夢よ踊れ(前編) ◆MiRaiTlHUI




 赤と白、二人の仮面ライダーが、だだっ広い焦土の真ん中で剣をぶつけ合っている。激しい戦闘の余波によるものか、二人の仮面ライダーを取り巻く環境には、人工物と呼べるものはほとんど存在していない。月と星の灯りと、あちらこちらで僅かに残った瓦礫の隙間から覗く炎が、一帯を淡く照らすのみだった。
 麗奈は耳を聾する剣戟音に表情を顰め、両耳を塞ぎしゃがみ込んだ。甲高い金属音が響くたび、己の内から沸き起こる耳障りなノイズが活性化してゆくようだった。耳の奥から脳を揺さぶるような頭痛に耐えかねて、麗奈は小さく、唸るような悲鳴を漏らし、かぶりを振った。

「――麗奈、麗奈! 大丈夫、麗奈……!?」

 肩にリュウタロスの手が乗せられた。愛想笑いを浮かべる余裕も今の麗奈にはなく、苦痛に眉根を寄せたまま一瞥を返す。けれども、麗奈の身を案じてくれるリュウタロスの悪意のない顔を見れば、ほんの少しだけ戦いから気持ちが逸れた。己の内側から響く金属音が、僅かに小さくなった気がした。

「きっと大丈夫だから、心配しないで。麗奈にはボクらがついてるから」

 麗奈は目線だけでなく、顔を緩くあげて、浅倉威が変じたファムと戦う龍騎を見やった。城戸真司もまた、麗奈を守るために戦ってくれている。その事実が、いつ敵に回るかもわからない麗奈にしてみれば、後ろめたいものがあった。

「今は信じよう、城戸さんが勝ってくれることを」

 三原は麗奈よりも人ひとり分ほど後方で、龍騎の戦いを見守っていた。腰には既にデルタのベルトが巻かれている。けれども、三原の表情にも、決して小さくはない不安が見て取れた。必要ならば戦うが、できることなら戦いたくはない、というような心持ちであろうことは麗奈にもわかった。

(城戸さん……)

 麗奈は震える左右の指を組んで、祈るように俯いた。真司が勝つことを祈っているのか、もう一人の自分が暴走しないようにと祈っているのか、どちらが主目的であるのかは、麗奈自身にも判然としない。
 戦闘自体は、互角の膠着状態が続いている。ファムが力任せに叩き付ける両刃の薙刀による連撃を、龍騎が手にした青龍刀で防ぎ、隙を見て反撃に打って出るが、ファムも上手く回避するので決定打を与えられない。けれども、攻撃の苛烈さという点では、ファムの方が幾らか優勢に見えた。
 激しい攻防の末に、龍騎が青龍刀を取り落とした。龍騎の鎧を蹴り飛ばしたファムが、薙刀を投げ捨て、龍騎の青龍刀を拾い上げる。軽く両手を天を仰ぐように振りかぶり、嘲るようにくるりと一回転したファムは、今度は青龍刀を力いっぱい龍騎に振り下ろした。

「――っ!」

 龍騎の鎧から血飛沫のように火花が舞い散り、その赤い体が地面に叩き伏せられる様を見せつけられて、麗奈は思わず両手で己の口元を覆った。倒れ伏した龍騎が起き上がるよりも早く、ファムがその胴体に蹴りを入れた。

「真司!」

 リュウタロスが叫んだ。もう見てはいられないとばかりに、デイバッグからデンオウベルトを取り出す。その時、辺り一帯に龍の咆哮が響き渡った。リュウタロスは変身の手を止めた。麗奈は、戦場となった荒れ地に放置された過敏から、その質量を大きく上回る赤き龍が飛び出すのを見た。
 ファムに蹴り飛ばされながらも、龍騎は一枚のカードをベントしていたのだ。赤い龍がファムを牽制し、その隙に龍騎が立ち上がる。龍騎の右腕には、龍の頭を模した手甲が装着されていた。さしものファムも一瞬動きを止めた。
 ドラグレッダーが龍騎の周囲を取り巻くと、龍騎は腰を低く落とし、右腕を勢いよく突き出した。ドラグクローから放出された炎弾が、ファム目掛けて奔る。ファムは横っ跳びに転がって回避するや、青龍刀を投げ捨て、一枚のカードをベントした。

 ――ADVENT――

 彼方から飛来した白鳥が、月明かりを受けてその身を煌めかせる。ファムの使役するモンスターの出現に呼応するように、龍騎の背後に控えていたドラグレッダーは白鳥へと向かって飛び出していった。

「はははははははッ、まだまだ戦いはこれからだ! もっと楽しませろ!」
「浅倉……、やっぱり、お前だけはッ」

 心の底から現状を楽しんでいるような笑いを響かせるファムに、龍騎は右腕の手甲を装着したまま殴りかかった。上空で、ブランウィングとドラグレッダーが幾度となく交差しては、その翼と、尻尾の刀を打ち合わせて夜空に火花を咲かせている。
 ファムの右手が龍騎の手甲をいなし、逆に左の拳をその顔面に叩き込んだ。よろめく龍騎を挑発するように、ファムは両手を緩く広げて空を仰いだかと思えば、今度は右の拳で殴り付けた。動きの止まった龍騎の胴に膝蹴りを叩き込んだファムは、腹の痛みに堪らず前のめりになった龍騎の背中に拳を打ち下ろした。

