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吹き付けてくる風が冷たいと気づいたのは、自室の扉の取っ手に手を掛けてからだった。
強い陽射しは、十月に入った今日に至っても、疎らに姿を覗かせていたとはいえ、
今の時刻にはとっくに日は沈んでいて、あれ程放射していた暖気も、何処かへと去って行ってしまった。
感じる肌寒さは既に秋のそれで、当たり前だが季節は移り変わっていた。
だけど、背筋の冷たさは、この空気のせいでも、ドアノブの無機質な温度のせいでも無かった。


霧切さんと顔を合わせるのが気まずい。
本当だったら、今頃は後ろめたい思いなどせずに、笑い合えていたはずなのに。
寄りによって、こんな日に人員が足らなくなることもないだろうに。
積み重なった過労にやられたのか、季節の変わり目にやられたのかは知らないが、少し寂しくなった職場を思い出す。
通常の業務内容をこなし切ることは叶わず、求められるタスクが増えるのは至極当然ではあったが、それをしょうがないと思えるほどは前は向けない。
重ね重ねに、急に外回りに出されて、隣で手助けしてもらうことも叶わないし……。
差出人に彼女の名がある、先に帰ったというメールに、返信する指は嫌に鈍かった。


ここに帰った頃には夜も大分更けていて、帰宅の知らせを聞いてからは随分と経ってしまった。
……折角の、霧切さんの誕生日なのに。


慣れ親しんだ扉の開け閉めが、酷く困難に思える。でも、ここで悩んでいるのはいけないよな。
先延ばしにしたって、悪いことは起きても、良い事は起きないんだから。
ふう、と一息ついて、ドアを開けた。


「ただいま! ……ってあれ?」


家の中は、妙に物静かだった。なんだか人気もしないけど、並べられた靴を見るに、霧切さんが居るのは確かそうだ。
靴を脱ぎ、三和土に上がる。荷物を置いて、リビングへと足を運ぶと、電気が点いていなかった。
おかしいな、と思いながら、灯りを点けると、ソファーに横たわった霧切さんの姿が露わになった。


「……寝ちゃった、のかな」


「いいえ、起きているわ」


ボクが呟くと、霧切さんはむくりと身体を上げた。


「ってうわっ!? びっくりした……。あっ、ごめん、大声出しちゃって」


「別にそれは構わないのだけれど……日付、変わってしまったわね」


霧切さんの少し寂しそうな声を聞いて、時計の秒針を確認すると、十二時を十五分程過ぎた時刻を差していた。


「本当にごめんね……。折角、一緒に過ごそうって約束してたのに……破ってしまってさ」


「別に、あなたが悪い訳ではないでしょう? 気に病む必要は無いわ」


「それでも、約束を守れなかったのは一緒だからね。……あの、代わりと言うのも難だけどさ、珍しく、明日からは連休が取れたでしょ?
埋め合わせにすらならないかもしれないけど、休みの間は、霧切さんのお願いは出来るだけ聞くよ」


「……本当に、埋め合わせになんて、ならないわよ」


霧切さんは、沈みようを包み隠そうともせずに、顔を俯かせた。


「……例え、二日でも三日でも四日でも、埋め合わせになんかならないのよ。
一日の重みが、昨日とは全く違ってしまう……。私は、あなたに、……苗木君に、自分が生まれた日を祝って欲しかったの」


弱弱しい、鋭さの欠片も無い言葉が、ボクの胸に深く突き刺さった。
キリキリとした痛みに、身体を大きく揺さぶられる。眩暈すら覚えそうになってしまう。
……だけど、これは甘んじて受けるべき物だと思う。だって、霧切さんは、もっと痛いんだから。


隣に腰を掛けて、ゆっくりと霧切さんの頭を撫でた。本当に、子供っぽい慰めでしかないけど、今の霧切さんはびっくりするぐらい幼く見えたから。


「そうだよね。埋め合わせになんてならないよね。……だから、さ。二日でも三日でも四日でも足らないなら、霧切さんの気の済むまで、ずっと一緒にいるから。
いつになったら足りるかも分からないけど、それならいつまでも付き合うよ」


「……ありがとう。本当に、嬉しいわ。……ところで苗木君」


「えっ? なにかな?」


「さっき、送ったメールは見たかしら? 返信が無いのはしょうがないけれど」


「ごめん、気付かなかった……」


「じゃあ、ちょっと見てくれる?」


「う、うん」


急な言葉に戸惑いつつも、端末を取り出し、スリープを解いた。
……あれ?


