her definition

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「おまえ、ずいぶん大人しくなったな」  沖縄の実家へ今年二度目の帰省をした我那覇響は、晩ご飯が済んだ後で、兄にそう言われた。 にこにこしながら頭をぽんぽんと軽くたたく兄に、響は反発しようとしたが、どうにも調子が狂って 思うようにいかない。少し前までなら、「なにすんだよー、このー!」と言っては、取っ組み合いに近い 兄妹ゲンカになっていたはずなのに。響はこのおせっかいな兄がどうも苦手、というよりうっとうしかった。  勉強はとにかくも、小中学校と、こと身体能力に関しては、響にかなう生徒はいなかったし、割と 背の高い彼女は、一年上のクラスからも一目置かれるような存在だった。だが、ちょっと年の離れた兄は、 ずうっと響のことを子供扱いしてきた。先に生まれてきたというだけで、兄はいつでもえらそうにしている、 響にはそんな風に見えた。  961プロから765プロに移籍してから、響にはちゃんとしたプロデューサーがついた。ライバルだった アイドルのプロデューサーだ。961プロ時代は、黒井社長から、 『765プロのプロデューサーは担当アイドルにセクハラばかりしている悪人』という刷り込みをされた おかげで、憎まれ口ばかりたたいてしまい、向こうからすればずいぶん嫌な思いもしただろうに、 今その仕返しに意地悪されたりとか、そんなことは全くなくて、ちゃんとプロデューサーとして、 きちんと面倒をみてくれている。イヤミの一つくらい言われて当然と思っていたのに、こいつは、いや、 この人は、なんで自分にこんなにやさしくしてくれるんだろう。  きっと、自分が961プロ時代に、プロデューサーにいろいろ言ったことなんか、向こうから見れば、 子供のわがままみたいなもんだったんだろうな、と響は最近考えるようになった。背伸びした言い方を すれば、響も大人のふところの広さみたいなものが、わかってしまったのだ。だから、プロデューサーと よく似た兄にも、なんとなく逆らえなくなってしまった。 「なんか、くやしいなあ」  響は、兄に逆らえなくなった自分が弱くなったのか、それとも大人になったのかわからないが、とても 残念な気がした。いつでも元気いっぱいなのが取り柄なのに、実家に帰ってきた自分は、兄にひもで 結わえられている犬か、カゴの中に入れられた鳥みたいに思えた。 「響のプロデューサーって、いい人だな」お昼時、兄はご飯をほおばりながら言った。 「え?なんでそんなこと知ってるんだよー」 「こないだ電話かかってきたから」 「ええー!にぃにぃ、なんか変なこと言ってないよな!」響は思わず身を乗り出した。 「変なことって?」 「しょ、小学校のころの話とか!」 「そんなくだらない話をわざわざするわけないだろ。逆にびっくりしたよ。向こうで響がちゃんと学校も 行ってるし、仕事もきちんとしてる、って聞いてさ」 「そんなんあたりまえだ!」 「でも、いい人だ、って言っても反論しないところを見ると、響もプロデューサーのことが好きなんだな」 「な、なに言ってんだよ!」  兄のいう好きとは、仕事のパートナーとして好感を持っているという意味でしかないのに、響は 過剰反応してしまった自分自身に、ちょっとあわててしまった。 「まあ、ああいう人が向こうで保護者をしてくれてるんなら、兄ちゃんも安心だな」  兄はうんうんとうなずき、響は兄の態度を見て、ますますむくれてしまった。 「ただいまー」  帰省を終え、沖縄を飛行機で発った響が、事務所に顔を出したのは、もう夕方近かった。 「おう、おかえり、響。楽しかったか?」デスクワークをしていたプロデューサーが顔を上げた。 「うーん、普通。はい、おみやげ」響はお菓子の入った紙袋を差し出した。 「お、ありがとう。明日、みんなでお茶うけにしようか。そうそう、動物たちのことは心配ないぞ。 事務所総出で面倒見てたからな」 「それは別に、心配してなかったけど」 「そうか。