「ッ、この……!」

 倒れ込んだ龍騎に追撃を仕掛けようと脚を振り上げたファムに対し、龍騎は横に転がって仰向けの姿勢になった。乱雑に脚を蹴り上げて、ファムの脚を蹴り返す。一瞬よろめいたファムの胴を、今度は龍騎が仰臥した姿勢のまま膝をたわめ、勢い付けて蹴り飛ばした。

「あ、さ、く、らぁぁぁあああ!」

 よろめく体を起こした龍騎は、落ちていた青龍刀を拾い上げ、両腕で構えると腰を落とした姿勢のまま駆け出す。徒手空拳となったファムに斬りかかると、その白の装甲に刀を叩き付ける。一撃目は甘んじて胸部の鎧で受けたファムだったが、二撃目はそうはいかない。真っ直ぐ剣を叩き付けるだけの龍騎の剣筋を読むことは容易かったのだろう、裏拳で剣の軌道を反らせたファムは、逆に前蹴りで龍騎を蹴り飛ばして距離を取った。
 ちょうどその時、上空で激しく争っていた白鳥が、その胸部に炎弾を受け止めながら急降下してきた。龍騎とファム、両者の間にブランウィングが割って入った形だ。上空での戦いは、ドラグレッダーが優勢だった。龍騎はベルトから一枚のカードを引き抜いた。

 ――FINAL VENT――

「はぁぁぁぁぁああああああああ……!」

 腰を低く落とし、構えを取った龍騎の周囲をドラグレッダーが取り巻いて、咆哮を響かせる。夜空へ向かって飛翔する相棒と共に、地を蹴り高く高く跳び上がった龍騎は、上空でくるりと身を翻すと、右足を下方へ向けて突き出した。数多のモンスターを確実に葬り続けてきた、現状の龍騎が持てる最高の手札を、ここで切ったのだ。

「だぁぁあああああああああああッ!!」

 ドラグレッダーの吐き出す超高熱の火炎をその身に纏い、己自身を燃え盛る砲弾とした龍騎は、裂帛の叫びとともに急降下した。
 一瞬と待たず、龍騎の蹴りがブランウィングの胴に突き刺さった。今や触れるものすべてを打ち砕く炎弾となった龍騎は、標的となった白鳥の巨躯を地面に叩き付け、その全身に亀裂を生じさせた。けれども、必殺のドラゴンライダーキックの勢いはその程度では済まない。ブランウィングの巨躯をアスファルトへと沈み込ませて、そのまま蹴りの威力だけで数十メートル後方まで吹き飛ばす。崩れゆく白の体から爆炎を吹き上げて、断末魔を漏らす間もなく、かつての美穂の相棒は粉々に爆散した。

「っしゃ!」

 勝利を確信した龍騎は、着地すると同時に後方へと振り返る。これでもう、美穂の形見となったファムを浅倉が人殺しに使うことはないだろう。間接的にではあるが、美穂の無念を晴らした心地だった。
 鎧から色を失ったファムは、己のベルトからデッキを引き抜き、興味を失ったように放り投げた。ライダーの鎧が霧散してなお、浅倉は口角を釣り上げていた。予想していた通りとはいえ、その、人としてのあらゆる良識が破綻したような笑みは、真司にしてみれば不快でしかない。

「くく……はははははっ、やっぱりお前は面白い。イライラが少しはマシになる」
「ふざけるなッ、俺も、ここにいるみんなも、お前の遊び相手なんかじゃない! みんな生きるために必死に戦ってんだぞ!」
「だったら問題はないだろ? 俺とも戦え……必死にな」
「お前……っ」

 真司は、いつか蓮が言った、浅倉威はモンスターだという言葉を思い出した。たとえ体が人間でも、浅倉威の心は、既に人間のそれではない。この男に、まともな会話など成立しうるわけがないことを、真司は改めて痛感した。
 低く響く笑声を含んだ吐息を吐き出しながら、浅倉は右腕に装着されたブレスレットを軽く掲げた。彼方から銀色の影が飛来する。浅倉の意思に応えるように、自らブレスレットの台座へと収まったそれは、真司には銀色のカブトムシのように見えた。

「お前、それ」
「続けようぜ? 戦いを」

 ――HEN-SHIN――

 右腕のカブトムシから銀色の六角形が精製、展開され、それは瞬く間に浅倉の体を包み込んだ。月明かりを淡く反射する銀の装甲が上体を完全に覆った時、真紅の複眼が煌々と煌めいた。

 ――CHANGE BEETLE――

 鳴り響く電子音すらも煩わしそうに、銀の装甲に身を包んだ浅倉が肺に溜まった空気を吐き出し、首を捻る。どこからか取り出した斧を緩く掲げたヘラクスは、仮面の下から笑い声を零すと、やにわに駆け出した。
 龍騎もまた青龍刀を構え直し、迎撃の姿勢を取る。けれども、ヘラクスが龍騎に到達するよりも先に、銀の胸部装甲が爆ぜた。