「ねぇ……霧切さん」


「何かしら?」


「まだ、十一時にもなってないんだけど……」


「あら、ばれてしまったのね」


大根役者でもしないぐらいの棒読みが、虚しく響いた。



「ごめんなさい。正直、本当に騙せるとは思わなかったわ。一時間以上も誤魔化すなんて、流石に違和感を覚えて当然のはずだから。……バカ正直ね、いつまで経っても」


くすくすと笑う霧切さんに、身体の力を抜けさせられてしまう。
なんだよ、それ。……でも、怒りを覚える前に、かわいいと思ってしまうのは末期的だった。


「本当は、そんなには気にしていないのよ。寧ろ、一番辛いのは、優しいあなたの方でしょう?」


さっきとは反対に、項垂れるボクの頭を、霧切さんの手が撫でた。
手袋越しで、感触も皮のそれだったけど、なんだか柔らかくて温かい。
心地よい温もりに、目を細めた。


「だけど、少し、気持ちのやり場が無かった……のかしら。前は、自分の生まれた日にそこまで執着はしていなかったはず……。
でも、あなたの帰りを待っていたら、何故だかそんな感情が湧いてきてしまう……。やっぱり、難しいのね、人の感情というものは。だからこそ、大切なんでしょうけど」


「……そうだね」


普段はあまり出さないようにしている分、霧切さんは気持ちの整理が難しいのかもしれない。
それに、ボクは教えてもらったから。本当は、誰よりも感情が豊かな人だってことを。最初は感情が無いなんて言ってしまった自分を殴りたいぐらいに。
だから、きっと尚更なのかな。


「多分、あなたに甘えたかったのね。落ち込んだふりをしていれば、きっと、懸命に慰めてくれるでしょうから。
……でも、ちょっと甘えすぎかしら。心配するあなたの気持ちを踏みにじってしまった……だから、お願いを聞くなんていうのは、私の方の台詞かもしれないわね。
苗木君は、私にして欲しいことはあるの?」


「……へ?」


「……何をそんなに顔を赤く染めているのかしら。やっぱり、苗木君も男の子なのね」


「お、男の子って……ごめん、ちょっと頭を冷やす時間をくれないかな? その、一応あるんだと思うから」


「ええ、待っているわ」


霧切さんの手が離れて、少し名残惜しさを感じた。……でも、そんな必要も、ないのかな。
あると思うなんて、大嘘だった。はっきりと、確かなお願いがある。
ただ、時間が欲しいのは、切実なぐらいに本音だった。


ズレている時計の秒針が進む音が、鮮明に聞こえる。
時間が狂ってしまっているのは、ボクの方も同じかもしれないから、波長が合っているのかも……なんて馬鹿らしいな。
一秒が、重い。圧し掛かっていく想いに、潰されてしまいそうだ。
だから、早く、吐き出したい。いや、吐き出すなんて、ぶっきらぼうには言いたくない。
大切に、紡がないといけない言葉なんだ。……この先も、彼女と、霧切さんと歩んでいくためにも。
隣にいる、霧切さんの瞳を見つめる。……結局、いつもこの瞳に引き寄せられていたし、救われていたのかもな。
多分、これからもずっと、同じなんだと思う。だから。


「手袋、取っていいかな?」


「……えっ?」


出来る限り、優しい声色で言ったつもりだったけど、霧切さんは大きく目を見開いている。
しょうがないよね、ここまで、踏み込んじゃったんだから。
だけど、踏み荒らす様な真似は絶対にしたくない。波立つ心を鎮めて、霧切さんの返答を待った。


