんはボクの顔を覗き込んではにやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。
何が楽しいのか、ボクには全く理解できない。
「……何か用?」
「『……何か用?』だって! アンタみたいなちっこい奴にクールキャラは似合わねぇよ! 絶望的になッ!」
「……そう。じゃあ、ボクは行くから」
只でさえ気分が悪いのに、江ノ島さんなんて相手していられない。
そう思ったボクは奇妙なポーズで指を突き付ける彼女を無視して寄宿舎に帰ろうとした。
だけど、江ノ島さんは慌てたようにボクの前に回り込むと、またもや奇妙なポーズで帰路を阻んだ。
「ちょーっと待った! 此処を通りたければこの私様を倒していくことね!」
「どいてよ」
「って、これじゃ只の雑魚キャラじゃん! 自分からこんな……死亡フラグ立てるなんて……絶望的ですね……」
「そこ、どいてってば」
「……ああもう、はいはい、分かったから。ちょっとアンタに話があるだけだってーの」
ノリわるー、と愚痴る江ノ島さんに、ボクは無言で話を促した。
ボクの態度に彼女は一瞬だけ顔を引きつらせると、溜め息を吐いてから面倒そうに口を開いた。
「苗木ってさ、よく学園長室に呼び出されてるけど、なんかあったのって聞きたかっただけ」
「……別に。江ノ島さんには関係ないよ」
「うっわ、予想通りの反応すぎてツマラナ……ん? んんっ?」
唐突に江ノ島さんは、すんすん、と鼻を鳴らして辺りの匂いを嗅ぎ始めた。
彼女の不審な行動に、ボクも釣られて匂いを嗅ぐ。が、別に変なにおいは感じなかった。
だけど彼女はまだ辺りを嗅ぎ続け、次第にボクに向かって近付いてくる。
すんすん、すんすん、と彼女の鼻を鳴らす音が妙に大きく聞こえた。
「……臭う。臭うね」
そう言った江ノ島さんはボクの目の前まで迫って、
「もしかしてアンタ……」
「――――まだ霧切の事、好きなんじゃないの?」
臭いとは全く関係のない、その言葉を口にした。
ボクは彼女から距離を取るように一歩後ずさった。
そんなボクの様子に彼女はまた、あの意地の悪い笑みを浮かべていた。
「あ、図星ー? つっても、どう見たって分かり易すぎるんだけどねー」
江ノ島さんはボクの周りをぐるぐると回りながらにやけた笑みを向け続ける。
……ボクは、動揺していた。
《彼女》への好意を指摘されたからじゃない。
《彼女》の名前を耳にした事で、ボクの不安が揺さぶられたからだ。
ぐるぐると渦巻いた黒い不安が、また少し大きくなった気がした。
「アンタたち仲良かったから、そう思っちゃうのも分かるけど……」
「でもさー、いい加減諦めなって」
「居ない奴の事、どうこう思ってもアンタがキツイだけじゃん?」
――そんな事、分かってる……
「それに、アイツ学園辞める時だってアンタに何も言わなかったんでしょ?」
「それってさー、どう考えたって最初っから脈ナシだったんじゃないの?」
「まあでも、コクってこっ酷くフラれた方がまだマシなのかなー、アタシには分かんないけど」
――告白もしたし、振られもしたよ……
……そうだ。ボクはあの日、《彼女》に振られたんだ。
《彼女》を抱きしめた温もりも、《彼女》に突き放された痛みも、ボクは今でも覚えている。
忘れられないあの日の記憶を、思い出に変えてしまう事を、ボクは必死で拒んでいる。
――『……苗木君。もし将来、私たちが再び会えたら』
《彼女》は優しかった。
――『……その時はまた、コーヒーを淹れてくれるかしら?』
その優しさが、あの《約束》が、今もボクを苦しめる。
嫌いなら嫌いだと言ってほしかった。
関わりたくないのなら関わらないでと言ってほしかった。
友達でいてくれるのなら友達でいようと言ってほしかった。
なのに、どうして――――