「ぐ……、おおっ」

 一発、二発、三発。連続で撃ち込まれる銃弾が、ヘラクスの動きを止める。一撃一撃の威力が大きいらしく、弾丸を撃ち込まれるたび、ヘラクスの脚は一歩後退した。

「お前、倒すけどいいよね」

 リュウタロスの声が、闇夜に響き渡る。振り返った龍騎が見たのは、紫の龍の仮面を身に付けた仮面ライダー。軽快な足取りでステップを踏んだそのライダーは、右腕に持った銃を突き出した。
 ヘラクスは乾いた笑いを漏らし、項垂れていた首をぐりんと回して、電王となったリュウタロスに赤く煌めく複眼を向ける。

「はぁああ、お前も祭りの参加者か」
「答えは聞いてない」

 返す言葉は、最前までの子供らしくはしゃぐリュウタロスを思えば、ひどく冷淡な回答であるように思われた。声から抱く印象を裏切らぬように、電王は無遠慮にトリガーを引いた。今度はヘラクスの斧が銃弾を受け止め、弾き返す。駆け出したヘラクスに応えるように、電王は音楽にでも乗るように再度ステップを踏み始めた。
 電王の攻撃パターンが読めず、青龍刀を構えたまま戦闘に介入する隙を伺っていた龍騎も、電王がヘラクスへ向かって動き出したところで動き出した。

「よし、俺も……!」
「真司は休んでていーよ。もうすぐ制限時間でしょ」
「えっ」

 はじめ、電王の言う言葉の意味がわからず龍騎は足を止めた。一瞬遅れて、変身してから十分が経過しようとしていることに気付く。最初の剣の打ち合いに存外時間を取られていたらしい。
 電王は既に龍騎に背を向け、右に左にとステップを踏みながらヘラクスへと接近していた。ヘラクスも真っ直ぐに電王に向かってくるため、両者が肉薄するに時間は掛からなかった。ヘラクスが横薙ぎに振り払った斧を、大股開きで姿勢を落とした電王が回避するのを見届ける頃には、龍騎の鎧は消え去っていた。

 ヘラクスの間合いで大股開きを晒した電王は、上体を大きく仰け反らせて、至近距離で銃弾を放った。遠距離からの射撃ならばまだしも、至近距離からの、それも無理な姿勢からの銃撃に、ヘラクスは面食らった。胸部装甲が爆ぜ、数歩後退る。
 銃撃が止むや、ヘラクスはすぐに追撃のため前進するが、電王はそのまま後方へと倒れ込んだ。戦場で仰向けに倒れ込む奴がいるかと、浅倉は仮面の下で追撃の好機を予感する。けれども、その予感は一瞬で崩れ去った。倒れ込んだ電王が、脚を振り上げた。蹴りではない。振り上げたまま、地面に接地した上体を軸に体を回転させている。

「ぐっ」

 電王の蹴りが右、左と連続でヘラクスの上体を蹴り飛ばした。三回目の蹴りには斧でのカウンターを仕掛けるつもりだったが、待ち望んだ三撃目の瞬間は訪れず。電王は、跳んだ。地面に接地していた軸の腕で体を跳ね上げ、瞬く間に体勢を立て直し、二本の脚で着地したのだ。

「ッ、らぁア!」

 迫るデンガッシャーの銃撃を、今度は斧で叩き落としながら、ヘラクスは再度電王へと肉薄した。斧を振り下ろすが、その一撃はやはり、命中しない。電王は片足を軸に半回転を加えながら、逆にヘラクスの間合いへと飛び込んできたのだ。
 ダンスさながらのステップでヘラクスとすれ違った電王は、裏拳をヘラクスの頭部に叩き込んだ。

「ぐ……ッ!」

 ダグバとの連戦で既に体力を消耗している今、明らかに己の動きが鈍っていることを浅倉は実感した。されどそこは腐っても浅倉威、地べたを這いつくばって生き抜いてきた浅倉にとって、この程度の疲労はどうということはない。不覚を取るのはほんの一瞬、すぐに姿勢を立て直す。体は既に限界を越えようとしていた。

「お前、なんか気持ち悪いから、そろそろ終わらせるよ。いい?」

 ヘラクスが見たのは、大股開きで片手に持った銃を構える電王の姿だった。上体は銃を構える腕以外は完全に脱力しきっており、紫の龍頭を模した仮面は僅かに傾いている。ダンスの決めポーズのつもりなのだろう。銃撃が響くと同時に、ヘラクスはベルトのバックルを擦った。

 ――CLOCK UP――

 刹那、電王の放った弾丸が急速に速度を落とした。ヘラクスを取り巻く他のすべての時間を置き去りにして、ヘラクスはひとり超加速空間へと突入した。
 停止したも同然の弾丸を斧でたたき落としたヘラクスは、電王の胴体に膝蹴りを叩き込んだ。なんの反応も示すことなく、電王の体が宙に浮かび、体が折れ曲がる。