明日の昼までには全員、響の部屋に帰すことにしてるから」 「……」響はプロデューサーの机のすぐそばにあったイスに腰かけた。 「どうした?今日は仕事とかないから、帰ってゆっくり休んでいいんだぞ?明日は明日で夕方から一件 仕事入ってるんだし」 「…ちょっとここにいる」響はもう何ヶ月も会っていなかったような顔つきで、プロデューサーを見ている。 「そうか。飛行機乗って結構疲れただろうし、楽にしてていいぞ。あそこのソファで横になってたらいい」 「…ここでいい」響は誰にも動かされないぞ、というように、両腕であぐらをかくようにして彼の机に べったり貼り付き、頭をその上から重しのように載せた。 「…何やってんだ?」  机の端に響の首が載っかっていて、プロデューサーはどうにも仕事がしづらいようだ。 「見てる。仕事」響はぴくりとも動かずに答えた。 「しょうがないやつだな」彼は笑って立ち上がり、事務所の冷蔵庫から缶のウーロン茶を出して、響の 目の前に置いた。響は上目づかいで彼を見てから、むくりと起きあがって、缶を開けてぐいぐい飲んだ。  飲み終わると、響はまたさっきの姿勢に戻った。彼は苦笑いして、スケジュール表とまた格闘し始めた。  10分ほどして、プロデューサーは「よし、今日はここまでにしておくか」と、わざとらしく大きな音を 立てて台帳を閉じると、腰を伸ばすようにして立ち上がった。 「帰るけど、一緒に行くか?」 「うん」響も立ち上がった。  二人は事務所の階段を並んで降り、そのまま歩き出した。響はしばらく黙ったままで、プロデューサーも 無理に話しかけなかった。そのまま5分ほど歩き続け、事務所がもう完全に見えなくなってから、響は ようやく口を開いた。 「プロデューサーは、しょっちゅう動物たちと会ってたよな」 「え?ああ、散歩とかそのたびに、動物たちと響に出くわしてたなあ」 「プロデューサーも、しょっちゅう迷子になってるってことだよな」 「え?おれは別に…」 「迷子にならないように、自分がなんとかしてやってもいいぞ」  響の右手が、プロデューサーの方へちょっぴり寄った。彼はまた苦笑いし、響の手を握った。響の手が 前後に振られ、いつもしている腕輪がぐるぐる揺れた。 「響、おまえ、腹減ってないのか?」 「うーん、どうかな」響は本当にお腹がすいているのかどうか、判らないような声を出した。 「どっちみち、食っておかないと夜中に腹減るから、どっかに寄って行こう」  二人は帰り道の途中にあるファミレスで軽く食事を取った。ファミレスを出た響は、今度は自分の方から プロデューサーの手を握った。プロデューサーは笑っていた。 「ただいまー」  動物たちが一緒のおかげで、響の部屋は、一人暮らしとしては格段に広い。プロデューサーは 玄関で帰ろうとしたが、響は手を離さない。仕方なく、彼は響に連れて行かれるような格好で部屋に 上がった。プロデューサーと響の二人しかいない大きな部屋は、がらんとして寒々しかった。  響は部屋の壁際まで来てようやく彼の手を離すと、今度はひざを抱えるようにして床へ座った。 プロデューサーは響の様子が気になったのか、すぐそばであぐらをかいた。 「動物たちがいないと、静かだな」 「うん、でも、さみしくないぞ」  響はネコのようなまなざしで、プロデューサーを見て言った。またしばらく沈黙があった。今度も先に 口を開いたのは響の方だった。 「プロデューサーってさ、にぃにぃ…アニキと話したんだって?」 「え?…ああ、そうそう、黙ってて悪かったな。響は実家に帰っても、きっと『大丈夫だから心配すんな!』 くらいしか言わないだろうし、おれの方から家族を安心させてあげようと思ったんだ。よけいなことして 済まなかったな」 「ううん、アニキ、なんだかよろこんでた。自分がこっちでちゃんと生活してる、ってプロデューサーから 聞けたからだと思う。プロデューサーがアニキに似てる、って言ったら、『じゃあ、安心だな』って言ってた」 「そうか、よかったよ、お兄さんに信頼してもらえて」 「……」 「どうしたんだ、響」 「あのさ…」 「うん、なんだ?」 「自分、なんだか調子がおかしいんだ。