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「夏は嫌いだな。暑くてなにもする気にならないよ」
夏の夜、蒸せ返る暑さに思わず不満を口にするボク。霧切さんは作業する手を止めることなくこちらにちらと目をやり、「冬にも似たようなこと言ってたわ、貴方」と返してきた。
「あれ、そうだっけ?」
「自分で言って覚えてないの?」
すみません、何も覚えてません。
「呆れた」
はあ、と溜息を澪す霧切さんの額にもうっすらと汗が滲んでいる。やはり霧切さんも暑いのだ。



「いやでも、冬は着込めば暖かくなるけどさ、夏はどうしようもないんじゃない?」
「確か冬の時は『冬はいくら着ても寒いから嫌いだな。まだ扇げば涼しくなるぶん夏の方がマシだよ』……だったかしらね」



ささやかな反抗も、過去の自分に反論されてしまい、ボクにはもう返す言葉がない。……というか霧切さん、なにも声音まで再現しなくても。



冬の自分の忠告通り、ノートでぱたぱたと自分を扇いでみるものの、生暖かい空気が顔の周りを通り過ぎるだけで、一向に汗は引く気配がない。
……過去の自分を、心の中で「それは違うよ」と論破するボクだった。





それにしても、とにかく暑い。本当に暑い。
なにしろ暑いのを気候だけのせいにするつもりはない。なんでも、電力の節約だとかで、夜間は施設内のエアコンは作動しないことになっている。そのせいでボクと霧切さんは、この蒸し暑い熱帯夜を対策無しで残業に励む羽目になったのだ。



ああ、暑い、暑い、暑い--
ぽたり、と落ちた汗が書類を濡らす。





今日は祭が開かれていて、十分ほど前までは外から微かにお囃子や鈴の音が聞こえていたが、今はそれも止んでいた。



実を言うと、ボクは霧切さんを祭に誘うつもりだったのだ。しかし、その事を知ってか知らずか現れた上司に、突然残業を頼まれてしまった。



『すまん苗木!悪いけど今日の仕事、代わってくれないか?いや実は、今夜の祭に彼女と一緒に行く約束しててさ……』
よほどボクがイヤそうな顔をしていたのだろう、上司は「すまん、お土産は買ってくるから」と言うなりそそくさと逃げるようにその場を去っていった。



こうして、霧切さんと一緒に屋台を練り歩いたり花火を見たり……といったボクの夢は、あっけなく崩れたのだった。



まあしかし、霧切さんが手伝いを申し入れてくれたのは不幸中の幸いといったところか。
少なくとも、祭の夜に一人きりで残業、といった悲しい事態は回避することができた。



あわよくば、残業を早めに片付けてしまえば霧切さんと祭に行けるかも……なんてことを最初は考えていたが、先輩が残した仕事の量を見て、それは叶わぬ夢だとすぐに気付いた。
わずかに残った希望もはかなく散ったのだった。





ああ、霧切さんと一緒に花火を見たかったな……
そんなことを考えていると、不意に外からどん、どんと音が響いた。祭の大トリ、花火大会が始まったのだ。
しかしまだまだ仕事は一向に終わりそうにない。これでいよいよボクの夢は完全に打ち砕かれた。



花火、せめて窓からだけでも確認しておくか……そう思い、窓に近寄ってみて気付いた。
「花火会場、窓と逆側だ……」
これでは窓から花火を見ることすらできないじゃないか!酷い、酷すぎる……
暑い中、祭りにも行けず働いている者に対してこの仕打ち。神様は残酷だ。
やっぱり夏なんて嫌いだ、と呟いて自分の席に戻り、仕事を再開する。いつまでも鳴り響く花火の音が耳障りだった。



………………



ようやく仕事を終えた時刻は、夜の十時過ぎ。完全に祭は終了している時間だった。もうとっくに、花火の音は鳴り止んでいた。



満身創痍、疲労困憊。暑さと湿気と祭に参加できなかったショックも相まって、ボクの疲労は限界まで達していた。
さっさと家に帰って眠ろう。今日のことはもう忘れよう。
霧切さんに手伝ってくれたお礼を言った後、そんなことを考えながら帰る準備を進めていると、すでに帰り支度を済ませた様子の霧切さんから声を掛けられた。



「苗木君、もし良かったら、今から花火を見に行かない?」
「え?花火って……もう祭は終わってるよ?」
「いいから」



霧切さんに促されるままに、帰り支度を済ませ、ボクは階段を降りて入口のドアを開ける。





施設を一歩外へ出た途端、涼やかな夜風が頬を撫でていった。
シャツを濡らしていた汗もたちまち引いていくようで、仕事場との温度の差に驚いてしまう。案外、建物の中の方が空気が動かないぶん暑いのかもしれない。
鈴虫たちの鳴き声も涼やかな雰囲気に一役買っていて、心地良かった。限界に達していた疲れが少し安らいだような気がした。



霧切さんの後を追ってしばらく歩く。
たどり着いた場所は、河原だった。先程まで祭が開かれていた場所。
当然のごとく人ひとり居なかった。それでも屋台などが電気を切られた状態で放置してあるところを見ると、片付けは明日以降にするのだろう。



賑やかな祭の名残を横目に、ボクたちは土手の石階段を降りて行く。
「ここにしましょうか」
そう言って、川と道の中間あたりで霧切さんは立ち止まった。
「それで、花火を見るって……どういうこと?」
もう花火大会は終了したはずなのに。



「これよ」
霧切さんがスーツのポケットから取り出したのは線香花火だった。よく売ってある花火のセットに大抵入ってるやつだ。ご丁寧に綺麗な和紙で包まれている。



ここでボクはようやく霧切さんの意図を理解した。霧切さんは、ボクたちだけで花火大会を開こうとしているのだ。
その規模は、この場所で少し前に開かれていたものとは比べ物にならないくらい小さいけれど。



用意のいい霧切さんが、持ってきたライターで線香花火に火をかざす。シュッと小さな音を立てて花火に火が灯った。



その場にしゃがみこんで、ぱちぱち、ぱちぱちと音を立てて揺らめく炎を二人で見つめる。あまり本数はないから、火を付けるのは一本ずつだ。
大きくて派手な花火もいいけど、小さな花火も風情があっていいものだな、と思った。



霧切さんの息遣いが聞こえる。ふと横を見ると、線香花火の光に照らされた霧切さんの横顔があった。
長い睫毛に、透き通る銀髪。ゆらゆらと揺れる光に照らされて神秘的な美しさを放っていた。
思わず見惚れていると、こちらの視線に気が付いた霧切さんと目が合った。じっと見つめ合う。



さらさらと流れる川の音と、りぃんりぃんと鳴り響く虫の音に包まれながら、ボクたちは互いに引かれ合うようにキスをした。



やがて線香花火の玉が落ちて、辺りが再び暗闇に包まれても、ボクたちは唇を重ね合わせていた。



……



「夏も意外といいもんだね」
ようやく唇が離れた後、そう言ったボクに霧切さんはクスリと微笑んだ。
「冬にも似たようなこと言ってたわ、貴方」

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