「ははぁっ」

 ここへきて久々に、ヘラクスの仮面の下で、浅倉はにやりと笑った。
 浅倉威は、戦いそのものを愛する武人では決してない。浅倉が求めるものは、果てのない暴力だ。暴力を振るえる環境に身を置きたいがため、結果的に戦いに身を投じることになっているだけで、暴力を振るえるのであればそれが戦いである必要はどこにもない。一方的な暴力を振るうことに対し、痛みを感じる心など持ち合わせてはいなかった。
 宙に浮かんだ電王の体に、横合いから斧による一撃を叩き込む。手応えのない腕や脚から狙う趣味はない。胴体に直接斧を叩きこまれた電王の装甲が爆ぜて、火花が生じる。電王の装甲から吹き出た火花が咲くまでの間に、ヘラクスは次の一撃を叩き込んだ。
 少しずつ、からだの調子がよくなってきた。限界が近いと思われていた体から、痛みと疲労の感覚が消え去っていく。麻痺していると言ってもいい。まだまだ楽しめると、浅倉は無意識的な確信を抱いた。


 その場の全員が、なにが起こっているのか理解できず、瞠目するしかできなかった。
 ヘラクスの姿が掻き消えたかと思えば、電王の体がなにかに弾き飛ばされたように宙に浮かび、あとは銀色の風と化したヘラクスから執拗な打撃を受ける、その繰り返しだ。ひとつの打撃によって生じた火花が開花するよりも先に、次の、そのまた次の打撃を叩きこまれているので、電王には休む間もない。

「な、なんだよアレっ……あんなの、どうやって戦えっていうんだよ」

 三原の声は、平時よりも増して上擦っていた。それ程気温が低い訳でもないのに、足元は震えている。最前までいざとなれば戦う覚悟を固めたつもりでいた三原も、クロックアップの驚異的な速度を目の当たりにして、戦えば殺されるかもしれないという恐怖に竦んでいるのだ。
 麗奈の内側で騒ぎ立てていた金属音が、一際強く音をかき鳴らした。己の内で、彼女が暴れ回っているのがわかる。麗奈には、何故もう一人の自分がこうも主張するのかが、なんとなく、わかる気がした。

「わ……わたし、なら」

 周囲のあらゆる音をかき消さんとがなる金属音の中、麗奈の口をついて言葉が飛び出した。無意識に近い。そもそも自分がなにを言ったのかすら、金属音にかき消されて、麗奈にはよくわからなかった。
 麗奈を気にかけた真司が、肩に手を掛ける。なにか言っているようだが、麗奈にはもう、真司の声も聞こえなかった。なにも聞こえず、なにも見えなくなった。麗奈を取り巻く世界が暗転した。辺りはしんとした静謐に包まれた。

「弱いな、お前は」

 低く、玲瓏な声が耳元で響いた。戦いの音も金属音もなにもない無音の世界にあって、その声だけが麗奈の中で凛とこだましている。それが誰の声なのか、麗奈にはすぐにわかった。
 首だけを回して振り返ると、薄暗がりの世界にひとり、喪服を着た女がぽつんと佇んでいた。よく見知った、自分自身の顔だ。

「みんなの助けになりたい。そう思いながら、お前は怯えるばかりで、見ているだけしかできない……弱い人間」

 間宮麗奈の人間としての生を奪った張本人。自分であって、自分でないもう一人のマミヤレナ。嘲るような口調でありながら、しかし、きっと釣り上がったその眼は、麗奈を強く批判しているように感じられた。

「お前はもう眠れ。お前では、なにも守ることはできない」
「まも、る……?」

 麗奈は訝しげに眉根を寄せた。マミヤレナが、一瞬顔を顰めた。
 らしくない言葉を選んでしまったと、レナがそう考えていることが、自分自身の内面ゆえか、なんとなく麗奈には分かった。

「私は……私は、ただみんなに守られるだけで、ずっと申し訳ないと思ってた。私なんかいなければ、みんなも無駄に傷つくこともないのに。結局、私は、守られるだけで」
「だから消えろと言っている。そもそもお前はもう死んだ人間だ。私が殺した。お前がここにいること自体が不自然なのだ」
「だとしたら……それは、あなたもでしょう。あなたも、一度死んだ。あの人の腕に抱かれて」

 返答はなかった。けれども、麗奈が大切なひとを心に思い描いたその時、冬の湖面のように冷たかったレナの瞳に、熱の波紋が波打ったように感じられた。麗奈は眉を顰めた。鉄仮面で覆い隠されたレナの心の一端が垣間見えた気がした。
 俯いていた麗奈は顔を上げ、レナに向き直った。

「あなた、ほんとうは――」
「黙れ」
「っ」

 レナの体が、白い外骨格に覆われた。彼女の表情は白い仮面に隠されて、今はもう窺い知れない。一瞬気を緩めたことで、押さえ込んでいたワームの力が彼女のもとに戻りつつある。油断した、と思った時にはもう遅い。
 今度こそ麗奈の意識は深い闇の底に沈んでいった。


 宙に浮かんだままの電王の体に振り下ろされようとしていた銀の斧を、ウカワームの巨大な右腕が弾き飛ばした。時の切り取られた世界に入門してくる者などいないと思っていたのだろう、ウカワームの不意打ちに対処をすることもなく、ヘラクスは斧を取り落とした。
 時の加速した二人だけの空間で、ウカワームとヘラクスは互いに動きを止め、押し黙る。互いが互いを、目下排除するべき敵であると認識した瞬間だった。

