「サラダ記念日、って知ってるかしら?」
起き抜けに突然そんなことを聞かれたら、大抵の人は恐らく呆けたリアクションしか取れないのではなかろうか。
平凡代表たるこの僕はもちろん例外ならず、間の抜けた声を発していた――のは、彼女に振り回されっぱなしだった頃の話。
習慣というのは恐ろしいもので、長らく一緒にいるうちに、時折顔を出す彼女の突飛な行動にも慣れてしまった。
まだ完全には覚醒していない頭が勝手に回転して、我ながら眠たそうな声で返答するくらいには。
「ええっと…『この味が、いいねと君が、言ったから、何月何日は、サラダ記念日』…ってやつだっけ」
「肝心の日付がうろ覚えなのね。誠君らしいわ」
「だって昔国語の授業で習っただけだし…割と好きだったから何となく覚えてたけど」
作者の名前は忘れているけど、結構頭に残る短歌だったように思う。
既に成人した今となっては、かつて学校の授業で習ったことなんてほとんど忘れているから、僕にしてはよく覚えていたんじゃないか。
「割と覚えやすい日付でしょう?舞園さんの誕生日の前日よ」
「ああ、7月6日なの?」
「……そっちは全く忘れていないのね」
ジト目で睨まれたと思ったら足を踏まれた。
屋内だった分、ヒールじゃなかったことに感謝するべきかな。
「それでさ、突然どうしたの?今日は別に7月6日じゃないけど」
既に用意されていた朝食を二人で食べつつ、疑問を口にする。
突飛な行動に慣れたとは言っても、別に気にならない訳ではないし。
彼女の方もそう聞かれるのは当然予想済みだったようで、パンを嚥下してから口を開いた。
「つまりね、世間的には特に重要な日ではなくても、当人にとっては何かしらの記念日になり得る、と言いたかったのよ」
彼女は時々こうやって、あえて抽象的にぼかした表現をすることで、僕自身に主張を読み取らせようとする。
探偵であるが故の性なのか、謎解きをするのもさせるのも好きな人なのだ。……単なる暇つぶしの様な気もするけど。
「…ええっと、つまり今日がその何かしらの記念日、ってこと?」
返事はなかったけど、やや満足そうに口角が上がっているから正解なんだろう。
とは言え、僕には今日が何の記念日かなんて全くわからない。サラダ記念日を出してきたことからも、正規の祝日とかではないんだろうし。
彼女は無言で答えを催促してくるけど、心当たりが全く――いや、待てよ。
「もしかしてさ、父の日のこと言ってる?確か今日だったよね?」
母の日と比べて軽視されがちな父の日。それは6月の第3日曜日、つまり今日だ。
僕も覚えていた訳ではないんだけど、先日買い物に行った時、ギフトコーナーに日付が大きく書いていたことを思い出したのだった。
ただ――
「…父の日って、記念日だっけ…?」
「細かいことはいいの。私が今日を『父の日』という記念日だと制定したのだから、それでいいのよ」
「いやいや」
父の日の由来なんて知らないけど、少なくとも響子さんが作った訳ではないだろう。
だけど、正直予想外だった。
父親と複雑な確執のある彼女が、父の日のことを自ら話題に出すなんて。
昔ほどではなくても、未だに決して良好な仲とは言えないのに。
無論、悪いことではない。
僕としては常々、あの二人には早く和解して欲しいと願っていたのだし。
「お義父さんに、何か親孝行でもしたいとか?」
「そんなわけないじゃないなんでわたしがあのひとになにかしてあげなくちゃいけないのよふざけたこといわないで」
…そんな僕の期待はどうやら思い違いだったらしい。ていうかよく一息で言えたね。
まだまだ和解には遠いなあ、と思わず溜息を吐きそうになる。
と、咳払いをして落ち着いたらしい彼女が徐に立ち上がった。
「まあ、とにかく今日は『父の日』だから…贈り物に花を用意したの」
そう言いながら、綺麗にラッピングされた大きな花束を持って来た。
…何なんだろう、これは俗にいうツンデレとかいうやつなのかな。
いや、響子さんみたいなのはクーデレというんだと山田クンが言ってたような気もする。
口では素直になれなくとも、結局父親に何かしてあげたかったのだろう。
これはお義父さん泣いて喜ぶんじゃないかな。
意地っ張りな響子さんも可愛「はい、誠君」……うん?
