The First One

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The First One」(2011/09/22 (木) 21:33:40) の最新版変更点

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 数ヶ月前、765プロに一通の電話があった。TV局のディレクターからの電話で、ドラマの配役に765プロ のタレントを使いたい、との用件だった。しかも、秋月律子をご指名だった。脚本の概要を説明されて、それ なら律子が適任だと納得するのに時間はかからなかったのだが。 律子が務めることになったのは、本人の年相応の、高校生の少女だった。物語が進むにつれ、始めは反目し あっていた少年と親密になっていく、という、言ってみればありきたりの青春ラブストーリーだが、昔の漫画 や2000年以前のドラマのリバイバルブームに乗っかる形で、あえて『古臭い要素』を盛り込んだ物語となる そうだ。 何度かの撮影を経て、収録に携わるスタッフとも、共演する俳優、タレントとも顔なじみになっていった頃、 脚本担当の監督から台本の変更をすることが、数週間前に伝えられた。 「キスシーン、ですか」  監督の話を聞いた律子の表情に緊張が走った。事前に一度話を聞いていた俺も、律子の表情を見て身が固く なる思いだった。 「ええ、撮影した映像を眺めているとね、『濃さ』が不足しているんです。まだ高められる。秋月さん、もう 一歩踏み込んだ演技をしてもらえないでしょうか」  監督は、映画やドラマの脚本家たちの中では新参ながら、大いに注目されている人物の一人だった。去年の ドラマ中最高視聴率を叩き出したストーリーの産みの親でもある。まず、この監督の提案することならば、外 れはない。あの実績と今までの経歴は、俺にそう考えさせるには十分だった。 「あなたのように若いタレントにキスシーンを演じてもらうとなると、今後様々な方面に様々な影響が出るか もしれません。一度、事務所サイドとも話し合いますが、まずは本人の意思を聞きたいのです」  監督の目は真剣だ。様々な方面、というのは、律子のアイドル活動も含まれているのだろうか。  律子の目もまた、真剣だった。膝の上では拳が形作られている。 「分かりました……よろしくお願いします」  律子は首肯した。 ※ ※ ※ 「律子、いいのか」 「いいって、何がですか?」  帰り道の車の中、助手席に座る律子は、平然としていた。 「キスシーンの件だよ。随分あっさりOK出したと思ってな」  赤信号に捕まった所で、ペットボトルに残ったお茶をぐいと一飲みにする。口の中にほんのりと苦味が広が っていく。 「だって、いくらキスって言ったって、演技の一部じゃないですか。割り切って考えてしまえば、どうってこ とないですよ。どうせ一瞬で済むことなんですし、まぁ相手のタレントさんも、見た目は悪くないから」 「そうか……それなら、無用の心配だったな」  律子本人が大丈夫ならば、後はプロモーションにどう影響が出るかを考えればいい、ということだ。『ファ ーストキスがまだだったりするんじゃないか』という心配をする必要は、さすがにありえなかったか。『恋人 はいない』と以前本人から申告があったが、以前は普通の女の子していたということだろう。  信号が青くなった。アクセルを踏み込む。 ※ ※ ※  監督から要望のあった収録の当日。楽屋には、前例の無いほど重苦しい緊張感が漂っていた。まるで、ここ だけ重力が強くなっているみたいだ。用も無いのにお手洗いに行きたくなる。律子は、鏡の前で椅子に座った まま、何かを考え込むような顔でずっと固まっている。 「律子、収録開始までもう少しだけど、大丈夫か?」  沈黙したままの律子に声をかける。 「ええ、問題無いですよ」  椅子に張り付いたままの律子は、抑揚の無い声で答えた。 「……緊張してるのか?」 「いえ、緊張はしていません。いざとなれば撮り直しもあるわけですし、ライブの時よりは」  確かに、武道館でライブを行った時のような、動揺し続きで楽屋内を意味も無くプラプラしていた様子はそ こには無い。 「じゃあ、一体どうしたんだ」 「何でも無いですよ。ただちょっと、整理がつかないというか」  鏡の方を向いていた律子が、俺の方へ向き直った。 