 ――CLOCK OVER――

「うわぁぁああああああああッ!!」
 電王の体から一斉に火花が吹き出した。悲鳴とともに地面へと落下し、体をしたたかに打ち付けたリュウタロスの体から、電王のオーラアーマーが消失する。既に戦力外となったリュウタロスを、ウカワームは表情を移さぬ白き仮面でちらりと一瞥した。

「この男は私が始末する。お前は下がれ、足手まといだ」
「……、れ、麗奈……?」

 震える声で、リュウタロスは顔を上げた。ウカワームは返事をくれてやることもせず、ヘラクスへと向き直った。

「ほお。お前、さっきの女か」
「私の名前はマミヤレナ。お前に私の鎮魂曲を聴かせてやる」
「くはっ、……はははははははっ、お前もそれなりに楽しめそうだ」

 ヘラクスは脱力しきった様子で両腕を広げると、ウカワームの頭から爪先までを舐め回すように眺めた。そして、緩慢な動きから一点、獲物に飛びかかる蛇のような素早さで、ウカワームへと跳びかかった。ウカワームはヘラクスの拳を右の巨大なハサミでいなし、左腕の拳で殴り返す。ウカワームの拳に対して回避行動は取らず、ヘラクスは顔面から当たりにきた。ぶんと唸って振るわれたヘラクスの拳が、クロスカウンターとなる形で、ウカワームの顔面を捉えた。

「ッ」
「ははぁあッ!」

 一瞬動じたウカワーム目掛けて、ヘラクスは獣さながらの獰猛さで飛び掛かると、鎧に覆われていないウカワームの首元に掴み掛かって、勢いそのまま押し倒した。倒れながら、ウカワームはヘラクスの胸部目掛けて袈裟懸けにハサミを叩き付ける。盛大に火花を散らしながら仰け反るヘラクスだったが、しかし、それでもヘラクスは笑っていた。

「はははははっ!」
「ッ、この男……!」
「はあぁぁああ、最高だなぁ、戦いってのはァ!」

 ウカワームの背を地べたに叩き付けたヘラクスが、その首元に手をかけたまま、深く吐息を吐き出し、狂気に満ちた、感に堪えぬ笑みを漏らした。マウントポジションを取られている。
 今度はヘラクスの赤い複眼目掛けて容赦なくハサミを叩き付けた。

「そこをどけ」
「ッ、はははははぁ!」
「ぐっ……」

 ヘラクスは打ち据えられた顔面をがくんと揺らしながらも、ウカワームの顔面を鷲掴みにし、地面に叩き付けてきた。ヘラクスに掴まれた指圧から、白の外骨格を通じて、体内の細胞ひとつひとつへ屈辱が染み渡っていく。けれども、湧き上がる感情は、怒りとは異なるものだった。
 ウカワームは後頭部を幾度も地面へ叩き付けられながら、ハサミで二度三度とヘラクスの仮面を殴打した。四度目の打擲で、ついにヘラクスのマスクが割れた。仮面の中に垣間見える浅倉威の瞳は、人間のものではない輝きを放っていた。狂ったように笑う浅倉の顔を見て、ウカワームはひとつの確信を抱いた。

「この男……もはや、人間ではない」
「ははぁ、それがどうした。もう終わりか?」

 見開かれた浅倉威の瞳を見る内に、強烈な嫌悪感がウカワームの心のうちに芽生えた。殺されるかどうかとか、そういう類の恐怖ではない。生物であれば通常恐れるはずの痛みをものともせず、獣のように邁進するその異常な姿に対して抱く、生理的な感情だ。恐怖心と言い換えてもいい。それを自覚すると同時、沸き起こる恐怖と屈辱に体が震えた。

「麗奈から……、離れろーっ!」

 ヘラクスの胸部装甲が爆ぜて、その体が後方へと吹っ飛んだ。後方からの援護射撃だ。振り返ると、最前ヘラクスに手酷くやられたリュウタロスが、震える体でリュウボルバーを構えていた。

「麗奈、麗奈っ、大丈夫!?」

 ウカワームはリュウタロスから視線を逸らした。返答をくれてやる気にはならなかった。
 右腕のハサミを地面に突き立てて立ち上がったウカワームは、己の体もまた震えていることに気付いた。痛みや疲労による震えではない。リュウタロスの震えが、先の打擲によるものではないことを悟った。
 この敵と長期戦でやりあうのは、まずい。戦闘力云々ではなく、戦いが長引けば長引くほど、此方が精神に異常をきたしてゆく。

「麗奈!」
「ッ」

 駆け寄るリュウタロス目掛けて、ウカワームは、勢い良くハサミを横薙ぎに振るった。リュウタロスは一瞬驚いたようにウカワームを凝視するが、その一瞬は、すぐに一瞬ではなくなった。
 瞠目したリュウタロスの時間が、そこで止まっているに等しい時間にまで引き伸ばされていた。ハサミを振るうと同時にクロックアップを発動したウカワームの動きを、通常空間にいる今のリュウタロスは既に追い切れていない。

