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 晴天の下、波の音を聞きながら苗木誠は用意してきたおにぎりを頬張る。
 咀嚼しながら身体の前にある釣り竿に目を向ける。

「思ってたより釣れないね」

 じりじりと攻撃してくる日差しは12時を回り強くなる一方。その上、狙いの小アジはクーラーボックスに5匹しか入っていない。

「そうかしら? 私は順調だと思っていたわ」

 苗木はちょっとだけ首をかしげて右隣を見る。同じように首をかしげ、長い髪を垂らしている霧切響子の瞳にピントを合わせる。
 いつもと変わらないように見えて楽し気な色をしている瞳を見ると、愚痴をこぼした自分が情けなく思えてくる。

「5匹ぐらい霧切さんが全部食べちゃうでしょ?」
「そうかもしれないわね」霧切が柔らかく笑う。「あなたが食べたいと言っていたのにね」

 苗木は力なく笑みを作る。
 二人でアジ釣りに来たのは3日前の晩ご飯のあと、彼がテレビに映るフライを見ながら「明日はアジフライなんてどう?」と彼女に話をふったからだ。
 いまの季節なら釣れるかもしれないと話は発展し、土曜日に二人して出かけることになったのだ。

「わあっ! パパすごーい!」

 少し離れたところので声がする。家族連れの父親が何匹も一度に魚を釣り上げていた。表情までは見えないが、きっといい顔をしているに違いない。

「すごいね、あのお父さん。もう20匹ぐらい釣ってるんじゃない?」
「子供が釣った分も合わせればお腹いっぱいになりそうね」
「……もっと頑張るよ」
「あら」霧切がくすっと笑う。「そういう意味で言ったわけじゃないわよ」

 そうは言われても、せっかく電車を乗り継いでまで釣りに来たのだから成果を上げて帰りたい。せめて二人ともお腹いっぱいになるぐらいには。

「ところで苗木君、私たちはサビキ釣りという方法をとっているけど、どうしてサビキ釣りと呼ぶのかわかるかしら」

 苗木は首をふる。

「サビキとは餌に似せた擬餌針のことよ。それをさびくように動かすから、この名前がついたそうよ」

 竿にオモリと擬餌針、それにコマセと呼ばれる魚をおびき寄せるための餌をカゴに詰めて装着させ、カゴからこぼれた餌をカモフラージュに擬餌針を食べさせるのがサビキ釣り。
 餌を海中に巻くために竿を引くように動かす必要がある。

 実は苗木はそのことを知っている。

「そして、いまひとつ釣れないときは場所を変えるか、餌を少し深く入れれば改善するかもしれないわ」

 その改善策もいまのいままで思い出せなかったけど、一度は頭に入れていた。
 なぜなら――

「……っていうのを昨日ボクのパソコンで調べてたよね」
 霧切が目をぱちぱちさせて、それからうつむいた。「……あなたのパソコンで調べていたかしら」
「うん、履歴が残っていたから」
「…………そう」

 知らないふりをしていた方がこの場ではよかったのは理解しているつもりだったが、どうしても言わなくてはならない理由があった。

 付き合いだしてから、霧切が苗木のパソコンで調べ物をするようになった。
 下着や彼へのプレゼントなど、ちょくちょく彼には見られない方がいいものを検索しているときがあって、それが履歴に残っていることがある。
 そういった事故を苗木はなくしたいと考えている。

 自分にだけ大きな隙を見せてくれるのはうれしいが、プレゼントなんかは彼女が計画していることに気づいていることを悟られないようにする必要があって、非情に骨が折れる。

 たぶんボクの部屋でも自分の部屋のようにリラックスしてくれているから、こんなことになるんだろう。だけど隠すべきところまでさらけ出されると少し困る。

「……ねえ」温い風を肌で感じながら苗木が提案する。「場所変えてみる?」
「…………」

 霧切は自らの竿を握ってコマセと疑似餌を海中深くに沈めることで苗木の言葉に応える。

「えっと、移動しないってことでいいんだよね?」

 霧切はわざとらしく口をすぼめるだけでなにもしゃべらない。

 ああ、不機嫌になってしまった。問いかけに応えない行為が彼女の不機嫌アピールだということを苗木はよく理解している。
 いままで何度やられてきたことか。許してもらうために知恵を絞ったか。思い出して嘆息しそうになった。

 ……得意気に話した内容が、前日に調べただけに過ぎないことがばれていたら恥ずかしいのはわかるけどさ。
 特に『超高校級の探偵』なんていかにも博識そうな称号を持っていて、事実切れる頭を持っている彼女ならなおさら恥ずかしいと思う。

 さて、今回も不本意ながらボクに霧切さんの不機嫌の原因があるし、どうやって機嫌を直してもらおうかな……。

 苗木は一度リールを巻いてコマセをカゴに詰めて海に沈める。

「……あっ!」

 パッとひらめくものがあった。霧切が怪訝そうにこっちをちらっと見た。彼女はすぐに視線を海に向ける。
 苗木は思いついたことを形にしたらどうなるかイメージしてみる。

 うん、大丈夫。……だと思う。

 イメージするだけで心臓がバクバクするが、我ながら妙案だ。
 肩の力を抜いて息をすべて吐き出す。大きく吸って、出す。
 繰り返して心臓が眼前の海のように落ち着いてきたとき、苗木は行動に移した。

「き、きりちゃん」

 霧切がぴくんとするが、返事をするには至らない。

「きーちゃん」苗木は頬に熱がこもっていくような感じを覚えたが、霧切に呼びかけつづける。「きりりん。きょうちゃん。きょんきょん」

 霧切は照れているのか、ほっぺたをほんのり染めながら横目で苗木を見る。

 苗木は作戦が上手くいっていることを彼女の視線から確信する。
 いままでの呼び方はおびき寄せるための餌。本命に食いついてもらって釣り上げるための餌に過ぎない。
 アジを釣り上げるために使うのは偽物の餌だけど、彼女を釣るための餌は正真正銘の本物本命直球勝負だ。

 苗木はその呼び方を、口にする。

「響子」

 言葉にした瞬間、霧切が目をまん丸にして固まったかと思えば、口元に手を当てて、下を見てしまった。

 あ、あれ? もしかして、失敗だった……?

「あ、あの、霧切さん?」
「…………」
「……霧切さ――」
「さっきの」霧切が苗木に顔を向けて、彼の言葉をさえぎる。
「――え?」
「……さっきのがいいわ」

 身体を小さくして上目遣いでおねだりしてくる彼女を見て、苗木は目を合わせることができなかった。

「響子……さん」
「…………」
 霧切の視線を嫌でも感じる。「えっと、きょ、響……。……響子……さん、じゃダメかな……? ちょっと恥ずかしくて……」

 これで許して、と視線でも訴える。
 霧切は息を一つ吐きながら笑った。「今日のところはそれで許してあげるわ、誠君」

 名前呼びされたことで、苗木の身体がほてっていく。
 呼ぶのも恥ずかしいけど、呼ばれるのもこそばゆい。

「でも近いうちに『響子』と呼んでもらうわよ?」
「そ、それは……」

 くすくすと上品に笑顔を浮かべている霧切に否定的なことは言えなかった。

 これからもこのように主導権を握られるのかなと考えながら釣り竿を見ると、先の方が震えていた。

「あっ」

 苗木は竿をゆっくりと引き上げる。
 眩しい海面から次々とアジが顔を出していく。
 疑似餌のすべてにアジが食いついていた。

「すごいわ誠君」
「これだけいれば二人ともお腹いっぱいになるかな?」

 霧切が顔を赤くして答えた。

「もうなってるわ」

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