ナエギリ十五夜

まだ月夜には早い夕凪、微かな細波の音。
月見といえば虫の声、というのが定番と思っていたけれど、波の伴奏というのもなかなか趣深い。
退屈そうに足を投げ出していた霧切さんの隣、堤防に腰を下ろす。

「いい時間潰しはないかしら」

月を待つのが億劫になったのだろう、浅く溜息を吐く。
思わず笑いそうになって口元を押さえると、敏く気付いた霧切さんが、じとりと僕を睨めつけた。


『……苗木君。今晩、時間を貰える?』

彼女の誘いに面喰らったのは、つい数時間ほど前のこと。

『うん? 特に用事はないけれど、どうかしたの?』
『月を見に行きたいのだけれど……独りだと、つまらないでしょう』

そういえば今朝のニュースで、今日は十五夜だなんて言っていたっけ。
あまりに唐突…というのはいつものことだけれど、やはり面喰らう。
失礼ながら、そういう行事に無頓着な人だと思っていたので。

『月見っていうと、出かけるってこと? 寮からじゃ見えないだろうし』
『……そうね、外で見ることになるわ』
『どこかいい場所、あったかなぁ』
『……』

自分から言い出したはずなのに、霧切さんの態度はどこか乗り気ではないように感じた。
まるで、月見そのものには無関心とでもいうように。

『なになに? お月見? いいねいいね、私も行きたい!』

教室で何をするでもなく駄弁っていた朝日奈さんが、耳敏く聞きつける。
月見というと厳かな印象が強いので、彼女もまた縁遠いな、という感想も、僕は心の中に閉まった。
彼女には、燦々と照る日の方が似合う。

『お月見と言えば、丸い食べ物だよね! 丸い食べ物と言えば……そう、ドーナツ!』
『はは……』

案の定、花より団子の動機に苦笑う。
彼女の中ではイベントよりも、それによって何を食べられるかの方が重要らしい。
大袈裟なほど飛び跳ねて溌剌と笑う朝日奈さんに、けれども霧切さんは対象的な、物憂げな沈黙を返した。

『霧切さん?』

僕が声をかけると同時に、それまで同じく駄弁っていた大神さんが朝日奈さんの肩を叩く。

『……あー、朝日奈。少し話がある、廊下に来い』
『え、何で? お月見の話は? あれ、ちょっと、さくらちゃん?』
『……苗木よ、二駅向こうの海岸はどうだ。海には入れぬが、月夜を眺めるには乙なものだぞ』

大神さんは言い残して教室を後にして、次いで朝日奈さんも、引きずられるようにして連行されていく。
霧切さんは無表情を保っているように見えるけれど、ほんの一瞬だけ伏目になった。
安堵している時の癖だった。

『……それで、どうかしら』
『どう、って言われても……』
『気が進まないのなら、素直にそう言ってくれて構わないから』

見えないほどの緊張が、再度彼女の身体を強張らせる。
どうでもいい用事には無理やり付き合わせるけれど、本当に欲しいものほど遠慮してしまう人なのだ。
素直に、だなんてよく言う。

それにしても、そこまで特別な事が、何かあるのだろうか。
そういえば二人で出掛けるのは初めてかもしれないと、的外れな考えが頭を過ぎった。


学生鞄に入れていた事を思い出して、桐箱を取り出し、彼女に手渡す。
霧切さんは怪訝そうに受け取って、恐る恐るふたを開いた。
中には十数本の、細長い淡い色の紙縒り。

「……ひも?」
「線香花火だよ」

出かける直前、余りものだからと大神さんに貰ったものだった。作りからして、結構な値打ちのはずだ。
束を解きながら、一本を彼女に手渡す。
手持ち花火というには心許ない紙縒りを、霧切さんは不思議そうな目で眺めている。
夏の締めくくりには相応しいと思ったのだけれど、お気に召さなかったのだろうか。