「貴様の存在は厄介だ。ここで消えてもらう」
「できるか? お前に……くははっ、やってみろよ」

 果たして、ウカワームのハサミが捉えたのは、同じく超加速空間に突入したヘラクスが振るった銀の斧だった。常人には認識できない速度でリュウタロスに振り下ろされる筈だった斧を、ウカワームのハサミが受け止めたのだ。もしもリュウタロスの隣にいるのが時間流の変化を察知できる自分でなければ、などと考えかけて、ウカワームはそのとりとめのない思考を振り払った。

「はああッ」

 冷淡に鼻を鳴らしたウカワームは、ヘラクスの斧と己のハサミを打ち合わせたまま、結果的に自分が救った形となったリュウタロスからヘラクスを遠ざけるように地を蹴り、ヘラクスを押し出した。体を熱くする屈辱でしゃにむに恐怖心を掻き消して、ウカワームは進む。
 二十歩分ほど離れたところで斧を弾き上げたウカワームが追撃に出た。ヘラクスの胸部にハサミの一撃が直撃し、ヒヒイロカネで出来た装甲に僅かな亀裂が走る。けれども、怯まない。向かってくるヘラクスに、再度ハサミを叩き付けんと振るうが、しかし、大振りなその一撃を、ヘラクスはこの僅かな数回で見切ったのだろう。身を屈めることでその一撃を回避したヘラクスが、右腕のブレスを叩いた。

 ――RIDER BEAT――

 タキオン粒子の稲妻が、ヘラクスの右腕を伝って、ゼクトクナイガンへと充填された。ウカワームの間合いに飛び込むと同時に発動されたライダービート。
 不覚を取ったことを、ウカワームは悟った。咄嗟の対応に打って出ようにも、体が動かない。やられる、と瞬間的に思ってしまったその刹那、浅倉威に対して抱いた恐怖心が、ウカワームの中で異常なまでに膨れ上がったのだ。

「馬鹿な……ッ、この、私が――ッ」

 ヘラクスの強烈な一撃が、ウカワームの胴体を直撃した。甲高い破裂音が鳴り響いた。瞬時に時間流が元に戻る。瞠目したままで止まっていたリュウタロスの視界の先で、ウカワームはその腹部に眩く迸るタキオン粒子の稲妻を纏いながら後方へと吹っ飛んだ。

「えっ!? ……っ、麗奈!?」

 通常の時間流に強制的に引き戻されたウカワームが聞いたのは、リュウタロスの狼狽する声だった。
 空宙で人間としての姿に戻った間宮麗奈は、地べたをごろごろと転がって、力なく項垂れた。霞みゆく視界が捉えたのは、ぼろぼろの体で麗奈へと駆け寄るリュウタロスと、その背後で両腕を広げ月光を一身に受け止めて笑うヘラクスの姿だった。

「よくも……よくも麗奈を!」
「はははははっ、次はお前かァ!」

 最早獣同然となったヘラクスが、リュウタロスへと飛び掛かった。


 戦場の傍らに身を横たえたマミヤレナは、一見致命的な一撃を直撃で受けたようで、実際にはそこまで深刻なダメージを受けたわけではなかった。強固な外骨格が、タキオン粒子の流動をある程度は防いだのだろう。
 ヘラクスは今やレナを排除対象外と認識したのか、リュウタロスを嬲ることに意識を集中させている。レナにトドメを刺しに来る気配は一向にない。最早その必要すらないと判断されたのかと思うと、腹の底から湧き上がった屈辱が、うめき声となって漏れた。

「間宮さん、生きてるよな!? 無事だよな!?」

 地べたに仰向けに寝そべったまま、眼球だけを動かして、レナは走り寄る真司を視界に捉えた。その少し後ろで、レナから距離を取っているのは、三原だろう。気配で分かったので、わざわざその存在を確認する気にもならなかった。

「私は、こんなところで、いったいなにをしているのだろうな」
「間宮さん……」

 口をついて出た弱音に、レナは一瞬遅れて、らしくもないと自嘲した。

「なあ、アンタ……間宮さん、なのか。それとも、まさか」
「ああ、そのまさかだろうな」
「なら、間宮さんの意識は」
「今はもう、私にもわからん」

 人間としての心を封じ込んだ、と言い切ることは出来なかった。麗奈を心配する真司の顔を見ていると、それを口にすることが憚られた。麗奈を案じて駆け寄って来た真司を、そういう風にあしらうことが、今の麗奈にはできなかった。
 こんなはずではなかった。真司やリュウタロス、三原の存在が、レナを弱くする。
 不意に、ヘラクスにいたぶられるリュウタロスの悲鳴がレナの耳朶を打った。胸のうちを掻きむしられるような気分の悪さだった。そう感じること自体が、レナにとっては異常であることは既に自覚している。恐怖心と、屈辱感と、未だ感じたことのない得体のしれない感情が、レナの心に巣食っているのだ。

「……アンタ、さっきリュウタロスのこと庇ったんだよな」
「違う。私はただ、ヤツの攻撃に対応しようとしただけ。偶然だ」
「偶然でもなんでも、アンタがリュウタロスを救ったんだ」
「そうか……、ああ、ならば、そうなのかもしれないな」