「整理って、何の?」  おもむろに、律子が椅子から立ち上がる。腕につけたブレスレットが透き通った音を立てた。  一歩、二歩。俺と律子の距離が詰まる。 「プロデューサー」 「おい、律子……?」  柑橘系の、甘酸っぱいコロンの香りがふわっと漂ってきた。  ごつん。  突然、視界がふさがり、顔に何かがぶつかった。 「あいたっ」  額に衝撃が走る。鼻の下にも何かぶつかったが、唇の辺りには何か柔らかいものが触れたような気もした。いったい何なんだ、と思っているうちに、視界が晴れる。 「あいたた……」  俺にぶつかってきたと思われる本人は、目の前で額を押さえていた。  あの衝撃の中にあった感触を探る。この楽屋の中で、その正体は一つしか無い。 「律子、どうして」 「……まぁ、何というか」  ずれたメガネを直しながら、ふう、と律子が大きく息をつく。 「別に……こんなのどうだっていいと思ってるんですよ。経験する相手がいなくたって申告しなきゃ分からな いんですから。自分が気にする素振りを見せなければ周りも気にすることはないし、仮にカワイソウだと思わ れたって、そんなの、無視しておけばいい。今までそうやってきて大丈夫だったんです」  次に使う言葉をいくつもの候補から絞って選択している。慎重な語り口だった。 「けど、いくらなんでも、思い入れの無い人間を相手に仕事のついでで、ってのは、ちょっと……。後々、尾を引きそうで」  長い睫毛に縁取られた瞳がくすんでいた。 「すみませんでした、ヘンなことして。気持ちの整理はつきましたから」  律子が自嘲する。ガラスの向こう側から哀しげな視線を俺に向け、そのまま力なく俯く。 「律子……」  見ちゃいられない。そう思った瞬間、俺は華奢な肩を抱いていた。 「え……っ」 「目、閉じろ」  顎をつかむ。 「じっとしてろよ」 「う、うん」  フレームの奥のシャッターが下りた。 「……ん」  時が静止する。  甘い?  いや、分からない。とにかく柔らかい。  ゼロ距離の密着状態で、律子は身じろぎ一つせず、おとなしくしていた。  楽屋の壁にかかった時計の秒針の音が聞こえてきそうだ。  顎をつかんでいた手をゆっくりと離す。 「……」  律子は呆気に取られた、どこかぼんやりとした表情で、俺を見ていた。 「あんな投げやりなのよりは、この方がまだいくらかマシだろうと思って」  肩を解放した。言い終わってから、『マズかった』と感じた。ビンタで済むだろうか。  頬に浴びせられる痛みを覚悟していたが、衝撃は無い。 「……」 「気を悪くしたのなら、すまない」  すまないで済まされる訳が無いとは思うが、そう言わずにはいられなかった。 「……プロデューサー」  突然、肘の辺りが強い力で引っ張られた。咄嗟に目の前の相手を見る。  爪先立ちになるのが見えた。顔が近い。 「動かないで」  眉間に皺を寄せて何をするつもりだ、と感じた瞬間、唇同士が触れ合った。  再び、空気が固まる。  息がかかって少しこそばゆい。  律子は、きつく目を閉じていた。  手が離れていく。スーツの袖には皺が寄っていた。 「気を悪くしたらすみません。……これでおあいこ、ですよね」  律子は小さな咳払いをして、そのまま唇を指でなぞった。 「何の思い入れも無い相手よりはまだプロデューサーの方がマシ。それだけですからね。ヘンな勘違い起こし たりしないでくださいよ? あなたとはビジネスで繋がってるだけなんですから」  辛辣な口調で律子は言い放つ。しかし、その言葉は俺に向けてというより、律子が自身に向けたものである ように、俺には感じられた。 「分かってるよ」  けどな、律子。その台詞は、ほんのり頬を染めて言うものじゃないだろう。もうちょっとうまく隠せよ。  そう心に呟いて、一つ低い所にある頭を撫で回したい衝動に斧を振り下ろす。今は、まだ。 「そろそろ時間だ。行けるな?」  仕事に臨む凛とした表情に戻った律子は、黙ってうなずいた。俺もそれ以上は何も言わず、律子を送り出す。  ドラマの収録は、一発で監督の納得行く映像が撮れたようだ。キスに臨む男女の雰囲気としては今一つとい った所だが、役者の年齢を考えれば、却ってそのぎこちなさがいい、という評価だった。相手役の男性タレン トのマネージャーと一緒に、『何度もやり直すことにならなくて一安心ですね』と笑いあった。