「それにアイツ、アタシほどじゃないけど綺麗目だったじゃない?」
「今頃どっかでアタシらの事も苗木の事なんかも忘れちゃってさ……」
「――――カレシでも作って幸せそーにしてんじゃない、とか考えないワケ?」
その言葉が、ボクの心臓を鷲掴みにした。
心が、頭が、体温が、身体が、視界が、何もかもが――凍り付いた。
空気さえも凍ってしまったのか、突き刺さるようにボクの肌を刺激する。
寒い。自分の身体を抱こうとしても、ボクは身動きひとつ取れないでいた。
だけど、江ノ島さんはお構いなしに一歩詰め寄ると、ボクの頬に手を添えた。
「……だからさ、アンタも新しい恋のひとつでも探したらどうなの?」
「ウチのお姉ちゃんなんてどう? カノジョにするにはちょっと……いやかなり残念な部類だと思うけど」
「あ! なんだったら――」
動けないボクをいいことに、彼女はもう一歩詰め寄ると、ぐっと顔を近付けた。
「――――アタシが遊んであげよっか?」
甘い吐息が、ボクの顔に掛かった。
ボクと彼女の距離は十数cm。少し動いただけでも触れてしまいそうな短い距離。
からかうような口調とは裏腹に、彼女の顔は見た事もないような妖艶さを魅せていた。
近すぎる身体はあちこち触れ合って、もはや密着しているのと同じ状態だ。
じんわりと、彼女の熱が凍り付いたボクの身体を溶かしていく。
彼女はまるでボクを待っているかのようにぴくりとも動かない。
ボクの両手が、ゆっくりと彼女の両肩に伸びる。
艶かしい彼女の顔が、にやりと笑った。
その顔に我慢できなくなった。
ボクは彼女を突き放し、勢いのまま右手を振り上げた。
「――何してるの」
「――っ!?」
だけどボクの手は誰かに掴まれ、振り下ろされる事は無かった。
振り返ると、そこにいたのは戦刃さんだった。
戦刃さんはボクの手を掴んだまま無表情で、だけど強い視線で睨んでいた。
その視線の先は江ノ島さんを殴ろうとしたボクではなく、
「――盾子ちゃん」
ボクに殴られそうになった江ノ島さんに向けられていた。
「は? アタシ? なんかそれっておかしくない?」
「何してるの、盾子ちゃん」
「いやいやいや。アタシ殴られ掛かったんだよ? なのに、なんでお姉ちゃんに睨まれてるワケ?」
「何してるの、盾子ちゃん」
「つーか、同じ台詞何度も吐くんじゃねーよ。ロボットかお前は」
ボクを他所に、江ノ島さんと戦刃さんは睨み合っていた。
いつもなら妹である江ノ島さんに弱い戦刃さんが、ただじっと冷たい怒りを放っていた。
だけど、そんな睨み合いに飽きたのか、先に視線を逸らしたのは江ノ島さんの方だった。
「……あー、飽きた。ちょっと傷心中の苗木をからかってやっただけだっつーの」
「変な事、しないで」
「はーい、もうしませーん。だったら、お姉ちゃんが代わりに慰めてあげたらいいじゃん」
「盾子ちゃん」
戦刃さんの強い口調に、江ノ島さんは心底鬱陶しそうに、はあー、と盛大な溜め息を吐いた。
そして、苗木、とボクの名前を呼んで指を差してきた。今度は奇妙なポーズも無かった。
「アンタさぁ、いい加減そのウジウジした態度やめな。ぶっちゃけウザイんだよそれ」
「盾子ちゃん」
「誰も言わないからアタシが代わりに言ってんの。ったく、どいつもこいつも残念すぎんだろ……」
江ノ島さんの言う通りかもしれない。
いや、間違いなく彼女の方が正しい。間違っているのはボクの方だ。
今ならまだ引き返せる、と彼女はボクに手を差し伸べてくれている。
だけど、それでもボクは諦められなかった。
「…………江ノ島さんには、関係ないよ……」
「……あっそ。じゃあいいよ、好きにしたら?」
「何処までも追い掛けて、勝手に絶望しちゃいなよ」
そう言って、江ノ島さんはボクから離れていった。
追いかけるようにして戦刃さんもボクから離れていく。