 真司は一瞬押し黙った。麗奈は眼球だけを動かして、真司から視線を背けた。

「なあ、……なあアンタ、ほんとうは」
「そんなことより、仲間を助けにいかなくていいのか」

 冷徹に、そして淡々とレナは真司の言葉を遮った。

「俺が、……俺が行くよ」

 かつてアスファルトだった砂利道を踏み締めて、三原が横たわるレナの隣に歩を進める。脂汗を額に浮かべて、恐怖に脚を震わせて、それでも三原は、戦場に向き合っていた。掌には、デルタフォンが握られている。

「震えているぞ。そんなザマで、ヤツと戦えるのか」
「俺だって、できるなら戦いたくないさ」
「……やはりヤツが怖いか」
「ああ、怖いさ。けど、俺が戦わなかったせいで、あいつに弱虫って思われたまま死なれるのは、……それを二度と挽回できないのは、もっと怖い。今やらなきゃいけないことだけは、俺にだってわかるから……!」

 前かがみになって己の感情を吐き出した三原は、そのまま戦場へと駆けていった。変身、の一声と電子音に次いで、三原の体は白色光に包まれる。デルタとなった三原が、ヘラクスが暴れる戦場へと乱入したことを、レナは気配だけで悟った。

「間宮さん」

 真司に呼ばれても、レナは言葉を返す気にはなれなかった。指一本動かす気にはなれなかった。

 レナは、ぼんやりとした思考を宙に漂わせていた。
 そもそも自分はいったい、なにをしたいのだったか。元の世界に戻ったとて、既にワームを束ねるマミヤレナは、身内であるワームから処刑宣告を受けている。人間でもなく、ワームからも追放された今のレナに、帰るべき場所はない。かといってもう一度人間の敵となって、ワームとしての居場所を再確立するのは、なにか違うように思われた。
 それがわかっているから、レナは風間大介に戦いを挑んだ。変身を拒み戦う決断を下せずにいる大介を殺すことは容易かったはずなのに、それでもレナは、仮面ライダードレイクとの一騎打ちを選んだ。それ以外に、辿れる道はないと思っていた。
 或いは、そこで終わっていたならば、幸福だったのかもしれない。
 こんな場所で蘇生されても、レナにはもう帰る場所などなく、戦う理由もない。それでも戦って、あんな得体のしれない男に負けて、恐怖心と敗北感に打ちひしがれて、はらわたが煮えくり返るような屈辱を味わわされて、その果てに、いったいなにを得られるというのだろう。

(わたしは、いったい、なにがしたいんだ)

 自分自身の心の内側から、澄んだ歌声が響いていることに、レナは気付いた。聴き慣れた、美しく、けれど孤独な歌声だ。
 とうの昔に押し殺したと思っていたその音楽に、レナははじめて耳を傾けた。


 冷たくなり始めた秋の風に晒されて、体温が徐々に低下していく。全身から力が抜け落ちていく中、それでも伸ばした指先が、男の頬に触れた。とうに痺れて感覚を失いつつあった指先は、男の肌のぬくもりを確かに感じ取った。霞みゆく視界の中で、男は笑った。今にも泣き出しそうな、不器用な笑み。けれども、優しい微笑みだった。風が吹く。花から花へと吹き抜けていく優しい風が、肌を撫でていった。穏やかな風の触り心地と、男の力強い包容から伝わるあたたかさを、確かにレナは感じ取った。
 ワームとしての身で感じられるはずのないぬくもりを、やさしさを、レナは感じ取った。


 なぜこんなことを思い出すのだろう。
 あの時、風間大介の腕の中で、レナは、苦しいことも、つらいことも、すべて忘れられた。薄れゆく意識の中、その心のうちは穏やかな歌声の中で満たされていたように思う。
 歌声は今も聴こえる。自分が殺した間宮麗奈が、今もここで歌い続けている。人の悦ぶ顔が見たいがために歌い続けてきた麗奈が、今はレナひとりのためだけに、歌っているのだ。

 舞台の上で歌い続ける麗奈の歌を、ホールの最前席に着席した麗奈は、自分でも驚くほどに穏やかな心地で聴いていた。大介から伝えられた、自分の中の音楽に耳を傾けて欲しい、という言葉をぼんやりと思い出す。思えば、レナは己の内側に巣食うもう一人の人格を押し込めようとしたことはあっても、その存在を認めて歌に耳を傾けたことはなかった。

(私は、私がなぜ歌うのかを、知っている)

 麗奈とてはじめから誰かの歌うことを意識していたわけではない。麗奈はかつて、ただ人よりも少しばかり歌が好きなだけの、普通の女の子だった。はじめて他人に歌を聴いて貰った時、その人が上手いと言ってくれた。それが嬉しかった。
 今度は、もっと大勢の人が聴いてくれる舞台に立とうと思った。麗奈の歌を聴いた観客は、みな悦んだ。仕事で疲れきった人も、荒んだ心に癒やしを求めてきた人も、みな穏やかな笑顔を浮かべて帰っていった。誰かのために歌えることを、麗奈は幸福であると感じていた。
 その麗奈を殺め、ささやかな夢や幸福すらも奪い、踏み躙ったのは、他でもない、ワームであるマミヤレナだ。