「……意味は分かっているわね?」


「うん。それに、言ったでしょ。ずっと一緒にいるって」


「それは、私が卑怯な真似をしたから……」


「……でもさ、霧切さんはいつも言ってるよね?」


「……何を?」


「ボクは、バカ正直なんだよ?」


「……ふふっ、自分で言うのかしら、それを。……私の降参よ」


霧切さんは、強張った表情を解いて、一つ、息を吐いた。


「そんなあなたに免じて、私も、正直な気持ちを言うわ。一回、止むを得ない形で外すことになったけど、やっぱり、怖いの。
……それに、苗木君にだけには見られたくない。……でも、苗木君にしか見せたくないの。
可笑しいわね、本当に。あなたは、矛盾を突くのが得意でしょう? 私の心も紐解いてくれないかしら?」


「……それは、違うよ」


壊れものを扱うように、両手で霧切さんの右手を掬い上げた。


「矛盾していて、ぐちゃぐちゃなのは当たり前なんだよ。霧切さんは頭が良いから、直ぐに答えに行きつけるのかもしれないけどさ、
だからこそ、解き明かそうと考え過ぎちゃうんじゃないかな。さっきもそうだったし、……それに、お父さんの時もそうだったよね。
……有耶無耶のままにするのは辛いし、考えちゃうのも分かるよ、それに、キミは多分、簡単に割り切れるような人じゃないでしょ?
……いいんだよ、霧切さんはそのままで。そんな霧切さんだから、ボクは好きになったんだから」


「……そう。……苗木、君」


「なに?」


「手袋、取って、くれる、かしら」


「……うん」


彼女の震えを止める術は、ボクには分からなかったけど、それでも、溢れ出しそうな愛情を両手に込めていた。
……正直、ボクも怖かった。霧切さんの手がじゃない。霧切さんを傷つけてしまわないか、不安で不安で仕方ない。
彼女がどのような道を辿って、今に至ったのかは知らない。だから、ボクの言葉で彼女の手を愛しても、剥き出しの刃物にも等しくなってしまうのかもしれない。
でも、それならば、せめてこの手で、大好きだよと言ってあげたいんだ。


霧切さんの、手袋を外した。



「……何も、言わないの?」


どれぐらい経ったのかな。分からないけど、必死で霧切さんの手を愛していることは確かだった。


「……何も、言えないんだ。何も、知らないからね」


そう返すのが、精一杯だった。
ボクは、上手く笑えているのかな。


「……そう」


手を剥き出しにしてから、無表情を貫いていた霧切さんが、少しだけ頬を緩めた。


「だからさ、もっと教えてくれないかな。勿論、霧切さんが話したくなったらでいいからさ。
……知りたいんだ。キミの事が。……あはは、なんか昔からこればっかりだね」


「……苗木君、一つ、聞いていいかしら?」


「うん、どうしたの?」


「私なんかで、いいの?」


「な、なんで?」


「……私は、いつもあなたの優しさに甘えて、付きまとってばかり。愛想もないし。明るく振る舞うことも出来ない。
ストレートに優しい言葉を掛けてあげることも出来ない。理不尽を押し付けてばかり。容姿だって、少なくともこの手を見ればお察しよ。
あなたには、もっと優しさを向ける対象が沢山いるんじゃないかしら?」


「……あのね、取りあえず付きまとわれてる印象はないんだけど。寧ろボクの方が必死に構って欲しいと思ってたよ。
昔はすぐどっかに行っちゃうし、まともに会話も続けてくれないんだから。それに霧切さんは結構表情豊かだし、暗いというよりは落ち着いてるだけだよ。
あと、納得行かない思いをされられたことは確かに一杯あるけど、いつも助けてくれるし、本当は甘いよね。容姿はその……逆に釣り合いが取れてなさ過ぎて怖いよ。
前から確かに美人だなぁとは思ってたけど、今は色んな顔を見せてくれるから……あの、かわいすぎて辛いというか……」