そんな僕の的外れな心配をよそに、霧切さんは手に取った花火の『調査』を始める。
しげしげと眺めてみたり、軽さを確かめてみたり、匂いを嗅いでみたり。

そして、結局何も分からなかったのか、不服そうに目を細める。

「……これは、どうやって遊ぶの?」
「見たことないの?」
「聞いたことはあるわ」

実は負けず嫌いな彼女の返事に苦笑しつつ、習うより慣れるべし、早速紙縒りに火を灯す。

「ちょっと、」
「あ、動かないで。紐は上の方を持って、出来るだけ動かさないこと」

抗議の声を他所に、一瞬でめらめらと紙縒りは燃え上がり、火薬に移った。
点ほどの火玉が、紐の先で少しずつ燻ぶり始める。
鼻孔に届く火薬の香り。
不満気に僕を睨む霧切さん。

「……これだけ?」

花火のことを言っているのだろう。
おそらく蛇花火や煙玉と並んで、地味な花火に分類される線香花火。
けれど、だからこそ、僕はこの小さな火玉が好きだった。

「ここからだよ」

チチチチチ、と、火玉は音を鳴らして少しずつ大きくなっていく。
『牡丹』から『松葉』へ、枝のような火花を散らして、線香花火がコンクリートを照らす。
派手ではないけれど、優しくて儚げな飛沫。

「綺麗でしょ?」

派手な炎色や炸裂も花火の醍醐味だろう、小さい頃は妹とそれで遊び回った。
それでも少しだけ成長した今だからこそ、この地味な花火の味わいも良く分かる。

「……、悪くはないわ」

やっぱり不満気に、霧切さんが呟いた。どうやら認めるのが悔しいらしい。
嘘はつけども世辞を使う人では無いので、それだけで僕は少し嬉しい気持ちになる。

「小さくても小さいなりに精一杯頑張っているところが、可愛らしいわね」
「コメントに悪意を感じるんだけど」
「そう? それはきっと自意識過剰よ、苗木君」

まあ、喜んでくれているなら、よかった。

僕も一本取り出して紙縒りに火を点ける。
それと同時に霧切さんの花火から火玉が落ちて、消えた。

「……」
「うわ、っと……もう、霧切さん」

先に自分の花火が消えたのが不服なのだろう、無言のまま僕の花火をつついてくる。意外とこどもっぽい。
もう一本に火を点けて手渡すと、大人しくまた火玉を見つめるのだった。

一本、また一本と、花火が消えていく。
桐箱の、海水で濡らした脱脂綿の底に、燃え柄が溜まっていく。
僕と霧切さんは、ほとんど無言で花火を楽しんだ。
言葉はなくても、火玉に照らされた彼女の表情がいつもよりも僅かに緩んでいたのが分かった。

線香花火は、あと残り二つ。

「……もうお終い?」
「コンビニに行けば、まだ売ってるかもしれないけど」
「いえ、いいわ。名残惜しく思うくらいが、きっとちょうど良いのね」

と、そこで思い付いたように、ニヤ、と口を開く。

「……苗木君、一つ勝負しましょう」

僕の手からライターをひったくり、手の中で弄ぶ。
なんとなく、嫌な予感がした。

「お互いに、線香花火の最後の一本。先に火を消した方が負け。どうかしら」
「勝負って、僕そういうのあんまり」
「負けた方は、勝った方の言うことを何でも一つ聞く。いいわね?」

こういう時の霧切さんは、こちらの話を聞いてくれない。
溜息を吐くと、了承の合図と受け取ったのか、


「私が勝ったら―――明日から、下の名前で呼びなさい」
「え?」

返答をする前に、鮮やかな手つきで二本を手繰り、ほぼ同時に火を点ける。
チチチチ、と小さな火花が散りだして、慌てて僕は自分の花火を取り返す。
日はとっくに沈んでいた。

大きな火玉のような太陽が、水平線に沈もうとしていた。
月は朧、雲の裏側からかろうじて燐光を漏らしている。今晩の月見は難しいだろう。
帰りのバスに間に合うだろうか。
せめて雲が晴れてくれれば。
明日の寮食のメニューはなんだっけ。

線香花火のコツは、集中し過ぎないこと。
関係ないことに頭を巡らせながら火花を眺めるのが、なんだかんだで一番長持ちするのだ。

―――どうして僕を誘ったのだろう。

ふと、そんな疑問にまで考えが巡って、横目で霧切さんを盗み見る。
膝を抱え、線香花火を揺らさないように両手で支える姿は真剣そのものだ。
クールで知的で大人っぽい人だけれど、こういう姿を見ていると、同い年なのだということを思いだす。

