BernersLee1999weaving

format for references

APA

Berners-Lee, T., & Fischetti, M. (1999). Weaving the Web: the original design and ultimate destiny of the World Wide Web by its inventor. Harper Collins Publishers Inc.

format for cite

Berbers-Lee et al. (1999)
(Berbers-Lee et al., 1999)

bibtex

en

@book{BernersLee1999weaving,
 title={{Weaving the Web: the original design and ultimate destiny of the World Wide Web by its inventor}},
 author={Berners-Lee, T. and Fischetti, M.},
 year={1999},
 publisher={Harper Collins}
}

ja

@book{BernersLee1999ww,
 title={{Weaving the Web: the original design and ultimate destiny of the World Wide Web by its inventor}},
 author={Berners-Lee, T. and Fischetti, M.},
 year={1999},
 publisher={Harper Collins},
note ={(高橋 徹監訳,
Webの創成 : World Wide Webはいかにして生まれどこに向かうのか
毎日コミュニケーションズ, 2001)}
}

auther



url


Keio OPAC info


included in



abstract


commentary


keywords/ phrases


memo

pp. 29ja

ヨーロッパの人々は、(The Internetとは別に、独自の)国際標準化機構(ISO)による別のネットワーク上のプロトコルを設計し、それを推進することを模索していたからである。「よそでできたもの」という感覚からか、純粋に技術的な理由からかはともかく、ヨーロッパの人々は、委員会で自分たちの国際的なネットワークを設計仕様としていたのである。

pp. 33ja

1989年3月、私はあらたな一歩を踏み出して企画書を書くことにした。私は汎用性こそが情報の網の目(web of information)のエッセンスであることを説明したかった。
/ *snip*
私の考えはとても性急なもので、マシン自体によって処理されるようなデータの網の目(web of data)を期待するほどだったのである。

pp. 34ja

1989年3月末までに、私はマイク・センドールとその上司のDavid Williams、その他数人に企画書を提出した。
/ *snip*
何も起きなかったのである。

pp. 43ja

1990年10月、私は新しいコンピュータ上でWebのコードを書き始めた。

pp. 44ja

(1990年) 11月半ばまでには、自分でWorld Wide Webと名付けたばかりの、ポイント・アンド・クリックで使えるブラウザ兼エディタであるクライアント・プログラムができた。12月までには、このプログラムで、私がつくったハイパーテキスト・マークアップ言語であるHTMLが使えるようになった。

pp. 59ja

マークアップ・ランゲージという分野がすでに存在していて、standard generlized markup language (SGML)がすでに世界の文書作成に関わる人々の間で好んで使われていた。また、当時はハイパーテキスト作成に関わる人々の間でも、これが唯一可能性のある文書作成の標準システムであると考えられていた。私はHTMLを開発するにあたり、SGMLの親戚のように見えるようにつくった。
SGMLに基づいてHTMLを設計したことに、Webの発展における重要なテーマのひとつがはっきりと現れている。


pp. 65ja

Webを外部のalt.hypertextへと出したことが転回点となった。
/ *snip*
インターネット上の興味をもった人々は、フィードバック、刺激、アイデアなどの提供、ソース・コードの寄贈、精神的援助といった寄与をしてくれた。こういったことは、CERN内だけでは望んでも難しいものだった。インターネット上の人々は、本当に草の根的なやり方でWebを編んでいったのである。

pp. 102ja

私は標準化をする機構そのものではなく、サーバやブラウザの開発者たちが、Webがどのように機能すべきなのかについての一致点に達する助けとなるある種の組織を望んでいた。

pp. 127ja

(1994年)12月14日、(MIT)LCSでW3Cは最初のAdvisory Board MTGを開いた。会合はたへん和気あいあいとしたもので、参加者がたった25人というきわめて小規模なものであった。市場における競争者たちの代表者たちが、HTMLが分化してしまう潜在的な可能性という関心のもとに一同に会した。Web関係者全体にとってこのことはたいへんな脅威として見られていた。あまりにも数多くのHTMLの拡張のタイプが提示されていたので、標準化が本当に必要とされていた。私たちはその際の用語について論争した。コンソーシアムが実際に「標準化」を行うべきなのか。それとも公的な「勧告」(Recommendation)を発することにとどめるかについてである。私たちは後者を選択した。"Rough Consensus and Running Code"を実現することが、私たちが携わる仕事のレベルであることを示すためであった。

/ *snip*

私たちはまた速やかに行動する必要があった。現在行われている標準化に特有の長期にわたる国際的な投票プロセスのようなものに足を引っ張られたくなかったのである。

pp. 128ja

コンソーシアムは、単に人々が集まってコンセンサスを確立するための場所を提供するに過ぎなかった。


cited as



tags

最終更新:2014年01月09日 19:57