と、戦刃さんが振り返った。
「苗木君……元気、出して……」
それだけ言い残して、今度こそ二人は廊下の角に消えていった。
ぽつんと一人だけ残されたボクは、その場に立ち尽くすしかできなかった。
「…………ありがとう、二人とも」
ボクの震えた声が、薄暗くなった廊下の中に溶けていった。
……
…
部屋に戻ったボクは、上着も脱がずにベッドに倒れ込んだ。
……今日はいろんな事がありすぎて疲れていた。
教室での事、学園長との事、部室の事、江ノ島さんたちの事……
仰向けに寝転び、天井に向かって右手を突き出した。
――ボクは今日、初めてクラスメイトを殴ろうとした。
しかも、相手は江ノ島さん――女の子だ。
妹と喧嘩した時だって、殴った事は多分無かったと思う。
「最低だよね、ボク……」
方法はどうであれ、彼女はボクを励まそうとしていた。
なのにボクは、そんな彼女に逆上して手を上げた。
戦刃さんが止めてくれなかったら大変な事になっていたかもしれない。
こんなボクを見たら《彼女》は失望するだろうか。
それとも、ボクの事を怒ってくれるだろうか。
ずっとこんな事ばかり考えている。
確かにウジウジしてて、みっともない。
だけど、見逃してほしい。こればかりは多分直せそうもないから。
上着のポケットに手を入れ、中から携帯音楽プレイヤーを取り出す。
またいつものように《彼女》の声が聞きたくなった。
『――苗木君、何処にいるの? 話したい事があるから後で――』
《彼女》の声を聴く度に、空虚な気持ちが少しだけ満たされた。
いつか《彼女》が残した留守番電話のメッセージ。
ボクの手元に残っていた唯一の《彼女》の声だった。
『――苗木君、何処にいるの? 話したい事があるから後で――』
イヤホンから聞こえる声を何度も何度も繰り返し聴いた。
そうする事で、ボクは自分の中にある不安を押さえ込んでいた。
ただ《彼女》の声に身を委ねるだけ。
他には何も聴かない、何も考えない、何も感じない。
そうやって嫌な事、上手く行かない事から目を背けていた。
『――苗木君、何処にいるの? 話したい事があるから後で――』
「きりぎり、さん……」
ボクは無意識の内に《彼女》の名前を口にしていた。
それが、不味かった。
『――苗木君』
――霧切さん……
『――苗木君』
――霧切さん……
『――苗木君』
――霧切さん……
霧切さん……霧切さん……霧切さん……霧切さん……霧切さん……
霧切さん……霧切さん……霧切さん……霧切さん……霧切さん……
霧切さん……霧切さん……霧切さん……霧切さん……霧切さん……
ボクの頭の中は《彼女》――霧切さんの事でいっぱいになった。
そして、次の瞬間には襲い掛かる悲しみに押し流されそうになる。
霧切さんの事を想えば想うほど、この悲しみを何度も味わってきた。
だから、《彼女》の名前は口にしないようにしていたのに。
だけど今日は、もう限界だった。
「……っ、くぁっ……あ、あぁ……っ」
ぼろぼろとみっともなく涙を流していた。
情けない泣き声を押し殺していた。
泣いたって、《彼女》には会えない。
泣いたところで、《彼女》は会いに来てくれない。
分かっていたから、もう泣かないと決めていたのに。
だけど今日は、もう限界だった。
「うくっ……あ、ああっ……っ、うぅ……」
『――苗木君、何処にいるの? 話したい事があるから後で――』
霧切さん。君の方こそ、何処にいるの……?
ボクも君と話がしたいんだ。
聞きたい事も、伝えたい事も沢山あるんだ。
――だから、君に会いたい。
「会いたいよ……霧切さん……」
だけど、ボクの言葉に答えてくれる声はなく、
いつの間にか、ボクは気を失うように眠っていた。
次に目を覚ました時には、音楽プレイヤーの充電は切れていた。
最終更新:2013年09月27日 01:05