765プロに移ってからだ、こんなの」  今まで見せたことのない響の様子に、プロデューサーは真剣な顔つきになった。 「765プロに移ってから、なんていうか、こう…体のネジがゆるんでるような感じなんだ」 「体のネジ?」プロデューサーは、響が何を言っているのか理解できなかった。 「961プロにいたときは、ものすごく…そうだ、緊張感、そんなのがあったのに、765プロへ来たら、 普通に仕事して、お茶飲んだりお菓子食べたり、プロデューサーやみんなといろんな話をしたり…気持ちが ゆるんで、どんどんだめな人間になっていくような気がするんだ…」 「響、おまえはまだ高校生なんだから、時間のある時は、もっと遊んだり、スポーツしたり、好きなこと していいんだぞ。アイドルの頂点を目指すのも大事だけど、そのために何もかも捨てることはないんだからな」 「でも、にぃにぃは、自分のこと『大人しくなった』って言ってた…。そんなこと言われると、自分が 自分じゃなくなっちゃった気がする」 「響。ひとつ訊いていいか」 「うん、なんだ?」 「響は、お兄さんのこと、好きなんだろ?」 「……」 「だろ?」 「にぃにぃはむかつく…」 「でも、好きなんだろ?」 「…たぶん」響はくやしそうな顔をした。 「じゃあさ、お兄さんが『あいつはおれの自慢の妹だ』って誰にでも言えるように、がんばってみたら どうだ?そういうがんばり方も、響らしいと思うぞ?」  響はしばらく考えていたが、プロデューサーの顔を見上げると、いつものような、屈託のない顔に 戻って言った。 「じゃあ、にぃにぃ…アニキとプロデューサーのためにがんばるぞ」 「ははは、おれはどうでもいいから、お兄さんと響自身のためにがんばれ」  プロデューサーは、響の頭を、彼女の兄がそうしたように、軽くぽんぽんとたたいた。響は プロデューサーの顔を見たまま、「にぃにぃ…」とつぶやき、座ったまま彼の肩によりかかった。  プロデューサーは、自分によりかかっている響の髪を幾度もなでた。響はのどを鳴らすネコのような 顔になった。 「こんなことしてても、もうセクハラとか言わないのか?」 「言わない」 「そうか」  響の安心したような息づかいは、そのうち寝息に変わってしまった。よりかかられたプロデューサーは、 少し困ってしまった。床にごろりと横になっているのなら、布団を敷いて寝かせることもできるが、 体重を半分あずけられたこの体勢では動くに動けない。  そのうち、響はなにか寝言のようなことをむにゃむにゃと言いながら、寝返り、といったらいいのだろうか、 よりかかっている方とは反対側へ、ぐらりと体を揺らした。頭から床に倒れそうになった響をとっさに 受け止めようと、プロデューサーは両手を素早く差し出した。ところが、倒れかかった体の向きが途中で 少し変わったために、彼の右手は響の右肩に、彼の左手は響の左の胸をちょうど受け止めるような格好に なってしまった。さすがに響も、その感触で目を覚ました。 「……」  プロデューサーは、倒れかかった響を支えるため、まだ手を離せないままだ。じわじわと響の頬が 赤みを増していく。響は胸におおいかぶさっているプロデューサーの手をじっと見たまま、十秒ほど 動かなかった。プロデューサーには、きっともっと長い時間に感じられたことだろう。  響は無言で右手を床に突き、座り直した。プロデューサーの両手も、ようやく彼女から離れることができた。 「いや、これはだな。頭を床にぶつけそうだったから…」 「……」  プロデューサーは観念した。 「いくら事故でも悪かった。これじゃセクハラプロデューサーとか言われても仕方ないな」 「……」響はさっきから黙ったままだ。 「…これでもセクハラって言わないのか?」 「…言わない」響はようやく口を開いた。「プロデューサーが自分になんかしても、セクハラだなんて 言わないぞ」 「どうしてだ」 「だって、セクハラって、されたらイヤなことだろ?」  響の顔は、いっそう赤かった。 end.

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