「……どうしたの?」

僕が見ていることに気が付いて、霧切さんも顔を上げる。

「どうしていきなり、下の名前で呼ぶだなんて」
「……問題あるかしら」
「ないけど」

霧切さんの線香花火が、わずかに揺れた。

「呼び方が変わるだけよ。それだけ。深い意味なんてないわ」
「霧切さんの下の名前って言うと、」
「……キョウコよ。私の名前は、霧切響子。忘れないで」

別に忘れてたわけじゃない、そう告げようとして顔を上げる。
霧切さんの瞳が、射抜くように僕を見ていた。
『探偵』としての霧切さんの眼差し。事件に向き合う時のように真剣で、本気だった。

ふ、と、その霧切さんの表情を、月光が照らす。

「あ、」

月が出ていた。

さっきまでは確かに、朧に隠れていたはずなのに。
羽衣を脱いだかのように、雲の切れ間から姿を覗かせ、その輪郭を淡く照らしていた。
とても静かな夜。細波と、線香花火の散らす火花の音以外には、何もない。
僕の視線で気が付いたのだろう、霧切さんも空を見上げて、息を呑む。


「……月が綺麗ね、苗木君」
「え? あ、うん、そうだね」
「……夏目漱石は分かるかしら?」
「『吾輩は猫である』なら、読んだことはあるけど」

霧切さんは少しだけ僕を睨むと、また線香花火に視線を戻す。
気に障るような答えだったのだろうか。

ひゅう、と音を立てて、波に押し上げられるようにして、海側から風が吹いた。

「あ、」

今度は霧切さんが声を漏らした。

持ち方が悪かったのだろうか、月に気を取られていたからか、あるいはただの僕の『幸運』か。
彼女の火玉だけが地面に落ちた。
じゅ、と音を立て、湿ったコンクリートを一瞬だけ照らして。

勝負は、僕の勝ちということになる。
あっけない幕切れ。

「……」
「あの、霧切さん?」

落ちて燃えカスになった火玉から、霧切さんは目を逸らさなかった。
まるで、もう一度息を吹き返すのを待っているかのように、じっと見つめる。

帰ってくるはずの無い親を、ずっと待っている子どものような、寂しそうな目。
いつか学園長に見せてもらった、幼い頃の霧切さんの写真を何故か思い出した。
きっと勝敗以上に、彼女はそこに何かを重ねて見てしまったのだろう。

僕は一歩、彼女の方に歩み寄った。

「……苗木、君?」

少しだけぶつかる肩。
気にせずに、霧切さんがまだ持っている紐に、自分の線香花火を重ねた。
火玉が、二本の糸にくっつく。僕の紐と、霧切さんの紐。

ゆっくりと紐を離すと、上手い具合に火玉が分裂した。
彼女の花火から、もう一度火の枝が散り始める。

「勝負事とか、実はあんまり好きじゃないんだ。引き分けってことにしない?」

意図を理解したらしい霧切さんが、複雑な表情で僕を見る。
呆れたような、疲れたような。悔しいような、嬉しいような。

「相変わらず損をする性分ね、あなたは。せっかくの『幸運』もそうやって、人に分けてしまうのだから……」
「あはは……」
「……」

ぱっ、と霧切さんが手を離して、彼女の紐だけが地面に落ちる。
今度は音もなく消える火玉。

「悪いけど、そういう施しは受けたくないの。負けは負けよ、情けなんていらないわ」

微笑む彼女から、不思議と負けた悔しさは感じ取れなかった。


最後の火玉が落ちると、僕たちはどちらからともなく立ち上がって、帰路に着く。
月もいつの間にか、また雲に隠れてしまっていた。
夏の終わりの海沿いは、歩くにはやや肌寒かった。

