雨のような人だな、と思った。
それは霧切さんがジメジメしているとか、薄暗い性格だとかいう意味ではない。
では彼女が明るく陽気で溌剌としているのかと聞かれれば、口を閉ざすのだけれど。
雨の魅力というものがある。
寒くないほどの涼気。屋根を叩く音のリズム。立ち上る土の匂い。雨音以外は何もない、静謐。
雨が好きな人は、意外と多いんじゃあないだろうか。
「―――……、どうしたの? じっと見て」
何故そんな事を思ったかって、僕も雨好きの一人だからだ。
紫陽花色の長い髪の隙間から、硝子みたいな瞳が此方を覗いている。
霧切響子、という名の少女だ。
僕の元クラスメイトであり、『超高校級の探偵』その人である。
趣味の悪い真っ赤な壁をポスターで塗りつぶした僕の部屋は、それを除けば健全な男子高校生の一室として模範的なものだと自負していた。
お気に入りの漫画やCDをひたすらに並べた大きな二つの本棚。
これを目当てに、クラスメイトが遊びに来ることも多いので、わりかし清潔も保っているのだけど。
大抵はベッドに寝転がり、持参したお菓子やジュース片手に、だらりとしているものだ。
高校生なんてそんなものだと思うし、僕としても部屋を汚されさえしなければ、それについてとやかく言ったりはしない。
ともかく、そんな僕の部屋に、霧切さんがいるというのは、何度目かになっても目が慣れないものではあるのだ。
ベッドの中央に、ぴし、と背を伸ばしたまま。ブーツも手袋もつけたまま。人形のように本を読む。
そりゃあ、いっそ見入ってしまうのもしかたないんじゃないだろうか。
「……。僕、じっと見てた?」
「じろじろとね。読書の気が散るくらいには」
「ああー… その、ごめん」
僕の謝罪には返さず、ふ、と顔を背け、彼女はまた本の世界へ没入する。
それが気になるのなら、わざわざ僕の部屋で本を読まなければいいのに、といつも思う。
騒いだり、散らかしたりするわけでもないから、別にいいのだけれど。
コーヒーを自前のタンブラーにわざわざ入れて持ってくるのだから、居座る気満々である。
窓の外に顔を向けてみる。
雨足は途切れることなく、先程確認した時と同じように、一定に降り続けていた。
彼女は雨が降る前に僕の部屋を訪れて、雨が上がったと分かれば自室に戻る。
その理由は、幾度尋ねても答えてはもらえなかった。
けれど、僕が雨を好きな一因にはなっているかもしれない。
「……言いたいことがあるなら、はっきり言って」
やや苛ついた調子で、目線を本に落としたまま、霧切さんはそう吐き捨てた。
「あなたのことだから、それで私が気分を害したら、とか色々気を使ってくれてはいるんでしょうけど」
「う…」
「気になったことを相手に悟らせずにいる、なんて器用な真似、できるとでも思ったの?」
『馬鹿正直の苗木君』。
そう付け足す霧切さんの口は、僅かに緩んでいる。
さて、どうしたものか。
『霧切さんって、雨みたいな人だよね』なんて言ったところで、怪訝な顔をされるだけだろう。
考えていたことを上手く伝える言葉を、僕は彼女ほどには持たない。
かといって、では、どう切り抜けるのが正しいか。
「どうしたの、苗木君。…私に言えないような事でも考えていたのかしら」
咎めるような目に、僕は思わず愛想笑う。
(仮にそうだとして、『はいそうです』だなんて正直に言えるわけがないじゃないか…)
霧切さんの表情は、意外と豊かだ。
一口に雨と言っても、その種類がたくさんあるのと同じように。
共通の友人たちにそういうと、多くの場合は否定されてしまうのだけど。
「どうして…霧切さんは、雨の日になると僕の部屋に来るのかな、って考えてたんだ」
誤魔化してみる。
彼女について考えていたことは本当だ。
上手に嘘をつくコツは、真実を混ぜて話すことだ、と舞園さんが教えてくれた。
心なしか、霧切さんが目を細める。
不機嫌な時のサイン。
『なぜわざわざそんな事を聞くの』、とでも言いたげだ。
「……雨宿りよ」
「霧切さんの部屋って、雨降ってるの…?」
「部屋の中に雨が降るワケないでしょう。あなたは何を言っているの?」
ぴしゃり、と手酷く突っ込まれてしまった。
彼女の冗談に合わせただけなのに、あんまりじゃあないだろうか。
「…あなたの部屋に来るのには、いちいち理由が必要なのかしら」
「そうじゃないけどさ、気になって」
ぱたり、と読んでいた本を閉じる。
それからおもむろに立ち上がると、霧切さんは僕に目を合わせないで、小さな声で口早に告げた。
「……ただのクラスメイト以上の仲になれた、と… そう思っていたのは、私の方だけだったみたいね……」
「え…?」
「…お邪魔して悪かったわ。 ……、…さようなら」
「ま、待って!」
扉の方へ歩き出そうとする彼女の腕を、気付けば手に取っていた。
「そういう…意味じゃないんだ、ホントに… 僕だって、霧切さんが遊びに来てくれるの、本当は…」
「……迷惑なんでしょう」
「それは違うよ! ぼ、僕も、霧切さんのこと、…ただのクラスメイトよりも、ずっと、」
はた、と。
そこで言葉を区切ったのは、ひくり、と震える彼女の唇に気が付いたからだ。
「……霧切さん?」
「…まあ、あなたがそこまで言うのなら… これからも来てあげなくもないわよ?」
『馬鹿正直でお人好しの苗木君』。
さっきよりも一言多く、それはもう愉快そうに付け加えたので、僕はまたしても彼女に担がれたことにようやく気付く。