残された放映 回数もそう多くは無い。初めは予想を下回っていたが、回数を重ねるごとに視聴率は伸びてきている。そんな データを先日見せてもらった所だった。このまま、律子の人気も上がってくれるといいんだが。 「お疲れ様、律子」  スタジオから戻ってくる律子に手を上げて呼びかける。相手役のマネージャーも、俺に会釈をしてから、タ レントの方へ駆け寄っていった。 「よかったな、一度で終わって」 「NGでも出そうものならやり直しですからね。後からあのシーンでNG特集とか組まれるのも嫌ですし」  楽屋への廊下を歩きながら、律子が手をヒラヒラさせた。 「喉元過ぎれば熱さ忘れるっていうか、案ずるより産むが易しっていうか、ホッとしてますよ。今後、今回以 上のことは要求されないみたいですし」 「そいつは何よりだ」  もう少し収録は進行が滞るのではないかと心配だったが、それは俺の杞憂に過ぎなかったようだ。律子の表 情は涼しげだった。 ※ ※ ※  ドラマの収録は全て終わり、テレビでも最終回の放送が先週行われた所だった。今までの傾向通り、ドラマ の視聴率は上昇傾向を続け、大きなプロモーションになった。知的で真面目な委員長キャラで通っている律子 がドラマで見せたぎこちないキスは、ファンにとってより身近さを感じさせる新しい一面として認識されたよ うで、CDの売り上げとライブの動員数、共に今までよりも上乗せとなった。危険な賭けかもしれないと思っ たが、良い結果に転んでくれたようで何よりだ。 「はい、プロデューサーもコーヒーどうぞ」  デスクのモニター脇に、そっとマグカップが着地した。 「何のデータですか、それ?」 「次のライブチケットの売り上げ数だ。まだ完売じゃないが、前回より初動が早いぞ」 「あっ、ホントだ」  そういいながら、律子が俺の両肩に手を置き、肩越しにモニターを覗く。  あの収録の日、楽屋であったことは、あれから二人の間で話題に上ったことはない。意図的に忌み嫌ってい る風ではないようだが、あの出来事に繋がるような話もしていない。記憶の底に封印しておいてほしいという 暗黙の要求……俺は律子の態度をそう解釈した。 「プロデューサー、後で時間あります? 使う衣装の方向性を一緒に考えて欲しいんですよ」  耳元で声がした。 「ああ、もうちょっとしたら来てくれって社長に呼ばれてるから、それ終わったらな」 「分かりました。待ってますね」  離れ際にグッと肩を押してから、律子はすたすたと歩き去っていった。背中が見えなくなった所でモニター に向き直り、ファイルを保存してからブラウザを閉じる。 「プロデューサーさん、コーヒー飲みます? って、あら」  日報へデータを打ち込もうとワードを立ち上げた所で、デスクへ本日二人目の来客があった。小鳥さんはよ く冷えていそうな缶コーヒーを二つ持っている。 「ああ、コーヒーならさっき貰ったんですよ」 「律子さんですね?」 「まぁ、そうですけど」 「だろうと思った。最近仲良しですもんね~」  小鳥さんが目を細めて笑う。 「別に、前と変わらないと思いますよ」 「そうですか? 何かあったように見えますよ」 「うーん、思い当たる節はありませんけどね」 「怪しい、怪しいわ! 律子さんに聞いてみたら、『小鳥さん、妄想のしすぎで物の見方が歪んでますよ』とか言わ れたしっ! きっと、『律子、俺とドラマの予行演習をしておこう』とかなんとか口八丁で誘いをかけて、キ スのレッスンとかしたんだわっ! そして、そのまま若い二人は勢い余って……キタコレ!」 「小鳥さん、妄想のしすぎで物の見方が歪んでますよ」  引用をそのまま口にする。 「あっ、律子さんと同じこと言ってる! これはやはり……!」  自分と関係の無い話題の時はいいのだが、この人の相手をするのは疲れる。全くの見当外れとは言い切れな い辺り、気が抜けない。 「あっ、社長の所に行かなきゃ。小鳥さん、缶コーヒーは頂きますよ」  ちゃっかり小鳥さんの買ってきたコーヒーも頂戴しながら、デスクを離れて、早歩きにならないよう警戒し て社長室へ向かう。  今は、何も入れないストレートなコーヒーの苦味がありがたかった。  終わり

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