「なぜ、お前は」

 恨まれるならわかる。今まで通り、眼を背け、逃げるならばわかる。けれども、間宮麗奈に、こうして歌を歌って貰える資格は、自分にはないと思っていた。
 舞台の中心に立ち、ひとりスポットライトを浴びる麗奈が、穏やかな表情でレナに向き直った。

「あなたは、私だから」
「違う。お前を殺めたのは、私だ」

 麗奈は緩く首を振った。

「私は、今もあなたの中で生きているわ」
「私は、お前の心を消そうとしたのだぞ」
「私も、あなたが二度と出てこないようにと願った」
「ならば――」
「でも、あなたはあの子を庇ってくれた」

 レナは思わず押し黙った。麗奈は今、正面から真っ直ぐにレナを見つめている。こうして己と向き合うのは、やはり、はじめての経験だった。

「それは……」

 続く言葉は、出てこない。
 あの瞬間、なぜかリュウタロスを庇ってしまったことは、レナも既に自覚している。否定したいところではあったが、否定しきれる程の強い理由を持たず、その先の言葉を続ければ、否応なしに認めざるを得なくなることを、レナは自覚してしまった。
 もう、きっと、レナは前のようには戦えない。

「弱くなったものだな、私も。堕ちたものだ」

 肺の中で蟠った息を、レナは自嘲混じりに吐き出した。

「それは、違うわ」
「なにも違わない。今の私は、ワームとしての誇りすら失った」
「それは弱さじゃない。だってあなたは、まだみんなのために戦うことができるでしょう」
「なに?」

 質問のていをとってはいるものの、麗奈の言わんとする言葉の意味を、既にレナは理解してしまっている。
 人間として生きていく。大介が示してくれた可能性が、ふいに脳裏をよぎった。けれども、それがひどく困難な道のりであることは、他でもない自分自身が一番よくわかっている。なにより、既に間宮麗奈という人間をその手で殺めている自分に、そのような資格があるとは思えない。

「……無理だ。そんなこと、できるはずがない」
「できるわ。だって、あなたはもう、人の心を知っているから。リュウタロスのことも、城戸さんのことも、三原さんのことも、失いたくないと思ってる……大介さんの言葉を、忘れたくないと思ってる」
「違う……、そう考えているのはお前だろう、私は……違う」

 違う。自分が今口走っているのは、本音ではない。それがもう、自分で理解できてしまっている。レナが本当に求めているのは、きっかけに過ぎない。
 麗奈は緩く微笑んだ。

「私はもう自分の心から、あなたから目を背けない。だからあなたも、もっと素直な気持ちで、自分の心の歌に耳を傾けて」

 胸が内側からぎゅうと締め付けられるような心地を覚えた。そんな感情を抱くこと自体が、ワームとしてはあり得ないことだというのに。
 もう、この心がワームのものですらなくなっていることに、レナは気付いた。
 自分自身が、今まで通りのワームとして存在し続けることが困難であることを、レナは悟った。少しずつ、少しずつ、ふたりの心の境界が曖昧になっていく。

「リュウタロスを、私を守ってくれて、ありがとう」

 麗奈の心が、内側へと流れ込んでくるように感じられた。
 数時間前、麗奈の身が危険に晒された時、表に出て戦ったことに対してすら、麗奈は感謝の念を抱いているらしい。けれども、もう否定する気も起きなかった。否定する材料が足りない。頭の中がぐちゃぐちゃに混乱している。ただ、自分が今どうしたいかは、自分の心が一番よくわかっている。
 レナは緩やかに立ち上がると、胸を逸らして、斜め前の天井を見つめるように目を細めた。すう、と息を吸い込む。

「……きえる、こころ、もつならば」

 レナの喉から、澄んだ歌声が奏でられた。
 難しい理屈を考えるよりも、今はそうしたいと思った。

「みのる、こころ、あたえよう」

 つられて麗奈が、歌い出した。
 ひとりひとりが奏でる音楽は孤独だけれども、磨き上げられたふたつの音楽が重なり、混じり合えば、それはたちまち美しいメロディとなる。不思議なことに、レナはいつまでもこうして歌っていたいとすら思った。けれども、これは、所詮は夢だ。夢はいつか覚めなければならない。
 ふたりで奏でる夢の様なひとときが終わった時、長い夢を見ていたような心地の中、レナは舞台へと視線を送る。
 演奏を終え、深く下げていた頭を上げた麗奈が、レナを送り出すように穏やかに微笑んだ。

「あとは、お願い」

 レナは観念したようにふ、と微笑み、ゆっくりと頷いた。結局自分には、もう、こうすることしかできはしない。
 舞台にはもう、間宮麗奈の姿はなかった。舞台の出入口の扉が開かれた。外から、日の光が差し込んでくる。あの扉の向こうには、きっと多くの困難が待ち受けているのだろう。けれども、レナはもう、振り返ることはしなかった。確かな足取りで、レナは外の世界へと歩き出した。


121:全て、抱えたまま走るだけ 投下順 122:夢よ踊れ(後編)
時系列順
116:対峙(後編) 城戸真司
三原修二
間宮麗奈
リュウタロス
浅倉威



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最終更新:2019年05月20日 16:36