僕が気付いたことに気付いたようで、もう笑みを隠すことはしていない。ニヤニヤと、底意地の悪い笑い方だ。
「……はあ」
結局、なんだかんだで本心を僕に教えるつもりはないらしい。
彼女の言う所の、それは『弱み』に当たるのだろう。
必要以上に級友と関係を結ばないのも、あまり感情を表に出さないのも。
彼女にしてみれば、それは弱みを作ってしまうから、だそうだ。
ともすれば、僕の部屋に来るのは、僕が『弱み』を見せても大事はない相手だと認識されているからなのだろう。
彼女にとって、その程度の人間なのだ、僕は。
(…つまり、『都合のいい空間』ってことだよな、この部屋が)
別に、それでも悪い気はしない。
彼女は知的で、大人びていて、まあ、そんな人が同じ部屋にわざわざいてくれるというのは、悪い気はしないというか。
これでも思春期の男子真っ盛りなので、その理由がどうあれ、拒んだりはしないつもりだけれど。
「……嫌いなのよ、雨」
ぽつり。
降り始めの最初の一粒のように、唐突に呟いた。
顔を上げて、そこでようやく、いつの間にか自分がうつむいていたことに気付く。
彼女は僕の顔をじっと見ていた。いや、というよりも、表情を観察していた、と言った方が正しいのかもしれない。
僕が自分でも分かるほどに自分を卑下しようとした、まさにそのタイミングで放たれた言葉だった。
「…自分自身を見ているようで、嫌いなの」
繰り返すと、彼女はベッドに再び腰を落とす。
先程よりも、半歩分左にずれた位置だった。
「……えっと、」
「座って」
「あ、はい…」
空いたベッドの隙間に、僕も腰を下ろす。
というか、僕の記憶が正しければ、ここは僕の部屋で、これは僕のベッドで、その発言は本来僕がするべきものではないだろうか。
なんて、言い出せるような空気でもないので、黙って彼女の次の言葉を待つ。
「……雨の日に、一人でいると… 何をしていても雨音は耳に入るし、肌寒いし、暗いし…
そういうのを無視できなくなるでしょう。自分と、雨しかないから。嫌でも見つめてしまうのよ」
「けど……苗木君は、同じ部屋にいる私のことを気にかけてくれる。
この部屋にいると、……私は一人じゃないって…そう思える。
すると、不思議と… 雨が降っていることも、気にならなくなるの…… それだけ」
とつとつと、言葉を探るようにして、打ち明ける。
いつもの理路整然とした語り口からは想像もできないくらい、不器用さが滲んでいる。
けど、そうやって吐き出した言葉は。
雨が苦手だと、一人でいるのが辛いと、打ち明けたそれは―――彼女にとっての『弱み』じゃあないだろうか。
「……」
けれども、得心は言った。
彼女は、この部屋に来ることを『雨宿り』と称したのだ。
雨から、嫌いな自分から、逃げて来たのか。
「……やっぱり、迷惑?」
「そ、そんなことないよ!」
「でしょうね」
「で、でしょうね、って……」
「苗木君ならそう言ってくれるって…分かってるから、雨の日は隣にいて欲しいのよ」
う、わ。
今のは、ずるい。不意打ちだ。演技だとしても、本心だとしても。
目を細めて、甘えるように微笑む。
そんな表情、初めて見た。もしかして、彼女もこんな風に笑うのは初めてだったんじゃないだろうか。
「……内緒よ?」
「え?」
「私が、雨が苦手だっていう話。他の人にはしないで」
どうして、と尋ね返そうとして、その頬に僅かに朱が差していることに気が付いた。
「……わかったよ」
他人の弱点をふれてまわるような、悪辣な趣味はない。
彼女にとっても、それをさらけ出すというのは、きっと勇気のいる事だったのだ。
頷くと、安堵したように霧切さんが頬を緩めた。
……けれども、それで済ますのも癪だ。
今日はずっと、霧切さんにやられっぱなし。……いや、今日に始まった話ではないんだけど。
「……でも、別段内緒にする話でも、ないかもしれないわね」
「?」
「そもそも雨が好きな人なんて、いないもの。珍しいことじゃあないわ」
そう言って、もう一度立ち上がる霧切さん。
その手を、もう一度掴む僕。
「……何?」
「僕は、雨のこと好きだよ」
間。
「雨の冷たさも、静けさも… 霧切さんは嫌いかも知れないけど、僕はそれが魅力だって思うかな」
「な、何を言ってるのよ…… いきなり…」
「霧切さん、ちょっと頬が赤k」
「なっていないわ。馬鹿なこと言わないで」
分かっている。
この流れでそんなことを口にすれば、『そう』聞こえてしまうことくらい。
だけど、明言はしない。なぜなら、これは反撃だからだ。
あんなにからかわれたんだから、少しくらい調子に乗っても、バチは当たらないはずだ。
「……っ、馬鹿」
はずなのだ、けど。
「あの、霧切さん……?」
「……、……」
耳まで真っ赤にしたかと思うと、霧切さんはそのままうつむいてしまった。
どうしたんだろう。思っていた反応と全然違うことに、僕は驚いて、彼女の手を離す。
瞬間、電気が奔ったかのように身をひるがえした。
玄関扉のドアノブまで大股でつかつかと歩いていったかと思うと、そこで振りかえり、
「……覚えてなさい」
じとり、と、それはもう雷雲のような不機嫌そうな形相で僕を睨みつけ、部屋を出て言ったのだった。
頬が真っ赤に染まっていなければ、悲鳴の一つでもあげたかもしれない。
……窓の外では、ひときわ大きな雷が鳴り響いたところだった。
最終更新:2014年09月16日 15:13