ナエギリ生誕祭

視界は常に不定形を象り、ぐにゃぐにゃとした線が、シャボン玉の表面のように毒々しい色合いで混ざり続ける。
不快感で身体がくず折れそうなのに、私はそこに存在を固定されたまま、指一本動かせない。
浮いているのか、沈んでいるのか。確かなのは、地に足を付けていないということ。

『―――霧切さんの笑った顔って、すごく可愛いんだよ』

エコーのかかった声が、脳天から響く。
次いで、線が少しずつ寄れて、見慣れた笑顔を形作った。

よく見知った、少年の。

『……■■君のクセに、ナマイキね』

ザザー、と、テレビの砂嵐のような音に削り取られる。
彼が誰かを私は知っていて、けれどもその存在を思い出すことは出来ない。
酷く不思議な心地だ。彼の声も、表情も、何もかもに靄がかかっていて。

けれど、それがかけがえのない大切な存在ということだけは、覚えている。


(……、…やめて)

私は虚空に呟いた。

その悪夢の続きを、知っている。
その『私』が、自分でも知らないくらいに蕩けた笑顔で、彼の手を取った。
驚いたような少年の視線に、『私』がしたり顔で返すと、はにかみながらも指を絡めて、二人の視線も、絡まる。

『私』も、相手の男の子も、幸せそうに、そして気恥ずかしそうに、互いを見つめている。


―――、どちゃ。


唐突だった。
幾度も見たはずなのに、脳がその情報の処理に追い付かなかった。

音。―――肉の、潰れる音。
匂い。―――人の脂と、血の匂い。

絡めていた手の、肘から先が、ぶらん、とだらしなく宙に揺れる。

『…………え、…?』

『私』が目を見開く。
先程まで少年の笑顔があった、その視線の先には、やはり見覚えのある無慈悲な鉄塊。
放射状に飛び散った『誰か』の血が、『私』の足まで汚していた。

『……■■、君…?』

失ったことを受け入れられずに、『私』の声が、縋るように名前を呼ぶ。
当然、返事は返ってくるはずも無い。

「あ、あっ、あぁ、…い、やぁあぁああ、―――――――……っ!!!」

不定形の世界に、慟哭が響き渡る。
私の声か、それとも『私』のか、区別はつけられない。

喪失の痛みには、慣れていたはずだった。
幾度も私は、自分の大切なものを取り零して来たのだ。
なのに、どうして、こんなに、辛い。

『…そりゃそうでしょ。君は、失ったんじゃなくて、自分から捨てたんだから』

しわがれて愛嬌のある、それ故におぞましい声が響く。

『■■君は、霧切さんを守るために、霧切さんが不利になる情報をずっと隠してたんだよねぇ』
「っ…」
『それで自分が不利になっちゃって…でも、霧切さんは■■君を助けなかった』
「…違、」

違う。そう、言い切りたかった。
私だって、彼を助けに向かった。
けっしてこの信頼関係は、一方通行じゃない。

けれど、

『■■君は、そう思ってるかなぁ?』

ぐるん、と、不自然な可動で、『私』の首が九十度周り、此方を向く。

『釣り合わないと思わない? 苗木君は文字通り、命を賭けたんだよ?』

『私』の顔が、―――目がドブのように濁っている以外は、だが―――語りかけてくる。
声はあの悪夢のような人形の声のまま。
『私』が、私を責める。

頭がおかしくなってしまいそうだった。

『君は、絶対に戻れる保障があったじゃないか。苗木君が助かったのなんて、文字通り幸運だったからだよ』
「私、だって…保障なんて、なくても、」
『そもそも君は自分可愛さに、自分が一番大切なものを捨てたんだもん。それで辛いだなんてお門違いじゃない?』
「う、ぅ……あ、」

肺が、痙攣するように呼吸をする。

違う、私は、彼を見捨てようなんて、そんな、

『ねえねえ、どんな気持ち? 自分を無償で、命を張ってまで助けてくれた男の子を見捨てて、今どんな気持ち?』
「あ、ぃや、ぁ、」

喉が震える。否定したくても、声なんて出せなかった。
逃げ出そうと必死で足を動かすけれど、その場からは一歩も動けない。

濁った瞳の『私』が、正面から近づいてくる。

『ねえねえ』『ねえねえ、どんな気『んな気持ち?』切さん『の子を見捨てて』霧切さ『ねえ、どんな気持』


「―――霧切さん!!!」

ビク、と、体が反射で大きく震えて、机が軋んだような音を出した。

じわりと現実の重さが返ってくる。
頭に鈍痛が奔る。固定されていた腕の関節が痺れている。
堪えるように、ゆっくりと目を瞬かせた。

「だ、大丈夫……?」

聞き慣れた声。
子犬が飼い主を気遣うような目が、此方を覗き込みに来る。

「……苗木、君?」
「霧切さん、疲れてるんじゃない? すごく苦しそうだったよ」

確かめるように、男の子の名前を呼ぶ。
締め付けられるような心地がして、此方を覗き込むその顔を直視できずに、目を逸らしてしまう。

「ごめんなさい、その……」
「気にしないで。少しくらい転寝ても罰は当たらないよ」

優しい言葉と共に、渡されたマグカップを手に取る。
気を利かせてくれたらしい、ミルク抜きのアイスコーヒー。
ふと額に手をやると、酷く汗を掻いていた。前髪が張りついている。襟元にも汗が滲んで、気持ちが悪い。