「……それで。あなたは私に、何を命令するの?」

前を歩く霧切さんが、振り返らずに僕に尋ねる。
顔を僕に見せたくないとでも言うように、歩調を緩めずに。

「命令ってそんな……特にして欲しいこともないし」
「物欲が無いところも相変わらずね。モテないわよ、苗木君」
「も、モテ……」
「『無欲な良い人』よりも『ちょっと悪い人』の方が、浮気の調査件数が多いのよ」
「……説得力あるね」

そりゃあ、『何でも好きな事を一つ』命令していいというのなら。
これでも思春期の男子高校生だ、簡単に文面には書き表せない欲の一つや二つ、あるけれど。

そして霧切さんのことだ、言ったらおそらく、たいていのことは実行してくれるのだろう。
その後の僕への評価がどうなるかは置いといて。

それに、それ以前に。
穏やかな潮風、薄ぼんやりと月影。
そんな無粋なお願いをするにはあまりに、しとやかな夜。
止めておこう、と心に決める。

相変わらず前を歩く霧切さんの表情は見えなかったけれど、微笑んだような気がした。


「……それじゃあ」

ようやっと案を出す頃には、寮の玄関に着いていた。

何、と口には出さず、霧切さんはようやく僕の方を向いて首を傾げる。
顔色に、不安や恐れは微塵もない。きっと、僕が変な命令するだなんて思いもしていないんだろう。
ちょっとだけ信頼が痛い。

「今度は僕の用事に付き合ってくれないかな……その、二人で」

目を合わせれば、さっきまでの不純なお願いまで悟られそうな気がして、顔を伏せたまま廊下を歩く。

「……」
「あの、嫌だったら嫌でいいんだけど、駅前の」
「いいわよ」

あ、はい。そうですか。
何でもないことのように、僕の申し出は受け入れられた。
これでも精一杯、勇気を振り絞ったのだけれど。断られるよりは良いけれど、これはこれで拍子抜け。

「でも、最後にさ。月を見ることが出来て良かったよね」

拍子抜けを誤魔化すように、わざと声を張る。

「まあ、そうね」
「せっかく海まで見に来たのに、無駄になるところだったし」

場を和ませようとした言葉に、けれども霧切さんは顔を顰めてみせた。

「……無駄じゃないわ」
「でも、」
「無駄なんかじゃ、ないから」

やや頑固な霧切さんは、その一点張りで顔を背ける。
何か譲れないこだわりでもあったのだろうか。
口を尖らせている霧切さん。今日はなんだか、いつもより五割増しで子どもっぽい気がする。

「……それじゃ」
「うん。お休み」
「……今日は、ありがとう。おやすみなさい」
「え?」

どれのことだ、と返す前に、再び扉の向こうに消える。
別れ際は、少し驚くほどあっさりとしていて、そっけなかった。
鍵を閉める音が、やや露骨に廊下に響く。
取り残されたような心地さえして、僕は少しの間、彼女の部屋の前でボーっとしていた。


「……帰ったのか、苗木」

どきり、と心臓が跳ねあがりそうになる。

一人だと思っていた無音の廊下に、気配も感じさせぬまま、いつのまにか大神さんが立っていた。
……失礼ながら似合わない、花柄のパジャマで。

「た、ただいま、大神さん。線香花火、本当にもらって良かったの?」
「構わぬ。今の我には、共に遊ぶ相手も居らぬしな」

朝日奈さんがいるじゃないか、そう言おうとしたところで、大神さんが意味ありげに含み笑った。

「友のことではないぞ。お前も朝日奈も、純朴が過ぎるな」
「え?」
「……まあ、気付いていないとは思ったが」

結局どうして、霧切さんは僕を誘ったんだろう。
どうして、下の名前で呼び合おうだなんて言ったんだろう。
そんな問いが、頭の中でフラッシュバックした。

『……月が綺麗ね、苗木君』。
あの時の彼女の表情が、やけにはっきりと浮かんでくる。

「霧切も、あれで存外分かりやすい女よ。いつもよりも気配が丸く、柔らかかったであろう」

大神さんは、微笑ましい小動物を見るような優しげな表情。

「『逢引して欲しい』などと、女子の方からは素直には言い出せんのだ。自制心の強い奴は、特にな」


夏が終わる。
扉の向こうの彼女の名前を、ふと呼びたくなった。
ツールボックス

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