「…あの、何で僕に渡すの?」
バラを中心とした豪華な花の数々。
思わず反射的に受け取ってしまったけど、これを渡すべきなのは彼女の父親であって僕ではないのに。
「言ったじゃない、今日は父の日だからよ。だからあなたに贈り物をするの」
どこか楽しそうに答えながら、彼女は僕の返事を待っている。
不思議だと思うのなら解いてみなさい、という心の声が聞こえた気がした。
本日2度目の謎解きだ。
「一応言っとくけど、僕は響子さんの父親じゃないよ」
「もちろん知ってるわ。あなたは私の旦那様だものね」
父親の様な存在だと思われている訳ではないらしい。
まあ、当然といえば当然。
「だったら、僕じゃなくて、ちゃんとお義父さんに」
「あのひとにこんなおくりものをするわけないってなんどいえばわかるのかしらいいかげんにしなさい」
似たようなやりとりを繰り返して、今度は頬を抓られる。
何だろう、本当に僕に贈るつもりなのか。てっきり複雑なファザコ……照れ隠しだと思ったのに。
「何か今失礼なことを考えなかったかしら」
冷たい目線が突き刺さる。相変わらず僕は顔に考えてることがバッチリ出てしまうようだ。
「何も考えてないでございます」
「変な敬語は面接で落とされるわよ」
「何の面接なのさ」
会話をしつつ、ひりひりと痛む頬を押さえながら花束を見て考えてみるけれど。
直接父親に渡せないから、僕を父親に見立てて渡したとか。
自分の代わりに僕から渡しておいてほしいとか。
結局はお義父さん絡みの、言ったら今度は引っ叩かれそうな考えしか浮かばなかった。
「どうしたの、誠君。降参かしら?」
煽るように言ってこられたら、やっぱりちょっと悔しいから降参はしたくないけど。
お義父さん絡みじゃないなら、本当に全くわからない。
だって僕は、響子さんの父親じゃないのに。
「……誠君。私は世間的な『父の日』をやっているわけではないのよ」
そんな僕を見かねたのか、ぽそりと彼女が呟いた。
「普通、父の日というのは父親に感謝をする日のことだけど。
私が定めた父の日は、『記念日』だと言ったでしょう?そちらで考えてみて頂戴」
「記念日……?」
そういえばそんな風に言っていた。
だけど、父の日が記念日ってどういうことだろう。
父親記念日?
それじゃあまるで、僕が父親に――
そこまで思い至って、思考が止まった。
え?……え?
「……まさか」
思わず瞬きを忘れ、眼球運動が忙しくなる。
そんな馬鹿な。でももしかしたら。
そう思って茫然と彼女の方を見ると、
「どうやら、やっと理解したようね」
満足そうな顔で微笑んでいる。僕が謎を解いた時に浮かべる顔だ。
つまり、この答えは正解だと、そういうことなのか。
「……、……本当、に?」
「癪だけれど、あの人にも報告には行かないといけないわね。…もちろん、お義父様たちにも」
本当に正解だった。
暫しの間、放心したように力が抜ける。
やがて驚きの中からじわじわと喜びが染み出し、心を満たしていった。
なるほど、『父の日』とはよく言ったものだ。
それなら確かに、この花を受け取るのは僕でしかありえない。
「そう、かあ……。それで記念日だって言ってたんだね」
今日は、一人の父親が生まれた記念日なのだから。
「父親の方は、なかなか実感が湧かないって言うでしょう?だから記念日を作ったのよ」
「あはは、確かに実感はあんまり無いかな。…でも、すごく嬉しいよ」
様々な感情が一気に押し寄せてきて、胸が一杯になる。
彼女の嬉しそうな顔を見て、さらに幸せが満ちていく。多分今僕の顔はすごく締まりがなくニヤニヤしているだろう。
「だったらさ、僕にも贈り物をさせてよ。今日は『母の日』でもあるでしょ?」
「あら、私は誠君の母親じゃないわよ?」
「もちろん知ってるよ。君は僕の奥さんだもんね」
2人して笑い合う。
ああ、でもそうすると僕らの親にとっては『祖父の日』とか『祖母の日』にもなっちゃうのか。
しかも僕は妹がいるから『叔母の日』なんてのもできる。…おばさんって言ったら怒るんだろうなあ。
とりあえずは、この記念日は夫婦間だけでいいかな。
自由に記念日を作るというのも、なかなかに素敵で悪くない。
サラダ記念日はまた忘れても、父の日はきっとずっと覚えてるんだろう。
来年の父の日は、親子三人で楽しく祝えますように――。
「…ちなみに、どうせ報告に行くんだから、お義父さんにも何かプレゼントを」
「するわけないでしょうわざわざあいにいってあげるのだからそれでじゅうぶんじゃないあまやかすとろくなにんげんにならないのよ」
「……さいですか」
最終更新:2014年07月08日 21:54