あの夢を見るときは、いつもこうだ。


チク、タク、と、壁掛けの時計がゆっくり秒針を刻む音。
事務所にはどうやら、私と苗木君しかいないらしい。

「……シャワーを浴びてきても良いかしら」
「えっ? あ、う、うん……その、どうぞ」
「いつかみたいに、覗いてみる?」
「は、はは……」

耳まで赤くなった男の子に微笑ましさを覚えながら、備え品のバスタオルを肩にかける。
どうせ自室に戻るまであと一時間、電話番以外にすることはない。

例の一件以来、世界は緩やかに、絶望から立ち直りつつある。

未来機関の黎明期は終わり、これからは少しずつ人も増え、復興に携わっていくことになるだろう。
今は、いわば次のステップに移るための準備期間。
仕事と呼べる仕事はほとんどなく、交代で事務所の番をするのが私たちのせいぜいの仕事になっていた。


ボイラーが上がりきる前に蛇口を捻り、温められる前の冷水を、そのまま頭から被る。
ゆるゆると、背を足を伝って水が流れていくのを感じながら、私はつい先ほどの悪夢を思い出していた。

あの男の子の像は他でもない、苗木君。
私の中で、彼がどれほど大切な存在になっているかは、自覚している。
そしてだからこそ、それを失ってしまう恐怖に、私は怯え続けてもいる。

あの学園で、『失ってしまったことへの恐怖』を、私は知ってしまったのだ。
絶望から再生していく世界で、私一人が恐怖に取り残されている。

身を絞めるような冷たい水は、いっそ心地よかった。
体が生理的に震えようとするのを、奥歯をかみしめてぐっと堪える。

夢の中の影は、滑稽な女だ、と私を笑った。
一度は我が身可愛さに見捨てた相手を、かけがえのない大切なものだと言い張り、そして失うことを恐れている。
違う、と幾度も自分に言い聞かせた。
自分が助かるためじゃない、とか、私だって彼の為なら、とか、言い訳なら何個でも浮かぶのに。

きっとあの影は、私の良心か、潜在意識か。
自分を納得させるための言い訳なんかじゃ耐えられないほどに、その潜在意識は根強い。

それはすなわち、苗木君への、―――


「苗木君への、何……?」

ぽつり、と自問した。
答えは出ないまま、沈黙だけがまだ温い湯とともに、排水溝に流れていく。


―――――


奇しくもその翌日は、私の何度目かの誕生日。
もともと心待ちにしていたワケではなく、無感動に事務的に過ぎ去る、いつもどおりの平日。
そのはずだった。

寝床に就く前に、布団に沈み込むのがやけに心地よく感じたのを覚えている。

その日はいつもの悪夢を見ずに、ただただずっと深みに沈んでいく夢。
ずん、と、深く深く、腰が砕けそうになるほど、脳が蕩けそうになるほど、心地よく芯に染み込む深さ。
目を覚まして、それまで沈み込んでいた分なのだろうか、苦しさと紙一重の浮遊感を感じた。

天井が、ぐらぐらと揺れている。揺りかごの中にいるような。
軽い吐き気と、鈍い寒気。
薄ぼんやりと開けた目を強く閉じれば、頭の中で重い痛みが響いた。

熱がある、確信する。

当然だ、冷水を浴び続けて、ろくに身体も温めずに寝たのだった。
答えを紡げないことなど分かっていたのに、彼の存在とあの悪夢だけが、ぐるぐると頭を回っていて。
それどころじゃなかった、と言ってしまえばそれだけだけど。
自己管理の怠慢。思わず舌を打つ。

怨嗟の声でも上げようか、という体を無理矢理起こすと、ぱさ、と何かが胸元に落ちた。
重みのあるそれは、湿ったハンカチだった。見覚えのある柄模様。

「あ、起きた? ごめん、氷枕の場所分からなかったからさ」
「……洋服棚の下」
「分かった。霧切さん、食欲ある? 適当に果物とか買って来たんだけど」
「今はいらないわ。……それよりも」