「……も、もういいわ」


「……んっ!?」


唐突に、唇を奪われた。勢い余って、少し歯がぶつかってしまうぐらいだった。
色気もへったくれも無い、不器用なキスだったけど、それでも胸が昂ぶってしまうのは相手が悪いせいだと思う。


「な、なんで口で塞ぐのさ!」


「……今は手を使う発想が出なかったのよ」


「あ、そ、そうだよね……」


「まあ、片手は空いているんだけど……」


「……そうだよね」


「……不器用なだけね、お互いに」


「あはは、そうだよね……」


乾いたような、湿ったような笑いが出てきて、少しだけ涙が出そうになった。
霧切さんも、笑っていた。


「そういえばさ、ボクも一つ言いたいことがあるんだ」


「……何?」


「さっき、優しさを向ける対象が沢山いる、って言っていたよね?」


「……ええ、言ったけれど」


「あのさ、確かに未来機関の一員として、多くの人を救いたいし、助けたいのは事実だよ。
でもね、ボク個人が出来ることなんて、結局は背中を押してあげることとか、絶望から抜け出す切っ掛けを作ってあげるとか、それぐらいなんだ。
正直、世界の現状を直視するたびに、自分の卑小さとか、平凡さを突きつけられている気分になるよ……。
本当の意味でボクが優しく出来るとか、救える人なんて、限りなく少ないんじゃないか、って感じてしまうぐらいに。
ただ、ね。それって、当たり前のことだと思うし、その少ない人に優しく出来るってことも決して簡単じゃないんだよ。
元々、苗木誠の手が届く範囲は、大して広くないんだ。ボクの取り柄なんて、人より少し前向きな所ぐらいだからね。
一人の人間が苦しい時に寄り添ってあげることも、支えてあげることも、大それた言い方をすれば、守ってあげることも、容易じゃないのかもしれない。
それでもね……こんなボクを希望と言ってくれたキミの手ぐらいは、ちゃんと、握っていたいんだ。
……えっと、ここまで言えばわかるかな?」


「……ふふっ、少しは言葉を飾る事を覚えたらどうかしら? 本当に、バカ正直さは直らないのね」


「だ、だよね……。ごめん、情けないよね」


「冗談よ。そんなあなただから、私は惹かれたんだから」


「……そ、そっか」


「……ねぇ、苗木君」


「……なに?」


「……離さないでね」


「……うん」


「どうしたのかしら? これは」


テーブルの椅子に腰を掛けた霧切さんは、正面に視線を向けると、怪訝そうに観察し始めた。
……いやいや、こんな時までお仕事をしなくていいでしょうに。向かい側に座っているボクは、苦笑交じりに頬を掻いた。
それに、別に、何の変哲もない、ただの食べ物なんだから。と思ったけど、普通とはちょっと違うのはそうかもしれない。


ケースを開けて、中身を外気にさらした。


「ただの、バースデーケーキだよ。急いだ割には形が崩れてないかな……良かった。年齢分のろうそくもあるけど、火消してみる?」


「……子供じゃあるまいし、恥ずかしいわよ。……まあ、でも折角あるならしょうがないわね。やってあげましょうか」


口振りとは裏腹に、霧切さんは露骨に表情を崩していた。……結構子供っぽい所があるよな、なんて、言えないけど、こんな所もかわいくて好きだった。


「コーヒーでも淹れてきましょうか、少し、取りに行ってくるわ」


霧切さんは、立ち上がって、ボクに背中を向けた。何故だか、去っていく彼女に謂われない不安を覚える。
なにか、忘れているような。


「あっ!」


「……どうしたのよ、急に」


呆れたような眼差しをこちらに向けられた。……うん、向いてくれてよかった。


「誕生日おめでとう! 響子さん!」


「……ええ、ありがとう、誠君」

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