とりあえず、隠すように布団の中の自分の姿を確認する。
よかった、悪い酒のあとのような、下着姿のまま眠るという馬鹿はやっていなかった。

「……部屋に不法侵入者がいるようなのだけれど、どうすればいいかしら」

きょとん、と流し台に立っていた少年が、こちらを振り返った。
どこから引っ張り出して来たのか、若草色のエプロンを首元から下げている。

「泥棒でも入ったの?」
「さあ、どうかしら。 あなた、何か盗んだ?」
「え、僕?」

心外だ、と言わんばかり、眉根を寄せる。

「霧切さんが昨日、電話してきたんじゃないか」
「…は?」

枕元に手を伸ばして、履歴を確認する。
発信欄に、『苗木誠』の表示が並んでいた。
午前一時から二時にかけて、三件も。

思わず頭に手をやった。記憶違いということではないらしい、悲しくも。

「……その、電話で私は、何を」
「うん? 分かんないけど、なんていうか、ずっと僕の事を名前で呼んで」
「……もういいわ、だいたい分かった」

思いだすことに危機感を覚えて、彼を止めた。

ぶわり、と熱とは別の浮遊感が、胸の奥から広がってきた。
とんでもなく恥ずかしいことをしてしまったのではないだろうか。
この発信履歴を削除したら、無かったことにはならないだろうか。

「ごめんなさいね、重い女で」
「うん?」

恥ずかし紛れに、茶化してみる。
が、すぐにこの手の策は彼には通じなかったことを思い出した。

「霧切さん、いつも頑張ってるから。たまには僕のことも頼ってよ。ね?」

眉根を下げて、ふわり、と子犬のような笑み。
見事なカウンターである。
頬が、爆ぜるように熱くなった。
熱が上がった気がする。

皮肉や嫌味は、どうも彼には通じない。
天然なのか、計算でやっているのか、どちらにせよタチの悪いことだ。
布団を手繰り寄せて、火照ってきた顔を隠す。

「一応、本部には連絡しといたから。とはいっても、僕も霧切さんも今日は非番だけど」
「……何と言って連絡したのかしら」
「うん? 昨日の夜から具合が悪いみたいなので、って」
「貴方ね、その言い方じゃ、」

まるで。

私が昨日の夜から、貴方と時間を共にしていたみたいじゃないか。

「えっと……不味かった、かな」
「……別に。困るのは、どうせ貴方の方だもの」

子犬が首を傾げる仕草。訂正させるのも馬鹿らしく感じたので、とりあえず背を向け、布団の中で楽な体勢を取る。
別にそれで誤解されたとしても、いや、気恥ずかしいのは確かだけど、困ることはない。
からかってくるような輩がいれば、言って聞かせれば済む話。

ふわり、と鼻孔に芳しい香りが届く。
ぐつぐつと、沸騰している音。ザク、ザク、とリズムよい拍子は、野菜か何かを切っているのだろう。

此処、すなわち未来機関の社宅は、どの部屋も大抵同じつくりをしている。
白塗りの壁に、備え付けのコンロとユニットバス。
苗木君にだけは、いざという時のために部屋の鍵番号を教えてあった。
私が体調を崩した時や、仕事が溜まっている日なんかは、こうしてご飯を作りに来てくれる。
……彼が度を越した世話焼きなのか、それとも私が無精すぎるのだろうか。

「今はいらない、と言わなかったかしら」
「大丈夫だよ、冷めても美味しいから」

的外れな返答に、肺の底からため息が出てくる。

彼の料理が気に食わないわけじゃない。
そうやって気を遣わせてしまっている自分自身が嫌だ。
負担や重荷にはなりたくないのに。
ただでさえ、彼は引きずってしまう人なのに。

「……何を作ってるの?」

ベッドから身体を引っ張り起こす。反動で逆方向に沈んでいきそうになるのを、なんとか堪える。
冷蔵庫には、薬と飲み物しか入っていなかったはずだ。

玄関側の廊下に、大きなビニール袋が二つ。

「卵雑炊……の、ちょっとアレンジかな。鳥胸肉を塩茹でした残り汁で煮込むんだけど」
「相変わらず、手が込んでるわね」

鍋の様子を見ながら、片手間で卵を溶く。
彼の調理する姿を見ていると、不思議とお腹が空いてくる。
餌付けでもされているようだ。語感の割に、満更でもないのはどうしてだろう。

「本当はもうちょっと、豪勢なものを作りたかったんだけどね」
「え?」
「今日。霧切さん、誕生日でしょ」

言われて、はた、と思わず口に手を当てる。
誕生日を忘れていたわけではない。
同期の仲間、すなわちあの学園生活の卒業生同士で、簡単なパーティを催すと連絡があったのを思い出した。

なぜわざわざ本部にまで連絡を、と思ったけれど、そういうことか。
主役が病欠では、パーティも何もあったものじゃない。
きっとそれに備えて、計画も準備も進めていたのだろう。

私の看病のために、中止にして、来てくれたのだ。


「……ごめん、なさい」

自分の声に驚く。あまりにも弱々しかった。
無意識に、謝罪の言葉を口にしていた。
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